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時事通信”中国の習主席、ゼロコロナ「勝利宣言」”報道は誤読

2022年12月31日付で、時事通信は「中国の習主席、ゼロコロナ「勝利宣言」 防疫は新段階に」と題する記事を配信した。こうある。

【北京時事】中国の習近平国家主席は12月31日、新年を迎えるに当たり恒例のテレビ演説を行い、新型コロナウイルスの感染拡大を徹底的に封じ込める「ゼロコロナ」政策を巡り「未曽有の困難に打ち勝った」と事実上の勝利宣言をした。

この「事実上の勝利宣言」という表現には少し驚いた。というのは、わたしはこれを見るより前に、中国国際放送(CRI)日本語部による全文翻訳「習近平国家主席が2023年新年の挨拶を発表」にざっと目を通していたが、「勝利宣言」というような内容を読んだ憶えはなかったからだ。CRI は中華人民共和国の国営対外報道機関であり、その翻訳は同国政府の公式のもの受け取ってもよい。CRI 日本語部には日本語をかなり闊達にしゃべる中国人が在籍し、日本人も数名雇傭されているし、立場からも政権の意図に違うような翻訳を出すことはまずありえないだろう。

その公式訳より、COVID-19 対策について言及した段落を引用する。

感染症の拡大以来、私たちは終始一貫して「人民至上」「生命至上」の理念を貫き、科学的かつ的確な感染対策を堅持し、状況の変化に応じて感染対策を調整し、人民の生命の安全と健康を最大限に守ってきました。医療関係者をはじめとする多くの幹部や大衆、社会の末端組織のスタッフたちは艱難辛苦を顧みず、果敢に持ち場をしっかりと守り、きわめて苦しい状態にあっても努力を続けることで、未曾有の困難と試練を乗り越えました。皆さん、本当にお疲れさまでした。現在、感染対策は新たな段階に入り、依然として正念場が続くこの時期に、誰もが堅忍不抜の意志で臨んでいます。まもなく光は見えるでしょう。皆さん、もう少しだけ頑張ってください。団結しやり抜くことで、初めて勝利は収められるのです。

他の日本語の報道で同じことについて扱った記事の見出しを挙げると、その印象にはある程度の幅が認められる。

そこで(現代中国語がすらすら読めるというほどではないけど)原文を確かめてみる。「独家视频丨国家主席习近平发表二〇二三年新年贺词」という記事だ。こうある。

疫情发生以来,我们始终坚持人民至上、生命至上,坚持科学精准防控,因时因势优化调整防控措施,最大限度保护了人民生命安全和身体健康。广大干部群众特别是医务人员、基层工作者不畏艰辛、勇毅坚守。经过艰苦卓绝的努力,我们战胜了前所未有的困难和挑战,每个人都不容易。目前,疫情防控进入新阶段,仍是吃劲的时候,大家都在坚忍不拔努力,曙光就在前头。大家再加把劲,坚持就是胜利,团结就是胜利。

このなかで時事通信の記者が「勝利宣言」と解釈したのは、「我们战胜了前所未有的困难和挑战」という部分であるようだ。これを漢文の読み下し風にすると、「我ら前に未だ有らざるところの困難と挑戦に戦勝せり」といったところだろうか。「战胜」は「戦勝」の簡体字(形声による簡化字体)で、「打ち勝つ」「打ち負かす」という意味合いに使われる。その下に「了」が付いているので「打ち勝った」と訳したくなるだろう。しかし文脈を読めばこれはむしろ「打ち勝ってきた」という経過を言おうとしているのであり、最終的に「勝利した」というのではないと思う。公式訳で「打ち勝つ」という定訳を避けて「未曾有の困難と試練を乗り越えました」としているのは意味があるようだ。

また、この段落では COVID-19 が流行する状況全般についてというような言い方をしていて、いわゆる「ゼロコロナ政策」に関してはぼかした論理構造になっている点にも注意が必要だ。習氏はおそらく「ゼロコロナ政策」が「失敗したのではないか」と指摘されるような点をぼかしたいと思ったので、それが成功したと直接的に言うことも避けたのではないだろうか。

「勝利」という熟語は、もちろん古典中国語から日本語が借用した語彙の一つだが、現代中国語でもそのまま使われていて、簡体字で「胜利」と表記される。そのものずばり「胜利」という語は、この段落の末尾に二回、「坚持就是胜利,团结就是胜利」とある。これは「(もし)堅持すれば勝利し、団結すれば勝利する(だろう)」という、将来への条件付き見通しの表現であり、逆に言えばまだ勝利はしていないということになるから、ここからも前の「戦勝」が「事実上の勝利宣言」と強調するほどのものでないことが明らかとなる。公式訳では両句をまとめて「団結しやり抜くことで、初めて勝利は収められるのです」としている。

さて翻訳というものは逐語的に辞書通りにすれば良いというものではなく、特定の文脈におけるそれぞれの語の位置付けを読み取り、関係する言語間の語用論的および文法論的特徴の違いをも考慮しなければならない。その点でこの CRI の翻訳はかなりこなれたものであるのに対して、時事通信の記者は機械翻訳にでも基いて記事を書いたのではないかと疑われる。習政権には批判されるべきところがあるにしても、誤読からは正確な批判は生まれない。

