古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

流し読みでも解る中国古代文明史

 ○殷周時代

 殷から周の前期は、まだ古代文明の原初的な段階であった。「古には万国あり」といわれたように、黄河中流域の中国(中国とは王都を指した)を中心に、数多くの都市国家(城市)が並立した。

 メソポタミア文明がそうであるように、古代文明は自然の貧しい土地に早く発達する。付け加えるなら、自然は貧しいが人々の協働によって大きい農産を挙げうる地域である。もともと自然の産物には乏しいため、穀物は余っても物品は不足し、周辺との貿易を必要とする。それで文明の種が蒔かれて、多くの国が生まれていく。

 多くの小国が互いに平等の権利しか持たないと、争いが起きても収めることが難しい。そこで秩序の中心となったのが殷であり、後には周がこれに代わった。諸国は殷や周を盟主として臣従することで互いの均衡を保ち、城市間に訴訟があると殷や周の王がこれを裁いた。時に従わない国があると、王の号令一下、同盟してこれを討った。

 この時期には、人々はほとんど共同体の一部としてのみ自己を認識し、自我は希薄であった。社会の変化もまだ緩慢であったので、世代間の違いもほとんど無かった。営養は穀物に多くを頼ったので、寿命は短かったが、親世代から子世代へと魂を移しながら永遠に生きるかのような錯覚を持ち、人生の儚さを嘆くようなことは無かったと思われる。

 ○春秋戦国時代

 周の後期に入ると、各地方で国が国を併合して成長し、相対的に盟主国の影響力は小さくなっていく。もはや中国に万国が臣従する秩序は価値を失い、天下は国家間の自由競争に委ねられつつある。孔子は周の全盛期の秩序を礼と呼び、礼が失われることを防ごうとしたが、そもそもは周が殷を亡ぼしたことが失礼の始まりであったのだ。

 この時代に、「士」と呼ばれるような人間像が現れてくる。士とは本来、卿士大夫というように、貴族階級を指すが、身分が高いために自由が多い。転じて、貴族ならずとも自由に生きる人を士と呼ぶ。古代的個人と言っても良い。前時代の共同体が崩壊したことで、強くさえあれば自由に生きることが可能になったのである。

 このような自由主義の世界は、一面では戦争を起こしやすい状態でもある。強い国は弱い国を併呑してさらに大きくなり、角逐してこもごも天下に覇を唱え、はてには新興国の秦に全て統一される所となった。

 この戦乱の時期に、文明の拡大は加速し、南蛮と呼ばれた長江以南にも大国が立ち、中原の争いに加わった。そのため、秦が天下統一した時には、南の海岸までが版図に加わり、現在のいわゆる漢民族が住む地域があらかた固まった。

 ○秦漢時代

 秦の天下統一は短年月に終わり、漢がこれに代わった。漢は秦の法家主義を骨格とし、周代を象徴する儒家思想を精神として、両道によって体制の支えとした。漢の体制の理念はごく大まかに言えば一君万民であり、皇帝が超越することで他の全てを平等に扱おうというものであった。

 漢の初代皇帝劉邦が逝世し、呂太后が政治を執った時期には、人々は戦乱を忘れて平和を楽しむことができた。この平和は平等主義のたまものであり、新体制が固まることは、士の精神を受け継ぐ自由人には、生きづらい世の中になることでもあった。自由は時に体制との対決を余儀なくさせる。

 司馬遷は、武帝の李陵への厳罰に反対した。義を見てせざるは勇なきなり。自由精神によってこうと思ったことは、たとえ相手が天子でも言わねばならない。その結果、遷は宮刑という屈辱を受ける。仁を求めて仁を得たり、また何ぞ怨みんや。遷は《史記》を編むに列伝を付し、旧世代の士人を顕彰する。

 司馬遷の生き方からは、義憤を表すという公的な自由を貫こうとする立場と、義憤を慎んで私的な精神の自由を楽しもうとする立場が生まれてくる。前者はより儒家的、後者はより道家的と言えるが、両者の境界は曖昧であり、表裏一体とも言える。

 漢の体制も後期になると、中世的貴族層が成長し、上は皇帝の権力を減退させ、下は庶民の利益を吸収するようになる。また、各地域の経済がそれぞれに発達し、統一を維持することが難しくなってくる。これによって漢の体制は土崩して、中国史上の古代史的発展の経過は一巡し、再び乱世を迎えることになった。

