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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

極端な追尊の歴史 ― 日本と北魏

 日本の“天皇”号がいつ創案され制度化されたかについては明確な記録がない。随・唐と比肩しようとした者が相手と同じく“天子”かつ“皇帝”を称したとすれば理解しやすいが、なぜ“天皇”が使われることになったかもよく分からない。五胡十六国などでしばしば用いられた“天王”号との関係を考える意見もあるが、それが“皇帝”の代替であったのに対して、日本の制度は《養老律令・儀制令》に

天子。祭祀所称。天皇詔書所称。皇帝。華夷所称。

 とあるように、二称兼用にもう一つを加えたものなので、両者は簡単にはつながらない。しかしいずれにせよ制度化は七世紀代のことであり、それ以前の歴代の王者に天皇号を冠したことは所謂“追尊”の例である。初代以前の人物に帝号を追尊することは、魏の武帝曹操や、晋の宣帝司馬懿のように、せいぜい祖父くらいまでが普通だが、日本のように遠い祖先まで追尊した前例は北朝にあった。

 北朝北魏が、中国支配のための政治的宣言として、黄帝の子孫を称したことは前に述べた。

kodakana.hatenablog.jp

 《魏書・序紀》によると、北魏の帝室拓跋氏の先祖は、北方の原野に封じられて、土地の素朴な風俗に順応して文字を用いず、その歴史は口承されるだけだった。夏・殷・周・秦・漢の時代には匈奴などの勢力に妨げられて中国に交わらず、そのため文献に記録されることもなかった。そして、

積六十七世,至成皇帝諱毛立。聰明武略,遠近所推,統國三十六,大姓九十九,威振北方,莫不率服。崩。

六十七世を積み、成皇帝(いみなは毛)が立つに至る。聡明にして武略あり、遠近に推され、国は三十六・大姓は九十九を統べ、威は北方に振るい、率服しないものはかった。崩じた。

 とあるのが“皇帝”の初めで、この後にほとんど事績のない名前の羅列が続く。

節皇帝諱貸立,崩。

莊皇帝諱觀立,崩。

明皇帝諱樓立,崩。

安皇帝諱越立,崩。

宣皇帝諱推寅立。南遷大澤,方千餘里,厥土昏冥沮洳。謀更南徙,未行而崩。

景皇帝諱利立,崩。

元皇帝諱俟立,崩。

和皇帝諱肆立,崩。

定皇帝諱機立,崩。

僖皇帝諱蓋立,崩。

威皇帝諱儈立,崩。

獻皇帝諱隣立。時有神人言於國曰:「此土荒遐,未足以建都邑,宜復徙居。」帝時年衰老,乃以位授子。

 この次の聖武皇帝には、多少事績らしい記載があるが、内容は神元皇帝の出生についての神秘的な説話に過ぎない。

 日本古代の史料についてある程度の知識がある人ならば、《魏書》をここまで読んでみておもしろいことに気付くだろう。北魏の成皇帝はさながら日本の神武天皇、その後の十三代は所謂“欠史八代”に相当する。これらの人物がそのままの名前で実在していたか、人数は合っているか、などはもとより確かめようもない。重要なの修史に当たってそれなりに信じるところがあって並べられたには違いないということだ。そしてもし北魏の歴史をよりもっともらしくしようと思えば、各代について皇后や子女や前後との続柄を書き込めば良く、そうすればそれは《日本書紀》のようになる。

 神元皇帝の段からは、年次を追って事件が記され、年代も明らかになる。神元帝の四十二年は、三国魏の景元二年(261)だという。この主君は後に北魏の“始祖”とも称され、あたかも崇神天皇を彷彿させる。《魏書》では、初代皇帝である道武帝拓跋珪より前の、実際には君長としての地位に就いていない文帝なども含め、三十人近い人物に帝号を追諡している。もし成帝を初代として数えれば、道武帝は二十八代目になるが、そんな数え方には意味がない。道武帝から遡れる所まで遡って最後に皇帝にされたのが成帝なのだった。

 日本の場合も、神武天皇を初代として代を数えることには意味がない。天武天皇の功績を前提として、遡って天皇に擬された最後の人物が神武だということである。そこで《日本書紀・神武紀》に、

