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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

神功皇后と海の権益

 《日本書紀》によると、晩年の景行天皇は、纏向まきむく日代宮ひしろのみやから志賀の高穴穂宮たかあなほのみやに移って、そこで崩御までの三年を過ごした。《古事記》の方にはこのことは見えないが、次の成務天皇が高穴穂宮で天下を治めたとある。穴穂とは、今の滋賀県大津市穴太あのうで、琵琶湖の南西にある。両書には不一致があるが、大まかには景行・成務の交代する頃に何らかの政治的変動があったことを示している。これまで歴代の天皇は奈良平野つまり律令時代の大和国の中にあった。それが近江国に移ったということは、当時としてはかなりの大きな変化だったに違いない。

 この移動の傾向は、成務の次の仲哀天皇の時に一層明確になる。仲哀の皇后は、神功皇后こと気長足姫尊おきながたらしひめのみことで、気長は息長とも書いて近江の地名であり、今の滋賀県米原市の辺り、琵琶湖の北東に当たる。記紀によると仲哀はほとんど王者としての実質を持たず、もっぱら神功皇后が活躍する。仲哀は高穴穂宮を本宮として引き継いだのかどうか明らかでない。その宮地に関する記事は、書紀・仲哀紀の二年二月の条に、角鹿つぬが行幸行宮かりみやを立てて居処としたとあるのが最初で、これを笥飯宮けひのみやと謂った。角鹿は今の敦賀で、笥飯は気比である。米原は北は敦賀に近い。仲哀がなぜ角鹿に行宮を作ったかは記されていないが、むしろ神功皇后にその理由があったと考えるのがまずは妥当だろう。

 書紀によって話を続けると、仲哀天皇は角鹿行幸の直後になぜか南海道方面へ出かけた。この時は神功皇后と多くの官人は角鹿に留められた。仲哀が紀伊国に至った時、熊襲が叛いたと聞き、この対応のために海に浮かんで穴門あなとへ向かった。穴門は後の長門である。その際に角鹿へ使いを出し、皇后に「すぐにその津から出発し、穴門で逢うように」と伝えた。神功皇后は「渟田門ぬたのと」を経て穴門の豊浦とゆらに着いたことになっている。渟田は出雲国盾縫郡沼田ぬた郷、今の出雲市北東部に当たると思われる。かつて宍道湖は西側でも細い水道で海につながっていたと考えられ、その地形は渟田のというのと一致する。

 仲哀天皇紀伊から穴門へ、つまり瀬戸内海を船で行った。瀬戸内海といえば、神武天皇のこととされる九州南部から奈良平野への勢力の移転に、この海域で活動する遊漁民的集団が介在したろうということを前に考えた。

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 彼ら遊漁民と奈良平野を拠点とする王権との関係がその後も続いたとすれば、彼らは平時には交通や貿易のために、時には海軍力としても、その権力の維持発展に寄与したはずだ。仲哀の行動にも瀬戸内海系遊漁民が関わっていよう。

 これに対して、神功皇后は角鹿から日本海を通って穴門に渡る。

 両皇さらに筑紫へ渡り儺県ながあがた橿日宮かしひのみやに入る。今、福岡市に香椎宮かしいぐうがある。ここで一事件が起こる。仲哀天皇熊襲を討とうとしてこれを諮ったとき、神功皇后は神憑りになって、まず神威によって新羅をまつろわせるべきことを説いた。仲哀はこれを信じず、そのために祟りを受けて死んだ、ということになっている。しかし神が政策を指図したり人を殺したりするはずがない。神がしたとされることは、実際には自然現象でなければ人のしたことなのだ。この事件は、日本海側の遊漁民勢力が、瀬戸内海の同種集団より優位に立ったことを意味していそうである。

 新羅でのことは、記紀の叙述は身内びいきが過ぎるようだ。一方に都合の良い記事は、裏をとってみなければならない。韓国現存最古の史書に、高麗の金富軾が編んだ《三国史記》がある。12世紀という遅い時期の成立だが、それまでに伝えられた原史料をあまり作為なしに集成したものらしい。彼我両史によって対照のできる事件は、《日本書紀神功皇后紀》仲哀天皇九年冬十月の条の、

新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。

ここ新羅波沙はさ寐錦むきむは、即ち微叱己知みしこち波珍干岐はとりかんきを質とし、くわえて金銀・彩色及び綾・羅・縑絹をもたらし、八十艘の船に載せ、官軍に従わせた。

 とあるのと、《三国史記・新羅本紀・実聖尼師今》の、

元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質

元年三月、倭国と通好し、奈勿王(先代の王)の子の未斯欣みしきんを質とした。

 というので、実聖尼師金の元年は西暦402年に当たる。この年数も厳密には信用しかねるが、大まかには400年前後の時期にこの事件があったと見てよい。微叱己知と未斯欣とは同じ音を別に書き写したもので、波珍干岐は新羅国の官位の一つである。

 新羅本紀では、新羅の領域を侵犯したり掠奪をするのは「倭人」や「倭兵」で、そうした文脈では「倭国」を主語にしない。しかし通好や講和のときには「倭国」を使う。これを文字通りにとれば、新羅を寇掠するのは“倭”に属すると見なされる人々ではあっても、それは国として行ったものではなかったことになる。これは後の倭寇の場合と似た所がある。明は倭寇に悩まされ、足利氏に度々取り締まりを要求した。室町幕府の統治能力の低さが倭寇の活動を可能にする一因だったとすれば、これは別に不当なことではない。

 日本書紀においても、神功皇后新羅に渡ってそこで戦争はしていない。ここでは両者の主張は一致している。新羅としては、日本海系遊漁民と関係の深いらしい神功皇后に象徴される勢力に問題解決への寄与を期待し、神功皇后側としても、これを利用して権力を拡大しようとしたと考えうる。

 一方で熊襲のことは、すでに景行天皇の代に遠征をしたことになっている。これもどの程度が真実だと言えるかは問題が大きい。しかし畢竟当時の水準ではさほど広い範囲を制度的に支配することはできず、そのために仲哀天皇も重ねて遠征を企てたというのが記紀歴史観である。つまり新羅国も熊襲国も外国であり、仲哀天皇神功皇后の対立は対外政策の相違である。

 ただしこちらの関心は新羅熊襲そのものよりも、むしろ中国への通路を確保することにあったと思われる。神功皇后の活躍した時期が西暦400年前後だったとすると、それに続く413年、即ち東晋安帝の義熙九年、倭国が方物を献じたという記事が《晋書》に見える。

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 この際、韓国を経る北回りで行くか、九州を巡る南回りで通るかで、これに誰が関与できるかが変わり、前者なら日本海系遊漁民、後者なら瀬戸内海系遊漁民が、大いに利益を得ることになったのだろう。