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弥生文化式都市国家論

 かつては日本の都市は飛鳥・奈良時代の政治的計画都市に始まるとして誰もあやしまなかった。氏族制度の社会から都市国家の段階を経ずに領土国家ないし古代帝国的段階へ進んだと考えられていた。しかし弥生文化時代のいわゆる環壕集落の実態がだんだん明らかになってくると、これは都市ないし都市国家ではなかったかという考えが持ちあがってきた。

 弥生文化における普通の居住形態は、家々を集めて壕で囲った。壕の外側には、ほとんど形を留めていないが、多く土塁を築いたらしい。これを漢字で表すなら村よりも邑がふさわしい。和語的表現としてはムラかマチのどちらかとすればマチの方に入るだろう。これを都市と呼びうるかについては、ギリシャや中国の古代都市も基本的には農業都市であったことを思いあわせる必要がある。都市と呼びうるとして、この環壕集落の一つ一つが元来政治上の独立単位であったすれば、それは都市国家だったことになる。


 三世紀の同時代的史料としては《魏志東夷伝》がある。ここに記された倭人の状況は、おそらく環壕集落時代の末期に当たるだろう。この一部である通称“魏志倭人伝”の冒頭には

倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。

 とある。この国邑とは、春秋・戦国の領土国家時代には各国の首都を指し、漢代には転じて部分的封建制の封地を呼んだ。しかし国と邑とは本来ほぼ同義であり、都市国家時代の状況に置いてみれば「都市国家たる都市」を指すことになる。倭人の諸国は一人の王者を代表として魏の天子に朝貢した。これは、ギリシャにおけるデロス同盟や第二海上同盟のような、都市国家が連合する段階を示しているようである。

 さてしかし、これを都市国家と呼んで、では世界の他の都市国家にあったものがどれだけあったかとなると、これはなはだ心もとない。たとえば下水道はないし、市民権に類する観念があったかどうか、控えめに言っても疑わしい。青銅器はあっても馬車はない。また都市的生活から生じたものが後世の文化や思想に大きく寄与したということもなさそうである。

 それなら都市国家時代の生活をうかがわせるものが全然ないかというと、一つ思い当たるふしがある。それは《古事記》と《日本書紀》に記録されて有名な天の岩戸の話である。その内容はよく知られているから詳しくは述べない。ここで重要なのは、八百万の神々が集会し、種々の職能を象徴する神々が協力して、権力を象徴する神を顕界に復帰させたということである。

 この話が都市国家的であるということは、神功皇后の説話と比較すると一層よくわかる。神功皇后は、仲哀天皇武内宿禰とともに、暗い室内にこもり、神がかりをして、仲哀天皇神託に背いたために死ぬ。

 前者は、開放的であり、権力者と市民が一体となって都市を運営し、祭祀も一体であるという、都市国家の情景を思わせる。後者は、閉鎖的で、少数の権力者だけが与る祭祀であり、庶民が排除された場で重要な政策が決定されている。それは、支配者の居館だけが集落から独立し濠で囲まれた、古墳時代の居住形態にふさわしい。

 記紀における高天原時代が考古学の弥生時代を反映しており、それは都市国家時代を表しているという、ここで述べた考えが承認されるならば、さらに次のことが判明する。天の岩戸の話に続く、国譲り・天下り・神武東征などの説話は、ある都市国家からあふれた市民による植民都市の建設や、都市国家が別の都市国家を併合して領土国家へ進む過程を伝えている。これについては別に詳しく述べる機会があるだろう。


 中国やギリシャ・ローマでは古代帝国の時代まで都市国家時代の都市が存続した。これらの地域では、城壁や住居など都市の設備を比較的頑丈に建設しえたこと、それに古代都市的生活に由来するものが社会の形成に寄与すること大であったことによるだろう。中国では古代都市は漢の後期から破綻しはじめ、農民は荘園や村落に移る一方、主要な都市は政治的都市として続く。

 日本では、弥生式都市は急速に解消された。これは都市の設備が建材・気候・技術水準などの制約を受けて崩壊しやすいものであったこと、社会がさほど都市的にならないうちに都市国家時代が終わってしまったことによると思われる。このため都市のない時代がおそらく四〇〇年ほど続き、古代都市が後世の都市に接続しなかった。

 八世紀初頭に建設された平城京は、計画どおりの整然とした官庁街だった。しかし同世紀末からの平安京の造営は、思うようには進まず、十世紀には右京が廃れ東側に市街地が発達する。権力による計画を経済の勢いが上書きしたもので、これが現在のような都市の先蹤となった。