古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

梅原猛さんの訃報

 哲学者の梅原猛さんが去る1月12日に亡くなられた。
 梅原さんは日本の歴史や文化にも造詣の深い方で、その関係の著書が祖父の蔵書にあったので私も何冊か読む機会を得た。その印象では、梅原さんの長所は、通説や常識に囚われない着眼の鋭さ、研究に打ち込む情熱の強さにある。一方で、対象に思い入れをしすぎて前のめりになる欠点も持っていた。
 今度の訃報でも代表作として挙げられている『隠された十字架』は、法隆寺聖徳太子についての論考で、1972年に一冊の単行本として出版された。

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

 

その数年後にももう一度聖徳太子論を書いている。この方は四冊の厚い本になった大変な労作なのだが、思い入れが深まりすぎて勢い表現が文学的になり、私などはちょっと引いてしまう様な所もあった。

聖徳太子 1 (集英社文庫)

聖徳太子 1 (集英社文庫)

 


 こういう態度は学者としてどうかとは思うのだが、罪のないおかしさというか、根底に人としての優しさを感じるので憎めないのが梅原さんの魅力だったと思う。梅原さんが何か言えば、梅原さんの意見が正しいかどうかは別としても、そこに注意すべき何ものかがあるのではないかと思わせる所があった。
 こういう梅原さんの魅力は周囲の人々を刺戟した。それで私は梅原さんの単著よりも、対談やシンポジウムを本にしたものの方がとびきり面白いと思う。私が読んだ中では、1979年の『万葉を考える』が、日本語の文章表現を考える上でも示唆に富むものだった。

万葉を考える (1979年)

万葉を考える (1979年)

 


 また、北海道民として立場から忘れられないものに『アイヌと古代日本』がある。梅原さんのアイヌ語・日本語同系論は、例によって前のめりに過ぎるのだが、金田一京助の「日本語は膠着語アイヌ語抱合語だから系統的関係はない」という説が通説的認識になっていた状況の中では、一定の意味のある主張だっただろう。

今日の言語学では、膠着語であり抱合語であるといったことは、言語の系統を分ける要素であるとは見なされていないというし、日本語とアイヌ語の間に、五千年とか八千年といったくらいの距離を考えれば、共通の祖語から分かれた可能性は無視できないものと認められる様だ。

六世紀末に流行した天然痘

 『日本書紀敏達天皇の十四年(585)三月の条に、当時流行した病気の症状について記されている。「瘡ができて死ぬ者が国にあふれた。その瘡を患った者は、体が焼かれ打たれ砕かれるようだと言い、泣きむせびながら死んだ」という意味のことが書かれている。この病気は今の天然痘かとみられている。国立感染症研究所のウェブサイト(天然痘(痘そう)とは)によると、天然痘の前駆期には「急激な発熱(39 ℃前後)、頭痛、四肢痛、腰痛などで始まり、発熱は2 〜3 日で40 ℃以上に達する。」とあり、「体が焼かれ打たれ砕かれるよう(原文、身如被燒被打被摧)」というのに同じく、瘡(水疱)ができること、流行性であることも符合する。

 このほか、同年二月の条に“疫疾”が起こり民に死者が多く出たとか、欽明天皇の十三年(553)に“疫気”が起こって民に若死にする者があったといい、それぞれ症状は不明ながら、天然痘の可能性が考えられる。

 この十四年三月の際には、敏達天皇物部守屋も瘡を患ったとある。二月の時には蘇我馬子も疾を患ったとあり、天然痘かもしれないが病状は伝わらない。敏達天皇はこの年の八月に病死しており、天然痘かその合併症によるものだろう。

 九月には用明天皇が即位する。しかし二年(587)の四月二日、新嘗を行った当日に病気になり、九日に崩御した。新嘗の儀式は通常は十一月の冬至に近い時期に行ったものである。用明天皇についてはこのこと以外は全然動静が伝えられていない。病状は不明だが、やはり天然痘関連の病死かも知れない。

 天然痘による死亡原因と合併症について国立感染症研究所のウェブサイトは「死亡原因は主にウイルス血症によるものであり、1週目後半ないし2週目にかけての時期に多い。その他の合併症として皮膚の二次感染、 蜂窩織炎、敗血症、丹毒、気管支肺炎、脳炎、出血傾向などがある。出血性のものは予後不良となりやすい。」としている。

 この病気の流行について、『日本書紀』は物部守屋らによる「蘇我氏が仏教を行ったからだ」という主張と、民間の「守屋が仏像を焼いた罪だ」という噂の両方を載せている。これはおそらく記事を構成する資料として寺院の文書を利用したためだろう。人の出入りが決して妨げられてはいなかったのだから、二十世紀半ばまで世界を席巻することになる伝染病が流入するのは時間の問題に過ぎなかった。

崇峻天皇暗殺事件

 崇峻天皇はその在位第五年(隋の文帝の開皇十二年、西暦592)の十一月三日、暗殺され、即日埋葬された。『日本書紀』によると時の大臣おおおみ蘇我馬子そがのうまこが、東漢直駒やまとのあやのあたいこまに手を下させたという。

殺害の動機と嫌疑

 『日本書紀』では、この年の十月、崇峻天皇が献上された猪を指して「いつかこの猪の首を切るように、わが嫌うところの人を斬りたい」と言ったという。また、その時に通常よりも兵仗を多く設けていた。これを馬子が伝え聞き、自分が憎まれていると思い、暗殺を謀ったということになっている。

 しかし蘇我馬子は、次の推古天皇の代にも大臣として長く務めており、暗殺について何らの罰も受けていない。このことから、暗殺には推古天皇が関与しており、記録の上ではそのことを故意に書き落とし、馬子が首謀者であるように造作された疑いがある。

崇峻天皇の死で誰が利益を受けたか

 蘇我馬子はその時に大臣であり、その後も大臣である。また、崇峻天皇を殺害しても自分が天皇になれる地位にはない。自分が崇峻天皇に殺されるのを避けるために先手を打ったというのが『日本書紀』の筋書きだが、こういう理由付けは行為を正当化するための常套手段でもあるので、本当かどうか分からない。

 推古天皇は、崇峻天皇の王座を相続した。当時の相続の慣習では、一般に公的な地位に就くのは男性であり、王位も男子の兄弟間で相続され、親世代の候補が尽きると次の世代に権利が移った。女子が王権を執るには、男子の兄弟が死んだ上で、次世代の候補が未熟であったりして継承者が定まらない必要があった。これより前に、大連おおむらじだった物部守屋もののべのもりやが擁立しようとした穴穂部皇子あなほべのみこ(崇峻の同母兄弟)も、推古と馬子によって殺されている。崇峻天皇がもういくらか長く生きていると、推古は王座に即く機会を失う可能性があった。