ロシア史の概略(3/3)革命・戦争・世界

 1904年に日本の攻撃を受けて始まった戦争によって、翌年にロシアは極東に於ける権益の多くとサハリン島の南半を失う。それより前、遠距離の戦力輸送による負担がのしかかるさなか、05年1月に「血の日曜日」事件が起きたのをきっかけに、広汎な革命運動の盛り上がりをみせた。これは次第に沈静化しながら、06年の立憲制導入と議会(ドゥーマ)の設立につながるものの、憲法体制はすぐ機能不全に陥った。

 14年、サラエヴォオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に殺害され、オーストリア=ハンガリー帝国セルビアが対立すると、ロシアはやはり同じスラヴ人というわけで、セルビアを支援する。オーストリアの背後にあったドイツはロシアに宣戦布告し、イギリスとフランスはロシアの側に立って参戦した。

 この第一次世界大戦は初め、ロシアの混乱していた内政を引き締めるのに役立った。しかしヨーロッパ第一の工業国となっていたドイツに対して、ロシアの経済力では耐えられず、戦況は悪化して、16年までにリトアニアポーランドを奪われた。国内では経済が疲弊し、労働放棄が各地で続発した。17年2月、ペトログラート(ドイツ語風のサンクト=ペテルブルクから14年に改称)で労働者が「パンをよこせ」と叫んで行進した。かつて「血の日曜日」事件は、軍隊がツァーリに忠実だったため大事に至らなかったが、今度は兵士たちがすでに厭戦気分に倦んでおり、丸腰の市民に対する発砲命令の結果に耐えられず、かえって労働者の側に付いた。

 議会は革命を受け入れ、ニコライ二世は3月2日に退位に追い込まれて、300年続いたロマノフ王朝は断絶し、臨時政府が発足した。戦争はまだ続いていて、戦況は臨時政府への信任をも失墜させる。クーデタや民族主義運動も噴き出す中で、国家社会主義体制の構想を固めたレーニン派の”ボリシェヴィキ(多数派を意味する)”が急速に勢力を伸ばし、10月に政権を獲得する。ボリシェヴィキ政権はドイツとの終戦を急ぎ、18年3月に講和してフィンランドやバルト諸国、ウクライナなどを手放した。しかしこれまでのロシアの犠牲は、ドイツに対する英仏両国の戦線をかなり救った。

 対外戦争は終わったが、国内ではボリシェヴィキと仲違いした社会革命党や、帝政派などが蜂起してレーニン政権に対抗した。さらに第一次大戦のためにロシア領内に部隊や物資を置いていたイギリスやフランス、アメリカなどが革命に干渉しようと行動し、あわよくば好都合な政権を作ろうと狙った。極東では日本もこれに加わった。欧米諸国は二年程度で手を引いたのに対して、日本は四年間も軍を駐めた。

 22年、ロシアはウクライナ、ベロルシア(ベラルーシ)、ザカフカスコーカサス)に成立した各ソヴィエト社会主義共和国と、ソヴィエト社会主義共和国連合を結成した(ソヴィエトは“評議会”を指す)。数年のうちに中央アジアに成立したソヴィエト政権もこのソ連に加わった。ソ連は建前としては独立した共和国の連合体であり、離脱も自由にできるとしたが、実際にはソ連共産党を頂点とする強力な中央集権制が作り上げられた。

 各共和国の中には、少数民族自治のためということで、さらに小型の“共和国”が設けられる例があった。ロシア共和国の管内で、クリミア半島にはクリミア・タタール自治共和国が置かれた。

 レーニンは革命の好機を気長に待つ粘り強さを持ち、権力の掌握にあたっては天才的な手腕を発揮した。政治思想としては急進的社会主義共産主義)が必要だと考えていたが、実行のために現実と妥協する柔軟性も持ち合わせていた。

 経済思想としての社会主義はもともと、マルクスによって資本主義の段階が爛熟し自壊したあとに到来するものとして考えられていた。つまり資本主義経済が変化した、後期の形が社会主義経済であって、その限りに於いて両者は矛盾する概念ではない。また政治思想としても民主主義と対立するものではなかったし、むしろ資本主義(自由主義)こそは資本家による支配を許し、民主制を壊すとも見られていた。

 しかし急進的な、原理主義的な社会主義、つまり「どうせそうなるのだから直ちに実現しよう」とか、「立ち遅れたロシアであればこそ、資本主義の段階を省略して到達できる」などと短絡することから間違いが起こる。社会主義は平等を特色とするが、国家によって強制的に平等を実現しようとすると、経済を調整するために超越的な権力が必要になり、その権力を担う層が特権階級となることで平等が破られる。もっともその任に当たる人が適当に交替していれば問題はまだしも小さいかもしれないが、しかし人には欲望があり、その手にはすでに権力があれば、特権を永続化しようとするだろう。(この点、自由主義も極端になれば自由が失われるのと対称の関係にある。)こうして民主主義を欠いた強権的社会主義体制が現れる。

 この共産主義の矛盾を利したのがスターリンだった。レーニンスターリンの危険性に気づいていたが、スターリンは巧妙に振る舞って忠実な後継者を演じ、実際にはソ連を大きく変質させた。レーニンが各民族の文化を尊重する方針を持っていたのに対して、スターリンにはロシア偏重主義の傾向があったが、興味深いことに本人はサカルトヴェロ(ジョージア)出身だった。