 ○まとめ

 中国古代史には、自由主義と平等主義の誕生と葛藤があった。ここから生まれた古典的な「個人」像は、その後の中国人の生き方を規定している。現代中国人に感じる根の強さ、体制に囚われない強かな所は、こうした歴史の裏付けを持っているのであって、国家社会主義を建前とする政治の面からだけ評価しようとしてはならない。

「病を称する」ということ

 病を称する、というのは昔から政治家が何か事情があって引っ込む際の理由付けとして、史書などによく書かれてある。

 喩えばあなたは五十代の会社員であるとする。誰でもそのくらいの年齢になれば持病らしいことの一つや二つは多少なりともある。あなたもかかる責任から胃痛がちである。胃痛なのはいつもなのだが、今やや疲れがあるので休みたい。ただ少し疲れていますでは言いにくい感じがある。そこで「胃痛がちょっと悪化しているので」と言う。これは見ようによっては嘘を吐いたようでもありながら、全くの嘘だとも言えない。言われた側は「病気なら仕方ない」と思うしかない。

 このように病気というのは休んだりする理由として説得力があるので、古くから政治的に利用されて「病を称する」という常套句がある。

 《史記》から例を拾ってみると、

子嬰與其子二人謀曰:「(中略)…我稱病不行,丞相必自來,來則殺之。」

 秦の公子嬰が丞相趙高を殺そうと謀る所、「我病を称して行かざれば、丞相必ずや自ら来、来れば殺さん」。

五月,莒子朝齊,齊以甲戌饗之。崔杼稱病不視事。

 莒国の主君が斉国を訪問し、斉国はこれを饗応したが、「崔杼病を称して事を視ず」。崔杼は見舞いに来た荘公を罠にかけて殺す。

范蠡遂去,自齊遺大夫種書曰:「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。(中略)…子何不去?」種見書,稱病不朝。

 范蠡は越国の大夫種に「狡兔死して走狗烹らる」という有名な信書を送る。「種は書を見、病を称して朝せず」。朝〔動詞〕は王に仕えること。種は反乱を企てているから出ないのだと讒言する者が有り、越王はこれを信じて種を自殺に追い込む。

 ここに見られるように、「病を称する」のは本当の理由を言えない場合、少なくとも隠していると疑われるときに多い。こういう場合に、出来の悪い歴史家でなければ政治家の自己申告を真に受けたりしないので、「病を称する」つまり、「病気だから出られなかった」のではなく、「病気だと言って出なかった」という感じで書いておく。こうしておけば病気が本当の理由であってもなくても嘘にならない。こんな風に微妙な言い方で事実を表す伝統が東洋にはある。

 伝統と言えば「病を称する」という行為そのものも一つの伝統となっていて、日本の明治以降の政治家は東洋的な政治の伝統を軽んじるわりに、こんなことだけはよく連綿と受け継いで今日に至っているわけで、私も自己申告を鵜呑みにするほどウブじゃないのでこんなことを走り書きしてしまったわけだ。

中臣連の輪郭

中臣連という氏族は有名なのでよく分かっているような気がする。後に隆盛を極める藤原氏につながることも、古くから名族であったかのような想像を誘う。しかし、その実は明らかでないことが多い。

日本書紀》によると、天岩屋隠れの所に出る天児屋根命が中臣連の遠祖であるとか、仲哀天皇の時に中臣烏賊津連という人物が現れるけれども、遠い祖先を加増することは広く世に行われているから余りアテにならない。地位が高くなるほど良い先祖も付いたものだ。

その後でどうにか実在の人物であるらしく出てくるのは、欽明天皇の世に鎌子、用明天皇の時に勝海という人があって、ともに物部氏とともに仏教導入に反対した。勝海は物部守屋大連が討たれようとする前に、旗色が悪いと見て陣営を離れ、彦人大兄(敏達帝皇子)に付こうとして殺される。中臣は日和見せねばならないような勢力であった。二人ともパッとしない感じで、後世の中臣氏系図からは抹消されている。

次に現れるのは弥気子という人で、推古天皇の禁中にあって取り次ぎ役をする。《尊卑分脈》を見ると弥気の父は方子、祖父は常磐で、この常磐の時に中臣連を賜り、それ以前は卜部を称していたことになっている。系図は弥気の代から急に具体的になる。それより数代前のことは余り確かではないようである。