推古天皇崇峻天皇

 蘇我馬子から見ると、崇峻と推古はどちらも自分の姉妹の子に当たり、どちらが天皇であっても外戚としての立場は変わらない。崇峻天皇には、王者としての資格に欠けるところがあったのか。そう考えられる点の一つは後継者問題にある。

 江戸時代の大名も跡継ぎの確保に苦心したように、血筋で身分が決まる時代にはそれが大問題だった。古代日本では同じ天皇の子でも母親の身分によって差別があった。母親も皇族であれば一番、蘇我氏などの実力ある大貴族の女性であれば二番で、王位継承候補としてはそのどちらかが望ましかった。

 崇峻天皇は大伴氏の小手子こてこ妃との間に、蜂子はちのこ皇子と錦代にしきて皇女が生まれている。『日本書紀』に明記されている妃はこの一人だけである(『古事記』では一人の妃も載せていない)。古代の王者にとって、高貴な身分の女性と結婚することは、跡継ぎを作るために、また有力者との協力のためにも重要だった。それが十分にできていないことは、崇峻天皇の政治的な資質や意欲の不足を感じさせる。

 一方、推古天皇は、敏達天皇との間に五女二男を生んでいる。しかも、第一子の貝蛸かいだこ皇女は厩戸うまやど皇子(用明天皇と皇后穴穂部皇女の子)と、第三子の小墾田おはりだ皇女は彦人大兄ひこひとのおおえ皇子(敏達天皇と前の皇后広姫ひろひめの子)と、第六子の田眼ため皇女は田村たむら皇子(彦人大兄の子、後の舒明天皇)と結婚している。次世代の王位継承候補の保護者として、推古の権威は高いものがあったと思われる。

第二の殺人

 下手人の東漢直駒は、その十一月、蘇我馬子によって殺された。蘇我氏天皇の妃に入れていた河上娘かわかみのいらつめを、駒がぬすんだからということになっている。河上娘はどの天皇の妃か不明で、いきさつなどよく分からない。

 この事件について考える場合の複雑さは、歴史の勝者と敗者という関係が重層している点にある。この事件の際には勝者に見える蘇我大臣家も、半世紀後の政変で滅ぼされる。『日本書紀』が編纂される時には、古代天皇制が確立されている。勝者になれば人を殺した理由などは、後からいくらでも言いつくろえるが、敗者になると弁護する人もない。今日の捜査でも裏付けなしに自白を信用しないように、歴史上の事件も記録された動機にとらわれず考察する必要がある。

「なぜそんなものを食べるのか」? 食不食論を考える

f:id:Kodakana:20180424181627j:plain

 歴史を掘り下げる中で「食」に出会うと、今の料理と変わらない旨さが想像できる事もあれば、なぜそんなものを食べるのかと驚く様な事もある。しかし考えてみれば、食べるものを選べるという状況がずいぶんと贅沢なのであって、人類は長い間、獲得できるものを否応なく食べて、どうにかこうにか生存してきたというのが事実なのだろう。食べられるものは食べる、というのが基本であって、そこから「食べられるけど食べない」という選択が生じてくる所に歴史的事情がある。とすれば「なぜそれを食べるのか」という問題設定をするよりも、「なぜそれを食べないのか」と考えてみる方が意味がある。


 ある地域で食べていたものが、食べられなくなる原因としては、およそ次の様な理由を想定できるだろう。一に、資源の枯渇によって食べる事が出来なくなる。二に、食糧となる以外の重要な役割を与えられる。三に、外来文化の影響によって価値観が変わる。四に、政治/宗教などの権力によって禁止される。五に、人為的食糧生産の増大によって野生食糧を食べる必要が無くなる場合。

 最も古い家畜といわれる犬の場合について見てみよう。犬は、早くに失われた例を含めると、世界の広い範囲で食べられた。東洋古代史をやっていても、必ず中国の犬肉食を知る事になる。戦国時代、殺人を犯して故郷を去った聶政は、斉国に逃れて「狗屠」を職業とし、生活は豊かではないが老母を養って十分に食えたという。有名な荊軻は燕国で「狗屠」の某および高漸離と仲良くなり、日々市場でともに酒を飲んだ(《史記・刺客列伝》)漢の高祖劉邦の旧友で、その天下取りを助けた樊噲はもと「屠狗」を職業としていた(《史記・樊酈滕灌列伝》)。犬を解体して肉を売る仕事である。犬は豚とともに一般的な食肉だった。牛は重要なお供え物とされていたから祭祀などの機会に食べられる事もあったが、それよりは農耕や運搬の動力としての役割が重視されていたとみられる。

 犬は古代には確かに一般的に食べられていたが、中世には忌避される様になっていく。おそらく漢末から魏晋南北朝、唐初にかけて、遊牧系文化の影響を大きく受けた事が要因として考えられる。後には狗屠/屠狗の語は卑しい人や職業を指す代名詞に転じた。

 中国周辺の地域では、ベトナム琉球、朝鮮、そして日本などにも犬肉食の習慣が見られる。日本では縄紋文化期には犬が飼われていたが、食べた痕跡はほとんど見られないという。主に狩猟における役割が与えられていた為だろう。弥生文化の遺跡からは、解体された犬の骨が出ている。農耕文化とともに犬肉食の習慣が移入されたらしい。豚もいくらか飼っていたとみられるが、畜産文化は定着しなかった。犬は中世の都市遺構からも食べた跡が見付かっている。江戸時代初期には文献的証拠がある。「犬公方」と渾名された徳川綱吉の政策によって犬を殺す事は禁じられた。犬肉食はそれまで日本の伝統食だったと言えるだろう。

 韓国は現在も犬肉食が行われている地域の一つで、海外からの非難によってよく知られる事となった。中国にも一部の地域には犬肉食が伝えられており、国内でも余り知られていなかったのが、外国からの反対運動に遭って有名になったと聞く。この点は日本のイルカの場合と似ている。やめろと言われて反って伝統文化の自覚が強まり、より執着する心理を生じるのも共通の傾向らしい。

