ロシア史の概略(3/3)革命・戦争・世界
1904年に日本の攻撃を受けて始まった戦争によって、翌年にロシアは極東に於ける権益の多くとサハリン島の南半を失う。それより前、遠距離の戦力輸送による負担がのしかかるさなか、05年1月に「血の日曜日」事件が起きたのをきっかけに、広汎な革命運動の盛り上がりをみせた。これは次第に沈静化しながら、06年の立憲制導入と議会(ドゥーマ)の設立につながるものの、憲法体制はすぐ機能不全に陥った。
14年、サラエヴォでオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に殺害され、オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアが対立すると、ロシアはやはり同じスラヴ人というわけで、セルビアを支援する。オーストリアの背後にあったドイツはロシアに宣戦布告し、イギリスとフランスはロシアの側に立って参戦した。
この第一次世界大戦は初め、ロシアの混乱していた内政を引き締めるのに役立った。しかしヨーロッパ第一の工業国となっていたドイツに対して、ロシアの経済力では耐えられず、戦況は悪化して、16年までにリトアニアやポーランドを奪われた。国内では経済が疲弊し、労働放棄が各地で続発した。17年2月、ペトログラート(ドイツ語風のサンクト=ペテルブルクから14年に改称)で労働者が「パンをよこせ」と叫んで行進した。かつて「血の日曜日」事件は、軍隊がツァーリに忠実だったため大事に至らなかったが、今度は兵士たちがすでに厭戦気分に倦んでおり、丸腰の市民に対する発砲命令の結果に耐えられず、かえって労働者の側に付いた。
議会は革命を受け入れ、ニコライ二世は3月2日に退位に追い込まれて、300年続いたロマノフ王朝は断絶し、臨時政府が発足した。戦争はまだ続いていて、戦況は臨時政府への信任をも失墜させる。クーデタや民族主義運動も噴き出す中で、国家社会主義体制の構想を固めたレーニン派の”ボリシェヴィキ(多数派を意味する)”が急速に勢力を伸ばし、10月に政権を獲得する。ボリシェヴィキ政権はドイツとの終戦を急ぎ、18年3月に講和してフィンランドやバルト諸国、ウクライナなどを手放した。しかしこれまでのロシアの犠牲は、ドイツに対する英仏両国の戦線をかなり救った。
対外戦争は終わったが、国内ではボリシェヴィキと仲違いした社会革命党や、帝政派などが蜂起してレーニン政権に対抗した。さらに第一次大戦のためにロシア領内に部隊や物資を置いていたイギリスやフランス、アメリカなどが革命に干渉しようと行動し、あわよくば好都合な政権を作ろうと狙った。極東では日本もこれに加わった。欧米諸国は二年程度で手を引いたのに対して、日本は四年間も軍を駐めた。
22年、ロシアはウクライナ、ベロルシア(ベラルーシ)、ザカフカス(コーカサス)に成立した各ソヴィエト社会主義共和国と、ソヴィエト社会主義共和国連合を結成した(ソヴィエトは“評議会”を指す)。数年のうちに中央アジアに成立したソヴィエト政権もこのソ連に加わった。ソ連は建前としては独立した共和国の連合体であり、離脱も自由にできるとしたが、実際にはソ連共産党を頂点とする強力な中央集権制が作り上げられた。
各共和国の中には、少数民族の自治のためということで、さらに小型の“共和国”が設けられる例があった。ロシア共和国の管内で、クリミア半島にはクリミア・タタール自治共和国が置かれた。
レーニンは革命の好機を気長に待つ粘り強さを持ち、権力の掌握にあたっては天才的な手腕を発揮した。政治思想としては急進的社会主義(共産主義)が必要だと考えていたが、実行のために現実と妥協する柔軟性も持ち合わせていた。
経済思想としての社会主義はもともと、マルクスによって資本主義の段階が爛熟し自壊したあとに到来するものとして考えられていた。つまり資本主義経済が変化した、後期の形が社会主義経済であって、その限りに於いて両者は矛盾する概念ではない。また政治思想としても民主主義と対立するものではなかったし、むしろ資本主義(自由主義)こそは資本家による支配を許し、民主制を壊すとも見られていた。
しかし急進的な、原理主義的な社会主義、つまり「どうせそうなるのだから直ちに実現しよう」とか、「立ち遅れたロシアであればこそ、資本主義の段階を省略して到達できる」などと短絡することから間違いが起こる。社会主義は平等を特色とするが、国家によって強制的に平等を実現しようとすると、経済を調整するために超越的な権力が必要になり、その権力を担う層が特権階級となることで平等が破られる。もっともその任に当たる人が適当に交替していれば問題はまだしも小さいかもしれないが、しかし人には欲望があり、その手にはすでに権力があれば、特権を永続化しようとするだろう。(この点、自由主義も極端になれば自由が失われるのと対称の関係にある。)こうして民主主義を欠いた強権的社会主義体制が現れる。
この共産主義の矛盾を利したのがスターリンだった。レーニンはスターリンの危険性に気づいていたが、スターリンは巧妙に振る舞って忠実な後継者を演じ、実際にはソ連を大きく変質させた。レーニンが各民族の文化を尊重する方針を持っていたのに対して、スターリンにはロシア偏重主義の傾向があったが、興味深いことに本人はサカルトヴェロ(ジョージア)出身だった。