弥気子の子が鎌子(前の鎌子の名を襲ったものか)で、後に鎌足と称し、中大兄皇子に重用されて、晩年に藤原姓を賜る。即ち藤原氏の高祖だが、この時はまだ氏族として大きい勢力を持っていたようではない。氏族の勢力を背負うのではなく、個人の才覚で名を顕すという、日本古代史では非常に稀有な例であったろう。

鎌足の伝記は《藤氏家伝》に収められているが、これは言わば藤原氏による”自家自賛”の書であり、空虚な賛辞の連続で、そういった美辞麗句を取り除いてしまうと、残るものが少なく、ナマの鎌足という人物を感じさせる所が少ない。ただ天智天皇の弔事には、切々なるものがあり、両人の密接な関係の実際を窺わせているかもしれない。

書紀の記述は家伝ほどでないとはいえ、やはり鎌足のために、いや不比等のためと言うべきか、その人物を立派めかそうとして事実を歪めたという臭いは拭えない。有名な蹴鞠のくだりはどうも話が出来すぎのようだし、乙巳の変(入鹿の殺害)の場面も精彩があるようで演劇的になりすぎている。このような虚飾を注意深く取り除くことができれば、現実的な泥臭い政争が復元されるのだろう。

参考文献

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 
日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

 
日本書紀〈4〉 (岩波文庫)

日本書紀〈4〉 (岩波文庫)

 

「卑弥呼の鏡」は鉄製か――佐賀新聞の報道から

日本や中国では、利器の主役が鉄に移ってからも、鏡は銅で作るものだった。しかし三国時代、大陸では、主要な銅の産地は呉が領有したため、魏では銅材が不足し、鉄の鏡が作られたとされる。

佐賀新聞は一月三日付で、『卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡 中国・曹操陵の発掘責任者が見解』という記事を掲載した。

www.saga-s.co.jp

この鉄鏡とは、1933年にダンワラ古墳から出たと云われているもので、今回来日した河南省文物考古研究院の潘偉斌氏が、取材に応じてその見解を示したとしている。

所謂「卑弥呼の鏡」とは、《三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝》の中(通称〈魏志倭人伝〉の部分)で、天子からの回賜の品物を列挙した所に、”銅鏡百枚”と記されているもののことである。これが文字通りの銅鏡であれば、銅不足の魏朝で新たに作られたのではなく、漢代から残された古い製品だった可能性が高い。しかしもし当時の新作だったとすれば、銅鏡という字の方が間違いで、その実態は鉄鏡だったということは考えられる。あるいは古い銅鏡と新しい鉄鏡が混在していた可能性もあり、その場合は簡潔に総称するなら銅鏡とだけ書いて済ませることも考えられなくはない。

日本の考古学者の一部は、三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」であるとする説を長年支持している。だがこれは、様式の上からは南方系であり、時期的にもやや下り、造作からは日本列島で鋳造された可能性が高い。その説を除くと、従来は「卑弥呼の鏡」は後漢鏡である可能性が高いとする説が広く紹介されてきた。しかし鉄鏡が少なくとも一部に含まれていたとすれば、当時の最新作が贈られていたことになる。実態の解明にはさらに幅広く、国境を超えた総合的な研究が進展することを期待したい。

元祖キャッシュレスだった紙幣と、これからのキャッシュレス

ここに「紙幣」というものがある。みなさんは紙幣は「現金」だと思うだろうか。なぜ紙ペラが現金として通用するのだろうか。実は、紙幣が現金としての地位を確立したのは、そんなに古いことではない。どの時点で紙幣が現金になったかは、明確にいつというのは難しいかもしれないが、最終的には金本位制が廃止された1970年代前半だと言って良いだろうか。だとすると、それはまだ半世紀ほど前のことに過ぎない。

紙幣の始まりは「キャッシュレス」から

紙幣制度の起源は、中国史上の北宋の時代に用いられた「交子」と呼ばれるものにさかのぼる(そのまたさらに源流は、唐代の「飛銭」という一種の為替手形だとされる)。交子の発行は、今の四川省で始まった。《宋史・食貨志》によると、当時その地方では鉄貨が用いられていたが、重い上に低価値であるため大量に運ぶ必要があり、土地の人は苦しんでいた。そこで交子の制度が作られたとされる。

