古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

日本書紀の冒頭を読む

 《日本書紀》の冒頭は天地創生の説話から始まる。

古天地未剖,陰陽不分,渾沌如鷄子,溟涬而含牙。及其清陽者薄靡而爲天,重濁者淹滯而爲地,精妙之合搏易,重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。

古には天地が未だけず、陰陽は分かれず、渾沌たること鶏子たまごの如く、溟涬めいけいとしてきざしを含む。其れ清陽な者は薄靡たなびいて天となり、重濁な者は淹滯とどこおって地となるに及ぶ。精妙の合はり易く、重濁の凝はき難い。故に天が先に成って地は後に定まった。然る後に神聖が其の中に生まれたのである。

 この部分は、《太平御覧・天部一・元気》に引用されて残る

《三五歷記》曰:未有天地之時,混沌狀如雞子,溟涬始牙,濛鴻滋萌,歲在攝提,元氣肇始。

又曰:清輕者上為天,濁重者下為地,沖和氣者為人。故天地含精,萬物化生。

 という文によく似ている。また、《淮南子・俶真訓》の

有未始有夫未始有有無者,天地未剖,陰陽未判,四時未分,萬物未生,汪然平靜,寂然清澄,莫見其形,若光燿之間於無有,退而自失也,

 だとか、同じく《淮南子・天文訓》の

氣有涯垠,清陽者薄靡而為天,重濁者凝滯而為地。清妙之合專易,重濁之凝竭難,故天先成而地後定。

 というのや、《芸文類聚・天部上・天》に引く

《廣雅》曰:太初,氣之始也。清濁未分,太始,形之始也。清者為精,濁者為形,太素,質之始也。已有素朴而未散也。二氣相接,剖判分離,輕清者為天。

 また

《徐整三五曆紀》曰:天地混沌如雞子,盤古生其中,萬八千歲,天地開闢,陽清為天,陰濁為地,

 といった文の中にも共通の文句や観念を見ることができる。中国では、人間が見聞きしたはずもないようなことは、正統派の学問としては扱われず、典雅な書物には載せられていないが、巷間では広く流布されたらしい。日本では、種々の書物に散見する説を総合して、後の話につながるように調整したもののようである。

 この後からが日本的神話であり、順次生成される神々の名によって世界の展開を述べる。その最後に伊弉諾尊いざなきのみこと伊弉冉尊いざなみのみことが登場して、両尊の共同作業によって島々が産み出される。ここで生まれる島は当時の日本の範囲だけで、世界の他の部分がどのようにできたかについては語られない。だから、大陸の方は中国の書物にあるようにできたと認め、しかし日本はそれとは別にできた、ということを言おうとしている。

 冒頭を中国におけるのと共通の天地創生で説き起こしたことには実際的な意味があった。《日本書紀》では唐朝をしばしば「唐」と美称し、その君主を「天子」と呼んでその地位を認めている。つまり日本としては、かつての南北両朝が互いを“島夷”“魏虜”などと蔑称したような関係ではなく、友好的に対等の交渉を求めたのであり、それをここにも表現しているのである。これに相当する文は《古事記》や書紀に載せる六種の異伝にはなく、書紀の本文では全く政治的意志によって加上したものと考えたい。

 そうでありつつ、この天地創生に日本創造が接続されていることは、天皇が唐の皇帝と並んで天子を称することに根拠を与える。日本は元来、天地創生の後に、大陸世界とは分岐して形成された、もう一つの天下であるという主張だ。

 これらの説話は、かつて孝徳天皇の白雉五年、高向玄理たかむくのぐゑんりらが唐に遣わされたときに、

於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。

ここにおいて東宮監門の郭丈挙は、日本の国の地理及び国初の神名を悉く問う。みな問いに随って答える。

 ということがあり、こうした経験からも整理する必要が感じられていたものである。これに呼応するように、《新唐書東夷伝》には、

自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。

自ら言うには、初主の号は天御中主。彦瀲に至るまで、すべて三十二世、みな「尊」を号とし、築紫城にむ。

 という一節がある。

 さて伊弉諾伊弉冉両尊は、島々と山川草木を生み終えると、天下の主たる者を生もうと言って、日の神大日孁貴おほひるめのむち天照大神あまてらすおほみかみ)・月の神(月読尊つくよみのみこと)・蛭兒ひるこ素戔嗚尊すさのをのみことを産む。記ではその前にいくらかの説話を挿入しているが、紀にはない。大日孁貴は天上に挙げられ、月の神は日に配するとしてやはり天に送られた。蛭兒は不具の子として棄てられ、素戔嗚尊は暴虐であるとして根の国へ去ることを命じられる。ここまでは歴史性のない観念的な神話で、これによって地上に王権を下す天上の物語が導き出される。しかしこの後は、言わば神を俳優とした歴史劇の上演であって、そこからもう歴史は始まるのである。

日本書紀の“革命思想”

 天武天皇が即位した頃(673)、唐は高宗の咸亨年間で、実権は武皇后の手にあった。隋唐統一の安定期は、安史の乱玄宗の天宝十四年(755)に起きているから、その巨大な印象に反して余り長くない。だがこの頃は、政界の確執はともかく、内政はわりあい平穏で、繁栄を讃えられる開元の治を準備した。天武天皇としては、かの盛んなる王朝と比肩すべく、自身の王権の由緒と革命の理論を証明しなくてはならない。ここに《日本書紀》の成立へとつながる修史事業が始まった。

