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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

南北朝時代の倭国(前編)

本論

 五世紀の南朝宋・北朝魏の対立から六世紀末の隋の統一までの約一七〇年間を普通に中国史南北朝時代と呼んでいる。これを国史南北朝時代とはいっても、その状況は国際的なものであり、周辺諸国をも巻きこむものだった。だから二十世紀後半の日本を「冷戦時代の日本」とも言えるように、五~六世紀頃については「南北朝時代倭国」とも言えるのだ。もちろんそれは歴史の一面であるにすぎないが、ただ複雑な立体物はその全面を一度に見ることはできないから、まずはその一面からこの国を見てみようというのである。

 前回「弥生文化式都市国家論」では、三世紀代の倭人の状況は都市国家同盟の段階であり、初回「古代史を読む」では、六〇〇年頃は領土国家の連合が進み古代帝国的段階に至る直前にあたるという、それぞれの見通しをつけることができた。すると時期的にその中間である五世紀頃は、社会の発達もやはりその中間の状態にあるという予測が立つ。これをこの時代を理解するための大まかな前提としよう。

 南北朝時代倭国をうかがう同時代的史料としては《宋書》がある。南朝梁の沈約の撰で、単に対象とする時代からさほど年を隔てていないというだけではなく、南北朝時代という一連の状況の中で成立した史書であることで価値が高い。南朝の通史としては唐の李延寿の手になる《南史》がある。これは各王朝史の総集編で、独自の記事はないが字句に疑いのある場合の参考になる。

 五世紀代の事件としては《晋書・安帝紀》の義熙九年(四一三)に

是歲,高句麗、倭國及西南夷銅頭大師並獻方物。

 とあるのが最初だが、《晋書・四夷伝》の倭人の段には三世紀代にかかる内容しかないのでここでは役に立たない。

 《宋書・夷蛮伝》は、《魏志東夷伝》や《隋書・東夷伝》と違って、政治的交渉の記録がほとんどであり、諸国の体制や文化に関する記事がない。だから事実として確かに分かることは宋朝と諸国との関係だけだが、先に立てておいた前提を置いてみればそれなりに得るところがある。

 ここでの前提によるばあい、四~六世紀頃の倭人の社会は、各地域における都市国家間の結合が、各地域ごとに領土国家的体制に進み、さらに領土国家間の同盟が形成されていく段階にあたることになる。これは中国史の春秋・戦国時代の展開に比較できる。中国史の戦国末期から秦・漢の初期までは、日本史の七世紀と比較できる段階である。

 だから五世紀の倭人の社会は、各地域ごとに領土国家が営まれていたと考えることができる。しかし古代の国というものは、今日のように国でさえあれば対等の権利を認められるとは限らない。むしろ企業間の関係のように、それぞれの持つ力によっておのずと資格に差がついてくる。そこで宋への朝貢にあたっては、諸国の王者の中から一人が立って代表することにもなる。

 このことは宋の皇帝側の事情にもよる。というのは、天子たる皇帝は朝貢を受ければ返礼に回賜の品を贈らなければならない。回賜というのは献上品への対価ではなく、天子の徳を表現するものである。卑弥呼が「男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈」の献上に対して、魏の皇帝から銅鏡百枚を含む多大な品々を受けとったことを思い出せばよい。だから、皇室財政によほど余裕のあるときでなければ、群小の諸国が別々に来ると困る。そこでまとめて代表を出させる。《魏志東夷伝》に記された韓国の辰王などはそのはなはだしい例で、王とはいいながらほとんど代表権しか持っていなかったらしく書かれている。

 《宋書・夷蛮伝》によると倭宋関係は

高祖永初二年,詔曰:「倭讚萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」

 とあるのに始まる。この年は西暦四二一年にあたり、高祖つまり宋の武帝が晋から禅譲を受けた翌年になる。この前年、武帝は、高句麗王と百済王に対して、晋が与えていた将軍号を大将軍号に進め、持節・都督・王・公はそのまま認めている。即ち高句麗の高璉は使持節・都督営州諸軍事・征東大将軍・高句驪王・楽浪公に、百済の余映は使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王として認知されている。宋朝による承認は国際的にも通用する。倭人勢力は東夷の有力集団の中で国際的地位の確保が遅れていた。しかしこの時は「可賜除授」つまり「爵号を与えることにする」というだけで、実際の徐授が行われたようには書いていない。

 それから四年後になっても、

太祖元嘉二年,讚又遣司馬曹達奉表獻方物。

 というありさまで、朝貢はしたが地位は認められていないらしい。讃なる人物の代表者としての資格が疑われたのだろうか。また五年後、《宋書・文帝紀》の元嘉七年春正月に、

是月,倭國王遣使獻方物。

 とある。貢献を定期的に行うことで信用は高められたことだろう。しかし倭王に爵号が与えられたことが初めて見えるのは、そのまた八年後のことである。

讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。

 この《宋書・夷蛮伝》の記事には年次がないが、《宋書・文帝紀》を参照すると元嘉十五年のことと分かる。ここで倭王珍は「使持節・都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」を請求し、宋が認めたのは「安東将軍・倭国王」である。また珍が「倭隋ら十三人」のために求めた平西将軍・征虜将軍・冠軍将軍・輔国将軍はそのまま認められている。将軍号で珍と並んだ十三人は、まさに各地域に営まれた領土国家の王者だっただろう。珍は国王号を持つことで抜きんでてはいるが、ここでは代表権を認知されたのに過ぎない。(つづく