交子は、中国で早く発達した紙と印刷の技術を駆使したもので、鉄銭と兌換できることを前提として、貨幣として流通した。つまり交子の発行には、兌換に引き当てる現金=鉄銭の用意を必要とした。言い換えると、現金としての実体は鉄銭であり、交子は代替の決済方式、「キャッシュレス」だったのだ。当初は民間の交子舗十六戸がこれを発行していたが、後に取り付け騒ぎが起きたので、益州に交子務を設けてその発行を管理し、私製することは公文書偽造と同様に禁じられた。

こうして出発した交子は、ある程度普及した。交子は、紙を主な原料とするため、金属貨幣より増発が容易である。北宋政府は初め、兌換用に準備した鉄銭の総額を、交子発行の上限として、慎重に管理をした。しかし後には規律が崩れ、乱発したことで価値が下落し、制度の信用を失うことになった。

一千年の失敗と成功

こうして紙幣制度は、最初の実験には失敗したものの、これで見捨てられることはなかった。中国では、南宋の会子、元の交鈔などに受け継がれる。元の紙幣制度は、ヨーロッパにも伝えられた。フランスやアメリカでも紙幣制度の実験が行われた。こうした実験は、たびたび酷い失敗を引き起こして、経済を混乱させた。

失敗を繰り返したにもかかわらず、紙幣制度が死滅しなかったのは、それが必要とされたからに他ならない。経済が発達すると、金属貨幣だけでは活動をまかなえなくなる。紙幣が必要であり、理想的には「現金」の裏付けを必要としない非兌換紙幣が求められる。

結局、紙幣制度が確立するには、これを適切に管理できる通貨当局の制度ができ、その当局に対する信用が確立されなければならなかった。そしてそれが実現した時には、紙幣はそれ自体が「現金」となり、兌換を前提とせずに通貨として流通することとなった。「キャッシュレスがキャッシュになった」のだ。ここまでに約一千年を人類は過ごした。

これからのキャッシュレス

さて「何か」が貨幣あるいは「現金」として通用するには「信用」が必要なのだと理解すれば、究極的には「信用」そのものが「現金」になりはしないかという考えが出てくる。今日では、「信用」そのものが、かなり多くの場面で決済に関与している。例えば、クレジットカードは、「後で実際に現金が支払われる」という信用のもと、その場では現金の支払いなしに売買を成立させる。いわゆる電子マネーやコード決済も、基本的には同じである。

私がある書店において、一冊の本をクレジットカードによって買ったとしよう。貨幣の「新」世界史──ハンムラビ法典からビットコインまで (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の様な本がふさわしいだろう(この稿の参考文献でもあることだし)。この時に、後で支払われるはずの現金は銀行口座に入っていて、それは雇用主から振り込まれたものだとすると、自分はその現金に一度も触れる機会がない。さらに書店にも直接現金が運ばれるのではなく、銀行口座に振り込まれるのだろうから、そこの店長もこの現金は見ない可能性がある。

ここで重要なのが現金の「所有権」なのだとすると、将来的には初めから「所有権」の形で通貨を発行するということが考えられる。つまり硬貨や紙幣の様な「有体」の通貨ではなく、「お金の権利」という「無体」の通貨だ。「所有権」に対して信用があれば良い。ここで「所有権」と「信用」という、互いに目に見えない二つのものの意味は、限りなく接近する。株ならすでに券面が廃止されて、所有権だけのやりとりになっているのと同じである。現在の「キャッシュレス」といわれるものは、その方向に人類を連れて行くだろうか。

ただ「無体通貨」が確立されたとしても、今なお硬貨が紙幣と併存している様に、ただちに現代の我々が思う「現金」がなくなるわけではないだろう。それにしても、「キャッシュレス」が本当に当たり前になった時には、「キャッシュレスもキャッシュの一つ」になっているはずだ。新しい形態の貨幣が、現金としての信用を得るには時間がかかるだろうが、また一千年を要すると思うのは悠長に過ぎるのだろう。

年号の起源の謎? どうしてそんなことを始めたのか

いわゆる年号(現在日本の法律用語では元号)という制度は、漢の武帝の時に始まったとされる。ただし明代以降(日本では明治以降)の一世一元制は、実質的には君主紀年法(某王の何年といった数え方)に回帰するもので、本来の年号制とはかけはなれた面がある。