 そもそも、人間に身分の差というものができてくると、人が人の上に立つことがなぜ正当でありうるかが問われることになる。血統主義は、上古から近世に至るまで、広く見られる。その昔に何らかの事情でそう決まった、それが血によって受け継がれる、という考え方である。これは世襲制を肯定する。しかし身分の固定はいつか社会の停滞を招くので、革命を是認する思想が要求される。そこで古代中国人は、天命主義を考え出した。誰が王権を担うべきかは天が決定する。天がもし衰退した王朝を見放すときには、人間は誰が新たに天命を受けるのかを理解しなければならない。それには、やむをえなければ武力によってする放伐も許されるが、血ぬらずに済む禅譲の方が望ましいとされた。

 こうした革命は、王家の交替という形で行われる。王者の姓がわるのでこれを易姓革命と呼ぶ。中国では易姓が革命の原則とされるが、それは中国の特殊状況において可能だったことで、日本上古の社会環境には当てはまらなかった。もっともそれは結果的に形成された観念なので、初めからそれを原理として革命が行われたわけでもない。当時において手近な例外としては、南朝の斉から梁への交替が挙げられる。両朝の帝室はともに蕭氏で、系図をたどれる程度の親戚だった。

f:id:Kodakana:20151203140809p:plain

 また北朝北周・隋・唐の三代は、姓こそ宇文・楊・李と違っているが、女系中心に見ればほとんど同じ一家であって、男系主義の社会でなければ易姓革命の列に入らなかった。

f:id:Kodakana:20151203140829p:plain

 日本上古の社会は両系的傾向が強かったと思われる。こういう状態では血統の区別としての氏姓の制度が確立しにくい。さらには、王権を担いうるような有力者は限られており、よしみのためにその間で通婚が行われると、細長い列島という環境では、すぐにみな親戚になってしまう。いわゆる万世一系というほどのことではなかったにしろ、こうした意味での“同族”による王権の争奪と継受が行われてきたことは真実と見て良いだろう。応神天皇の五世の孫を称する継体天皇、兄弟や近縁の者を何人も殺して権力を高めた雄略天皇、異母兄弟が殺された後に皇太子に立てられた応神天皇といった例を数えることができる。そこに日本式の革命を見出すことができ、それによって天武天皇の行為も新王朝樹立のためのこととして正当化される。

 ではそのようにして獲得された王権が由緒正しいものかどうかが問題である。ただ実力によって支配するだけで、その権力に名分が立たない、そんな主君は覇者と呼ばれて格落ちの扱いを受ける。

 南北朝時代南朝の王権は、漢の高祖が天下を統べるべく天命を受けて以来、魏・晋・南朝宋へと禅譲によって継承されたものだった。宋からは南斉・梁・陳へと禅譲され、ついに隋によって滅ぼされる。一方、北朝北魏は中原を制覇し、南朝宋と対立したが、帝室の拓跋氏は遊牧民系の鮮卑族で、その王権には由緒がなかった。これでは中国を統治するのに都合が悪い。そこで思い切って黄帝の子孫を称した。《魏書・序紀》に謂う、

昔黃帝有子二十五人,或內列諸華,或外分荒服,昌意少子,受封北土,國有大鮮卑山,因以為號。

昔、黄帝には子二十五人が有り、或るものは内にて諸華(中国文明圏)に列し、或るものは外にて荒服(夷狄の地)を分けた。昌意(黄帝の嫡子)の少子は、北土に封じられ、国は大鮮卑山にち、因って号とした。

 と。こんなことを鮮卑族が言い伝えていたはずはないのだが、真実性よりもこれが政治的宣言となることに意味がある。黄帝の子孫であると称した以上は、王者として徳を修め、中国にふさわしい政治をすると誓ったことになる。そして王権の起源が黄帝にあるということは、それが南朝よりもずっと古いという点で由来が良い。北魏の王権は、北周・隋を通して、禅譲によって唐に受け継がれる。つまり唐の王権は黄帝に由緒を持つ。

 これが天武天皇が比肩しようとした相手なのだ。その統治下には、倭人と古参の渡来人だけでなく、新羅統一の戦争によって生じた万という数の百済高句麗両国からの亡命者をも抱えている。そしてその手にはかつてどんな倭人の王者も持ったことがないほどの権力を握っている。これを確かなものにするには、それにふさわしい王権の由来を発見しなくてはならない。これは必ずしも新しい試みではなく、《隋書・東夷伝》に

使者言倭王以天爲兄,以日爲弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。

使者が言う。倭王は、天を兄とし、日を弟とし、天がまだ明けない時に出て政を聴き、跏趺して坐り(僧侶がする足の甲を腿に乗せるような深いあぐら)、日が出れば理務を停め、我が弟に委ねようと云う。

 とあるのは、日本的王権思想の確立に向けた努力の跡として評価すべきである。しかしそれはまだ成功したものではない。

 中国では、古くから王権思想が発達した。森羅万象の背後には天なるものの働きがあるように、誰が王権を執るべきかも天の働きによって決定されると考えられた。早くに議論が尽くされ、常識となって、“天命”の一言で説明が済むほどになった。だから古代中国にはギリシャ神話のような擬人化された神々の物語が全くなかったわけではないが、知識人はこれを俗説として却けた。“天”とは空のような具体物の別名ではなく、“天帝”といってもゼウスのような神が雲の上に住んでいるのではない。

 日本にはこうした条件がないので、王権の由来を説くのに神話的説明が求められることになる。抽象的な“天”の代わりに具体的な天上界があり、“天帝”に当たる人間的な神が設定される。すでに神を擬人化したからには、そこにも地上のような出来事の展開が想定される。それまでに伝えられてきた上古の事実や、外来のものを含む民話などを材料とし、修史事業に係る時期の政情を加味して、いわゆる日本神話が構成されることになる。

 そして、日本の王権は、日本的環境における血統主義により、かつて天上の神の子孫が地上に降りたことに由来し、天武天皇はその血を引いていると考えられることになった。その来歴を考証し撰述することでやがて《日本書紀》は完成する。しかしそれまでには思わぬことに四十年近い歳月を要し、その内には編纂方針の変動もいくらかあったようだ。そのためにやや混雑した所のある歴史観が形成されたものらしい。

