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ロシア史の概略(2/3)ロシア帝国の繁栄と没落

 1584年、雷帝が死ぬと、皇太子フョードルが即位したが、病弱であったため、実権は義兄に当たるボリス・ゴドゥノフが握った。98年にフョードルが死ぬと、全国会議はゴドゥノフをツァーリに推挙したが、これがまた権力闘争のきっかけとなり、飢饉なども重なって動乱期となった。

 スウェーデン帝国とポーランド王国はこの機会にロシアを蚕食しようと狙い、闘争に干渉しつつ侵攻を始めた。1610年、ポーランド王ジグムント三世は、軍を発してモスクワを占拠し、その王子をツァーリの座に即かせようとした。しかしこの強欲な計画はポーランドカトリック教国だったこともあって、正教のロシア人の強い反発を招いた。ロシア人はスウェーデンポーランドの介入を却け、ゴドゥノフに弾圧されたロマノフ家のミハイルが、13年に全国会議によってツァーリに推挙された。しかし介入によって奪われた領土の一部は取り返すことが出来ないままになった。

 ロマノフ王朝のもとで、ロシアは大きく発展した。ポーランドに対しては、蜂起した現地のカザークから要請を受けて出兵し、1686年までにウクライナ地方のキエフ以東を取り返した。東では、シビル・ハン国を抜いてしまえば、もうロシアに対抗しうるような勢力はなく、17世紀末までには太平洋への出口を確保した。しかし南ではクリム・ハン国がオスマン=トルコ帝国に支えられてウクライナ南境を脅かしていたし、極東では清の戦力によって領土の拡張はアムール川でとどめられた。

 ピョートル一世“大帝”(在位1682〜1725年)は89年に実権を掌握すると、内政面では軍制、工業、統治機構などを急激に改革した。南方では黒海方面にトルコ、カスピ海方面ではペルシャと戦い、一時的な勝利はあったがあまりうまくいかなかった。しかし北方ではスウェーデンを押し返し、1721年までにリガ以北のバルト海沿岸やカレリアに領土を広げ、ヨーロッパ風の新都市サンクト=ペテルブルクを建設した。大帝は「インペラートル(エンペラー)」の尊号を奉呈され、国号をそれまでのモスクワ大公国からロシア帝国と改めた。

 トルコに対してはアンナ(在位1730〜40)の治世に、黒海北方の一部を奪い、アゾフ海黒海北東の海域)への港を確保。さらにもう一人の“大帝”エカチェリーナ二世(在位1762〜96)の時には、クリミア半島を含む北岸地域を広く獲得し、クリム・ハン国の脅威は取り除かれた。エカチェリーナはまた三次に亘るポーランド分割により、キエフ以西のウクライナベラルーシリトアニアを領有した。

 この18世紀にロシア国家と周辺諸国の実力が逆転し、ロシア人は長い間感じてきた圧迫を忘れることが出来たように見える。この繁栄の結果、19世紀初頭にはプーシキンゴーゴリのような文学者も現れ、近世文化の黄金期を謳歌することになる。しかしこの間に、西欧では産業革命につながる経済の発展が進んでいた。経済の動きがそれまでより激しくなると、その動きについていける政治が求められて、体制転換を促す圧力となる。こうした中で世紀末にフランス革命が起きると、その影響がロシアにも及ぶこととなった。

 革命期のフランスとロシア帝国の関係は二転三転した。パーヴェル一世(1796〜1801)は当初イギリスなどとの反仏同盟に参加して戦い勝利もあったが、99年にナポレオンが第一統領となると、翌年にはフランスと反英同盟を結んだ。1801年、パーヴェルが弑殺されてアレクサンドル一世(1801〜25)がツァーリの座を奪うと、05年にはイギリスと同盟してフランスと戦ったが戦況は悪く、07年に講和条約を結んだ。ロシアは08年、スウェーデンに転戦して翌年にはフィンランドを獲得した。

