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ロシア史の概略(1/3)ルーシの分裂と統合

 9世紀頃までに、おおまかに黒海より北、バルト海沿岸より南に定着した東スラヴ民族のまとまりは、ルーシ(古ロシア)と呼ばれた。やがてルーシの諸族はキエフ公国を中心として連合したが、これを歴史上で「キエフ・ルーシ」と称する。その領域は今のロシア連邦のうちモスクワなどを持つ中心部と、ベラルーシウクライナの多くの部分を含んでいた。

 キエフ・ルーシの成立が9世紀末葉であることから分かるように、この地域の政治的統合はヨーロッパからみても非常に遅れていた。周辺の地域に強い勢力が興ると、ルーシの発達の遅れにつけこんで圧迫を加えたり、冦掠することが常だった。

 東からは絶えず騎馬民族の脅威があり、5世紀頃まではフン族によって席巻されたし、6世紀以後もハザール人やブルガール人が爪を突きつけていた。南にはペチェネグ族などが蟠踞し、その背後には強大なビザンツ帝国が控えていた。

 北からは7世紀以後、ノルマン人のヴァリャーグ(ヴァイキング)活動が及んだが、これはまたルーシの政治的統合を進めるきっかけともなった。9世紀、ルーシの諸侯がヴァリャーグから招聘したリューリクという人物が、初めてルーシ全体の君主になったと伝えられている。

 10世紀になるとルーシの勢力は伸張し、965年、スヴャトスラフ公はハザール・カガン国の都に進撃し、大きな打撃を加えた。西南にも領土を拡大し、東欧に定着したブルガール帝国(ブルガリア)と争った。スヴャトスラフの跡を継いだヴラジーミル公は、キリスト教ギリシャ正教を受容した。

 ヴラジーミルの子ヤロスラフ公はキエフ・ルーシを発展させたが、五人の息子に国を分け与えたことから、その後は何世代にもわたる内輪揉めが起こり、ルーシの統合は失われていった。黒海に近い南部の覇権はクマン人に奪われ、中心地であったキエフ公国は衰退したが、北東部の毛皮貿易で成功したノヴゴロド共和国と、新興都市モスクワを擁するヴラジーミル・スーズダリ公国は発展した。

 12世紀初めに、ルーシの文化的発達は『原初年代記(過ぎし歳月の物語)』を成立させるに至った。これは日本の『日本書紀』または『古事記』に相当する成果であって、もしこれを指標として比較すれば、この時点でロシア語の文芸水準は、日本より400年も遅れていた。

 13世紀になると、東からはモンゴル人の帝国が興ってルーシを侵略した。モンゴル人は多数の騎馬民族を従えており、ヨーロッパ側からはタタールと総称された。1236年以後、バトゥ・ハンはリャザン、モスクワ、ヴラジーミルなど、ルーシの主要な都城を次々と冦掠した。キエフはハンへの頁納を拒んで1240年に破壊され、ここにキエフ・ルーシの時代は名実ともに終焉した。1243年、バトゥ・ハンはヴォルガ川のほとり、カスピ海の近くに遊牧都市サライ・バトゥを置き、大モンゴル帝国の一翼を担うキプチャク・ハン国を立てた。キプチャク・ハンはルーシの諸公国に毛皮税を課してきりきりと絞り上げた。

 同じ頃より、西からはバルト海沿岸に進出したドイツ人の騎士団、それにスウェーデン人やリトアニア人が、ルーシを侵略し始めたが、これは十字軍によるビザンツ帝国への侵攻と軌を一にしたもので、宗教的動機により一方的に正当化されていた。西からの攻撃によってノヴゴロド共和国の繁栄も後退した。

 1240年、スウェーデン人とのネヴァ川の戦いで功のあったアレクサンドル“ネフスキー”は、42年にもノヴゴロドをドイツ人の騎士団から救い、後にヴラジーミル大公となってノヴゴロド公を兼ねた。アレクサンドルはキプチャク・ハン国との争いを避けて臣従の態度をとり、かえってその勢威を借りてルーシ諸国を制する地位を得た。

