古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

2017-01-01から1年間の記事一覧

稲荷山古墳出土鉄剣銘文の問題点

銘文の概要 1968年、埼玉県にある稲荷山古墳前方部の発掘調査が行われ、発見された出土品の中にこの鉄剣はあった。刀身には錆と木製の鞘が膠着しており、当初は銘文が刻まれていることは知られなかった。1978年、出土品の錆が進んで、保存処理をするために、…

過去30年ほどの衆議院議員総選挙から

1986年以後の衆議院議員総選挙 戦後の新制度下において、衆議院議員総選挙は、昭和二十二年(1947)の第二十三回から、平成二十六年(2014)の第四十七回まで、合計25回実施されている。このうち任期満了に伴う総選挙は、昭和五十一年(1976)の第三十四回だけで、…

「証拠があるからこの主張は正しい」というものではないという話

「ネコとナマコは似ている」という論 ある人が「ネコとナマコは似ている」という論を立てた。理屈はこう。ネコもナマコも前に口、後に尻があり、基本的な構造は円筒形で、口で食べて尻で排泄をする。こんなに共通点があるのだからネコとナマコは似ているのだ…

カクヨムにて歴史小説『張政と姫氏王』を連載中

小説投稿サイト「カクヨム」にて歴史小説『張政と姫氏王』を連載しています。時は景初二年の秋、公孫淵が司馬懿に敗北した事で魏王朝に回収された帯方郡。郡の若手役人で倭人との交渉に従事する張政は、魏から派遣された新太守の劉昕に呼び出され、直々に一…

プロレスリングの歴史と経済 ~体力/試合数*期待値~

1896年、第一回近代オリンピックがアテネで開かれ、その中でグレコローマン・スタイルのレスリングが行われたのが、いわゆるアマチュア・レスリングの始まりとされる。フリースタイルは1904年のセントルイス大会で導入された。当初のアマレスのルールは、当…

後宮についての雑記

皇位継承の安定性と後宮制度 天武天皇の後継者が百年ほどでほとんど絶えてしまった原因の一つは、産児の少なさにあり、これは後宮の制度が実際的に確立していなかったことに起因する所があるようだ。もっとも天武天皇自身は、十人の女性との間に十男七女を産…

天武天皇評伝 目次

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天武天皇評伝(二十七・完) 後継者たち

大津《おほつ》皇子は、天武天皇と大田《おほた》皇女の子で、この年二十四歳というから、天智天皇の称制二年に生まれている。鸕野《うの》皇后にとっては姉の子で、草壁《くさかべ》皇子からは一歳下の弟ということになる。草壁と大津の関係は、『日本書紀…

天武天皇評伝(二十六) 崩御

天武天皇の治世十五年七月二十日、年号を立てて朱鳥《あかみとり》元年と称した。孝徳王の白雉以来、改元は久しく忘れられていたことである。朱は赤色の類に属し、赤は五行説では火の色とされる。白は金の色である。かつて戦国から漢の頃にかけて五行説が流…

天武天皇評伝(二十五) 権力と身分

皇族と内外の貴族の身分をどう秩序付けるかということは、その治世を通じて、天武天皇が最も意を用いたことであったろう。この気遣わしい作業を進めるために、第一に注意しなければならないのは、壬申の年の勝利に貢献した功臣たちの処遇だった。功績ある者…

天武天皇評伝(二十四) まだ見ぬ都城への道のり

天武天皇の脳裡には、即位の当初から、本格的な都城の建設という構想があったに違いない。しかし天武天皇は急がない。そもそも都城は何のために必要か。それは見栄や満足のためではない。都城は法制度の容器である。法典の編纂は、すでに先代において近江令…

天武天皇評伝(二十三) 日本王朝の成立

『日本書紀』は、壬申の年を、天武天皇の元年として数える。天武天皇の即位は、二年二月二十七日である。天武天皇の二年は、唐の高宗の咸亨四年、新羅は文武王の十三年に当たる。 天武天皇は正妃鸕野皇女《うののひめみこ》を立てて皇后とした。鸕野皇女は天…

天武天皇評伝(二十二) 壬申の乱・四

軍を率いて美濃国を出、近江国に攻め入った村国連男依《むらくにのむらじをより》らは、七月七日、国境の西息長《おきなが》で大友方の軍と戦ってこれを破り、その将軍境部連薬《さかひべのむらじくすり》を斬った。大海人皇子《おほしあまのみこ》は野上《…