漢の武帝の年号は、在位約五十四年間に十一を数える。一世一元以前の歴代の年号は、十年に及べば長い方であり、君主の治世を細切れにする点に本来の特色があると言える。統治権力の象徴という意味では、君主紀年の方が直接的で明確であり、年号制はそれより後退しているとも言える。

漢の武帝には建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元の年号がある。このうちで初期のものは、後からさかのぼって付けたものであるとする説が有力である。ただ実際の最初の年号は、元狩とする説の他、元鼎や元封とするものなどがあり、はっきりしない。

また、年号が用いられる様になった当初から、改元と新年号の決定が同時に行われていたとも限らない。今では改元は年号と不可分のものだと思われているが、そもそも改元とは年号を改めることではなく、紀年を一から数え直すことである。在位中に改元すること自体は年号よりも早くから行われていた。

武帝の二代前の文帝は、その十八年を改元して後元年とした。一代前の景帝は、その治世で二度改元している。文帝の時には、『史記』や『漢書』の本紀によると、祥瑞があって改元を決めたという。しかし祥瑞があったらなぜ改元するのかは判らない。景帝が改元した理由は明らかでない。

武帝の時に年号を用い始めたことについては、『史記』封禅書や『漢書』郊祀志によると、それまでは改元するごとに一元、二元、三元といった呼称を使っていたが、「一二といった数を用いるのは宜しくない」ためにそうしたという。しかしなぜそれが宜しくないのかは判らない。

古代中国の文化を考えると、一二三四が良くないなら、甲乙丙丁といった十二支を当てることはありそうだが、それを避けたかの様に、年号という捻った制度が出来た。理由付けは、何となく習慣になったことに対して後からなされることもある。おそらく後世の学者が難しく考える様な大層な意図は無いのかもしれない。

参考
  • 秦漢帝国 (講談社学術文庫)
    なお元号武帝のときから始まり、建元は武帝の最初の元号。ただし実際に元号が制定されたのは、元鼎四年すなわち前一一三年に汾陰から銅鼎が発見されたときに命名されたものであって、それ以前の建元・元光・元朔・元狩という年号はさかのぼって命名されたものである
  • 年号 - 维基百科,自由的百科全书

    在中国歷史上,第一个年号出现在西汉汉武帝时期,年号为建元(前140年—前135年)。此前的帝王只有年数,没有年号。據清朝趙翼的《二十二史劄記》考證[3],年號紀年是在漢武帝十九年首創的,年號為「元狩」。《漢書》上記載說,前122年十月,漢武帝出去狩獵,捉到一隻獨角獸白麟,群臣認為這是吉祥的神物,值得紀念,建議用來記年,於是立年號為「元狩」,稱該年為元狩元年,并追認元狩前的年號建元、元光和元朔[4]。可是,過了六年,又在山西汾陽地方獲得一只三個腳的寶鼎,群臣又認為這是吉祥的神物,建議用來紀年,於是改年號為「元鼎」,稱那年為元鼎元年,後來,人們把這記錄年代的開始之年稱为「紀元」,改換年號(或帝王紀年時代改稱元年)叫做「改元」。首實行改元(改稱元年)者為漢文帝,但未取年号。此后,每次新皇帝登基,常常会改元,并同时改变年号。一般改元从下诏的第2年算起,也有一些从本年年中算起。

    辛德勇《改订西汉新莽纪年表》以為,太初改元之初可能還沒使用年號紀年,而是在五月與改正朔、易服色的改制措施同時實行。

  • 元狩 - 维基百科,自由的百科全书

    元狩年號問題,學界目前有兩種看法:

    其一認為年號為漢武帝後來追命,此派依據《史記·封禪書》、《漢書·郊祀志》的記載「有司言元宜以天瑞命,不宜以一二數。一元曰『建』,二元以長星曰『光』,三元〔以日月復始曰『朔』,四元〕[1]以郊得一角獸曰『狩』云」,認為在武帝元鼎三年時新作出來,再往前追加所定的。宋代的司馬光,清代的錢大昕、王先謙、周壽昌,近代的辛德勇均支持此論。辛德勇認為當時以一、二、三、四數紀元,太初元年以前,現實生活中一直沒有正式採用以年號紀元的方式,並舉例漢代銅器銘文有「四元七年正月甲寅造」一文以証明此論。