 確かにソ連の計画経済は、その初期の段階にあっては、遅れた経済を発展させるのに有効だったように見える。第二次世界大戦では大きな打撃を受けながらも、急拵えの工場で世界最強の戦車を生産し、ヒトラーのドイツ軍を押し返して、ベルリンに一番槍を付けた。終戦までにソ連は、戦前すでにドイツとの妥協によって勢力下に入れたバルト諸国に加えて、ポーランドに取り込まれていたベラルーシ西部やウクライナ西部などを獲得した。

 極東では米英との合意に基いて対日参戦に踏み切った。アメリカはソ連に千島などを取らせると約束しながら、電撃的に原子爆弾を使って日本の降伏を早めようとし、同時にソ連を威嚇して戦後の国際関係を有利にしようとした。スターリンからすれば米軍はソ連を待つべきであり、報復の意味も込めて真珠湾攻撃の基地として知られた択捉島を確保する必要を感じたろう。ソ連はかなり慌ただしく進軍し、日本領千島列島やサハリン島南部などを占領した。この際、当時の千島支庁の管内を越えて歯舞諸島まで駒を進めたのは、準備不足が原因だったらしい。

 戦争が終結すると、クリミアのタタール人は、ナチに協力したとされ、民族まるごと遠方に移された(公平のために言っておくと、日本もロシア国家との関係上何度か国境を変更する過程で、樺太と千島のアイヌ人を事実上強制的に移住させ、悲惨な結果を招いたことがある。これに限らず、少数派の権利は多くの国で抑圧されていた。)。主人なきクリミアは54年、ウクライナの管轄に移された。

 共産主義者にとっての大きな誤算は、19世紀末にはすでに限界が見えたと思われた資本主義経済が、権力による適度な調整(反トラスト法のような)を加えることで、意外にも長続きし始めたことであり、また国家社会主義による経済が絵に描いたようにはうまく回らないことだった。20世紀後半になると、ソ連の経済はその計画性がむしろ足かせとなって、またも大きく後れを取るようになり、アメリカとの軍拡競争に耐えられなかった。

 1991年、ソ連は解体され、ロシア連邦をはじめとして、15の共和国が独立した。クリミア半島はこの時に初めて、独立国としてのウクライナの領土になった。

 評して言う。歴史を振り返ると、ロシアとウクライナの分裂は、13世紀のリトアニアによる侵略から始まった。もともと両者にわずかな地方的な違いはあったとしても、文化や言語は共通だったと言って良く、外力による分割がもしなければ、紆余曲折はあれ一つの国にまとまっていった可能性は高い。約500年後にロシア帝国ポーランドからウクライナを回収したが、そもそもリトアニアの行為はあるべきでなかったと認めるならば、再び統合されるのは当然だったという見方もできる。

 しかし現実がそう簡単にいかないという理由としては、第一に征服されたことで濃厚にヨーロッパ化したウクライナと、タタールの影響でアジア的性格も併せ持ったロシアの差が挙げられる。第二にはウクライナ人がカトリック教の影響を受けたことで、正教のロシア人とは宗教観の違いができたことが言える。第三にはこの時期が近代的な国民国家の下地ができてくる頃合いで、別々の国民意識が形成されたということがある。ともあれリトアニアポーランドによる征服が、ルーシの統一をほとんど永久に阻み、この先も長く続くだろう問題を作り出したことになる。

 クリミア半島に関しては、もとより黒海北岸地域は遊牧の適地で、農耕的なスラヴ人が古くから定着したものではない。領有権に歴史的根拠を求めるなら、ウクライナにとっても強いものではなく、ロシアの強引な手法に問題はあっても、その主張自体を否定できることにはならない。もっともこうしたことは遡れば切りがなく、理屈ではたとえばトルコも権利を主張できることになる。しかし個人的にはクリミア・タタールの権利が尊重されない限り、領有権など問題どころではないと考える。

 似たことは千島列島についても言える。日本とロシアがどのように領有権を主張しようとも、その根拠は19世紀半ばより前に遡るものではなく、先住民が隷属視された状況の上に成立したものである。

 領土問題の根本は、何を以て正しいと認めるかという基準が確かにならない所にある。確かでないことを正しいと思おうとするから、強い信念が必要になり、信念に執らわれるから、反対する主張は耳に入らないという呆けた態度になる。相手の言うことを聞かないから、交渉自体が不可能になり、結局は実効支配が既成事実になるのを、黙って承認するのと同じことになるだろう。

 ロシアの北大西洋条約機構NATO)の拡大に対する警戒については、繰り返し侵略や圧迫を受けた経験から、歴史によって実証された意識に根ざしたものであり、かつてロシアに対して手出しをした諸国が小手先の対応をしても、根本的な解決を図れるものではないと言われなければならない。特にロシア人が近代国家を立ち上げようとする時期に、諸国が軍事的干渉をしたことは古傷をえぐるのに十分であり、今に至るまでその体制に基礎的な警戒心を植え付ける結果を招いたことは理解する必要がある。

