古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

五世紀の倭新関係(中編)

 (承前

kodakana.hatenablog.jp

 前回までに述べた所のあと、《日本書紀》と《三国史記・新羅本紀》の双方に、相互の関係についての記事がいくつかある。その中に、個別の対応が確認できるものが、もう一つある。

 それは、神功皇后紀摂政五年の条で、微叱許智みしこちが一時帰国だと偽って新羅に逃げる話がある。この事件は、新羅本紀には、訥祇麻立干とっしまりゅうかんの二年に、

秋 王弟未斯欣 自倭國逃還

秋、王の弟の未斯欣が倭国から逃げ還った。

 と簡単に載せられているだけだが、同じ《三国史記》に収録された「朴堤上はくていしょう伝」にやや詳しい記事があり、そのいきさつは書紀のものと大筋で一致する。この事件は日韓両国の史乗によって確からしさが認められる。訥祇麻立干の二年は、西暦418年に当たる。

 ただし、ここにも一つの問題がある。書紀では葛城襲津彦かづらきのそつびこが微叱許智を送る使者としてついて行ったことになっている。朴堤上伝では単に倭人などとあって名前はない。名前が出ないのは良いけれども内容に問題がある。書紀では欺かれたことに気付いた襲津彦が新羅の使者三人を焼き殺す。朴伝では、朴堤上が未斯欣を逃がした後でやはり焼き殺されて、そこでこの事件についての話は終わっている。書紀にはこの続きがある。神功紀摂政五年三月条の全文は、

五年春三月癸卯朔己酉、新羅王遣汙禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等朝貢。仍有返先質微叱許智伐旱之情。是以、誂許智伐旱、而紿之曰、使者汙禮斯伐・毛麻利叱智等、告臣曰、我王以坐臣久不還、而悉沒妻子爲孥。冀蹔還本土、知虛實而請焉。皇太后則聽之。因以、副葛城襲津彦而遣之。共到對馬、宿于鉏海水門。時新羅使者毛麻利叱智等、竊分船及水手、載微叱旱岐、令逃於新羅。乃造蒭靈、置微叱許智之床、詳爲病者、告襲津彦曰、微叱許智忽病之將死。襲津彦使人令看病者。既知欺、而捉新羅使者三人、納檻中、以火焚而殺。乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。

 というのだが、この最後の所、

乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。

そして新羅いたり、蹈鞴津たたらのつやどって、草羅城さわらのさしおとして還る。この時の俘人とりこらは、今の桑原・佐糜・高宮・忍海の凡て四つの邑の漢人あやひとらの始祖である。

 とあるのが、意義がよく分からない。欺かれたことに対する報復は、新羅の使者を殺すことで済ませたはずで、これほどの行動を起こす理由がない。君命も受けずに無辜の人間を略取するとはどういうことか。これは本来は別の事件だったものを一条の文にまとめてしまったか、あるいは襲津彦が使命に便乗して私的に掠奪をしたということだろうか。

 襲津彦の名は、《日本書紀》の神功摂政六十二年、応神天皇十四年及び十六年、仁徳天皇四十一年などに現れる。また、神功摂政六十二年の条に引く《百済記》に沙至比跪さちひこという名が見え、襲津彦と同一人物であるらしい。《古事記》には葛城長江曾都毘古かづらきのながえのそつびことか葛城之曾都毘古かづらきのそつびこという名前が見えるが、名前が出るだけで活動は伝えられていない。

 応神十四年の記事では、襲津彦は帰化する百済人を迎えに加羅国に行ったまま三年も戻らなかったという。十六年八月の条では、その理由を新羅の妨げによると推量しているが、いちいち新羅を敵視するのが書紀の例だから額面どおりには受け取れない。仁徳四十一年の条では、「紀角宿禰きのつののすくね百済に遣わした」という書き出しの文中に、襲津彦が唐突に現れ、あたかも韓国に住んでいるかの印象を受ける。《百済記》の沙至比跪は、それどころか新羅国に懐柔されかえって加羅国を攻めたことになっている。

 書紀の内容からすると、葛城襲津彦はかなり自律的な活動をしていて、朝廷の正式な大臣とか将軍といった者らしくない。もちろん葛城は奈良平野の地名で、葛城氏はその土地の豪族とされているが、五世紀代の早い時期において既にそうだったかどうかは定かでない。襲津彦その人の行動は、むしろ遊侠的であり、時に海賊的行為をするような遊漁民勢力の一派を率いる首長を思わせる。ただその一方で、君命を受けて出動したり、記では息女が仁徳天皇の皇后となっていることなどからすると、脚色はあるにしても、全く無関係の伝承を無理に付会したということではなさそうである。

 こういう人物について、参考になりそうな事例を世界に探せば、それがロシア史にある。

 リューリク朝のイワン四世は、ロシアで初めて皇帝ツァーリを称した人物で、その治世は日本の織田信長の頃と重なっている。長く遊牧民の勢力によって頭を抑えられてきたロシアは、この時代にようやく帝国的体制を築く端緒を開いていた。しかし国内にはまだ大貴族との抗争があり、辺縁にもまた遊牧民の脅威が無くなってはいなかった。