日本書紀を読む

 《日本書紀》は日本における古代帝国的段階の成立までを通観できる唯一の古籍である。その歴史段階上の意義としては《史記》と比較すべきものだが、その性格は大きく異なっている。それが単なる過去の出来事の集積でなくて企図された編集物であるという点は両者に共通している。ただその目的意識が全く違うのである。

 日本の古代帝国的体制の確立と、《日本書紀》の成立とは密接な関わりを持っている。それは内的発展の到達点でもあるが、外的刺戟による作用も大きい。その変化の波は、北朝の隋による南朝討滅に始まる。南北朝時代、古代中国文明の正統を継ぐ者は南朝であると見なされており、倭王もそのためにそこへ朝貢していたことは前に触れた。

kodakana.hatenablog.jp

 隋を継いだ唐は、後世には中国の代名詞ともなるが、それは結果に過ぎない。隋による制覇は、当時としては、中国の統一ではなくて、むしろ中国の滅亡だった。それは南朝派の諸国へ深刻な衝撃を与えたはずだ。

 推古天皇が自ら天子を称したことは、こうした国際情勢の連続性の中で見なくてはその意味を感じられない。

kodakana.hatenablog.jp

 唐朝に対しても倭国は対等の関係を要求した。それは、《新唐書東夷伝》に、

太宗貞觀五年,遣使者入朝。帝矜其遠,詔有司毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。

太宗の貞観五年(631)、使者を遣わして入朝する。帝はその遠いことをあわれみ、有司に詔して歳貢にこだわることからしめる。新州刺史の高表仁を遣わし往って諭させるに、王と礼を争って平らかならず、えて天子の命をらずして還る。これより久しくして、あらためて新羅の使者にあずけて上書した。

 とあるので知れる。歳貢つまり一年ごとの貢納をしなくても良いということは、逆に言えば“数年に一度は挨拶に来い”と釘を刺したのである。この時の高表仁の使命はおそらく倭王としての冊封を受けるように天皇を説得することにあったのだろう。表仁が難波までは来たことは《日本書紀・舒明紀》によって確かめられる。その使命は果たされなかった。これに次ぐ遣唐使は二十年後のことになる。

 唐朝にとって倭国の態度は対処に困るものだが、焦眉の課題は朝鮮方面にあった。高句麗に引き倒された隋の轍を踏むことは許されない。唐は結局新羅と結んで高句麗百済を挟撃する遠交近攻の策に出た。倭にも百済を助けてこの方面に介入してきた経緯がある。ここに倭唐関係は最も緊迫した段階を迎える。唐の高宗の竜朔三年(663)、本邦は天智天皇の称制二年、倭唐両水軍は白村江はくすきのえに決戦のやむなきに至る。

 我々は未来の方から歴史を見ている。だからこれ以後の日唐関係により以上の破滅的な事件がなかったことを知っている。そのために当時の意識に鈍感になり、白村江の敗戦がどれほどの事態だったのかを軽視しがちである。この先どうなるだろうかは誰も知らなかった。天智政権は、西日本各地に城塞を築き、防人さきもりとぶひの制度を作り、近江遷都を決行した。“本土決戦”に備えてのことである。百済高句麗両国からは王族を含む大量の難民を受け入れた。

 唐では滅びた両国の故地にかつての楽浪郡のような州県制を敷くつもりだったが、思わぬことに新羅が反発した。新羅から見れば、両国は宿敵といっても、その人民は近縁の民族だから当然のことだった。国際情勢は一層混沌としてきた。しかし倭国にとっては外的危機をテコとしてその統合を最終的段階まで推し進める千載一遇の好機でもあった。おりしも天智天皇は重い病を得て床に臥した。その弟、大海人おほしあま皇子、後の天武天皇は、決断したのである。この年は唐の高宗の咸亨二年(671)、その十二月に天智天皇崩御した。翌年の干支は壬申に当たる。

 ともかくも天武天皇は甥である大友皇子を滅ぼして帝位に即いた。旧弊を一掃し、新しい体制を確立するには、その行為は単なる政変ではなくて“革命”でなくてはならない。その年(673)、天武天皇は、隣国からの、践祚を祝賀する使いだけは京に召し、天智の喪を弔う使いは筑紫に迎えるだけで帰国させた。その詔命に言う、

天皇新平天下。初之即位。

天皇は新たに天下をおさめ、初の即位なり。

 と。天武天皇は新王朝の初代だから、旧王朝に対する弔問は受け付けない。その行為が革命だったことを外国に対して明らかに示したのである。

 ただし革命にはそれを正当化する理論が要る。そして今は唐に比肩しうるだけの王権の由緒もなくてはならない。それがなくては新体制の安定は望めない。しかし中国では王家の交替が革命の原則であり、壬申の乱が革命運動だったことを証明してくれる思想を輸入によってまかなうことはできない。ここに日本独自の革命と王権の思想が必要とされてくる。

 《日本書紀》はこうした要求に応えるべくして編纂された。これをただの歴史だと思って読むと、字句は追えても意義が判らない。しかしこれは天武天皇の“革命”がやがてあることを前提とした過去の説明なのであって、言い換えればそれは新しい王権の宣言書であり、新しい君臣関係の契約書でもある。史書が要求されたわけではなく、必要とした事々を表現するのに史書の体裁を借りたのだ。そう思って読んだとき、そこに日本という王朝を樹立した初志の鋭さを感じることができるのである。

 そしてこうした編集の意図を把握すれば、それを解きほぐして、その中から真の歴史を見出すことができる。それは神代紀の中からさえ可能である。次回からはこれについて述べようと思う。