ロシア史の概略(2/3)ロシア帝国の繁栄と没落

 1584年、雷帝が死ぬと、皇太子フョードルが即位したが、病弱であったため、実権は義兄に当たるボリス・ゴドゥノフが握った。98年にフョードルが死ぬと、全国会議はゴドゥノフをツァーリに推挙したが、これがまた権力闘争のきっかけとなり、飢饉なども重なって動乱期となった。

 スウェーデン帝国とポーランド王国はこの機会にロシアを蚕食しようと狙い、闘争に干渉しつつ侵攻を始めた。1610年、ポーランド王ジグムント三世は、軍を発してモスクワを占拠し、その王子をツァーリの座に即かせようとした。しかしこの強欲な計画はポーランドカトリック教国だったこともあって、正教のロシア人の強い反発を招いた。ロシア人はスウェーデンポーランドの介入を却け、ゴドゥノフに弾圧されたロマノフ家のミハイルが、13年に全国会議によってツァーリに推挙された。しかし介入によって奪われた領土の一部は取り返すことが出来ないままになった。

 ロマノフ王朝のもとで、ロシアは大きく発展した。ポーランドに対しては、蜂起した現地のカザークから要請を受けて出兵し、1686年までにウクライナ地方のキエフ以東を取り返した。東では、シビル・ハン国を抜いてしまえば、もうロシアに対抗しうるような勢力はなく、17世紀末までには太平洋への出口を確保した。しかし南ではクリム・ハン国がオスマン=トルコ帝国に支えられてウクライナ南境を脅かしていたし、極東では清の戦力によって領土の拡張はアムール川でとどめられた。

 ピョートル一世“大帝”(在位1682〜1725年)は89年に実権を掌握すると、内政面では軍制、工業、統治機構などを急激に改革した。南方では黒海方面にトルコ、カスピ海方面ではペルシャと戦い、一時的な勝利はあったがあまりうまくいかなかった。しかし北方ではスウェーデンを押し返し、1721年までにリガ以北のバルト海沿岸やカレリアに領土を広げ、ヨーロッパ風の新都市サンクト=ペテルブルクを建設した。大帝は「インペラートル(エンペラー)」の尊号を奉呈され、国号をそれまでのモスクワ大公国からロシア帝国と改めた。

 トルコに対してはアンナ(在位1730〜40)の治世に、黒海北方の一部を奪い、アゾフ海黒海北東の海域)への港を確保。さらにもう一人の“大帝”エカチェリーナ二世(在位1762〜96)の時には、クリミア半島を含む北岸地域を広く獲得し、クリム・ハン国の脅威は取り除かれた。エカチェリーナはまた三次に亘るポーランド分割により、キエフ以西のウクライナベラルーシリトアニアを領有した。

 この18世紀にロシア国家と周辺諸国の実力が逆転し、ロシア人は長い間感じてきた圧迫を忘れることが出来たように見える。この繁栄の結果、19世紀初頭にはプーシキンゴーゴリのような文学者も現れ、近世文化の黄金期を謳歌することになる。しかしこの間に、西欧では産業革命につながる経済の発展が進んでいた。経済の動きがそれまでより激しくなると、その動きについていける政治が求められて、体制転換を促す圧力となる。こうした中で世紀末にフランス革命が起きると、その影響がロシアにも及ぶこととなった。

 革命期のフランスとロシア帝国の関係は二転三転した。パーヴェル一世(1796〜1801)は当初イギリスなどとの反仏同盟に参加して戦い勝利もあったが、99年にナポレオンが第一統領となると、翌年にはフランスと反英同盟を結んだ。1801年、パーヴェルが弑殺されてアレクサンドル一世(1801〜25)がツァーリの座を奪うと、05年にはイギリスと同盟してフランスと戦ったが戦況は悪く、07年に講和条約を結んだ。ロシアは08年、スウェーデンに転戦して翌年にはフィンランドを獲得した。

 12年、ナポレオンは結局兵を進めてロシアに侵攻した。ロシアの農民は農奴制のもとで厳しい生活を強いられていたので、ナポレオンは自身が解放者として迎えられることを期待した。だがロシア人は上下結束して抗戦し、ナポレオン軍を押し返した。この勝利の結果として、アレクサンドルは15年のウィーン会議ポーランドそのものを帝国の版図に加えた。

 アレクサンドルは内政改革にも着手したものの進まず、晩期にはかえって反動を起こして、政治の方針をめぐり国内に亀裂を生じさせた。

 ニコライ一世(1825〜55)の治世は、立憲制の導入を主張した将校たちの示威行動を鎮圧することから始まったが、一方でツァーリ専制のもとでの漸進的な改革は進められた。国内は強い権力によって安定し、対外的にはヨーロッパの革命運動に目を光らせ、実際にオーストリア帝国を支援してハンガリーに出兵もした。だが産業革命が進行した西欧との差は大きくなっていた。

 南方ではオスマン=トルコ帝国が先進性を失って衰退しつつあり、フランスと妥協してエルサレムに於けるカトリック教会の権利を認めた。これはもともとギリシャ正教会のものだったため、正教を擁護するロシアとの間に紛争を起こした。53年、ロシアはトルコとの緒戦には勝利したものの、イギリスとフランス、オーストリアがトルコの側に立って参戦すると戦況は悪化した。英仏連合軍はクリミア半島を攻め、55年に要衝セヴァストーポリを陥れた。