 この時代、ロシアの辺境には、カザークと呼ばれる勢力があった。カザークとは、ロシアの農耕的社会からあぶれた無頼者で、遊牧文化を摂取して騎馬を得意とした。農村に対しては、掠奪をすることもあれば、遊牧民の襲撃から守ることもあった。本来の遊牧民ではないが、外形的には遊牧民的勢力の亜種とも言える。

 イワン四世の頃、カザークの有力な一派を率いる首長で、イェルマークという者があった。カザークは公権力から見れば破落戸集団であり、イェルマークも官軍に追われていて、ある土地に逃げ込んだ。そこはストロガノフ家の領地だった。ストロガノフ家は辺境の毛皮商で、数多くの労働者を保有し、毛皮を獲るための土地の領有と、それを守るための武装をすることさえ勅許されていた。日本史に類例を求めれば、それは松前藩と似た所がある。

 この頃、ウラル山脈の東には、シビル・ハン国があって、モンゴル帝国の余勢を駆っていた。その方面をロシアではシベリヤと呼んだ。ストロガノフ家は毛皮資源のためにシベリヤが欲しかった。そこにカザークの一味を率いたイェルマークが逃げ込んだのだった。窮鳥懐に入れば猟師も殺さずというが、商家ならではこれを殺さぬどころか存分に活かした。ストロガノフ家はイェルマークをシビル・ハン国に差し向けたのである。かつてロシア人の弓矢は遊牧民に及ばなかったが、この時には銃器によって力関係が逆転していた。これは1580年代のことで、長篠の戦いに時期が近い。

 この最初のシベリヤ征服はストロガノフ家が私的に始めたが、獲得した領地は形式的には皇帝に献上された。皇帝にとっては大貴族の手垢が着かない純粋な天領となり、王権拡張の象徴ともなった。征服された土地の住民には租税として毛皮の物納が課される。商人がこれを裁いてヨーロッパに輸出する。シビル・ハン国の滅亡により東方への道が開け、皇帝の領土は日一日と拡大した。その遠征の計画は政府がすることもあれば商人が立てることもあった。賊徒だったカザークもようやく栄誉ある直参として征服に従事することとなる。

 このロシアの場合と上古の日本とでは、もちろん事情が大きく異なる。しかし煎じ詰めて言えば大きく共通する要素があるのではないか。

 この話しはもう少し続くが、長くなってきたのでまた次回に分ける。

五世紀の倭新関係(前編)

 《日本書紀》は天武天皇とその後継者の王権のために編まれた。だからその立場からする潤色や付会が多い。従来多くの論者が幻惑される所である。史書の記述に疑いがあるとき、それを確かめる方法の一つは、同じ事柄を扱った別の史書と比較してみることだ。書紀を読むための参考として最も手近なものには《古事記》がある。記紀両書の企図の違いにも関わらず一致する内容は、それだけ信憑性が高いと言える。しかしこれとて同じ時期の同じ朝廷で編纂されたものとしての限界がある。特に外政に関することになると、両書の比較だけからより客観的な事実を抽出するのは難しい所がある。この点で上古の韓国については高麗で編まれた《三国史記》を参照しなくてはならない。

 《日本書紀》は、短所としては目的に沿った偏向が強いが、長所としてはある程度まとまった歴史観を持っている。《古事記》は文学的に過ぎるけれどもやはり一つの世界観を形成している。《三国史記》は、成立が1145年と遅いために、原史料の損失から内容が十分ではないが、当時の中国歴史界の傾向を受け継いであまり作為を加えていない点で扱いやすさがある。それぞれが異なった特徴を持っているので、それを踏まえた上で比較をすると、それなりに得るものがありそうである。

 問題の多い新羅関係の記事について見ると、記紀では仲哀天皇神功皇后の所まではほぼ具体的な存在を見せない。しかし《三国史記・新羅本紀》では、それ以前から倭人倭国などの字がしばしば現れる。例としていくつか挙げると、第二代南解次次雄の十一年、「倭人が兵船百余艘を遣わして海辺の民戸を掠めた」とか、第六代祇摩尼斯今の十二年春三月「倭国と講和した」、第十三代味鄒尼斯今の六年夏五月「倭兵が至ると聞き、ふねかじおさよろいつわものを繕う」、第十六代訖解尼斯今の三十五年春二月「倭国が遣使して婚を請う。むすめは既に嫁に出たとしてことわる」など、他にも多くある。

 これらの事件は記紀に対応する記事がないので、照合によって信憑性を確かめることはできない。しかし一致しないからというので一概に棄却することもできない。それぞれの史書を編纂した者の目的や立場の違いによって濾過された結果として不一致が生じた可能性がある。隣り合う集団の間には何らかの交渉が行われるのが常なので、記されたとおりの時と内容であったかは別としても、これらの事件はありうべきことではある。ではそれが実際あったことだと仮定して、記紀に載せられなかったのはどうしてだろうか。

 その答えは、前回までに考えてきたことによって理解できると思う。つまり神武から景行ころまでの記紀の主役たる王権は、奈良平野に拠点を置き、その影響圏は瀬戸内海方面に偏していた。その間に日本海側には別の勢力が形成されていたので、歴代の所謂“天皇”はその方面の事件には関与する所がなかった。日本海側の勢力と関係の深い神功皇后がこの王権の牛耳を執るに至って、初めてそれが日本的王権の由緒にまつわる問題として記紀の視野に入ってくるわけだ。