 日本では綱吉以後、一般的習慣としての犬肉食は復活しなかった。今では日本料理の伝統は犬抜きで形成されている。戦争による食糧不足の折には犬を食べたと聞くが、戦後の高度成長期に犬は家庭における地位を確立し、食べるという事は考えがたくなった。食べるのが伝統なら、食べなくなるのも伝統で、それはそれでそれなりに食文化は成り立ってくる。伝統だから是非とも食べ続けなければならないという事も無いし、食べたくなくても食糧難で食べなければならないという事態も起こる。反対するのが自由なら、食べるのも自由でもある。


 ついでに個人的な事を言うと、今まで食文化に関して一番驚いたのは、豚をペットとして飼う人がいると知った時だった。それまで自分にとって豚は食べるだけのもので、食べられる為の生き物であるかの様に思っていた事を自覚した。どんな生き物も人がかわいいと思えばかわいくなるのだと知れば、食べるのが悪いような気もしてくる。その気持ちを大事にしながら、今日も豚を食べた。

参考文献

中華料理の文化史 (ちくま文庫)

中華料理の文化史 (ちくま文庫)

 
魏志倭人伝の考古学 (岩波現代文庫)

魏志倭人伝の考古学 (岩波現代文庫)

 
ドキュメント 屠場 (岩波新書)

ドキュメント 屠場 (岩波新書)

 

月令七十二候集解(七月~十二月)

※前回より続き。

kodakana.hatenablog.jp

 ○立秋りっしゅう

 立秋は、七月の節気。立字の解は春のところに述べた。秋は、しゅうである。物をこのころに揪斂しゅうれん(とりいれ)することである。

 涼風至りょうほうし〔『礼記』は盲風至に作る〕(涼風が至る) 西方淒清の風をば涼風という。温度が変わって涼気がひきしまり始めるのである。『周語』に「火が見えて清風が寒を戒める」とあるのがこれである。

 白露降はくろこう(白露が降る) 大雨の後、清涼の風が来て、天の気が下降し、茫々として白むこと、なお未だ凝って珠とならず、故に白露という。降って秋金の白色なるを示すのである(五行の金を五時では秋、五色では白に配当する)

 寒蝉鳴かんせんめいひぐらしが鳴く) 寒蝉は、『爾雅』に寒螿かんしょうといい、蝉の小さくて青紫なる者。馬氏は、物の暑いときに生まれた者は、その声がこれに変わるのだ、という。


 ○処暑しょしょ

 処暑は、七月の中気。処は、止である。暑気がここに至って止まるのである。

 鷹乃祭鳥ようだいせいちょう(鷹がここで鳥を祭る) 鷹は、義のとりである。秋の令は金に属し、五行では義とする(五行の金を五常〈仁・礼・信・義・智〉では義に配当する)。金の気は粛殺しゅくさつであり、鷹はその気に感じて諸鳥を捕撃し始める。されば必ず先にこれを祭り、人が飲食するのに先祖に祭るようにするのである。子持ちの鳥は撃たないので、これを義という。

 天地始粛てんちししゅく(天地がしまり始める) 秋は陰の始めなので、天地始粛という。

 禾乃登かだいとう穀物がやっとみのる) 禾は、穂を立てる穀物の総称。また稲・きびまこもあわの属はみな禾である。成熟することを登という。


 ○白露はくろ

 白露は、八月の節気。秋は金に属し、金の色は白。陰気がだんだんと重くなり、露が凝って白むのである。

 こう〔『淮南子』は候に作る〕鴈来がんらい(鴻鴈が来たる) 鴻は大きいもの、鴈は小さいもので、北よりして南に来るものである。「南向」といわないのは、その家ではないということ。詳しくは雨水の節の下に載せた。

 元鳥帰げんちょうき(元鳥が帰る) 元鳥についての解説は前に述べた。この時期に南よりして北に往くのである。燕は北方の鳥なので「帰」という。

 群鳥養羞くんちょうようしゅう〔『淮南子』は群鳥翔に作る〕(群鳥がたくわえる) 三人以上を「衆」とし、三獣以上を「群」とする。群は衆である。『礼記』の註に曰く、羞とは羹にしてこれを食う所のもの(羊の切り身をいう)。養羞とはこれを蔵して冬の間の養いを備えることである。


 ○秋分しゅうふん

 秋分は、八月の中気。解説は春分に述べた。

 雷始収声らいししゅうせい(雷が声を収め始める) 鮑氏はいう。雷は二月の陽中に声を発し、八月の陰中に声を収め地に入る。さすれば万物は随って入るのである。

 蟄虫壊ちゅうちゅうはい〔音は培〕(こもれる虫が戸をのせる) 淘瓦の泥をば壊といい、細泥のことである。『礼記』の註を按じると、その蟄穴の戸を倍益し、明るい処に通さしめることやや小さくして、寒さの甚だしきに至ってようやくこれを塗り塞ぐのである。

 水始涸すいしかく(水が涸れ始める) 『礼記』の註に曰く、水は根本の気のあらわれで、春夏の気が至れば長じ、秋冬の気が返れば涸れるのである。


 ○寒露かんろ

 寒露は、九月の節気。露気寒冷にして、凝結しようとするときである。

 鴻鴈来賓こうがんらいひん(鴻鴈が来賓する) 鴈は仲秋に先に至る者が主宰となり、晩秋に後から至る者が賓客となる。『通書』は来浜に作る。浜は水際のことであるが、通じて用いる。

 雀入大水為蛤しゃくじゅうたいすいいこう(雀が海に入って蛤になる) 雀は、小さい鳥である。その類は一つならず、ここにいうのは黄雀である。大水とは、海のことである。『国語』に云う。雀が大海に入って蛤となるのは、寒風厳粛にして、多くが海に入る。これが変じて蛤となる。飛ぶ物が化けて潜る物となるのである。蛤は、ほうの属で、小さい者である。

 菊有黄華きくゆうこうか(菊が黄華を有する) 草木はみな陽に華さくが、菊だけは陰に華さく。桃始華・桐始華はどれも色を言わないのに、菊だけ言うのは、その色が正に晩秋の土旺とおう(土気がさかんになるという各季節の末期)の時に応じているからである。


 ○霜降そうこう

 霜降は、九月の中気。気がしまって凝った露が結ばれて霜となること。『周語』に、駟が見えて霜がちる、とある。

 豺祭獣さいせいしゅう〔『月令』は豺乃祭獣戮禽に作る〕やまいぬが獣を祭る) 獣を祭るとは、獣を天に祭るということで、根本に報いるものである。方形にならべて祭るのは、秋金の義である。