 12年、ナポレオンは結局兵を進めてロシアに侵攻した。ロシアの農民は農奴制のもとで厳しい生活を強いられていたので、ナポレオンは自身が解放者として迎えられることを期待した。だがロシア人は上下結束して抗戦し、ナポレオン軍を押し返した。この勝利の結果として、アレクサンドルは15年のウィーン会議ポーランドそのものを帝国の版図に加えた。

 アレクサンドルは内政改革にも着手したものの進まず、晩期にはかえって反動を起こして、政治の方針をめぐり国内に亀裂を生じさせた。

 ニコライ一世(1825〜55)の治世は、立憲制の導入を主張した将校たちの示威行動を鎮圧することから始まったが、一方でツァーリ専制のもとでの漸進的な改革は進められた。国内は強い権力によって安定し、対外的にはヨーロッパの革命運動に目を光らせ、実際にオーストリア帝国を支援してハンガリーに出兵もした。だが産業革命が進行した西欧との差は大きくなっていた。

 南方ではオスマン=トルコ帝国が先進性を失って衰退しつつあり、フランスと妥協してエルサレムに於けるカトリック教会の権利を認めた。これはもともとギリシャ正教会のものだったため、正教を擁護するロシアとの間に紛争を起こした。53年、ロシアはトルコとの緒戦には勝利したものの、イギリスとフランス、オーストリアがトルコの側に立って参戦すると戦況は悪化した。英仏連合軍はクリミア半島を攻め、55年に要衝セヴァストーポリを陥れた。

 アレクサンドル二世(55〜81)の治世は和平交渉から始まった。56年にパリで講和条約の締結をみたが、ロシア帝国黒海北西のベッサラビア地方の領土と、黒海に於ける権益やトルコ領内の正教徒に対する保護権を失った。国家の威信は内外で大きく失墜し、戦費の負担によって経済は混乱した。こうして西方でのロシア帝国の拡張は頭打ちとなるが、前世紀以来の中央アジアへの進出は続き、インドのイギリス領に接近した。

 クリミア戦争の失敗により変革の必要性を痛感させられたロシア帝国政府は、農奴の解放を柱とする経済と行政の大改革を断行した。アレクサンドル二世は君主権を制限することは考えず、むしろツァーリが偉大であってこそ、遅れを取り戻すために障害となるものを取り除けると信じた。ただし現実には農奴制こそツァーリ専制を支える裾野だったのであって、この解放は自ら足もとを掘り崩すことになり、社会全体に動揺を招いた。農奴性は確かに苛烈に農民を拘束したが、同時に牧歌的な村落の中に人々を保護する面もあった。資本主義的経済の発達は伝統的共同体の破綻を必要とし、改革を進めるツァーリに反対する革命運動は、かえって民衆の共同体を墨守しようとして、急進的な社会主義と結び付いた。

 19世紀後半は、革命運動を抑えて、ツァーリのもとでの政治改革と経済成長はあるていど成功した。トルコ領ブルガリアで反乱が起きると、77年にロシア人は同じスラヴ民族を助けるというわけで、オスマン=トルコ帝国との戦争に入った。ロシアはトルコには勝つことができたが、戦後の外交に失敗して、勝利を活かすことができなかった。経済の成長は続いたものの、あるいはそれだからこそ、不満の燻りと革命の火は消えなかった。

 ニコライ二世(1894〜1917)は、この困難な状況に対しては十分に有能な政治家ではなかった。経済の発展は、自由競争の結果として成功した資本家が、世襲制度に守られた王侯貴族に取って代わり、政治をも主導すべきだという自由主義運動を、ロシアにも芽生えさせた。しかし労働者は資本家に搾取されたし、農民はなお貧しいままで、経済的格差が政治的分裂を作っていた。社会主義運動には穏健派もあったが、農民層の支持は農村に寄り添った活動をした急進派の社会革命党に集まっていた。社会民主党レーニン派(ボリシェヴィキ)、のちのソ連共産党はまだ潜伏していた。(続く)