    其二認為年號為漢武帝登基時創制使用,並舉出《筠清馆金石记》、《小校經閣金文》、《藤花亭鏡譜》收錄的金文中有銘刻「建元」、「元朔」、「元光」、「元狩」等年號,認為這些文物上的款识都应该是当时所记,从而判断出元鼎之前年号并非追加的。李崇智即謂「以上諸器年款足以証明漢武帝建元、元光等並非後來追命」。赵翼《廿二史剳记》及王樹民《漢代的兩個年號問題》均认为元狩是中國第一个年号,之前年号是追记的。但是目前观点认为建元才是中國第一个年号。辛德勇從銘文形式、器制、管理制度,認為這些漢代器物多數皆出自後人所偽造的贗品,不能証明當時已使用年號紀元。

  • 元鼎 - 维基百科,自由的百科全书

    史記》卷十二《孝武本紀》:「其後三年,有司言元宜以天瑞命,不宜以一二數。一元曰建元,二元以長星曰元光,三元以郊得一角獸曰元狩云。」從宋代劉攽《兩漢刊誤》、司馬光資治通鑑》,認為元鼎四年得寶鼎,是元鼎年號的來歷。也因此推斷元鼎才是年號的開始,之前的年號都是追加的。辛德勇認為當時以一、二、三、四數紀元,太初元年以前,現實生活中一直沒有正式採用以年號紀元的方式。現今目前的觀點認為建元確是第一個年號。

  • 漢書 : 紀 : 文帝紀 - 中國哲學書電子化計劃

    秋九月,得玉杯,刻曰「人主延壽」。令天下大酺,明年改元

  • 史記 : 書 : 封禪書 - 中國哲學書電子化計劃

    後三年,有司言元宜以天瑞,不宜以一二數。一元曰「建」,二元以長星曰「光」,今郊得一角獸曰「狩」云。

  • 漢書 : 紀 : 武帝紀 - 中國哲學書電子化計劃

    六月,得寶鼎后土祠旁。秋,馬生渥洼水中。作寶鼎、天馬之歌。

  • 史記 : 本紀 : 孝武本紀 - 中國哲學書電子化計劃

    五月,返至甘泉。有司言寶鼎出為元鼎,以今年為元封元年。

梅原猛さんの訃報

 哲学者の梅原猛さんが去る1月12日に亡くなられた。
 梅原さんは日本の歴史や文化にも造詣の深い方で、その関係の著書が祖父の蔵書にあったので私も何冊か読む機会を得た。その印象では、梅原さんの長所は、通説や常識に囚われない着眼の鋭さ、研究に打ち込む情熱の強さにある。一方で、対象に思い入れをしすぎて前のめりになる欠点も持っていた。
 今度の訃報でも代表作として挙げられている『隠された十字架』は、法隆寺聖徳太子についての論考で、1972年に一冊の単行本として出版された。

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

 

その数年後にももう一度聖徳太子論を書いている。この方は四冊の厚い本になった大変な労作なのだが、思い入れが深まりすぎて勢い表現が文学的になり、私などはちょっと引いてしまう様な所もあった。

聖徳太子 1 (集英社文庫)

聖徳太子 1 (集英社文庫)

 


 こういう態度は学者としてどうかとは思うのだが、罪のないおかしさというか、根底に人としての優しさを感じるので憎めないのが梅原さんの魅力だったと思う。梅原さんが何か言えば、梅原さんの意見が正しいかどうかは別としても、そこに注意すべき何ものかがあるのではないかと思わせる所があった。
 こういう梅原さんの魅力は周囲の人々を刺戟した。それで私は梅原さんの単著よりも、対談やシンポジウムを本にしたものの方がとびきり面白いと思う。私が読んだ中では、1979年の『万葉を考える』が、日本語の文章表現を考える上でも示唆に富むものだった。

万葉を考える (1979年)

万葉を考える (1979年)

 


 また、北海道民として立場から忘れられないものに『アイヌと古代日本』がある。梅原さんのアイヌ語・日本語同系論は、例によって前のめりに過ぎるのだが、金田一京助の「日本語は膠着語アイヌ語抱合語だから系統的関係はない」という説が通説的認識になっていた状況の中では、一定の意味のある主張だっただろう。

今日の言語学では、膠着語であり抱合語であるといったことは、言語の系統を分ける要素であるとは見なされていないというし、日本語とアイヌ語の間に、五千年とか八千年といったくらいの距離を考えれば、共通の祖語から分かれた可能性は無視できないものと認められる様だ。