卑弥呼の死と都市国家時代の終焉

 魏の少帝の正始六年(245)、天子から倭の大夫難升米に黄幢を賜い、帯方郡に付託して授けさせることになった。ところがたまたま帯方郡と諸韓国の間に紛争があり、帯方太守の弓遵は戦死した。この前後のことは、“魏志倭人伝”に

其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。

 とある。

 正始八年、新しい帯方太守として王頎が着任した。その頃、倭人の諸国では邪馬台国を中心とする連合体と狗奴国との間で衝突が起こり、倭王卑弥呼は遣使して郡にその状況を報せた。王頎は、塞曹掾史の張政を遣わして、ようやく難升米に黄幢をもたらすのとともに、檄をつくってこれに告諭した。とは、人に何らかの行動を求めるための告げ文のことである。

 しかし卑弥呼は「死」つまりすでに死んでいた。以はと同源同音で、しばしば通用する。

f:id:Kodakana:20151119212841p:plain

 以死=已死とは「死んだ」ということで、この文脈では「張政が難升米に会ったときには卑弥呼もう死んでいて、女王から帯方郡への遣使に対する返答は間に合わなかった」ことを意味する。

 卑弥呼が死んで、大いに冢を作った。

 穴を掘って棺を埋め、土を戻すと余りが出るので、それを盛り上げる。これが本来のだが、やがて盛り土が高いほど立派な墓だという考えができ、よそから土を持ってきてまで高く作ることになる。冢が切り立つほどの形状になったものがいわゆる墳墓である。高さを確保するためには裾を広くする必要がある。つまり中国では墳墓の広さは高さの副産物である。

 漢の法律では身分ごとにどれほどの高さまで作って良いかが定められていたらしいが、今詳しくは分からない。後漢の班固が編んだ《白虎通徳論・崩薨》には、

春秋《含文嘉》曰:「天子墳高三仞,樹以松;諸侯半之,樹以柏;大夫八尺,樹以欒;士四尺,樹以槐;庶人無墳,樹以楊柳。」

 とある。一仞は周制で八尺、漢制で七尺、一尺は漢代で約23.1cm、一尺は十寸で、周制の一尺は漢制の八寸に当たるという。この引用は周代の話で、実際の漢代の皇帝の墳墓は高さが30m前後ある。しかし三国時代になると、労働力の不足や思想の動揺があり、また多くの墓が副葬品や建材を取り出すために破壊されたこともあって、大きな墓を作るのは無駄なことだという考えが出てくる。《魏志・文帝紀》黄初三年冬十月甲子の条によると、文帝は上古の帝王が顕著な墳墓を作らなかったことを述べ、以後はそれに習って厚く葬るべからざることを命じた。これが有名な薄葬令である。

 卑弥呼の冢は「径百余歩」とある。とは、車が入れないような狭い道のことで、また小路がしばしば近道であることから「直情径行」のように短絡すること、それから物の大きさを周囲の長さなどではなく「さしわたし」つまり「またぐ」ように測ることを指す。円形ならその直径、もし方形なら対角線の長さである。百余歩は140m前後で、これはその広さを表している。中国では伝統的に墓の高さに関心を持つはずだが、ここにはそれがない。

 魏の薄葬令では、墓は自然の山地形を墳の代わりとし、それと分かるような施設を作らないことを旨とした。高さが記されない卑弥呼の墓は、それに習ったものだったかどうか、どんなものだったか今は分からない。

 女王を失った倭人諸国は、代えて男王を立てた。男王と言えば、狗奴国の男王の名は卑弥弓呼で卑弥呼とは卑弥が共通している。名の前にあって複数の人に共通するものは普通なら氏姓の類である。ありがちなことだが、同族間の覇権争奪がこの抗争の内情であったのかもしれない。

 しかし諸国間にはこの男王擁立には反対も強く、両派が互いに攻伐して千人余りが死んだ。そこで卑弥呼の一族の者で十三歳の女子を立てて王とすることで妥協した。卑弥呼が健在の時の形態をかたどるものだが、権力に似つかわしくない幼い王を立てたことは、その体制が形骸化しつつあることを思わせる。誰が実権を握ったのだろうか。

 前にも述べたように、私は弥生文化のいわゆる環濠集落は都市国家的段階の存在を示していると考える。純粋な都市国家は一つの都市が政治上の独立単位を形成する。都市国家は一度成立すると他の都市国家と常に関係を持ちつつ活動し、やがて何らかの形で結合していく。

kodakana.hatenablog.jp

 “魏志倭人伝”に記された状況は、邪馬台国を中心とする都市国家連合の段階を表している。そこには領土国家的段階への発展が兆しながらまだ到達していない。邪馬台国とその周辺はこの列島の中で最も早くに都市国家的社会の成立した地域であっただろう。だがその時代の社会が成熟してくると、先進地域ではその古さが足かせとなり、次の段階への発展が遅れるものだ。むしろ後進地域の方が、旧時代の構造が強くないだけに、急速に発展して先進地域を凌駕することがある。上古中国に対する秦、古代ギリシャに対するマケドニアの例である。後発先至こそ歴史の法則である。

 今や邪馬台国は狗奴国に圧迫されつつあるらしい。これは都市国家時代から領土国家時代への漸進を意味する。だが、秦が漢に、マケドニアがローマに取って代わられたように、狗奴国の覇権もやがて東から興ってくる勢力によって脅かされる運命にある。曰く、女王国の東、海を渡ること千里、また国々があり、みな倭種なりと。ここまで数回にわたって、主に中国の史書から日本の古代を考えてきたが、ようやく日本の史書を扱える段階に来たようである。