 草木黄落そうぼくこうらく(草木が黄色く落ちる) 色が黄色くなって揺れ落ちるのである。

 蟄虫咸俯ちゅうちゅうかんふ〔『淮南子』は俛に作る〕(こもれる虫がみな俯く) 咸は、皆である。俯は、頭を垂れることである。この時期には寒気が粛凜として、虫はみな頭を垂れて食わなくなる。


 ○立冬りっとう

 立冬は、十月の節気。立字の解は前に述べた。冬は、終であり、万物が収蔵することである。

 水始氷すいしひょう(水が凍り始める) 水面が初めて凝るが、未だ堅くならざるときである。

 地始凍ちしとう(地が凍り始める) 土気が寒さに凝るが、未だ裂けるに至らざるときである。

 雉入大水為蜃ちじゅうたいすいいしん(雉が海に入って蜃になる) 雉は、野鶏である。鄭康成・『淮南子』・高誘はともに蜃に註して大蛤とする。『玉篇』にも、蜃は大蛤なり、とある。『墨子』にまた、蚌、別名は蜃、蚌は蛤の類にあらざるか、という。『礼記』の註では蛟の属とし、『埤雅』はまた蚌・蜃を各々釈して「蛤の類に似て非なり」とする。しかし『本草』を按じると、車螯の条に「車螯しゃごうとは、大蛤のことで、別名は蜃、よく気を吐いて楼臺をなし、またかつて海の傍らに蜃の気が楼垣を成すと聞く」とある。『章亀経』はいう。「蜃の大なる者は島嶼に車輪をなし、月の間に気を吐いて楼を成すこと、蛟竜と同じである」。ならばこれを蛤と知ること、明らかである。いわんや『爾雅翼』が『周礼』諸家を引いて、蜃を蛤のこととしているのは甚だ明らかだ。『礼記』の註には雉を考察し、蛇化の説によって雉子を蜃とする。『埤雅』は既に、「(蜃の形は)蛇に似て大、腹の下は尽く逆鱗」といい、これを知ること詳らかにしながら、しかもまたこれを疑い、「異説に状は螭竜ちりょうに似て耳が有り角が有る」ともいう。ならばやはり聞いてこれを識ること、『本草』『章亀経』がこれは一つの物だとするのに及ばない。大水は、淮河のことである。『晋語』には「雉入于淮為蜃」とある。


 ○小雪しょうせつ

 小雪は、十月の中気。雨が下って寒気の為に凝縮され、それで凝って雪となる。小とは、未だ盛んならざるの辞。

 虹蔵不見こうそうふつけん(虹がかくれて見えない) 『礼記』の註に曰く、陰陽の気が交わって虹となるが、この時期には陰陽が離れきり、それで虹が隠れる。虹には実体が有るのではないのに、蔵というのは、やはりその気が低く伏すのを言うだけのこと。

 天気上升地気下降てんきしょうしょうちきかこう(天の気が上昇し地の気が下降する。解説を欠く)

 閉塞而成冬へいそくじせいとう(閉塞して冬が成る) 天地が変じて各々がその正位になおり、交わらざれば通らず、通らざれば閉塞する、それは時の冬となる所以である。


 ○大雪たいせつ

 大雪は、十一月の節気。大は盛である。ここに至って雪が盛んになるのである。

 鶡鴠不鳴かつたんふつめい(鶡鴠が鳴かない) 『禽経』に曰く、鶡は、剛毅な鳥である。雉に似て大きく、毛角が有り、闘い死んではじめて休む。古人が勇士たるを取って(喝する鳥の意味)、名を冠したと知られる。『漢書音義』にも同じ。『埤雅』に、黄黒色だから名を鶡(褐色の鳥)とする、と云う。これに拠れば、本来は陽の鳥で、六陰の極みに感じて鳴かなくなるのである。郭璞かくはくなどは『方言』(に付けた註)に、鶏に似て、冬は毛が無く、昼夜鳴き、寒くして号する動物だとする。陳澔、それに方氏も「求旦の鳥」だというが、どれもあたらない。夜に鳴くなら(求旦の鳥は夜に鳴くという)どうして不鳴というのか? 『鉛丹余録』が鴈に作るのも、恐らくそうではない。『淮南子』はかん鴠に作り、『詩』の註は渴旦に作る。

 虎始交こしこう(虎が交わり始める) 虎は猛獣である。だから『本草』ではよく悪魅を避けるという。今かすかな陽気に感じて(冬が深まり、従って春も近付いているので、かすかに陽気が立ち始める)、ますます盛りがつき、それでつがいになって交わる。

 荔挺出れいていしゅつ(荔が生え出る) 荔は、『本草』にはこれをれいと書いているが、実は馬薤ばかい(薬材にする植物の一種)のことである。鄭康成・蔡邕・高誘はそろって馬薤と云う。『説文』を見ても、荔は蒲に似て小さく根は刷毛になる、と云うところは『本草』と同じ。ただ陳澔の註だけは香草のことだとし、附和する者は零陵香(零陵の地に産する香草)だと考えているが、ことに零陵香が三月に自生するのを知らずにいるのである。


 ○冬至とうし

 冬至は、十一月の中気。終蔵の気がここに至って極まるのである。

 蚯蚓きゅういんけつ(ミミズがからむ) 六陰寒極の時にして、蚯蚓は交わり互いにからまって縄の如くなるのである。

 麋角解びかくかい(麋の角が解ける) 解説は鹿角解の下に述べた。

 水泉動すいせんとう(いずみが動く) 水は、天一の生まれる所で、陽が生ずれば動く。今一陽が初めて生まれる冬至は陰気の極まる時で、それを過ぎれば陽気が生じてくる)。それでこう云うのだ。


 ○小寒しょうかん

 小寒は、十二月の節気。月の初めは寒さがまだ小さいので云う。月の半ばになれば大きくなる。

 北郷がんほっきょう〔去声〕(鴈が北へみちびく) 郷は嚮導の意味。二陽の候には、鴈は熱を避けて戻ろうとするが、このころには北に向かい飛び立ち、立春の後になればすっかり帰る。禽鳥は気の先を得るからである。

 鵲始巣しゃくしそうカササギが巣作りを始める) 鵲は喜鵲かささぎである。鵲の巣の門はいつも太歳木星に向ける。冬至天元(万物の生育の本)の始まりで、後二陽に至りすでに来年の節気を得て(この時期に来年の二十四節気の計算ができる)、鵲は巣をつくることができ、向く方角を知るのである。