 前回に述べたことだが、新羅本紀の実聖尼師金元年「倭国との通好し奈勿王の子未斯欣みしきんを質とした」という記事が、書紀の「新羅王が微叱己知波珍干岐みしこち・はとりかんきを質とした」というのとようやく一致する。西暦400年頃の事件とみられる。

kodakana.hatenablog.jp

 書紀ではこのとき、神功皇后が華々しく武装船団を率いて新羅に押し寄せ、新羅王は恐れて降伏を申し出たことになっている。しかしこの軍団は書紀の筋立ての上でさえ全く活動していない。これはおそらく口承文芸を取り入れたのだと思われる。もし講談ならできるだけ大げさに尾鰭を付けて話しを引き延ばした方が面白い。実際には普通の外交の一幕であって、日本側の原史料も本来はごく簡単な記述しかなかったのだろう。

 このとき、高麗高句麗)・百済両国王が、新羅が降伏したと聞いて、ともに日本に“朝貢”を絶やさないことを誓った、と書紀は述べる。これも当時の状況からしてありえることではない。非常に東洋的な言い方になるが、“朝貢”とは相手が“天子”であってこそ成立する。これは、七世紀後半の日本が滅びた両国からの多くの難民を保護することになった状況から、逆算的にその由来を過去に求めたのだ。新羅に対する優位の主張も、編纂現在の必要から析出したものである。

 記紀編纂に係る時期の事情から、過去の事件を脚色するということが、日本の古代史像を作り、さらにはそこへ明治国家の要求から再度の偏向が行われた。この二重の幻影が多くの知性ある研究者をも迷わせてきたのだった。

 これ以後も、新羅本紀には、五世紀代のこととして、「倭人」や「倭兵」が「辺を侵した」とか「城を囲んだ」といった記事が繰り返し現れる。書記の側にも、個別に対応が認められるかどうかは別として、この後からようやくこれらと対照できそうな記事が現れてくる。ここにもほぐさなければならない問題があるが、長くなるので次回に分ける。

神功皇后と海の権益

 《日本書紀》によると、晩年の景行天皇は、纏向まきむく日代宮ひしろのみやから志賀の高穴穂宮たかあなほのみやに移って、そこで崩御までの三年を過ごした。《古事記》の方にはこのことは見えないが、次の成務天皇が高穴穂宮で天下を治めたとある。穴穂とは、今の滋賀県大津市穴太あのうで、琵琶湖の南西にある。両書には不一致があるが、大まかには景行・成務の交代する頃に何らかの政治的変動があったことを示している。これまで歴代の天皇は奈良平野つまり律令時代の大和国の中にあった。それが近江国に移ったということは、当時としてはかなりの大きな変化だったに違いない。

 この移動の傾向は、成務の次の仲哀天皇の時に一層明確になる。仲哀の皇后は、神功皇后こと気長足姫尊おきながたらしひめのみことで、気長は息長とも書いて近江の地名であり、今の滋賀県米原市の辺り、琵琶湖の北東に当たる。記紀によると仲哀はほとんど王者としての実質を持たず、もっぱら神功皇后が活躍する。仲哀は高穴穂宮を本宮として引き継いだのかどうか明らかでない。その宮地に関する記事は、書紀・仲哀紀の二年二月の条に、角鹿つぬが行幸行宮かりみやを立てて居処としたとあるのが最初で、これを笥飯宮けひのみやと謂った。角鹿は今の敦賀で、笥飯は気比である。米原は北は敦賀に近い。仲哀がなぜ角鹿に行宮を作ったかは記されていないが、むしろ神功皇后にその理由があったと考えるのがまずは妥当だろう。

 書紀によって話を続けると、仲哀天皇は角鹿行幸の直後になぜか南海道方面へ出かけた。この時は神功皇后と多くの官人は角鹿に留められた。仲哀が紀伊国に至った時、熊襲が叛いたと聞き、この対応のために海に浮かんで穴門あなとへ向かった。穴門は後の長門である。その際に角鹿へ使いを出し、皇后に「すぐにその津から出発し、穴門で逢うように」と伝えた。神功皇后は「渟田門ぬたのと」を経て穴門の豊浦とゆらに着いたことになっている。渟田は出雲国盾縫郡沼田ぬた郷、今の出雲市北東部に当たると思われる。かつて宍道湖は西側でも細い水道で海につながっていたと考えられ、その地形は渟田のというのと一致する。

 仲哀天皇紀伊から穴門へ、つまり瀬戸内海を船で行った。瀬戸内海といえば、神武天皇のこととされる九州南部から奈良平野への勢力の移転に、この海域で活動する遊漁民的集団が介在したろうということを前に考えた。

kodakana.hatenablog.jp

 彼ら遊漁民と奈良平野を拠点とする王権との関係がその後も続いたとすれば、彼らは平時には交通や貿易のために、時には海軍力としても、その権力の維持発展に寄与したはずだ。仲哀の行動にも瀬戸内海系遊漁民が関わっていよう。