卑弥呼と東洋的古代王権

 (承前

kodakana.hatenablog.jp

 漢末、倭人諸国間の秩序が乱れ、やがて一人の女子を「共立」して王とした。ここのの字は《太平御覧》の引用にはなく、どちらが正しいか分からない。しかしもし元から共立であったとすると、「自立」との対比から卑弥呼の王権について考えることができる。

 自立という表現は、《魏志・明帝紀》景初元年秋七月辛卯の条に

淵自儉還,遂自立為燕王,置百官,稱紹漢元年。

公孫淵は毌丘倹が還ると、遂に自立して燕王となり、百官を置き、紹漢元年と称した。

 とか、《蜀志・杜微伝》に

曹丕篡弒,自立為帝,是猶土龍芻狗之有名也。

曹丕は篡弒(主上を殺し帝位を奪う)し、自立して帝となったが、これは土竜や芻狗が名のみあるようなものである。

 また《蜀志・費詩伝》に

今大敵未克,而先自立,恐人心疑惑。

今は大敵にまだ克っていないが、なのに先ず自立〔して帝号を称〕すれば、おそらく人々の心は疑惑する。

 などとあるように、そうする資格がないのに、ひとり勝手に王や皇帝を称した、というふうの、悪い評価を示している。それに対して、共立とは、やむをえない事情があって推戴された、それだけにそれなりの人物であるという、良い評価を表している。卑弥呼はかく倭王として認められたわけである。

 王者の任務には祭祀を伴う。卑弥呼は鬼道を行ったという。のことは、《礼記・礼器》に

禮也者,合於天時,設於地財,順於鬼神,合於人心,理萬物者也。

礼なるものは、天時に合わせ、地財に設け、鬼神に順い、人心を合わせ、万物をおさめるものである。

 とか、

禮,時為大,順次之,體次之,宜次之,稱次之。……社稷山川之事,鬼神之祭,體也。

礼は、時をば大とし、順はこれに次ぎ、体はこれに次ぎ、宜はこれに次ぎ、称はこれに次ぐ。……社稷・山川の事、鬼神の祭りは、体である。

 などとあるように、その祭祀は古代中国で重視された儀礼の一つに数えられる。《礼記・祭義》などによると、鬼とは死者が土に帰ったもので、鬼とは同源の語だと考えられた。その気が昇って地上に現れることがあり、これがの顕れだといい、後世のいわゆる幽霊だが、そのあるかなきかの姿を描いたものが鬼という字である。

 祭祀といっても特別な資格ある人だけがしたのではなく、なべて昔の人は信仰家だった。家にあっては祖先を祭り、田作しては雨を乞い、狩猟しては神に供え、旅しては道すがら山川に祈った。身分が別れてくると、王者には王者にふさわしい祭祀が必要になる。言葉は同じでも、王者にとっての鬼と、民間の鬼とでは内容が違ってくる。卑弥呼の鬼道は王者の祭祀としてのものであり、単に民俗的なものと比較はできない。

 王者としての鬼神の祭祀については、《史記・五帝本紀》に

帝顓頊高陽者,黃帝之孫而昌意之子也。靜淵以有謀,疏通而知事;養材以任地,載時以象天,依鬼神以制義,治氣以教化,絜誠以祭祀。

帝顓頊高陽は、黄帝の孫にして昌意の子である。静淵であって謀が有り、疏通にして事を知る。材を養うには地に任じ、載時のことは天に象り、鬼神に依って義を制し、気を治めて教化し、絜誠にして祭祀した。

 また、

高辛生而神靈,自言其名。……取地之財而節用之,撫教萬民而利誨之,歷日月而迎送之,明鬼神而敬事之。

高辛は生まれながらにして神霊あり、自らその名を言う。……地の財を取ってこれを節用し、万民を撫教してこれに利誨させ、日月をかぞえてこれを迎送し、鬼神を明らかにしてこれに敬事した。

 などとあるように、上古の聖王はこれを正しく扱ったとされる。反対に、また《夏本紀》に帝孔甲は鬼神をやぶることを好み、《殷本紀》には帝紂は鬼神をあなどったとあるように、王者がこれを怠ることは王朝の滅亡にもつながる凶事だった。

 中国では天地・社稷・祖宗の祭祀は皇帝のするべきこととして清代まで続く。このことは、神武天皇が行軍中に香具山の土を採って器具を作り天神地祇を祭ったとか、崇神天皇が災いを除くために神々への占卜や祭祀を行ったと伝えられているように、日本においても然りとする。天皇は実権を臣下に委ねてからも伝統的祭祀を続け、後世にはそれだけが存在意義のようにもなった。

 このように、昔の王者にとって祭祀をするのは普遍的なことであり、卑弥呼が特に宗教的な性格の濃い王者だったと考える必要はない。もし当時が都市国家的段階に属するとすれば、卑弥呼の鬼道は、アテネにおけるアテナ神のような、都市の守護神に対する祭祀と比較することができるだろう。これを鬼道という字で表現したのは、東夷諸国には中国上古の礼俗が伝わっているという観方によっている。ここからそれがシャーマニズムであるとかの内容を引き出すことはできない。ただ支配するだけの覇者ではなくて正当な王者であるという意味を表したのである。

kodakana.hatenablog.jp

 卑弥呼は鬼道を行い、人々を「惑」したという。は、獲・國・域に通じ、外から囲われるように心を捉われることを指す。王者としての祭祀を怠らず、従って人々が心服した、ということを言っている。

 卑弥呼は成年に達しても結婚しなかった。そして弟があって治国を補佐していた。ここの、

有男弟佐治國。

 という言い方は、特定の個人を指していない。単に男弟があって、というよりも、ある男弟が、という意味である。また、“魏志倭人伝”にはしばしば個人名を記すが、ここにはない。だから「男弟」は二人以上いて、そのうちの一人か、あるいは交替で、女王を補佐したことになる。もし仮に卑弥呼の事績が天照大神に反映したと考えるならば、日の神には二人の弟があるとされることと奇妙に符合するが、それについてはまた別に検討を要するのでここでは述べない。

