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一字の考察「餅」

 「へい」という漢字を日本では「モチ」に当てている。おモチは米を粒のまま搗いて作るから、穀物の粒食の一種と言える。ところが現代中国語のビン麺粉こむぎこを捏ねて作るものを指す。これは昔からそうで、後漢の劉熙が編んだ《釈名》に

餅,并也,溲麫使合并也。

 許慎の《説文解字》にも

餅:麪餈也。从食并聲。

 とある。麪(麺)は麦の粉を指す。へいにはパンとかナンの類を含む。

 では中国には日本のモチのようなものはないのかと思って、手もとの講談社日中辞典を引くと、モチは「年糕ニェンガオ」だと出ている。そこで中国語版の維基百科ウィキペディアで年糕の項を見ると、これには多くの種類があるが、普通は米粉から作る。だから団子とかういろうに近いものである。しかしその中にあって、糍粑スーバーとも呼ばれる湖南年糕は、蒸した米を臼で舂いて作り、日本のモチに近い。糍粑は苗族など少数民族の文化だと云う。

 中国では、穀物の粉食は、張騫の西域探検以後に西アジアからの影響で徐々に広まったと推測され、後漢後期から三国時代にかけて主食として定着した。粉食が知られると、それまでは粗末な穀物として扱われた麦の地位が上がり、特に発酵させることで風味や栄養が向上して主食に適する。魏・晋の頃にはすでにパン類がかなり食べられていたらしく、倭人へいを食べる機会もあったに違いない。つまり日本ではパンのようなものは明治以降に西洋から移入された新しい文化だと思われているが、古代にはすぐそこまでやって来ていたのだ。

 日本には、中国から多くの文物を摂取したように、へいが入る機会もあった。しかしそれは実際には全く入らなかったか、またはいくらか入ったとしても定着はしなかった。日本にはへいに当たるものがなく、漢字にはモチに宛てられるものが他になかった。そこで餅がモチを示すことになった。へいは普通平円形に作り、その形状のものの形容詞としても使われるので、その限りにおいて鏡餅のようなモチには相応しい。

 日本での粉食はウドン類が古くから定着したが、広く一般に食べられるようになったのは江戸時代まで下ると云われる。饅頭は14世紀に中国から入ったとされるが、食事になるものは廃れて、菓子としてのものだけが残った。いずれも間食や代替食として扱われる。日本では伝統的に主食になる粉ものがない。これはおそらく食料環境の違いによると思われる。パン類には動物性の油脂や肉が適するが、日本では魚介類が豊富に採れるので、タンパク源のために畜産に努力する動機に乏しかった。魚介類には粒食の方が合い、特にコメが最も良いということだろう。

 このことは要するに、人間の違いではなくて住む所の違いである。

 およそサルというものは、同じ種であれば離れた棲息地でも同じ構造の社会を作るそうだ。ヒトも基本的には同じだが、ただ応用性がいくらか高いので、様々な環境や経緯によって異なる社会や文化を作り、その積み重ねが各国各地の特色ある歴史になる。それは、球をコンクリートに投げたときと布団に落としたときとでは跳ね返り方が変わるようなもので、力学的原理が国や地域によって違うということはない。