 これに対して、神功皇后は角鹿から日本海を通って穴門に渡る。

 両皇さらに筑紫へ渡り儺県ながあがた橿日宮かしひのみやに入る。今、福岡市に香椎宮かしいぐうがある。ここで一事件が起こる。仲哀天皇熊襲を討とうとしてこれを諮ったとき、神功皇后は神憑りになって、まず神威によって新羅をまつろわせるべきことを説いた。仲哀はこれを信じず、そのために祟りを受けて死んだ、ということになっている。しかし神が政策を指図したり人を殺したりするはずがない。神がしたとされることは、実際には自然現象でなければ人のしたことなのだ。この事件は、日本海側の遊漁民勢力が、瀬戸内海の同種集団より優位に立ったことを意味していそうである。

 新羅でのことは、記紀の叙述は身内びいきが過ぎるようだ。一方に都合の良い記事は、裏をとってみなければならない。韓国現存最古の史書に、高麗の金富軾が編んだ《三国史記》がある。12世紀という遅い時期の成立だが、それまでに伝えられた原史料をあまり作為なしに集成したものらしい。彼我両史によって対照のできる事件は、《日本書紀神功皇后紀》仲哀天皇九年冬十月の条の、

新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。

ここ新羅波沙はさ寐錦むきむは、即ち微叱己知みしこち波珍干岐はとりかんきを質とし、くわえて金銀・彩色及び綾・羅・縑絹をもたらし、八十艘の船に載せ、官軍に従わせた。

 とあるのと、《三国史記・新羅本紀・実聖尼師今》の、

元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質

元年三月、倭国と通好し、奈勿王(先代の王)の子の未斯欣みしきんを質とした。

 というので、実聖尼師金の元年は西暦402年に当たる。この年数も厳密には信用しかねるが、大まかには400年前後の時期にこの事件があったと見てよい。微叱己知と未斯欣とは同じ音を別に書き写したもので、波珍干岐は新羅国の官位の一つである。

 新羅本紀では、新羅の領域を侵犯したり掠奪をするのは「倭人」や「倭兵」で、そうした文脈では「倭国」を主語にしない。しかし通好や講和のときには「倭国」を使う。これを文字通りにとれば、新羅を寇掠するのは“倭”に属すると見なされる人々ではあっても、それは国として行ったものではなかったことになる。これは後の倭寇の場合と似た所がある。明は倭寇に悩まされ、足利氏に度々取り締まりを要求した。室町幕府の統治能力の低さが倭寇の活動を可能にする一因だったとすれば、これは別に不当なことではない。

 日本書紀においても、神功皇后新羅に渡ってそこで戦争はしていない。ここでは両者の主張は一致している。新羅としては、日本海系遊漁民と関係の深いらしい神功皇后に象徴される勢力に問題解決への寄与を期待し、神功皇后側としても、これを利用して権力を拡大しようとしたと考えうる。

 一方で熊襲のことは、すでに景行天皇の代に遠征をしたことになっている。これもどの程度が真実だと言えるかは問題が大きい。しかし畢竟当時の水準ではさほど広い範囲を制度的に支配することはできず、そのために仲哀天皇も重ねて遠征を企てたというのが記紀歴史観である。つまり新羅国も熊襲国も外国であり、仲哀天皇神功皇后の対立は対外政策の相違である。

 ただしこちらの関心は新羅熊襲そのものよりも、むしろ中国への通路を確保することにあったと思われる。神功皇后の活躍した時期が西暦400年前後だったとすると、それに続く413年、即ち東晋安帝の義熙九年、倭国が方物を献じたという記事が《晋書》に見える。

kodakana.hatenablog.jp

 この際、韓国を経る北回りで行くか、九州を巡る南回りで通るかで、これに誰が関与できるかが変わり、前者なら日本海系遊漁民、後者なら瀬戸内海系遊漁民が、大いに利益を得ることになったのだろう。

建国の王者―崇神天皇の時代

 古代史の発展段階における領土国家時代は、後世の観念から見ても国らしい国ができてくる時期である。都市国家時代には、今の小売店と商圏の関係のような、古代都市とその勢力圏があるだけだったが、領土国家は領土と国境を持つ。かといってこれをあまり近代的な領土や国境の観念に引き寄せて解釈するのもまちがいのもとだが、ともかくも国らしい国の最低限の骨組みができてくる。

 古代の領土国家とその延長線上にある古代帝国は、もともと都市国家の結合によってできるので、中国やギリシャ・ローマなどでは都市国家網としての性格を色濃く受け継いでいた。しかし日本では、都市国家の伝統があまり深まらないうちに次の段階へ進んだので、より速くより純粋な領土国家ができた。ここにも後発先至の法則を見ることができる。

 考古学的に見ると、日本の都市国家時代は弥生文化に現れる環壕集落が営まれた時期に当たる。大型古墳が盛んに造られる頃には、環壕集落は解消されており、領土国家時代に入ったことを示している。両時代の境界が絶対年代にしていつ頃と厳密に言うことは難しいが、三世紀後半から四世紀前半の間にその過渡期があると思われる。

 日本史上の領土国家時代の始まりは、崇神天皇によって象徴される。崇神天皇の有した領土国家の範囲は、《日本書紀崇神天皇紀》の記述を参考にすると、西は奈良平野と河内平野との境なる大坂、東は東国への関門となる墨坂、北は山背へ通る那羅山までに及ぶ。これはほぼ律令制の大和国に相当する。また、河内や山背南部に対しては、力の差から優越的な地位を獲得している。