 アレクサンドルが死ぬと、ヴラジーミル大公の位を巡って、モスクワ公とトヴェーリ公の間に、結局数世代に及ぶことになる争いが起きたが、この間にモスクワの勢力が発展した。

 1359年、ドミトリー“ドンスコーイ”がモスクワ公となった時、リトワ大公国(リトアニア)は今のベラルーシウクライナの大部分をすでに併合し、モスクワのすぐ西に迫っていた。リトワ大公オリゲルドは、義理の兄に当たるトヴェーリ公ミハイルと結び、68年から72年にかけて、三たびモスクワを攻撃した。75年、ミハイルがキプチャク・ハンより大公の位を認められると、ドミトリーはトヴェーリに反攻してミハイルを下し、大公の位を奪った。

 1380年、キプチャク・ハン国はドミトリーを屈服させようと、リトアニアやリャザンと結んで軍を興したが、ドミトリーはこれをドン川のほとりクリコヴォ平原で迎え撃って破った。これがタタール人に対するロシア人の最初の勝利だった。しかしこれ以後もタタール人はロシア人を脅かし続けたが、89年にドミトリーは死に際して、初めてハンの承認を得ずに、公子ヴァシーリーにモスクワ大公の位を譲った。ドミトリーとヴァシーリーの代に、モスクワ大公国の領地は拡大し、全ルーシの中心としての地位を揺るぎないものとした。

 キプチャク・ハン国は15世紀に入ると分裂し始め、ヴォルガ川中流カザン・ハン国カスピ海の北にアストラハン・ハン国、黒海の北にクリム・ハン国(クリミア)などが出来る。

 1462年、モスクワ大公にイヴァン三世“大帝”が即位した。キプチャク・ハンはイヴァンが三年間滞納した貢献をもう取り立てることができなかった。イヴァンは「全ルーシの大公」と名のり、時に「ツァーリ」とも称した。ツァーリとはこれまでロシア人がキプチャク・ハンやビザンツ皇帝に対して用いた尊号であり、もはや他の帝国の風下には立たないという意志を表したものだった。

 トヴェーリ、リャザン、ロストフその他のルーシの諸公国やノヴゴロド共和国は、モスクワの覇権に反対し、リトアニアと結んで抗おうともしたが成功せず、多くが併呑されてロシア帝国の原型が完成した。実際に「ロシア」という呼び方はこの時期に初めて用いられたらしい。

 1480年にはタタール人の最後の侵攻を退け、晩年にはリトワへの逆襲も企てたが、ついに果たさなかった。

 1505年、イヴァン三世の跡継ぎヴァシーリー三世がモスクワ大公となると、カザン・ハン国、クリム・ハン国、リトワ大公国、リヴォニア騎士団がロシア国家の興隆を妨げようと結託する動きを見せた。ヴァシーリーは四方の敵と争う一方、まだ併合されずに残っていたルーシの諸国を統一した。

 1533年にヴァシーリー三世が死ぬと、世子イヴァン四世“雷帝”はまだ三歳であったため、大貴族たちが実権を握ろうと血で血を洗う争いを起こした。47年に正式に戴冠式を行ったイヴァン四世は、その時点から正式にツァーリと称した。雷帝の治世の課題は、内には大貴族の勢力を奪って君主権を拡大することであり、外にはともするとロシアを侵略しようと狙う周辺諸国に逆襲することだった。

 雷帝は内政では大鉈を振るって改革を断行し、権力の集中を進めた。外政では50年代、カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、それにシビル・ハン国(シベリア)を次々と攻略し、これまで長い間不安の種だった騎馬民族の脅威を大きく取り除いた。シビル・ハン国に差し向けられたカザーク(コサック)の頭領イェルマークは、この戦いで長銃を活用したが、これは織田の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を破ったのとほぼ同時期のことだった。

 しかし西方では、スカンジナヴィアを制覇する勢いのスウェーデン帝国や、ベラルーシウクライナを占領し続けるリトワ大公国と戦争を起こして、勝利を得ることが出来なかった。そのリトワもポーランド王国に併合され、ベラルーシウクライナポーランド領となる。黒海北岸にはまだクリム・ハン国があり、その背後は強大なオスマン=トルコ帝国によって支えられていた。(続く)