古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

流し読みでも解る中国古代文明史

 ○殷周時代

 殷から周の前期は、まだ古代文明の原初的な段階であった。「古には万国あり」といわれたように、黄河中流域の中国(中国とは王都を指した)を中心に、数多くの都市国家(城市)が並立した。

 メソポタミア文明がそうであるように、古代文明は自然の貧しい土地に早く発達する。付け加えるなら、自然は貧しいが人々の協働によって大きい農産を挙げうる地域である。もともと自然の産物には乏しいため、穀物は余っても物品は不足し、周辺との貿易を必要とする。それで文明の種が蒔かれて、多くの国が生まれていく。

 多くの小国が互いに平等の権利しか持たないと、争いが起きても収めることが難しい。そこで秩序の中心となったのが殷であり、後には周がこれに代わった。諸国は殷や周を盟主として臣従することで互いの均衡を保ち、城市間に訴訟があると殷や周の王がこれを裁いた。時に従わない国があると、王の号令一下、同盟してこれを討った。

 この時期には、人々はほとんど共同体の一部としてのみ自己を認識し、自我は希薄であった。社会の変化もまだ緩慢であったので、世代間の違いもほとんど無かった。営養は穀物に多くを頼ったので、寿命は短かったが、親世代から子世代へと魂を移しながら永遠に生きるかのような錯覚を持ち、人生の儚さを嘆くようなことは無かったと思われる。

 ○春秋戦国時代

 周の後期に入ると、各地方で国が国を併合して成長し、相対的に盟主国の影響力は小さくなっていく。もはや中国に万国が臣従する秩序は価値を失い、天下は国家間の自由競争に委ねられつつある。孔子は周の全盛期の秩序を礼と呼び、礼が失われることを防ごうとしたが、そもそもは周が殷を亡ぼしたことが失礼の始まりであったのだ。

 この時代に、「士」と呼ばれるような人間像が現れてくる。士とは本来、卿士大夫というように、貴族階級を指すが、身分が高いために自由が多い。転じて、貴族ならずとも自由に生きる人を士と呼ぶ。古代的個人と言っても良い。前時代の共同体が崩壊したことで、強くさえあれば自由に生きることが可能になったのである。

 このような自由主義の世界は、一面では戦争を起こしやすい状態でもある。強い国は弱い国を併呑してさらに大きくなり、角逐してこもごも天下に覇を唱え、はてには新興国の秦に全て統一される所となった。

 この戦乱の時期に、文明の拡大は加速し、南蛮と呼ばれた長江以南にも大国が立ち、中原の争いに加わった。そのため、秦が天下統一した時には、南の海岸までが版図に加わり、現在のいわゆる漢民族が住む地域があらかた固まった。

 ○秦漢時代

 秦の天下統一は短年月に終わり、漢がこれに代わった。漢は秦の法家主義を骨格とし、周代を象徴する儒家思想を精神として、両道によって体制の支えとした。漢の体制の理念はごく大まかに言えば一君万民であり、皇帝が超越することで他の全てを平等に扱おうというものであった。

 漢の初代皇帝劉邦が逝世し、呂太后が政治を執った時期には、人々は戦乱を忘れて平和を楽しむことができた。この平和は平等主義のたまものであり、新体制が固まることは、士の精神を受け継ぐ自由人には、生きづらい世の中になることでもあった。自由は時に体制との対決を余儀なくさせる。

 司馬遷は、武帝の李陵への厳罰に反対した。義を見てせざるは勇なきなり。自由精神によってこうと思ったことは、たとえ相手が天子でも言わねばならない。その結果、遷は宮刑という屈辱を受ける。仁を求めて仁を得たり、また何ぞ怨みんや。遷は《史記》を編むに列伝を付し、旧世代の士人を顕彰する。

 司馬遷の生き方からは、義憤を表すという公的な自由を貫こうとする立場と、義憤を慎んで私的な精神の自由を楽しもうとする立場が生まれてくる。前者はより儒家的、後者はより道家的と言えるが、両者の境界は曖昧であり、表裏一体とも言える。

 漢の体制も後期になると、中世的貴族層が成長し、上は皇帝の権力を減退させ、下は庶民の利益を吸収するようになる。また、各地域の経済がそれぞれに発達し、統一を維持することが難しくなってくる。これによって漢の体制は土崩して、中国史上の古代史的発展の経過は一巡し、再び乱世を迎えることになった。

 ○まとめ

 中国古代史には、自由主義と平等主義の誕生と葛藤があった。ここから生まれた古典的な「個人」像は、その後の中国人の生き方を規定している。現代中国人に感じる根の強さ、体制に囚われない強かな所は、こうした歴史の裏付けを持っているのであって、国家社会主義を建前とする政治の面からだけ評価しようとしてはならない。