 アレクサンドル二世(55〜81)の治世は和平交渉から始まった。56年にパリで講和条約の締結をみたが、ロシア帝国黒海北西のベッサラビア地方の領土と、黒海に於ける権益やトルコ領内の正教徒に対する保護権を失った。国家の威信は内外で大きく失墜し、戦費の負担によって経済は混乱した。こうして西方でのロシア帝国の拡張は頭打ちとなるが、前世紀以来の中央アジアへの進出は続き、インドのイギリス領に接近した。

 クリミア戦争の失敗により変革の必要性を痛感させられたロシア帝国政府は、農奴の解放を柱とする経済と行政の大改革を断行した。アレクサンドル二世は君主権を制限することは考えず、むしろツァーリが偉大であってこそ、遅れを取り戻すために障害となるものを取り除けると信じた。ただし現実には農奴制こそツァーリ専制を支える裾野だったのであって、この解放は自ら足もとを掘り崩すことになり、社会全体に動揺を招いた。農奴性は確かに苛烈に農民を拘束したが、同時に牧歌的な村落の中に人々を保護する面もあった。資本主義的経済の発達は伝統的共同体の破綻を必要とし、改革を進めるツァーリに反対する革命運動は、かえって民衆の共同体を墨守しようとして、急進的な社会主義と結び付いた。

 19世紀後半は、革命運動を抑えて、ツァーリのもとでの政治改革と経済成長はあるていど成功した。トルコ領ブルガリアで反乱が起きると、77年にロシア人は同じスラヴ民族を助けるというわけで、オスマン=トルコ帝国との戦争に入った。ロシアはトルコには勝つことができたが、戦後の外交に失敗して、勝利を活かすことができなかった。経済の成長は続いたものの、あるいはそれだからこそ、不満の燻りと革命の火は消えなかった。

 ニコライ二世(1894〜1917)は、この困難な状況に対しては十分に有能な政治家ではなかった。経済の発展は、自由競争の結果として成功した資本家が、世襲制度に守られた王侯貴族に取って代わり、政治をも主導すべきだという自由主義運動を、ロシアにも芽生えさせた。しかし労働者は資本家に搾取されたし、農民はなお貧しいままで、経済的格差が政治的分裂を作っていた。社会主義運動には穏健派もあったが、農民層の支持は農村に寄り添った活動をした急進派の社会革命党に集まっていた。社会民主党レーニン派(ボリシェヴィキ)、のちのソ連共産党はまだ潜伏していた。(続く)

ロシア史の概略(1/3)ルーシの分裂と統合

 9世紀頃までに、おおまかに黒海より北、バルト海沿岸より南に定着した東スラヴ民族のまとまりは、ルーシ(古ロシア)と呼ばれた。やがてルーシの諸族はキエフ公国を中心として連合したが、これを歴史上で「キエフ・ルーシ」と称する。その領域は今のロシア連邦のうちモスクワなどを持つ中心部と、ベラルーシウクライナの多くの部分を含んでいた。

 キエフ・ルーシの成立が9世紀末葉であることから分かるように、この地域の政治的統合はヨーロッパからみても非常に遅れていた。周辺の地域に強い勢力が興ると、ルーシの発達の遅れにつけこんで圧迫を加えたり、冦掠することが常だった。

 東からは絶えず騎馬民族の脅威があり、5世紀頃まではフン族によって席巻されたし、6世紀以後もハザール人やブルガール人が爪を突きつけていた。南にはペチェネグ族などが蟠踞し、その背後には強大なビザンツ帝国が控えていた。

 北からは7世紀以後、ノルマン人のヴァリャーグ(ヴァイキング)活動が及んだが、これはまたルーシの政治的統合を進めるきっかけともなった。9世紀、ルーシの諸侯がヴァリャーグから招聘したリューリクという人物が、初めてルーシ全体の君主になったと伝えられている。

 10世紀になるとルーシの勢力は伸張し、965年、スヴャトスラフ公はハザール・カガン国の都に進撃し、大きな打撃を加えた。西南にも領土を拡大し、東欧に定着したブルガール帝国(ブルガリア)と争った。スヴャトスラフの跡を継いだヴラジーミル公は、キリスト教ギリシャ正教を受容した。

 ヴラジーミルの子ヤロスラフ公はキエフ・ルーシを発展させたが、五人の息子に国を分け与えたことから、その後は何世代にもわたる内輪揉めが起こり、ルーシの統合は失われていった。黒海に近い南部の覇権はクマン人に奪われ、中心地であったキエフ公国は衰退したが、北東部の毛皮貿易で成功したノヴゴロド共和国と、新興都市モスクワを擁するヴラジーミル・スーズダリ公国は発展した。

 12世紀初めに、ルーシの文化的発達は『原初年代記(過ぎし歳月の物語)』を成立させるに至った。これは日本の『日本書紀』または『古事記』に相当する成果であって、もしこれを指標として比較すれば、この時点でロシア語の文芸水準は、日本より400年も遅れていた。