 崇神天皇の内政の記事は、ほぼ祭祀の整理をしたことで占められている。それまで王宮の中で祭っていた天照大神あまてらすおほみかみ大国魂神おほくにたまのかみを外に移し、奈良平野全体の重要な神格であるらしい大物主神おほものぬしのかみのために河内から太田田根子おほたたねこを招聘したことが注目される。また、書紀に

然後卜祭他神吉焉。便別祭八十萬羣神。仍定天社。國社。及神地。神戸。

然る後に他の神を祭らんかとうらなう、吉なり。便すなわち別に八十万の群神を祭り、かさねて天つ社・国つ社、及び神地かむどころ神戸かむべを定める。

 とあり、また《古事記》の相当する所には、

又於坂之御尾神。及河瀬神。悉無遺忘。以奉幣帛也。

また坂の御尾の神より、河瀬の神に及ぶまで、悉く遺し忘れること無く、幣帛を奉る。

 などとあることは、地味のようだが見落とすことはできない。つまり崇神天皇は、奈良平野の各地にあった都市国家、あるいは都市国家の段階にも達しない小勢力を併合したので、個別に行われていた各々の祭祀も兼併し、大物主神はそれらの代表格であり、自家の祭祀もそのために位置付けを考え直さなければならなくなったのだろう。他方で外政については、具体的な記事は武埴安彦たけはにやすびこ吾田媛あたひめとの戦争くらいしかない。武埴安彦は山背から、吾田媛は河内から、兵を率いて奈良平野に入ろうとした。これを謀反などと呼ぶのは一方的な観方で、第三者的に言えば国際的な武力衝突事態である。

 北陸・東海・西道・丹波への「四道将軍」の派遣は、ただ行って帰ったというだけで、何ら内容がない。書紀で出雲から神宝を召し上げる話は、肝心の部分が記の方では倭建命が出雲建を斬る話と同じ筋立てになっていて、所謂“どこにでも置ける”という説話であり、信憑性に問題がある。しかしそれならこれらが全然真実でないかといえばそうとばかりも言えない。崇神天皇の治世のこととして後に記録されることになった時代には、相前後して各地個別に領土国家が成立したはずだ。だからこれらの記事から潤色を除いて煎じ詰めて行けば、外交にも新しい状況があって、それに対応する新しい行動が要求された、ということくらいは実際にあったこととして認められよう。

 このようにして国らしい国を初めて築いたという崇神天皇は、書紀編纂の時代にもやはり始祖たる王者として意識されていた。そこで、

秋九月甲辰朔己丑。始校人民。更科調役。此謂男之弭調。女之手末調也。是以。天神地祇共和享。而風雨順時。百穀用成。家給人足。天下大平矣。故稱謂御肇國天皇

秋九月甲辰朔己丑、人民をしらべることを始め、くわえて調の役を科し、此れを男のゆはずの調・女の手末たなすえの調と謂った。是れを以て、天神地祇は共に和享して、風雨は時に順い、百穀はって成り、家ごとにち人ごとに足り、天下は大いに平らぐ。故に称えて御肇国天皇と謂う。

 とある所の、「御肇国天皇」の肇国というのは、見慣れない漢語で、漢籍にも用例が少ないが、肇は“はじめる”“ひらく”の意味だから、意味する所は建国に同じ。つまり「御肇国天皇」をやや説明的に訳せば、「建国の事業を指揮した天皇」ということになる。ここには崇神天皇を建国の始祖とする歴史観が明らかに表現されているのだ。

 これに比べて、神武天皇は、この地域の一地点に根拠を築いて「帝位に即いた」というだけで、内容的には全く建国者として描かれてはいない。書紀の述作者は漢典から様々な字句を引いて文章を潤色をしているから、もし神武天皇を建国者にしたければ、たとえそうした伝承がなかったとしても、いくらでもそう仕立て上げることはできた。始置百官、改正朔、易服色、などなど、ありきたりな言い方が私にも思い当たる。

 なお書紀における神武の「始馭天下之天皇」と崇神の「御肇国天皇」にはともに「はつくにしらすすめらみこと」という訓が付けられているが、字の意味は全く違う。そしてそれがどんなに古いものであったとした所で、訓は本文に対する一種の注釈に過ぎず、これについていくら考えても本文の研究にはならない。書紀の本文は和文じみた半漢文ではなく、中国人が読んでも読めるような漢文なので、やはりまずは漢文として読んで解るように書かれている。本文に従えば、書紀の編集者が両帝に同じ尊称を与えたと考えることはできない。記の方では崇神だけが「所知初国はつくにしらす天皇だと呼ばれている。

一字の考察「餅」

 「へい」という漢字を日本では「モチ」に当てている。おモチは米を粒のまま搗いて作るから、穀物の粒食の一種と言える。ところが現代中国語のビン麺粉こむぎこを捏ねて作るものを指す。これは昔からそうで、後漢の劉熙が編んだ《釈名》に