確かにソ連の計画経済は、その初期の段階にあっては、遅れた経済を発展させるのに有効だったように見える。第二次世界大戦では大きな打撃を受けながらも、急拵えの工場で世界最強の戦車を生産し、ヒトラーのドイツ軍を押し返して、ベルリンに一番槍を付けた。終戦までにソ連は、戦前すでにドイツとの妥協によって勢力下に入れたバルト諸国に加えて、ポーランドに取り込まれていたベラルーシ西部やウクライナ西部などを獲得した。
極東では米英との合意に基いて対日参戦に踏み切った。アメリカはソ連に千島などを取らせると約束しながら、電撃的に原子爆弾を使って日本の降伏を早めようとし、同時にソ連を威嚇して戦後の国際関係を有利にしようとした。スターリンからすれば米軍はソ連を待つべきであり、報復の意味も込めて真珠湾攻撃の基地として知られた択捉島を確保する必要を感じたろう。ソ連はかなり慌ただしく進軍し、日本領千島列島やサハリン島南部などを占領した。この際、当時の千島支庁の管内を越えて歯舞諸島まで駒を進めたのは、準備不足が原因だったらしい。
戦争が終結すると、クリミアのタタール人は、ナチに協力したとされ、民族まるごと遠方に移された(公平のために言っておくと、日本もロシア国家との関係上何度か国境を変更する過程で、樺太と千島のアイヌ人を事実上強制的に移住させ、悲惨な結果を招いたことがある。これに限らず、少数派の権利は多くの国で抑圧されていた。)。主人なきクリミアは54年、ウクライナの管轄に移された。
共産主義者にとっての大きな誤算は、19世紀末にはすでに限界が見えたと思われた資本主義経済が、権力による適度な調整(反トラスト法のような)を加えることで、意外にも長続きし始めたことであり、また国家社会主義による経済が絵に描いたようにはうまく回らないことだった。20世紀後半になると、ソ連の経済はその計画性がむしろ足かせとなって、またも大きく後れを取るようになり、アメリカとの軍拡競争に耐えられなかった。
1991年、ソ連は解体され、ロシア連邦をはじめとして、15の共和国が独立した。クリミア半島はこの時に初めて、独立国としてのウクライナの領土になった。
評して言う。歴史を振り返ると、ロシアとウクライナの分裂は、13世紀のリトアニアによる侵略から始まった。もともと両者にわずかな地方的な違いはあったとしても、文化や言語は共通だったと言って良く、外力による分割がもしなければ、紆余曲折はあれ一つの国にまとまっていった可能性は高い。約500年後にロシア帝国がポーランドからウクライナを回収したが、そもそもリトアニアの行為はあるべきでなかったと認めるならば、再び統合されるのは当然だったという見方もできる。
しかし現実がそう簡単にいかないという理由としては、第一に征服されたことで濃厚にヨーロッパ化したウクライナと、タタールの影響でアジア的性格も併せ持ったロシアの差が挙げられる。第二にはウクライナ人がカトリック教の影響を受けたことで、正教のロシア人とは宗教観の違いができたことが言える。第三にはこの時期が近代的な国民国家の下地ができてくる頃合いで、別々の国民意識が形成されたということがある。ともあれリトアニアとポーランドによる征服が、ルーシの統一をほとんど永久に阻み、この先も長く続くだろう問題を作り出したことになる。
クリミア半島に関しては、もとより黒海北岸地域は遊牧の適地で、農耕的なスラヴ人が古くから定着したものではない。領有権に歴史的根拠を求めるなら、ウクライナにとっても強いものではなく、ロシアの強引な手法に問題はあっても、その主張自体を否定できることにはならない。もっともこうしたことは遡れば切りがなく、理屈ではたとえばトルコも権利を主張できることになる。しかし個人的にはクリミア・タタールの権利が尊重されない限り、領有権など問題どころではないと考える。
似たことは千島列島についても言える。日本とロシアがどのように領有権を主張しようとも、その根拠は19世紀半ばより前に遡るものではなく、先住民が隷属視された状況の上に成立したものである。
領土問題の根本は、何を以て正しいと認めるかという基準が確かにならない所にある。確かでないことを正しいと思おうとするから、強い信念が必要になり、信念に執らわれるから、反対する主張は耳に入らないという呆けた態度になる。相手の言うことを聞かないから、交渉自体が不可能になり、結局は実効支配が既成事実になるのを、黙って承認するのと同じことになるだろう。
ロシアの北大西洋条約機構(NATO)の拡大に対する警戒については、繰り返し侵略や圧迫を受けた経験から、歴史によって実証された意識に根ざしたものであり、かつてロシアに対して手出しをした諸国が小手先の対応をしても、根本的な解決を図れるものではないと言われなければならない。特にロシア人が近代国家を立ち上げようとする時期に、諸国が軍事的干渉をしたことは古傷をえぐるのに十分であり、今に至るまでその体制に基礎的な警戒心を植え付ける結果を招いたことは理解する必要がある。