故古語稱之曰。於畝傍之橿原也。太立宮柱於底磐之根。峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇。號曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。

かれ古語のこれをたたえて曰く、畝傍の橿原に於いて、宮柱をば底磐之根そこついはのねふとしき立て、搏風ちぎをば高天之原たかまのはら峻峙たかしりて、始馭天下之天皇、号して曰く神日本磐余彦火火出見かむやまといはれひこほほでみ天皇なり。

 とある所の「始馭天下之天皇」というのも、天武を起点とする歴史観の中で理解しなくてはならない。これをどう訓むかはともかく、その文字の含意は“後に天武天皇が天下を統べることの元になる事業を始めた”ということにある。

 拓跋鮮卑は、もと西拉木倫シラムレン河方面で遊牧生活を営んでいたが、《魏書・序紀》に見られるように、次第に南下して、ついには中国を支配するに至った。遊牧民は、遊牧を基礎文化とするからそう呼ぶが、ときには東西を結ぶ流通業者となり、またときには馬賊となって都市を寇掠し、またあるときには農業地帯をも征服するなどして、大陸の歴史上に重大な役割を演じた。

 大陸の遊牧民に相当する海洋的存在を、私は“遊漁民”という呼び方で規定したい。彼らは漁業を基本的な生業として津々浦々を渡って暮らすが、ときには海上交易に従事し、またときには海賊となって港市を掠奪し、またあるときには陸上勢力をも支配する。その実例は、西洋上古のクレタやミケーネ、中世のヴァイキング、東洋では倭寇や水軍として史乗に現れる。

 神武天皇もまた遊漁民的勢力と結び付いた王者だった。所謂“神武東征”にあたって、《日本書紀・神武紀》に、

時有一漁人。乘艇而至。天皇招之。因問曰。汝誰也。對曰。臣是國神。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來。故即奉迎。又問之曰。汝能爲我導耶。對曰。導之矣。天皇勅授漁人椎末令執而牽納於皇舟。以爲海導者。乃特賜名爲椎根津彦

時に一漁人が有り、艇に乗って至る。天皇はこれを招き、因って問うて曰く、「汝は誰だ」。こたえて曰く「わたくしは国つ神、名は珍彦うづひこもうす。曲浦わだのうらに魚を釣りし、天つ神の子が来ると聞き、迎え奉ります」。またこれに問うて曰く「汝は我が為に導くことができるか」。対えて曰く「導きましょうぞ」。天皇は勅して漁人にしひさをの末をわたし、執らせて皇舟にき納れ、以て海導者とし、そこで特に名を賜って椎根津彦しひねつひことした。

 とあるのは、その行動に遊漁民的勢力が介在したことを象徴している。神武天皇の航行した範囲、西は宇佐・遠賀から東は浪速まで、それは椎根津彦に代表される遊漁民的勢力の一派が主に活動した範囲を表していよう。そして神武が結局奈良平野の一地点に根拠を築いたことは、ヴァイキングのロシア方面における活動よろしく、陸地をまたぐ通商路を確保する目的があったと思われる。

 このことは神武一代のこととして記紀には描かれているが、拓跋鮮卑の南下が長い年月の間に段階的に行われたように、やはり実際には数代かけて成されたことであるに違いない。それを語り物として演じるときには一人がした大事業ということにした方が面白い。しかし他方ではこれが何世代かにかかるものだということも伝えられており、記紀では両系統の伝承を合成したので、神武が活躍する一方、続く八代は事績を奪われる形となったのだろう。もちろん、頭数が合っているか、名前は当時から伝えられたままかどうか、続柄はどうか、などは保証の限りではないが、十把一絡げに抹殺するほどの反証もないので、大まかに見ては真実が含まれていると考えておきたい。

 ここまでは都市国家的段階に属するという考えは前回に述べた。こうした植民や交易の活動は、やがて来る領土国家的段階の下地を用意した。日本史上の領土国家時代の到来は、崇神天皇の事績として記される。神武天皇の事績は内容としてはそう時を置かずに崇神天皇に接続するのである。