 殷の湯王には伊尹があり、周の武王には呂尚があるというように、王者には優れた輔佐があってこそ明主たりうるということは、古代中国の王権思想において一つの類型になっていた。卑弥呼の弟がどれほどの人物だったかは知ることができないが、ここに記されたのはそうした関心によっている。

 卑弥呼は王となってから、まみえた者が少ないという。ここの「見」は、単に目で視た、というよりも、会見・対面のことである。王者が謁見を制限することは、権力を神聖に飾るためにしばしば行われる。秦の始皇帝もそうしたし、徳川氏もこれによって大いに権威を重くした。女王は宗教的な禁忌に包まれてずっと宮殿の奥にこもっていた、などとというのではない。何せ、

以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。

 というのだから、単に視たという人は少なくないはずだ。「自侍」というのは、誰かが卑弥呼に婢をあてがったのではなく、自身の意思で侍従させた、ということであり、ここにもその実際的権力者としての性格が表されている。

 従来の諸説では、ここで文を切り、「飲食を給し、辞を伝えて出入りした」のは「男子一人」だけだと考えている。しかしそれでは「婢千人」が近習していると切り出しておきながら、なんとも尻切れトンボの感じがする。文章は首尾が相応じてこそ能筆と言えるのである。ここは現代文なら括弧を使って、

婢千人を自ら侍らせ(ただ男子一人だけはいて)飲食を給し辞を伝えて出入りさせている。

 と書きたいところではないだろうか。卑弥呼の身近に仕えるのは女性にほぼ限られているが、男性の枠が一人分だけはある、というのである。昔はそういう記号がないから見分けにくいが、括弧付きの但し書きのような書き方そのものは行われていた。“倭人伝”の中だけでも、

到其北岸狗邪韓國

その北岸の狗邪(韓の)国に到る。

 とか、

南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。

南して邪馬台国(女王の都する所)に至る、水行十日、陸行一月。

 といった例がある。

 なおここでも「男子一人」は特定の個人を指すのではなく、男性のある者が一人、という言い方をしている。

 卑弥呼が居処するところの宮室・楼観には、城柵が厳しく設けられ、常に人があり武器を持って守衛していた。これは同伝に不耐濊王の居処は民間に雑在するとあるのに比べてその差がはなはだしい。対して卑弥呼の王権は同時代の東夷諸国の中で最も格式の整ったものとして記録されているのである。

 宮室・楼観などというものは、弥生時代の日本にはなく、陳寿が想像で書いたのだ、という説をなす向きがかつてあった。周知の通り、その後の発掘によって、記述が実際に合うことが確かめられている。考古学的知見が足りなかったのは時代のせいだから悔いるに足りないが、だからといって想像で書いたなどとは却って迂闊な想像をしたものだ。ここには史料に向かう者が忘れてはならない教訓がある。

女王卑弥呼と乃の字の事情

 女王の都する所・邪馬台国を訪れた梯儁は、金印や賜物を引き渡すという使命を果たすだけでなく、女王卑弥呼の政治や来歴について調査することも怠りなかった。梯儁はどんな眼でそれを観ただろうか。

 そもそも中国の歴史は、古代帝国的段階の前半までは、万事がおおむね上昇する傾向にあり、社会の進歩に対する楽観的な見方が優勢だった。しかしその後半になると、長く天下を統べた漢の体制も破綻に向かい、政治は乱れ、経済は衰えて、三国時代には人口が十分の一にもなったと云われる。すると、「昔は良かった」という素朴な感覚が、勢い「古い時代ほど良かった」という思想と結び付いて、昔々の箕子が朝鮮に行って礼儀を伝えたとか、孔子が中国に礼が行われないのを嘆いていっそ海の向こうに住もうと言ったとかの故事が思い出されてくる。そのことは《漢書・地理志下》に、

玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。(……殷の道が衰えると、箕子は去って朝鮮にき、礼儀によって教え、田蚕織作させた。……それ東夷は天性従順にして、三方の外よりたり、故に孔子が道の行われないのを悼み、いかだを海に設けて、九夷にもうと欲したこと、さもありなんかな。楽浪の海中には倭人が有り、分かれて百余国を為し、歳時には来て献見するのである。)

 と書いてある。だから、陳寿もこれを承けて《魏志東夷伝》に、

雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。(夷狄の邦といっても、しかし俎豆のかたちたもたれている。中国が礼を失えば、これを四夷に求めるというのも、なおまことなることらしい)

 と述べたわけだ。東夷は本来従順な性格で南西北の外蛮よりも勝れているという。後漢前期の班固においてすでにこうだが、三国時代にはなおさら中国文明の行く末を悲観する気分が横溢し、東夷諸国への関心がそこに上古中国の反映を見いだしたいがために高まったのである。そこには中国が失ったものが伝わっている。それは、日本人が時々沖縄に「日本の原像」を求めるのに似て、その対象の独自性を軽視する面があるが、人情のやむをえない所があると理解できよう。

 さて魏は倭の諸国を統べる卑弥呼親魏倭王として冊立したが、女性であるということで問題になったという形跡はない。中国史にはこれより前に女性の正式な王者がいたとは見えないが、事実上の統治者としては呂太后をまず挙げることができる。呂太后は漢の高祖が死んだ後に実権を握った。司馬遷は、《史記》に呂太后のための本紀を立て、その時代は戦乱を忘れて平和であって農民は生業に励むことができ衣食はいよいよ豊かになった、と評価している。あるいは三皇の一人である女媧が想起され、東夷の国に女王とはありうべきことだと考えられたのかもしれない。