餅,并也,溲麫使合并也。

 許慎の《説文解字》にも

餅:麪餈也。从食并聲。

 とある。麪(麺)は麦の粉を指す。へいにはパンとかナンの類を含む。

 では中国には日本のモチのようなものはないのかと思って、手もとの講談社日中辞典を引くと、モチは「年糕ニェンガオ」だと出ている。そこで中国語版の維基百科ウィキペディアで年糕の項を見ると、これには多くの種類があるが、普通は米粉から作る。だから団子とかういろうに近いものである。しかしその中にあって、糍粑スーバーとも呼ばれる湖南年糕は、蒸した米を臼で舂いて作り、日本のモチに近い。糍粑は苗族など少数民族の文化だと云う。

 中国では、穀物の粉食は、張騫の西域探検以後に西アジアからの影響で徐々に広まったと推測され、後漢後期から三国時代にかけて主食として定着した。粉食が知られると、それまでは粗末な穀物として扱われた麦の地位が上がり、特に発酵させることで風味や栄養が向上して主食に適する。魏・晋の頃にはすでにパン類がかなり食べられていたらしく、倭人へいを食べる機会もあったに違いない。つまり日本ではパンのようなものは明治以降に西洋から移入された新しい文化だと思われているが、古代にはすぐそこまでやって来ていたのだ。

 日本には、中国から多くの文物を摂取したように、へいが入る機会もあった。しかしそれは実際には全く入らなかったか、またはいくらか入ったとしても定着はしなかった。日本にはへいに当たるものがなく、漢字にはモチに宛てられるものが他になかった。そこで餅がモチを示すことになった。へいは普通平円形に作り、その形状のものの形容詞としても使われるので、その限りにおいて鏡餅のようなモチには相応しい。

 日本での粉食はウドン類が古くから定着したが、広く一般に食べられるようになったのは江戸時代まで下ると云われる。饅頭は14世紀に中国から入ったとされるが、食事になるものは廃れて、菓子としてのものだけが残った。いずれも間食や代替食として扱われる。日本では伝統的に主食になる粉ものがない。これはおそらく食料環境の違いによると思われる。パン類には動物性の油脂や肉が適するが、日本では魚介類が豊富に採れるので、タンパク源のために畜産に努力する動機に乏しかった。魚介類には粒食の方が合い、特にコメが最も良いということだろう。

 このことは要するに、人間の違いではなくて住む所の違いである。

 およそサルというものは、同じ種であれば離れた棲息地でも同じ構造の社会を作るそうだ。ヒトも基本的には同じだが、ただ応用性がいくらか高いので、様々な環境や経緯によって異なる社会や文化を作り、その積み重ねが各国各地の特色ある歴史になる。それは、球をコンクリートに投げたときと布団に落としたときとでは跳ね返り方が変わるようなもので、力学的原理が国や地域によって違うということはない。

極端な追尊の歴史 ― 日本と北魏

 日本の“天皇”号がいつ創案され制度化されたかについては明確な記録がない。随・唐と比肩しようとした者が相手と同じく“天子”かつ“皇帝”を称したとすれば理解しやすいが、なぜ“天皇”が使われることになったかもよく分からない。五胡十六国などでしばしば用いられた“天王”号との関係を考える意見もあるが、それが“皇帝”の代替であったのに対して、日本の制度は《養老律令・儀制令》に

天子。祭祀所称。天皇詔書所称。皇帝。華夷所称。

 とあるように、二称兼用にもう一つを加えたものなので、両者は簡単にはつながらない。しかしいずれにせよ制度化は七世紀代のことであり、それ以前の歴代の王者に天皇号を冠したことは所謂“追尊”の例である。初代以前の人物に帝号を追尊することは、魏の武帝曹操や、晋の宣帝司馬懿のように、せいぜい祖父くらいまでが普通だが、日本のように遠い祖先まで追尊した前例は北朝にあった。

 北朝北魏が、中国支配のための政治的宣言として、黄帝の子孫を称したことは前に述べた。

kodakana.hatenablog.jp

 《魏書・序紀》によると、北魏の帝室拓跋氏の先祖は、北方の原野に封じられて、土地の素朴な風俗に順応して文字を用いず、その歴史は口承されるだけだった。夏・殷・周・秦・漢の時代には匈奴などの勢力に妨げられて中国に交わらず、そのため文献に記録されることもなかった。そして、

積六十七世,至成皇帝諱毛立。聰明武略,遠近所推,統國三十六,大姓九十九,威振北方,莫不率服。崩。

六十七世を積み、成皇帝(いみなは毛)が立つに至る。聡明にして武略あり、遠近に推され、国は三十六・大姓は九十九を統べ、威は北方に振るい、率服しないものはかった。崩じた。