天武天皇評伝(二十一) 壬申の乱・三

大海人皇子《おほしあまのみこ》が吉野宮を発った日、後から追って合流した黄書造大伴《きふみのみやつこおほとも》が、大伴連馬来田《おほとものむらじまぐた》を連れていたことは前に述べた。この馬来田とその弟の吹負《ふけひ》は、かねて政情を案じ、病…

天武天皇評伝(二十) 壬申の乱・二

近江の朝廷では、大海人皇子《おほしあまのみこ》が東国《あづまのくに》に入ったということが聞こえると、動揺する者が多く、ある人は抜けがけして東国へ奔ろうとし、またある人は逃げて山谷に隠れようとしたという。 そこで大友皇子《おほとものみこ》は側…

天武天皇評伝(十九) 壬申の乱・一

「今聞くに、近江の朝廷の臣どもは、余を殺そうと謀っているとか。これによって汝ら三人は、急ぎ美濃国へ往き、安八磨《あはちま》郡の湯沐令《ゆのうながし》多臣品治《おほのおみほむぢ》に会い、戦略の要点を伝えて、まずその郡の兵を興せ。ゆくゆく国司…

「聖徳太子」という呼称について

数日前のことになるが、いわゆる「聖徳太子」について、学習指導要領の改訂案で表記を変更することになり云々、ということが新聞記事になっているのを目にした(聖徳太子、教科書で表記変更は妥当? 国会で論戦に:朝日新聞デジタル)。聖徳太子、という一般…

天武天皇評伝(十八) 大友皇子と大海人皇子

天智天皇が死に瀕していた十一月二日、唐から法師道久《だうく》や筑紫君薩野馬《つくしのきみさちやま》ら四人が対馬国司《つしまのくにのみこともち》のもとへ来着した。道久はおそらく前の遣唐使の一員として渡った僧侶。薩野馬は百済への出兵に従って捕…

天武天皇評伝(十七) 希なる改革者の最期

天智天皇は、従来の慣習を破って、大友《おほとも》皇子に皇位を継承させる形を作ろうとしてきた。これに大海人《おほしあま》皇子は反対のはずである。しかし、兄弟の間に感情的なしこりがあるとはいえ、基本的には理想を共有している二人でもある。相続法…

天武天皇評伝(十六) 天智天皇の焦り

文武王の反撃が開始されて以来、各勢力間の外交も活発に行われた。天智天皇が送った遣唐使は、咸亨元年に高宗に謁見して高句麗の平定を祝賀したという。天智天皇のもとへも、即位四年・咸亨二年になると、新羅側と唐側の両方から複数の使節があり、いずれも…

天武天皇評伝(十五) 文武王の反撃

唐の高宗の咸亨元年、倭の天智天皇の即位三年、この春にはいよいよ新羅と唐の間に緊張したものが表面化してきた。晩春から初夏にかけて、新羅は高句麗の反抗軍を支援し、唐側の靺鞨兵と戦って大いに勝利した。 夏になると、高句麗の遺臣剣牟岑《こむむじむ》…

天武天皇評伝(十四) 藤原を散らす冬の風

外交能力は最高の戦力である。ここ数年、倭国の朝廷は唐や高句麗などからの使節をいつも迎えている。丁度平壌城が陥落したかしないかの頃にも、近江の大津宮に新羅からの使者金東厳《こむとうごむ》が訪れた。この時は天智天皇の即位元年・唐の高宗の総章元…

天武天皇評伝(十三) 高句麗の崩壊

高句麗では、この三年ほど前、長く権柄を握った大臣の泉蓋蘇文《ぜんかいすもん(いりかすみ)》が卒去し、長子の男生《なむしゃう》が後を継いで国政を統べた。あるとき、男生は各地を巡察するため、その留守には弟の男建《なむこん》・男産《なむせん》に…

天武天皇評伝(十二) 近江の朝廷

天智天皇の即位元年は、唐は高宗の総章元年、新羅は文武王の八年、高句麗は宝蔵王の二十七年に当たる。 天智天皇は、かつて抹殺した古人大兄《ふるひとのおほえ》王子の息女、倭姫王《やまとのひめおほきみ》を皇后とした。『日本書紀』による限り、王族から…

天武天皇評伝(十一) 天皇の誕生

白村江の会戦より前、皇極王が没した後、中大兄王子《なかのおほえのみこ》は太子のままで「称制」し、七年目になってようやく位を継いだ。『日本書紀』にはそう書いてある。ここで言う「制」とは皇帝の発する命令のことで、「制を称する」とはその位にない…