 13世紀になると、東からはモンゴル人の帝国が興ってルーシを侵略した。モンゴル人は多数の騎馬民族を従えており、ヨーロッパ側からはタタールと総称された。1236年以後、バトゥ・ハンはリャザン、モスクワ、ヴラジーミルなど、ルーシの主要な都城を次々と冦掠した。キエフはハンへの頁納を拒んで1240年に破壊され、ここにキエフ・ルーシの時代は名実ともに終焉した。1243年、バトゥ・ハンはヴォルガ川のほとり、カスピ海の近くに遊牧都市サライ・バトゥを置き、大モンゴル帝国の一翼を担うキプチャク・ハン国を立てた。キプチャク・ハンはルーシの諸公国に毛皮税を課してきりきりと絞り上げた。

 同じ頃より、西からはバルト海沿岸に進出したドイツ人の騎士団、それにスウェーデン人やリトアニア人が、ルーシを侵略し始めたが、これは十字軍によるビザンツ帝国への侵攻と軌を一にしたもので、宗教的動機により一方的に正当化されていた。西からの攻撃によってノヴゴロド共和国の繁栄も後退した。

 1240年、スウェーデン人とのネヴァ川の戦いで功のあったアレクサンドル“ネフスキー”は、42年にもノヴゴロドをドイツ人の騎士団から救い、後にヴラジーミル大公となってノヴゴロド公を兼ねた。アレクサンドルはキプチャク・ハン国との争いを避けて臣従の態度をとり、かえってその勢威を借りてルーシ諸国を制する地位を得た。

 アレクサンドルが死ぬと、ヴラジーミル大公の位を巡って、モスクワ公とトヴェーリ公の間に、結局数世代に及ぶことになる争いが起きたが、この間にモスクワの勢力が発展した。

 1359年、ドミトリー“ドンスコーイ”がモスクワ公となった時、リトワ大公国(リトアニア)は今のベラルーシウクライナの大部分をすでに併合し、モスクワのすぐ西に迫っていた。リトワ大公オリゲルドは、義理の兄に当たるトヴェーリ公ミハイルと結び、68年から72年にかけて、三たびモスクワを攻撃した。75年、ミハイルがキプチャク・ハンより大公の位を認められると、ドミトリーはトヴェーリに反攻してミハイルを下し、大公の位を奪った。

 1380年、キプチャク・ハン国はドミトリーを屈服させようと、リトアニアやリャザンと結んで軍を興したが、ドミトリーはこれをドン川のほとりクリコヴォ平原で迎え撃って破った。これがタタール人に対するロシア人の最初の勝利だった。しかしこれ以後もタタール人はロシア人を脅かし続けたが、89年にドミトリーは死に際して、初めてハンの承認を得ずに、公子ヴァシーリーにモスクワ大公の位を譲った。ドミトリーとヴァシーリーの代に、モスクワ大公国の領地は拡大し、全ルーシの中心としての地位を揺るぎないものとした。

 キプチャク・ハン国は15世紀に入ると分裂し始め、ヴォルガ川中流カザン・ハン国カスピ海の北にアストラハン・ハン国、黒海の北にクリム・ハン国(クリミア)などが出来る。

 1462年、モスクワ大公にイヴァン三世“大帝”が即位した。キプチャク・ハンはイヴァンが三年間滞納した貢献をもう取り立てることができなかった。イヴァンは「全ルーシの大公」と名のり、時に「ツァーリ」とも称した。ツァーリとはこれまでロシア人がキプチャク・ハンやビザンツ皇帝に対して用いた尊号であり、もはや他の帝国の風下には立たないという意志を表したものだった。

 トヴェーリ、リャザン、ロストフその他のルーシの諸公国やノヴゴロド共和国は、モスクワの覇権に反対し、リトアニアと結んで抗おうともしたが成功せず、多くが併呑されてロシア帝国の原型が完成した。実際に「ロシア」という呼び方はこの時期に初めて用いられたらしい。

 1480年にはタタール人の最後の侵攻を退け、晩年にはリトワへの逆襲も企てたが、ついに果たさなかった。

 1505年、イヴァン三世の跡継ぎヴァシーリー三世がモスクワ大公となると、カザン・ハン国、クリム・ハン国、リトワ大公国、リヴォニア騎士団がロシア国家の興隆を妨げようと結託する動きを見せた。ヴァシーリーは四方の敵と争う一方、まだ併合されずに残っていたルーシの諸国を統一した。

 1533年にヴァシーリー三世が死ぬと、世子イヴァン四世“雷帝”はまだ三歳であったため、大貴族たちが実権を握ろうと血で血を洗う争いを起こした。47年に正式に戴冠式を行ったイヴァン四世は、その時点から正式にツァーリと称した。雷帝の治世の課題は、内には大貴族の勢力を奪って君主権を拡大することであり、外にはともするとロシアを侵略しようと狙う周辺諸国に逆襲することだった。

 雷帝は内政では大鉈を振るって改革を断行し、権力の集中を進めた。外政では50年代、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、それにシビル・ハン国(シベリア)を次々と攻略し、これまで長い間不安の種だった騎馬民族の脅威を大きく取り除いた。シビル・ハン国に差し向けられたカザーク(コサック)の頭領イェルマークは、この戦いで長銃を活用したが、これは織田の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を破ったのとほぼ同時期のことだった。

