古代史を語る

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古代人の方位観を捉えるために

 《魏志東夷伝》には、帯方郡から邪馬台国までの行程が示されており、そこには「又南渡一海千餘里」とか「東南陸行五百里」のように多く方位を付けてある。これを信じればその順路をたどることができそうだが、そのためにはまず方位観の発達について考えておく必要がある。

 現代人が地図上で認識する方位は、北極点と南極点を直線で結んでその方向を南北とし、これに直行する直線を東西とする。しかし人類が初めからこのような方位観を持ったわけではない。依るところは自然の産物だが、どこを取って方位とするかは人為による。時間が経つのは自然現象だが、いつを何時とするかは人為の選択による。季節が移るのは自然現象だが、どこを節分とするかは人為の決定による。方位もまたこれを定めるのは人為であり自明のものではない。

 我々は行動中に方位を測るには磁石を用いることを知っている。これは地軸による方位とは厳密には一致しないので、現代人も複数の方位観を持っていることになる。古代中国では、磁石そのものの利用は始まっており、磁石が自由に動く状態では一定の方向を指すことも一部の人には知られていたらしい。しかし磁石を旅行に利用したという確実な記録は中世までに現れないようである。

 そもそも現代人は東西南北の四極で方位を捉えることを当然だと思っているが、これとて自明のことではない。非常に素朴な段階の生活を考えてみると、初めは地勢によって方位を決めたのである。例えば一方にしか山がない地域ならば、山側とその逆側、それに山を前にしてその左右といった捉え方をする。地域によっては海や川が基準となる。地形によってはもっと複合的な基準を持つこともありうるだろう。

 しかし行動や交流の範囲が広がると、ある地域でしか通用しない方位観では不便になる。そこでやっと太陽を仰ぐ。太陽は、どこから見ても、東から出て、南に昇り、西に沈む。これによって東西南北の段階に達するが、まだ人類普遍の方位観を獲得したとは言えない。なぜなら、日の出・日の入りの方角は季節によって変動するので、どこを正位とするかには選択の余地が残るからである。

 太陽によって東西を決定するときには、日の出・日の入りの、夏至の日の方角を基準とするか、冬至とするか、その中間にするか、または季節に従って正位が変動すると考えることもありうる。だから東と西が一直線で結ばれるとも限らないし、東西南北の領域が四等分されるとも限らない。方位とはかくも人為的なものなのである。さらに複数の方位観が併用されるときには、それらを組み合わせてより複雑な方位観が形成されることもありうる。

 かてて加えて、方位観がここまで発達しても、それがいつも精確に用いられるとも限らない。JR北海道東室蘭駅がある。この付近では線路はおおむね北東から南西へ走っているので、駅の出口は北西と南東に付いている。しかしこれを北西口などとは言わず、西口・東口と称している。日本は南北に長いなどとよく言うが、もちろん列島が北から南へ直線的に並んでいるわけではない。それで足りるときや、事実が明らかだったり、慣用句になっているときなどは、かなり単純化してしまう。また日常的にはさほど厳密に方位を認識していない。現代人でもこうである。

 こう考えてくると、史乗に現れる方位詞について、これを単純に現代人の方位観をもって正誤を判断できないことが分かるだろう。古い記録を読んでいると、現代の地図に照らして、方位がずれていると思われるときがある。だからそれは全く当てにならないと投げすててしまうのは考えものだ。ずれるにはそれなりの理由があったはずなので、個別の例に寄りそってそれを解明したいものである。

 梯儁と張政の二回の使節団は、勅命を帯びた大事な身だから、渡航にはできるかぎり安全を期した。この海峡の気象を按じると、おそらく夏場に来てその夏のうちに戻ったか、または越冬して翌年の夏に帰ったろう。ことによると数年を過ごしたかもしれない。いずれにせよ越海には夏が良さそうである。

 行程の中に末盧国から伊都国へは「東南陸行五百里」とある。末盧国を呼子、伊都国を伊都郡前原市付近とすると、今の地図で見てその方角は東であって東南とは言えない。しかし、もし夏至に近い時期の日の出の方角によって東を認識したとすれば、東南と感じても不思議はない。

 佐賀県吉野ヶ里遺跡には、二つの内曲輪が検出されており、北よりにあるものを北内郭と呼んでいる。北内郭は、上空から見ると釣り鐘を横にしたような形で、その先頭が冬至の日の入りの方角を向いている。反対側は夏至の日の出である。この一例だけから確かなことは言えないが、こうした遺構も当時の方位観を解明する手がかりの一つになるだろう。