 とあるのが“皇帝”の初めで、この後にほとんど事績のない名前の羅列が続く。

節皇帝諱貸立,崩。

莊皇帝諱觀立,崩。

明皇帝諱樓立,崩。

安皇帝諱越立,崩。

宣皇帝諱推寅立。南遷大澤,方千餘里,厥土昏冥沮洳。謀更南徙,未行而崩。

景皇帝諱利立,崩。

元皇帝諱俟立,崩。

和皇帝諱肆立,崩。

定皇帝諱機立,崩。

僖皇帝諱蓋立,崩。

威皇帝諱儈立,崩。

獻皇帝諱隣立。時有神人言於國曰:「此土荒遐,未足以建都邑,宜復徙居。」帝時年衰老,乃以位授子。

 この次の聖武皇帝には、多少事績らしい記載があるが、内容は神元皇帝の出生についての神秘的な説話に過ぎない。

 日本古代の史料についてある程度の知識がある人ならば、《魏書》をここまで読んでみておもしろいことに気付くだろう。北魏の成皇帝はさながら日本の神武天皇、その後の十三代は所謂“欠史八代”に相当する。これらの人物がそのままの名前で実在していたか、人数は合っているか、などはもとより確かめようもない。重要なの修史に当たってそれなりに信じるところがあって並べられたには違いないということだ。そしてもし北魏の歴史をよりもっともらしくしようと思えば、各代について皇后や子女や前後との続柄を書き込めば良く、そうすればそれは《日本書紀》のようになる。

 神元皇帝の段からは、年次を追って事件が記され、年代も明らかになる。神元帝の四十二年は、三国魏の景元二年(261)だという。この主君は後に北魏の“始祖”とも称され、あたかも崇神天皇を彷彿させる。《魏書》では、初代皇帝である道武帝拓跋珪より前の、実際には君長としての地位に就いていない文帝なども含め、三十人近い人物に帝号を追諡している。もし成帝を初代として数えれば、道武帝は二十八代目になるが、そんな数え方には意味がない。道武帝から遡れる所まで遡って最後に皇帝にされたのが成帝なのだった。

 日本の場合も、神武天皇を初代として代を数えることには意味がない。天武天皇の功績を前提として、遡って天皇に擬された最後の人物が神武だということである。そこで《日本書紀・神武紀》に、

故古語稱之曰。於畝傍之橿原也。太立宮柱於底磐之根。峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇。號曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。

かれ古語のこれをたたえて曰く、畝傍の橿原に於いて、宮柱をば底磐之根そこついはのねふとしき立て、搏風ちぎをば高天之原たかまのはら峻峙たかしりて、始馭天下之天皇、号して曰く神日本磐余彦火火出見かむやまといはれひこほほでみ天皇なり。

 とある所の「始馭天下之天皇」というのも、天武を起点とする歴史観の中で理解しなくてはならない。これをどう訓むかはともかく、その文字の含意は“後に天武天皇が天下を統べることの元になる事業を始めた”ということにある。

 拓跋鮮卑は、もと西拉木倫シラムレン河方面で遊牧生活を営んでいたが、《魏書・序紀》に見られるように、次第に南下して、ついには中国を支配するに至った。遊牧民は、遊牧を基礎文化とするからそう呼ぶが、ときには東西を結ぶ流通業者となり、またときには馬賊となって都市を寇掠し、またあるときには農業地帯をも征服するなどして、大陸の歴史上に重大な役割を演じた。

 大陸の遊牧民に相当する海洋的存在を、私は“遊漁民”という呼び方で規定したい。彼らは漁業を基本的な生業として津々浦々を渡って暮らすが、ときには海上交易に従事し、またときには海賊となって港市を掠奪し、またあるときには陸上勢力をも支配する。その実例は、西洋上古のクレタやミケーネ、中世のヴァイキング、東洋では倭寇や水軍として史乗に現れる。

 神武天皇もまた遊漁民的勢力と結び付いた王者だった。所謂“神武東征”にあたって、《日本書紀・神武紀》に、

時有一漁人。乘艇而至。天皇招之。因問曰。汝誰也。對曰。臣是國神。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來。故即奉迎。又問之曰。汝能爲我導耶。對曰。導之矣。天皇勅授漁人椎末令執而牽納於皇舟。以爲海導者。乃特賜名爲椎根津彦

時に一漁人が有り、艇に乗って至る。天皇はこれを招き、因って問うて曰く、「汝は誰だ」。こたえて曰く「わたくしは国つ神、名は珍彦うづひこもうす。曲浦わだのうらに魚を釣りし、天つ神の子が来ると聞き、迎え奉ります」。またこれに問うて曰く「汝は我が為に導くことができるか」。対えて曰く「導きましょうぞ」。天皇は勅して漁人にしひさをの末をわたし、執らせて皇舟にき納れ、以て海導者とし、そこで特に名を賜って椎根津彦しひねつひことした。

 とあるのは、その行動に遊漁民的勢力が介在したことを象徴している。神武天皇の航行した範囲、西は宇佐・遠賀から東は浪速まで、それは椎根津彦に代表される遊漁民的勢力の一派が主に活動した範囲を表していよう。そして神武が結局奈良平野の一地点に根拠を築いたことは、ヴァイキングのロシア方面における活動よろしく、陸地をまたぐ通商路を確保する目的があったと思われる。

 このことは神武一代のこととして記紀には描かれているが、拓跋鮮卑の南下が長い年月の間に段階的に行われたように、やはり実際には数代かけて成されたことであるに違いない。それを語り物として演じるときには一人がした大事業ということにした方が面白い。しかし他方ではこれが何世代かにかかるものだということも伝えられており、記紀では両系統の伝承を合成したので、神武が活躍する一方、続く八代は事績を奪われる形となったのだろう。もちろん、頭数が合っているか、名前は当時から伝えられたままかどうか、続柄はどうか、などは保証の限りではないが、十把一絡げに抹殺するほどの反証もないので、大まかに見ては真実が含まれていると考えておきたい。