 しかし西方では、スカンジナヴィアを制覇する勢いのスウェーデン帝国や、ベラルーシウクライナを占領し続けるリトワ大公国と戦争を起こして、勝利を得ることが出来なかった。そのリトワもポーランド王国に併合され、ベラルーシウクライナポーランド領となる。黒海北岸にはまだクリム・ハン国があり、その背後は強大なオスマン=トルコ帝国によって支えられていた。(続く)

流し読みでも解る中国古代文明史

 ○殷周時代

 殷から周の前期は、まだ古代文明の原初的な段階であった。「古には万国あり」といわれたように、黄河中流域の中国(中国とは王都を指した)を中心に、数多くの都市国家(城市)が並立した。

 メソポタミア文明がそうであるように、古代文明は自然の貧しい土地に早く発達する。付け加えるなら、自然は貧しいが人々の協働によって大きい農産を挙げうる地域である。もともと自然の産物には乏しいため、穀物は余っても物品は不足し、周辺との貿易を必要とする。それで文明の種が蒔かれて、多くの国が生まれていく。

 多くの小国が互いに平等の権利しか持たないと、争いが起きても収めることが難しい。そこで秩序の中心となったのが殷であり、後には周がこれに代わった。諸国は殷や周を盟主として臣従することで互いの均衡を保ち、城市間に訴訟があると殷や周の王がこれを裁いた。時に従わない国があると、王の号令一下、同盟してこれを討った。

 この時期には、人々はほとんど共同体の一部としてのみ自己を認識し、自我は希薄であった。社会の変化もまだ緩慢であったので、世代間の違いもほとんど無かった。営養は穀物に多くを頼ったので、寿命は短かったが、親世代から子世代へと魂を移しながら永遠に生きるかのような錯覚を持ち、人生の儚さを嘆くようなことは無かったと思われる。

 ○春秋戦国時代

 周の後期に入ると、各地方で国が国を併合して成長し、相対的に盟主国の影響力は小さくなっていく。もはや中国に万国が臣従する秩序は価値を失い、天下は国家間の自由競争に委ねられつつある。孔子は周の全盛期の秩序を礼と呼び、礼が失われることを防ごうとしたが、そもそもは周が殷を亡ぼしたことが失礼の始まりであったのだ。

 この時代に、「士」と呼ばれるような人間像が現れてくる。士とは本来、卿士大夫というように、貴族階級を指すが、身分が高いために自由が多い。転じて、貴族ならずとも自由に生きる人を士と呼ぶ。古代的個人と言っても良い。前時代の共同体が崩壊したことで、強くさえあれば自由に生きることが可能になったのである。

 このような自由主義の世界は、一面では戦争を起こしやすい状態でもある。強い国は弱い国を併呑してさらに大きくなり、角逐してこもごも天下に覇を唱え、はてには新興国の秦に全て統一される所となった。

 この戦乱の時期に、文明の拡大は加速し、南蛮と呼ばれた長江以南にも大国が立ち、中原の争いに加わった。そのため、秦が天下統一した時には、南の海岸までが版図に加わり、現在のいわゆる漢民族が住む地域があらかた固まった。

 ○秦漢時代

 秦の天下統一は短年月に終わり、漢がこれに代わった。漢は秦の法家主義を骨格とし、周代を象徴する儒家思想を精神として、両道によって体制の支えとした。漢の体制の理念はごく大まかに言えば一君万民であり、皇帝が超越することで他の全てを平等に扱おうというものであった。

 漢の初代皇帝劉邦が逝世し、呂太后が政治を執った時期には、人々は戦乱を忘れて平和を楽しむことができた。この平和は平等主義のたまものであり、新体制が固まることは、士の精神を受け継ぐ自由人には、生きづらい世の中になることでもあった。自由は時に体制との対決を余儀なくさせる。

 司馬遷は、武帝の李陵への厳罰に反対した。義を見てせざるは勇なきなり。自由精神によってこうと思ったことは、たとえ相手が天子でも言わねばならない。その結果、遷は宮刑という屈辱を受ける。仁を求めて仁を得たり、また何ぞ怨みんや。遷は《史記》を編むに列伝を付し、旧世代の士人を顕彰する。

 司馬遷の生き方からは、義憤を表すという公的な自由を貫こうとする立場と、義憤を慎んで私的な精神の自由を楽しもうとする立場が生まれてくる。前者はより儒家的、後者はより道家的と言えるが、両者の境界は曖昧であり、表裏一体とも言える。

 漢の体制も後期になると、中世的貴族層が成長し、上は皇帝の権力を減退させ、下は庶民の利益を吸収するようになる。また、各地域の経済がそれぞれに発達し、統一を維持することが難しくなってくる。これによって漢の体制は土崩して、中国史上の古代史的発展の経過は一巡し、再び乱世を迎えることになった。

 ○まとめ

 中国古代史には、自由主義と平等主義の誕生と葛藤があった。ここから生まれた古典的な「個人」像は、その後の中国人の生き方を規定している。現代中国人に感じる根の強さ、体制に囚われない強かな所は、こうした歴史の裏付けを持っているのであって、国家社会主義を建前とする政治の面からだけ評価しようとしてはならない。