 ともあれ梯儁などもこうした時代の眼で卑弥呼を観たに違いない。その報告書は、魏の書庫に収められ、晋に引き継がれて、陳寿が“魏志倭人伝”を作るための資料となったはずだ。陳寿は事実を圧縮して表現するから、その文は短い。だが簡にして要を得ている。《魏志東夷伝》によると、

其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞。

 とある。この部分は《太平御覧》の引用でも違いは小さい。

倭國本以男子為王。漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐無定,乃立一女子為王,名卑彌呼。事鬼道,能惑眾。自謂年已長大,無夫婿,有男弟佐治國,以婢千人自侍,惟有男子一人給飲食,傳辭出入。其居處,宮室樓觀城柵,守衛嚴峻。

 ただ「倭国乱」の時期が「漢の霊帝の光和中(178~184)」と特定されている。しかしいずれにせよこれは乱の発生した時期を示しているだけで、その経過と帰結は次の「相攻伐歷年,乃共立一女子為王」が表している。継続期間は不明だが、「歴年」だから一年では収まらないし、二~三年程度ということでもなさそうだ。この間の事情が簡単でないことは、の一字が物語っている。

 乃という接続詞は、前段を承けて後段が起きることを示すが、その受け方は曲折的である。即や則が「すぐに」「ならば」などの意味を持ち、どちらも前後の文を直結するのに対して、乃は「ようやく」「そこまでして」といった意味で前後の関係が込み入っているという含みを持たせる。この字のいい用例が《蜀志・諸葛亮伝》にある。

由是先主遂詣亮,凡三往,見。(これにより先主は遂に亮をたずね、べて三たび往き、ようやくまみえた。)

 これは“三顧の礼”として知られる名高い場面で、小説の《三国演義》では玄徳と孔明が会えるまでの情景をたっぷりと語り尽くしている。それも陳寿に書かせればたったこれだけのことだが、ここの乃の字が大事なのだ。もしこれが、

由是先主遂詣亮,凡三往,見。

 「三回行っただけですぐに会えた」とでも書いてあったら、もし羅貫中が百人いても想像を広げる余地がない。ここが乃であればこそ、その消息が思いやられるのである。もう一つ、《魏志東夷伝高句麗の段から用例を挙げておきたい。

其俗作婚姻,言語已定,女家作小屋於大屋後,名壻屋,壻暮至女家戶外,自名跪拜,乞得就女宿,如是者再三,女父母乃聽使就小屋中宿,傍頓錢帛,至生子已長大,乃將婦歸家。(その俗、婚姻するには、言語はなしまったら、女の家では大屋おもやの後ろに小屋を作る。壻屋とぶ。壻は暮れどきには女の家の戸外に至り、自ら名のって跪拝し、女の宿ねどこに就き得ることを乞う。これをこう再三すると、女の父母はやっとゆるして小屋の中の宿に就かせ、旁らには銭と帛をむ。生まれた子が長大おとなになったら、ようやくつまれて家に帰る。)

 乃という字がいかに使われたかがよく分かる。

 霊帝の光和年間といえば、黄巾党の蜂起がその末年であり、三国鼎立の小康状態を得るまでに三十年近い歳月を必要とした。「倭国乱」においても、それに並行する期間を考えて良いのではないだろうか。

 漢末、中国が大いに乱れた時期、倭人の諸国でも秩序が失われ、やがてそれは一人の女子を王として推戴することに結着した。女王は名を卑弥呼と称した。それが220年頃のことだったとすれば、その死が記されるまで在位30年程度となり、この時代の王者としては長い方に入るが、まだ考えやすい範囲には収まる。卑弥呼がどんな王者だったかについては、長くなるから次回に分けることにしよう。

「当在会稽東冶之東」を読み解く

 《魏志東夷伝》には、帯方郡からの道のりの他に、邪馬台国の位置に関係する情報がいくつかある。その一つは、

計其道里,當在會稽、東冶之東。

 というものである。やや意味を取りにくい書き方で、なぜここに会稽の東冶を持ち出す必要があるのかも分かりにくい。

 はるかに時代は下って、南宋の趙汝适が著した《諸蕃志》には、

倭國在泉之東北,今號日本國。

 かつ、

計其道里,在會稽之正東

 とある。趙汝适の示す方位観はやや複雑だが、長くなるので説明は省く。どうであれここでは大差がない。泉とは今の福建省泉州市のことで、当時随一の貿易港だった。会稽は浙江省紹興市である。後者の記載は、《魏志》の文を利用しつつ、字を改めて意味を変更している。日本の座標は「泉州の東北」で「紹興正東まひがし」だというから、これを信じて鹿児島にたどり着ける。

 唐の姚思廉の《梁書・諸夷伝》には、

去帶方萬二千餘里,大抵在會稽之東,相去絕遠。

 とあるが、「会稽の東冶」と単に「会稽」とでは地理的な開きが大きい。東冶は福建省の福州市で、紹興とは南北約450kmの隔たりがある。しかも《魏志》では「道里」つまり「二地点間の道のり」に関することを述べているのであって、単純な位置関係を言っているのではない。

 会稽は、上古の伝説的な天子である夏后禹にゆかりのある地名である。禹は、帝舜の治世に、各地を巡って治水を成功させたり、貢賦や五服の制度を整えたと伝えられる。禹は舜の後を継ぎ、後に会稽に行ったときに崩御した。禹は長江の南で諸侯と集会し、功績を計り、そこで崩御して埋葬されたので、その地が会稽と名付けられたと云われる。会稽は会計の意味だとされる。