 雉雊ちこう〔音は姤〕(雉が鳴きあう) 雉は、文明の禽で、陽の鳥である。雊は、雌と雄が同時に鳴くことである。陽気に感じて後に声を出す。


 ○大寒たいかん

 大寒は、十二月の中気。解説は前に述べた。

 鶏乳けいじゅ(鶏が育つ) 乳は育である。馬氏はいう。鶏は木に属する動物で、陽気に並んで形を持つ。それで立春の節に育つのである。

 征鳥厲疾せいちょうれいしつ(征鳥があらぶる) 征は、伐である。殺伐の鳥とは、鷹・隼の属。この時期になると猛烈迅速に動くということである。

 水沢腹堅すいたくふくけん(水沢がなかまで堅くなる) 陳氏はいう。氷の凝り初めには、水面だけで、この時期になれば貫徹して、上から下まで凝る。それで腹堅と云う。腹は内という意味である。


 附録

 月令七十二候集解一巻〔通行本〕

 旧本の題は元呉澄撰。その書は七十二候を以て二十四気に分属し、各々そのこう考えられるということを解釈している。『礼記』「月令」を参照すると本文には七十二候の説は無く、『逸周書』「時訓解」がようやく五日を一候としている。呉澄は『礼記纂言』を作り、やはり『唐月令』を引いて五日一候の義を分かち著しているが、別にこの書が有るとは伝えられていない。その説は、経文は多く北方を指して記されたもので、南方の習見する所ではないとし、そこで博く『説文』『埤雅』の諸書を参照し、また農牧を訪ね、この編を著したとする。しかし名と物を考証して、創見する所は少ない。また、螻蟈は土狗だとしつつ、鼯鼠五技の説を載せたことは、互いに矛盾している。虹を日の雨気に映ったものだとしながら、虹首如驢の説をも引き、雑書を兼採したことは、やはり解経の法に乖いている。疑うらくは呉澄に托したものであろうか。〔四庫全書総目経部礼類存目(四庫全書総目に掲載され、四庫全書に本文が収録されなかったもの)〕 

(来歴や内容の一部には疑いもあるが、二十四節気七十二候の理解に裨益するものがあるので訳出を試みた。ことに一年のどの時期をとってもある季節から次の季節への移ろいの中にあること、自然の小さな変化に鈍い現代人には学ぶべきところがある)

月令七十二候集解(正月~六月)

※元の呉澄による二十四節気七十二候の解説/試訳/()内は訳注/意味が取りにくい所はふんわり訳/字音のふりがなは全て漢音

 それ七十二候は、呂不韋が『呂氏春秋』に載せ、漢の儒者は『礼記』「月令」に入れて、六経と同じく不朽に伝えられている。北魏はこれを暦に載せて、人民がみな知って節気の秩序を確かめるようにした。さればその禽獣草木は、多くが北方に出るものだ。だいたい漢以前の儒者は、みな長江より北の者である。だから江南の老師や宿儒には正確に識ることが難しい。陳澔ちんこうの註などはいわずもがな多く謬説をなしているし、康成こうせい穎達えいたつにしても誤った所がある。だからわたしは広く諸家の解や『説文』『埤雅ひが』などの書に取り、しかもまた農民牧夫にたずねて、正解を得るに近づいた。そこで二十四気をそろえて稿にまとめ、識者の鑑別をまつものである。


 ○立春りっしゅん

 立春は、正月の節気である。「立」はなり始めをいう。五行の気の往く者は過ぎ来る者はこれに続く。また春木の気が入り始めるので、これを「立」というのである。立夏・立秋・立冬も同じ。

 東風解凍とうほうかいとう(春の風が氷を溶かす) 冬に凍結したものは、春風にあえば解けちる。「春風」ではなく「東風」というが、『呂氏春秋』にこうある。東方は木に属し、木は火の母である。火の気は温かい。それで東風解凍という。

 蟄虫始振ちっちゅうししん(籠もれる虫が動き始める) 「蟄」とはかくれることをいう。「振」は動くこと。穴にこもった虫が、春の気が入ることで、蘇生して動くのである。鮑氏の曰く、動いても未だ出でず、二月に至り、ようやくはっとして走るのだと。

 魚陟負氷ぎょちょくふうひょう(魚が浮いて氷を負う) 「陟」は昇ること。魚は寒さの盛んなときには水底に伏して暖をとるが、正月になって陽気がさせば、浮かび上がって氷に接する。これを「負」という。


 ○雨水

 〔去声〕すいは正月の中気。天一(易学の用語)は水より生まれ、春の始まりは木に属するが、木より生まれる者は、必ず水である(五行相生説をいう)。それで立春の後には雨水が続き、かつまた東風が全く氷を溶かしたれば、散って雨水となるのである。

 獺祭魚たっせいぎょ(獺が魚を供える) 獺は、別名を水狗といい、魚を食う者である。祭魚とは、魚を取って天に祭ることをいう。いわゆる「やまいや獺も本に報いるを知る」というやつで、歳の始まりに魚が浮かび上がれば、獺は取り初めをして祭る。徐氏の曰く、獺の祭りは円に鋪く、円は水のかたちである。犲の祭りは方に鋪く、方は金の象である、と。

 候鴈北こうがんほく〔『月令』『漢書』は鴻鴈北に作る〕(候鴈が北する) かりは時を知る鳥で、熱ければ長城の北に帰り、寒ければ長江の南に来る。砂漠こそその家である。初春の陽気が全く達すると、候鴈は彭蠡ほうれい(湖の名)より北へ向かう。

 草木萌動そうぼくもうどう(草木が萌え動く) 天地の気が交わって泰然とし、そのため草木の萌生が発動するのである。


 ○驚蟄

 驚蟄けいちゅうは二月の節気である。『夏小正』正月の項に「啓蟄、蟄より発するを言う」とある。万物は震動から出て、震動は雷をなす。それで驚蟄という。巣穴の虫がはっとして走り出ることである。

 桃始華とうしか〔『呂氏春秋』は桃李華に作る〕(桃が咲き始める) 桃は果物の名で、花の色は紅、この月に開き始める。

 倉庚鳴そうこうめい(倉庚が鳴く) 庚は鶊にも作り、黄鸝こうり(チョウセンウグイス)のこと。『詩』に「有鳴倉庚」というのがこれである。『章亀経』に曰く、倉は清であり、庚は新である。春陽清新の気に感じて初めて出るのでこの名がある、と。その名はとりわけ多く、『詩』には黄鳥といい、斉人は搏黍はくしょ、また黄袍こうほうとも呼び、僧家は金衣公子とし、その色は黒に黄であり、また鵹黄りこうとも呼ぶ。諺に黄栗留こうりつりゅう黄鶯鶯児こうおうおうじなどいうのも同じである。