「病を称する」ということ

 病を称する、というのは昔から政治家が何か事情があって引っ込む際の理由付けとして、史書などによく書かれてある。

 喩えばあなたは五十代の会社員であるとする。誰でもそのくらいの年齢になれば持病らしいことの一つや二つは多少なりともある。あなたもかかる責任から胃痛がちである。胃痛なのはいつもなのだが、今やや疲れがあるので休みたい。ただ少し疲れていますでは言いにくい感じがある。そこで「胃痛がちょっと悪化しているので」と言う。これは見ようによっては嘘を吐いたようでもありながら、全くの嘘だとも言えない。言われた側は「病気なら仕方ない」と思うしかない。

 このように病気というのは休んだりする理由として説得力があるので、古くから政治的に利用されて「病を称する」という常套句がある。

 《史記》から例を拾ってみると、

子嬰與其子二人謀曰:「(中略)…我稱病不行,丞相必自來,來則殺之。」

 秦の公子嬰が丞相趙高を殺そうと謀る所、「我病を称して行かざれば、丞相必ずや自ら来、来れば殺さん」。

五月,莒子朝齊,齊以甲戌饗之。崔杼稱病不視事。

 莒国の主君が斉国を訪問し、斉国はこれを饗応したが、「崔杼病を称して事を視ず」。崔杼は見舞いに来た荘公を罠にかけて殺す。

范蠡遂去,自齊遺大夫種書曰:「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。(中略)…子何不去?」種見書,稱病不朝。

 范蠡は越国の大夫種に「狡兔死して走狗烹らる」という有名な信書を送る。「種は書を見、病を称して朝せず」。朝〔動詞〕は王に仕えること。種は反乱を企てているから出ないのだと讒言する者が有り、越王はこれを信じて種を自殺に追い込む。

 ここに見られるように、「病を称する」のは本当の理由を言えない場合、少なくとも隠していると疑われるときに多い。こういう場合に、出来の悪い歴史家でなければ政治家の自己申告を真に受けたりしないので、「病を称する」つまり、「病気だから出られなかった」のではなく、「病気だと言って出なかった」という感じで書いておく。こうしておけば病気が本当の理由であってもなくても嘘にならない。こんな風に微妙な言い方で事実を表す伝統が東洋にはある。

 伝統と言えば「病を称する」という行為そのものも一つの伝統となっていて、日本の明治以降の政治家は東洋的な政治の伝統を軽んじるわりに、こんなことだけはよく連綿と受け継いで今日に至っているわけで、私も自己申告を鵜呑みにするほどウブじゃないのでこんなことを走り書きしてしまったわけだ。

中臣連の輪郭

中臣連という氏族は有名なのでよく分かっているような気がする。後に隆盛を極める藤原氏につながることも、古くから名族であったかのような想像を誘う。しかし、その実は明らかでないことが多い。

日本書紀》によると、天岩屋隠れの所に出る天児屋根命が中臣連の遠祖であるとか、仲哀天皇の時に中臣烏賊津連という人物が現れるけれども、遠い祖先を加増することは広く世に行われているから余りアテにならない。地位が高くなるほど良い先祖も付いたものだ。

その後でどうにか実在の人物であるらしく出てくるのは、欽明天皇の世に鎌子、用明天皇の時に勝海という人があって、ともに物部氏とともに仏教導入に反対した。勝海は物部守屋大連が討たれようとする前に、旗色が悪いと見て陣営を離れ、彦人大兄(敏達帝皇子)に付こうとして殺される。中臣は日和見せねばならないような勢力であった。二人ともパッとしない感じで、後世の中臣氏系図からは抹消されている。

次に現れるのは弥気子という人で、推古天皇の禁中にあって取り次ぎ役をする。《尊卑分脈》を見ると弥気の父は方子、祖父は常磐で、この常磐の時に中臣連を賜り、それ以前は卜部を称していたことになっている。系図は弥気の代から急に具体的になる。それより数代前のことは余り確かではないようである。

弥気子の子が鎌子(前の鎌子の名を襲ったものか)で、後に鎌足と称し、中大兄皇子に重用されて、晩年に藤原姓を賜る。即ち藤原氏の高祖だが、この時はまだ氏族として大きい勢力を持っていたようではない。氏族の勢力を背負うのではなく、個人の才覚で名を顕すという、日本古代史では非常に稀有な例であったろう。

鎌足の伝記は《藤氏家伝》に収められているが、これは言わば藤原氏による”自家自賛”の書であり、空虚な賛辞の連続で、そういった美辞麗句を取り除いてしまうと、残るものが少なく、ナマの鎌足という人物を感じさせる所が少ない。ただ天智天皇の弔事には、切々なるものがあり、両人の密接な関係の実際を窺わせているかもしれない。

書紀の記述は家伝ほどでないとはいえ、やはり鎌足のために、いや不比等のためと言うべきか、その人物を立派めかそうとして事実を歪めたという臭いは拭えない。有名な蹴鞠のくだりはどうも話が出来すぎのようだし、乙巳の変(入鹿の殺害)の場面も精彩があるようで演劇的になりすぎている。このような虚飾を注意深く取り除くことができれば、現実的な泥臭い政争が復元されるのだろう。

参考文献

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 
日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

 
日本書紀〈4〉 (岩波文庫)

日本書紀〈4〉 (岩波文庫)