 ここまでは都市国家的段階に属するという考えは前回に述べた。こうした植民や交易の活動は、やがて来る領土国家的段階の下地を用意した。日本史上の領土国家時代の到来は、崇神天皇の事績として記される。神武天皇の事績は内容としてはそう時を置かずに崇神天皇に接続するのである。

日本史上の“都市国家時代”

 証明することは難しく、仮定することは易しい。仮定はいくらでも任意に置いて構わないが、仮定の数が増えるだけ仮説の質は落ちることを覚悟しなくてはならない。しかしわずかの仮定によって多くの事実をうまく説明できるときは、それを置くことをためらう必要はない。そして誰も証明ができないことであるならば、最も質の高い仮説が共有の結論として採択されるべきである。

 記紀に見える天照大神の天岩戸隠れの描写が都市国家的情景ではないかという考えを前に述べた。

kodakana.hatenablog.jp

 それは、都市国家的段階における事件から発生した説話に、日食に関する民話などが習合し、最終的には日本的王権の起源を説明するために整理されたものだと思われる。それは記紀の構成の中で、てんで見当外れの箇所にあるのではなく、都市国家から領土国家へという歴史的発展の経緯を示すかのような位置にある。

高天原の歴史的段階

 “高天原”は一つの都市国家が象徴化されたものとしての一面を持っているようである。しかも、天岩戸隠れの説話において、その中心的役割を日の神が演じていることは重要である。

 以前、私は、古代人の方位観について考えたときに、社会が広域化すると局所的なものに代わって太陽が方位の基準として選択されると述べた。

kodakana.hatenablog.jp

 それは宗教についても似たことが言える。広範囲の社会的結合がより強まり、その精神的紐帯が必要とされたときには、それまでよりも普遍性の高い神が信仰の中心として選択されることがある。それは太陽神や天帝、あるいはより抽象的な神格として表現される。

 都市国家には、それぞれの都市の守護神があった。それは、その地域における名山だったり、その集団の祖霊であったりした。都市国家群が何らかの形で結合すると、諸国は必ずしも対等ではないので、神々の間にも序列ができる。そして結合が進んで、領土国家に近付き、社会が変動してくると、それは最高神を改めて選択する契機になる。

 天照大神がある程度の普遍性を持った太陽神であるならば、この説話は都市国家連合の進行した段階を象徴していると見なすことができる。もしそうであるとすれば、その歴史的段階は、“魏志倭人伝”に記された時代と一致する。

 こうした時期には、社会は古い構造と新しい構造の間で動揺している。素戔嗚尊は、天照大神と対立し、罪状を責められて高天原から追放されるが、出雲の一地域に下り、その土地の有力者を助け、八岐大蛇やまたのをろちという形で表象される何らかの問題を解決して、そこに地位を得る。有能な者が母国では受け入れられず、他の国で活躍することは、こうした状況ではありがちなことである。

都市国家は植民する

 都市国家都市国家たるゆえんは、その勢力範囲が狭いことにある。それは農業・軍事・通信などの水準によって制約を受けている。個々の都市国家の容量はさして大きいものではないので、ときとして植民活動が行われる。手頃な空き地があれば単に新たな都市を建設するが、さもなくば、先住者と協力したり、あるいは征服または駆逐して目的を達する。植民市といっても、近世の植民地とは違い、母国との制度的な従属関係は発生しない。新しい都市は、そのものが都市国家として独立し、当初は良好な関係を持つことが期待されるが、やがて疎遠になって敵対することもある。世界史の例によればそうである。

第一次植民時代

 さて高天原からの植民活動は、島根・鹿児島・奈良の三方面へ行われた。島根地方へのそれは、“国譲り”としてよく知られているから、ここで詳しくは述べないが、初めは融和的に、後には征服的に遂行される。鹿児島地方へは、天照大神の孫瓊瓊杵尊ににぎのみことが行き、在地の有力者の娘と結婚して定着し、後に神武天皇を輩出する。奈良地方へは、饒速日命にぎはやひのみことが下ってやはり在地の豪族と通婚し主君となっていた。これらが都市国家的段階の社会において行われたことだとすれば、彼らは各地方に新しい都市国家を建設したのであり、各地が高天原に併合されたのではない。だから各地方の服属が後に改めて記されることは別に説明を必要としない。

第二次植民時代

 植民活動の第二波は、鹿児島地方から起こる。それは一般に“神武東征”などとも呼ばれて一通りは知られているから、ここで詳しくは述べない。この行動は、瀬戸内海周辺の航行の要地を何カ所も経ていることなどからして、海上貿易との関係が一つの動機となったものらしい。しかもこれは、神武天皇がもといた鹿児島地方から奈良地方までを併せた領土を獲得したという話にはなっていない。このことも、これが都市国家時代のことだとすれば、別に説明する必要はない。鹿児島地方の勢力が各地に植民市を建設したことを伝えていると考えれば良い。

 この第二次植民時代については、後の回で考えたいこととも重複するので、これ以上は次回以降に述べたい。