 鷹化為鳩うかいきゅう(鷹が化して鳩になる) 鷹は猛鳥であり、ようせんハイタカハヤブサなど)の類である。鳩は今の布穀ほこく。『章亀経』に曰く、仲春の時、木々が生い茂ると、くちばしが柔らかくなり、鳥を捕ることができず、目をカッとさせて飢えを忍びたわけのようになって化する、それで名をきゅうという、と。『王制』に曰く、鳩が化して鷹となるのは、秋の時なり、と。ここで「鷹が化して鳩になる」と言うのは、春の時である。粛殺の気が盛んになると、猛禽にはそれに感じて変じるのだ。孔氏の曰く、「化」とは反復してもとの形に帰るものをいう、と。だから鷹が化して鳩となり、鳩が化して鷹となるとは、田鼠が化して鴽となれば、鴽も化して田鼠となるというようなものだ。腐れる草が蛍となる、きじおおはまぐりとなる、すずめはまぐりとなるなどは、みな「化」と言わないのが、再び本の形に復することがないからである。


 ○春分

 春分しゅんふんは、二月の中気である。分は半である。ここは三ヶ月の半ばに当たるので分という。秋分も同義。夏・冬には分と言わないのは、そもそも天地間の二気だからということである。方氏はいう。陽はに生まれ、うまに終わり、に至って中分する。故に春をば陽中とし、そして仲月の節は春分とする。正に陰陽が適中し、故に昼夜には長短が無い。

 元鳥至げんちょうし(元鳥が至る) 元鳥とは燕である。高誘こうゆうはいう。春分にして来たり、秋分にして去る、と。

 雷乃発声らいだいはっせい(雷がようやく声を発する) 陰陽は互いに迫って雷を生じるが、ここに至ると、四つの陽気が次第に盛んになるも、まだここに陰気が有り、されば互いに迫ってようやく声を発する。「乃」とは、『韻会』によると、象気の出難きことである。註疏に曰く、「発」は「出」の意味である。

 始電してん(いなびかりが始まる) 「電」は陽気の光である。四つの陽気が盛んになると、気がれる時に光が生じる。『歴解』によると、凡て声は陽であり、光も陽である。『易』に、雷電合して章なり、とある。『公羊伝』には、電は雷光これなり、とある。徐氏はいう。雷は陽で電は陰というのは、あたらない。だいたい盛夏にして雷が無い時、電もそうであること、知るべきである。


 ○清明

 清明せいめいは三月の節気。『国語』を按じると、時により八つの風が有るというが、暦では清明風が三月の節気を示すだけで、それはこの風がそん八卦の一つ)に属するからである。万物は巽にととのい、この時になるとみな潔斎して清明となる。

 桐始華とうしか(桐が咲き始める) 桐は木の名で、三種が有る。華さいて実らない者は白桐という。『爾雅』に「栄桐木」というのがこれである。皮が青くて実を結ぶ者は梧桐といい、または青桐という。『淮南子』の「梧桐断角」というのがこれである。山岡に生え、実が大きくて油が有る者は油桐といい、『毛詩』に「梧桐は山岡に生えず」というのがこれである。今華さき始めるというのは、このなかで白桐のみ。『埤雅』を按じると、桐の木は日・月・閏年を知り、平年には一枝に十二葉を生やすが、閏なれば十三葉になり、天地と気を合わせる者である。今琴瑟を造るには、花さく桐の木を用いるが、これこそ白桐である。

 田鼠化為鴽てんしょかいじょ〔音は如〕(田鼠が化してフナシウズラになる) 『爾雅』を按じると、註に曰く、鼫鼠せきしょというのは、形・大きさは鼠の如く、頭は兎に似て、尾には毛が有り、青黄色で、好んではたけの中に在り粟・豆を食む。これを田鼠という。『本草』『素問』に曰く、鴽はうずらである。鴿はとに似て小さい。『爾雅』「釈鳥」に曰く、鴽は鴾母ぼうぼう(ミフウズラ)である。郭註に、あん(ウズラの類)のことで、青州の人は鴾母と呼ぶ、とある。鮑氏はいう。鼠は陰類であり、鴽は陽類で、陽気が盛んになると化して鴽となるが、陰類が陽気の為に化するのであろう。

 虹始見こうしけん〔去声〕(虹が現れ始める) この虹とはこうげいのことである。『詩』のいわゆる螮蝀ていとう。俗に去声に読む。註疏に曰く、これは陰陽交会の気で、故に昔の儒者は雲から漏れた日が雨の滴を照らすと虹が生じると考えた。今水の噴くところで側からこれを視れば日暈に虹ができる。朱子の曰く、日は雨と交わり、たちまち質を成す、陰陽が交わるに当たらずして交わるのは、天地の淫気である。虹は雄であり色は赤白く、蜺は雌であり色は青白い。されば二字はともに虫偏に従う。『説文』に曰く、螮蝀の状に似る、と。諸書にも云う、かつて虹が渓谷に入り水を飲むのを見たが、その首は驢馬の如し、と。恐らく天地の間にはこの種の生物が有るのだろうが、ただし虹の気はこれに似ているので名を借りたのである。


 ○穀雨

 穀雨こくう〔去声〕は三月の中気。雨水より後、土はうるおって脈動し、今また雨がその土に植えられたものをやしなう。雨の読みをば去声に作ること、「雨我公田」の雨の如くする。だいたい穀物はこの時期に種を播くが、それは上からして下ろすのである。それで『説文』によると、雨は本来去声。今「風雨」の雨は上声だが、「雨下」の雨は去声である。

 萍始生へいしせい(ウキクサが生え始める) 萍は水草である。水面に水平に浮かぶので萍という。流れに漂い風に随うので漂ともいう。『歴解』によると、萍は陽物で、静かにして陽気を承けるのである。

 鳴鳩払其羽めいきゅうふつきう(鳴く鳩がその羽根を払う) 鳩は鷹が化した者で、布穀ほこくである。「払」とは撃ちつけることである。『本草』に、羽を払い飛んで翼はその身をつこと、指揮するかのようである、と云う。三月の頃にもなれば、農耕に取りかかることが急で、鳩はそこで追いはらわれて鳴き、羽を鼓してサッと飛び上がる。それで俗に布穀と呼ぶ。