 やがて、秦が楚を滅ぼすと、呉越の地に会稽郡を置いた。この年は秦王政の二十五年(前222)である。秦末漢初の曲折を経て、また会稽郡が置かれたが、前漢の末には江蘇省南部から浙江省福建省にわたる広い地域を領した。ただし広いというのは未開の地が広かったのである。《漢書・地理志上》に

會稽郡,戶二十二萬三千三十八,口百三萬二千六百四。縣二十六:吳,曲阿,烏傷,毗陵,餘暨,陽羨,諸暨,無錫,山陰,丹徒,餘姚,婁,上虞,海鹽,剡,由拳,大末,烏程,句章,餘杭,鄞,錢唐,鄮,富春,冶,回浦。

 とあり、この内の冶県の地が東冶とも呼ばれる。後漢時代には、東侯官、また侯官と改称されたが、行政制度上のことで、地名としてはなお東冶とも呼ばれた。

 会稽郡治は、はじめ呉県に置かれたが、後漢の順帝の永建四年(129)、北部を割いて呉郡を設けたため、山陰県に移された。呉県は今の江蘇省蘇州市、山陰県は浙江省紹興市である。山陰県の南に会稽山があり、その山中にかつて禹が葬られたと一般に信じられている。単に会稽と言えばここを指す。

 会稽郡は、開発が進むにつれて何度か分割され、呉の永安三年(260)、東冶を含む南部には建安郡が設けられた。しかし大まかな地方名としてはやはり会稽が使われることもあった。建安郡治は建安県に置かれたが、今の南平市でやや内陸にある。陸路不便だったこの地域では、海浜の東冶が交通の一拠点として重視されたようである。

 例として、《魏志・王朗伝》に、漢末、会稽太守だった王朗は、孫策を防ぎきれずに、海に浮かんで東冶に逃げ、そこで降伏したことが見える。裴松之が注に引く《献帝春秋》には、王朗はそこから船で交州まで逃げるつもりだったとある。交州とは今のベトナム北部であり、東冶という土地の性格がうかがえる。

 《呉志・孫策伝》には、

吳人嚴白虎等衆各萬餘人,處處屯聚。吳景等欲先擊破虎等,乃至會稽。策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。(呉人の厳白虎らは各々一万人あまりをあつめ、処々に屯聚たむろしていた。呉景らはまず虎らを撃破してのちに会稽に至るつもりでいた。孫策は「虎らは群盗で、大志があるのでなく、いずれとりことなるだけのものだ」といい、兵を引きいて浙江を渡り、会稽に拠り、東冶を屠り、のちに虎らを攻め破った。)

 とあり、会稽に次ぐ要地として東冶の名が見える。

 また、《呉志・呉主伝》黄龍二年(230)の条には、

遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。(将軍の衛温・諸葛直を遣わし甲士一万人をひきいて夷洲及び亶洲を求めさせた。亶洲は海中に在り、長老が伝えて言うには、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし童男童女数千人を将いて海に入らせ、蓬莱の神山及び仙薬を求めさせたが、このしまとどまって還らなかった。世々相承して数万家になり、そのあたりの人民が、時に会稽に至り貨布あきないすることがあり、会稽の東県の人が海を行くに、やはり風に遭い流移して亶洲に至る者がある。所在絶縁で、ついに至ることができず、ただ夷洲の数千人を得て還った。)

 という記事がある。会稽の東県とは東冶の誤りだろう。范曄の《後漢書東夷列伝》には、

會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠,不可往來。

 とあって、東鯷人云々は《漢書・地理志》からの引き写し、夷洲と澶洲についても《呉志》の文とよく似ている。ここで「会稽の海外」は構文上「夷洲及び澶洲」にも係る形になっているのだが、中でも「会稽の東冶県」の人が澶洲に至ることがあると特に記されている点が注目される。

 福州から海に出ると台北は目の前にある。そこから沖縄を経て島伝いに九州に至るのはさほど難しいことではないだろう。東冶を拠点とする遊漁民などは、史書を著すような知識人が考えるより、もっと簡単に海を往来していたかもしれない。

 当時の呉はかなり大きい船を持っていたらしいが、それは沿岸航路用に過ぎない。未熟な大型船で海を越えることは、遣唐使船がしばしば難破したように、実際危険である。かえって小型船の方が、波の力を受けることが小さく、水夫に十分な経験があれば、より安全に航海できたと考えられる。

 ともあれ、以上のことから、「会稽の東冶」とは、海上交通の一拠点であり、航海に長けた人々がいたことが察せられる。そこで、問題の一文は

其の道里を計ると、会稽の東冶の東にくところに当たる。

 という意味で、東冶の人が東の海に乗り出して至ることがあるという行き先と倭の女王国とは、伝えられるそれぞれの道のりによってみると、その位置がどうやら一致する、ということを言おうとしているのではないだろうか。もちろん中国人が実地に踏査した帯方郡からの道との比較では情報の精度に差があり、亶洲が即邪馬台国であるとまでは言えない。

 ただこの一文とその前後は、《太平御覧》の引用には欠けており、文章が錯雑としたところもあって、どれだけが本当に陳寿の原稿にあったか、疑うべき理由がある。四川省出身の陳寿がこんなことを聞き知っていたかどうかも疑えば疑わしい。あるいは裴松之の注が混入したものかもしれない。裴松之が《三国志》の注を完成させたのは南朝宋の元嘉六年(429)で、これ以前に倭王賛が少なくとも二度朝貢をしている。裴松之は范曄と同時代の人でもある。范曄の《後漢書東夷列伝》には、

其地大較在會稽東冶之東

 という記述がある。この二人がその時代に共通の関心から似たことを書いたのだとすれば、その表現は必ずしも魏末晋初の認識ではなく、南朝時代に新しくもたらされた知見を反映している可能性があり、これに対する評価も違ってくることになる。