 戴勝降于桑たいしょうこううそう(戴勝が桑に降る) 戴勝はまたの名を戴鵀たいじんという。『爾雅』の註に曰く、頭上には勝れた毛が有り、この時期にはいつも桑にいる。けだし蚕がこれに生まれるのをうかがうのであろう。「降」と言うのは、これに重なること天の如くして下り、やはり指揮するかの様子をいうのである。


 ○立夏

 立夏りっかは四月の節気。立の字の解は春の項に述べた。夏は、仮である。物がこの時に至ってみな仮大(ひろがってゆとりがある)なるをいうのである。

 螻蟈鳴ろうかくめい(螻蟈が鳴く) 螻蟈は、小さい動物で、土の中で穴に生まれ、好んで夜に出る。今の人が土狗と呼ぶものがこれである。またの名は螻蛄ろうこ、またの名は石鼠せきしょ、またの名はこく〔音は斛〕。各地方で呼び方が違っている。『淮南子』に、螻蟈が鳴き、邱蚓が出る、とある。陰の気が立ってこの二つが応じるのだ。『夏小正』三月の条に、螜が鳴く、というのはこれである。また五つの能を有するも、一つの技をも成すことができない。飛んでも屋根を越えることができず、取りついても木を登りつめることができず、泳いでも谷を渡ることができず、潜っても身を覆うことができず、走っても人に先んじることができない。だから『説文』では、せきを称して五技の鼠としている。『古今註』はまた螻を鼫鼠と呼んでいること、知るべし。『埤雅』『本草』はともに臭虫とし、陸徳明りくとくめい鄭康成ていこうせいが蛙だと考えているのは、どれもあたらない。

 蚯蚓きゅういんしゅつ(ミミズが出る) 蚯蚓は地竜である。別名は曲蟺きょくせん。『歴解』に曰く、陰にして屈する者は、陽に乗じて伸び現れるのである。

 王瓜生おうかせい(王瓜が生える) 『図経』に云う。王瓜はそこかしこに有り、平野・田宅および牆垣に生える。葉は栝楼かつろう烏薬おやくに似て、丫型に欠けたところが無く、とげのような毛が有る。蔓をのばし、五月には黄色い花を開かせ、花の下には弾丸のような実を結び、生りたてには青く熟れては赤い。根は葛に似て、細くて糝(?)が多い。またの名は土瓜、別の名は落鴉瓜らくあか、今の薬中が用いる所である。『礼記鄭元ていげん註に曰く、即ち萆挈ひけつ。『本草』が菝葜はっかつに作るのを、陶隠居はまちがいだと弁じて、菝葜には自ずから根と枝が有るといったが、ことに王瓜にも自ずから根と枝が有るのを知らず、先儒がその時に書を検めずして謾言したのは、おかしいことだ。

 ○小満

 小満しょうばんは四月の中気。小満とは、物がここに至るとやや充足するということである。

 苦菜秀こさいしゅう(苦菜がめぶく) 『埤雅』は荼を苦菜とする。『毛詩』に「誰謂荼苦」とある〔荼は茶であり、故に韻は今の茶、註本では荼に作る〕のがこれである。鮑氏は火の気に感じて苦みができるのだといっている。『爾雅』に「栄えずして実る、これを秀といい、栄えて実らず、これを英という」とあるのによれば、苦菜は英と言うべきことになるか。蔡邕さいようの『月令』が苦蕒菜こばいさいのことだとしているのはあたらない。

 靡草死びそうし(靡草が死ぬ) 鄭康成・鮑景翔はそろって、靡草とは葶藶ていれきの類だと云う。『礼記』の註には、草の枝葉で靡細なる者、とある。方氏はいう。凡そ物は陽気に感じて生きる者なれば強くして立つが、陰気に感じて生まれる者なれば柔かくして靡く。これを靡草といい、それは陰気の至りに生まれる所のものであり、故に陽気の至りに耐えずして死ぬ。

 麦秋ばくしゅうし麦秋が至る) 秋とは百穀が成熟する時期だが、この時はまだ夏だといっても、麦にとっては秋だから、それで麦秋と云うのである。


 ○芒種

 芒種ぼうしょう〔上声〕は五月の節気である。のぎが有る種類の穀物を植えるべき時期をいう。

 螳螂生とうろうせい(カマキリが生まれる) 螳螂は草の虫である。風を飲み露を食い、陰の気に感じて生まれ、よく蝉を捕らえて食べ、それで別に殺虫とも呼ばれる。また天馬てんばといい、その飛捷すること馬の如くなるを言う。また斧虫ふちゅうとは、両前足が斧の如くなるをいう。まだ一つならず名がつき、各地方によって呼び方がある。秋深くに林木の間に子を生むこと、一殻に百子、この時期になれば殻を破って出る。薬中の桑螵蛸そうひょうしょうというのがこれである。

 きょく〔音は局〕始鳴しめい(鵙が鳴き始める) 鵙は百労はくろうである。『本草』は博労はくろうに作る。朱子の『孟』注に曰く、博労は、悪声の鳥で、蓋し梟の類である。曹子建の『悪鳥論』には、百労は五月に鳴き、その声は鵙鵙と聞こえ、故にこれを以て名を立てること、俗称の独温とくおんと似ている、とある。『埤雅』「禽経」の註に云う。伯労は高く翔ぶことができず、まっすぐに飛ぶだけだ。『毛詩』に「七月鵙鳴」とあるのは、周暦の七月が夏五月だからである。

 反舌無声はんせつぶせい(舌が反って声が無い) 諸書は百舌鳥のことで、舌をひっくりかえすことができるので名づけられたとする。ただ註疏は蝦蟇かば(ガマ)のことで、蛙類の舌は尖って内に向いているからその名があるのだろうとする。今それがあたらないと論じる者は、この時期に鳴くではないかといって、考えちがいに気づかずにいる。『易通卦験』にも「蝦蟇無声」としている。五月に鳴くではないかというのは、初旬に姿を現した後、また隠れるのを知らないのだ。陳氏はいう。螳螂・鵙はともに陰類で、かすかな陰気を感じてひとつは生まれひとつは鳴く。舌が反るのは陽気に感じておこり、かすかな陰気に遇うと声が出なくなるのである。


 ○夏至

 夏至かしは五月の中気である。『韻会』に曰く、夏は仮であり、至は極である。万物がここにみな仮大にして極みに至るのである。

 鹿角解ろっかくかい〔音は駭〕(鹿の角が解ける) 鹿ろくは、体が小さくて山の獣で、陽に属し、角が前向きに出ていることは黄牛と同じ。は、体が大きくて沢の獣で、陰に属し、角が後ろ向きに出ていることは水牛と同じ。夏至には一陰が生じ、陰気に感じて鹿の角は解ける。解とは、角が退落することをいう。冬至には一陽が生じ、麋は陽気に感じて角が解ける。これは夏至は陽気の極み、冬至は陰気の極みだからである。

 ちょう〔音は調〕始鳴しめい〔『月令』の註疏は蝉始鳴に作る〕(ヒグラシが鳴き始める) 蜩は、蝉の大きくて黒色の者で、蜣螂きょうろう(フンコロガシ)が脱皮して成り、雄はよく鳴き、雌は声が無い。今俗に知了ちりょうと呼んでいるのがこれである。蝉類の名について調べると、夏に鳴く者は蜩といい、『荘子』に「蟪蛄けいこは春秋を知らぬ者」とあるのがこれである。蟪蛄は夏の蝉なので春秋を知らぬというのであろう。秋に鳴く者は寒蜩といい、『楚辞』に謂う所の寒螿かんしょうである。『風土記』には「蟪蛄は朝に鳴き、寒螿は有に鳴く」とある。今秋の初めの夕陽の時に、小さくて緑色をし声が急激なる者で、俗に都了とりょうと呼んでいるのがこれである。それで『埤雅』が各々その義を解説しているとおり、この物は盛陽に生まれ、陰に感じて鳴く。

 半夏生はんかせい(半夏が生える) 半夏とは、薬草の名で、夏の半ばにあって生えるのでその名がある。


 ○小暑

 小暑しょうしょは六月の節気。『説文』に曰く、暑は熱である。熱い時期を分けて大小とし、月初は小、月中は大とする。この時は熱気がまだ小さいからである。

 温風至おんほうし(温風の至り) 至は極である。温熱の風がここに至って極まるのである。

 しつ〔音は悉〕そつ〔音は率〕居壁きょへき(コオロギが壁に住む) またの名はきょう〔音は拱〕、またの名は蜻蛚せいれつ、今の促織しょくしょくである。『礼記』の註に曰く、土中に生まれて、この時期には羽根が次第に成り、洞穴の壁に住み、七月になれば遠く飛んで野にいる。粛殺の気が初めて生じれば穴に在り、これに感じること深ければ野に在って闘うのであろう。

 鷹始撃ようしけき〔『礼記』は鷹乃学習に作る〕(鷹が撃ち始める) 撃は捕激することである。応氏はいう。殺気がいまだ粛ならぬとき、猛禽の鳥は撃つことを練習し始め、殺気を迎えるのである。


 ○大暑

 大暑たいしょは六月の中気。解説は小暑に述べた。

 腐草為蛍ふそういけい(腐れ草が蛍になる) 丹良たんりょうといい、丹鳥たんちょうといい、夜光やこうといい、宵燭しょうしょくというも、みな蛍の別名。明を離れるの極みなれば幽陰が微小の物に至りまた化して光をなすのである。『毛詩』に「熠耀しゅうよう宵行」というのは、別の一種である。形は米虫の如く、尾にはやはり火が有る。「化する」と言わないのは、原形に戻らないからで、その解説は前に述べた。

 土潤どじゅんじょく〔音は辱〕しょ(土が潤って蒸し暑い) 溽は湿である。土の気が潤い、それで蒸鬱して湿気となる。暑というのは、俗に齷齪あくさくと呼ぶもので、熱がそれである。

 大雨時行たいうしこう(大雨が時に降る) 前候には湿暑の気が蒸鬱し、今候になれば大雨が時々降り、それで暑気が退行するのである。

原文

書評:松本克己『世界言語のなかの日本語』(2007年)

日本語の系統を探る試みは、語彙の比較を中心とする従来の方法では十分な成果をあげることができなかった。それはそうした方法によって遡れるのはせいぜい5~6000年程度の長さであり、もっと古い時代に他の言語と分離したらしい日本語の起源には及ばないからだと考えられる。松本氏は「言語類型地理論」と呼ぶ方法によって、従来の方法では手が届かなかった言語間の遠い親族関係を明らかにしようとする。

世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平

世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平

 

第1章では新しい方法の必要と見通しを述べ、第2章は大野晋の「タミル語起源説」に対する批判、第3章はかつて盛んに行われた「ウラル・アルタイ説」を再検討し却ける。本書にとっては予備的な内容だが、古い方法の陥りやすい所について読者に教える形となっている。

第4章「類型地理論から探る言語の遠い親族関係」は本書の中で中心的な内容を持つ。ここでは「流音のタイプ」や「形容詞のタイプ」といった言語の類型的特徴を比較し、世界の言語がいくつかのまとまりに分かれること、そして日本語は太平洋沿岸言語圏の中で、朝鮮語アイヌ語・ギリヤーク語とともに「環日本海諸語」を形成すると考えられることが明らかにされる。この点で結果としては安本美典の所論(第360回活動記録-邪馬台国の会)とおおむね一致はするが、結論に至る筋道は全く異なる。結論の導き方としては松本説の方が堅牢で着実ではないかと思う。第5章は第4章の分かりやすい要約で、あるいは先に読んだ方がよいかもしれない。

第6章では人称代名詞を取り上げて言語の区分を検証し、それが第4章の考察とよく一致することが示される。人称代名詞というのは語彙の一部で、語彙の比較という古い方法に戻ったかのようだが、「語彙のまとまり」を比較するのとは違い、人称代名詞は各言語の中で変化に耐えてきわめてよく保存されている点に着目する。人称代名詞が言語の「生きた化石」だとは気付かなかった。

第7章「太平洋沿岸言語圏の先史を探る」では、これまでとはやや違い歴史学的性格の強い内容で、日本語や中国語を含む東アジア言語の来歴について考察される。この中で中国語の組成についての説は、岡田英弘白川静の所論を参考にすると分かりやすいだろう。

倭国の時代 (ちくま文庫)

倭国の時代 (ちくま文庫)

 
中国の神話 (中公文庫BIBLIO)

中国の神話 (中公文庫BIBLIO)

 

語彙の比較という方法は、語呂合わせに似ているだけに素人にも手が出せそうな感じがして、分かりやすい面白さがある(実際にはそう簡単ではないのだが)。それに比べると松本氏の「言語類型地理論」は、ずっと専門的で難しさを感じさせる所がある。本書の刊行から10年が経っているが、こうした進んだ知見をどう一般の常識に及ぼしていけるかには社会的な課題がある。とりあえずこの本はそろそろ文庫に収めてほしいと思った。