古代史を語る

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一字の考察「餅」

 「へい」という漢字を日本では「モチ」に当てている。おモチは米を粒のまま搗いて作るから、穀物の粒食の一種と言える。ところが現代中国語のビン麺粉こむぎこを捏ねて作るものを指す。これは昔からそうで、後漢の劉熙が編んだ《釈名》に

餅,并也,溲麫使合并也。

 許慎の《説文解字》にも

餅:麪餈也。从食并聲。

 とある。麪(麺)は麦の粉を指す。へいにはパンとかナンの類を含む。

 では中国には日本のモチのようなものはないのかと思って、手もとの講談社日中辞典を引くと、モチは「年糕ニェンガオ」だと出ている。そこで中国語版の維基百科ウィキペディアで年糕の項を見ると、これには多くの種類があるが、普通は米粉から作る。だから団子とかういろうに近いものである。しかしその中にあって、糍粑スーバーとも呼ばれる湖南年糕は、蒸した米を臼で舂いて作り、日本のモチに近い。糍粑は苗族など少数民族の文化だと云う。

 中国では、穀物の粉食は、張騫の西域探検以後に西アジアからの影響で徐々に広まったと推測され、後漢後期から三国時代にかけて主食として定着した。粉食が知られると、それまでは粗末な穀物として扱われた麦の地位が上がり、特に発酵させることで風味や栄養が向上して主食に適する。魏・晋の頃にはすでにパン類がかなり食べられていたらしく、倭人へいを食べる機会もあったに違いない。つまり日本ではパンのようなものは明治以降に西洋から移入された新しい文化だと思われているが、古代にはすぐそこまでやって来ていたのだ。

 日本には、中国から多くの文物を摂取したように、へいが入る機会もあった。しかしそれは実際には全く入らなかったか、またはいくらか入ったとしても定着はしなかった。日本にはへいに当たるものがなく、漢字にはモチに宛てられるものが他になかった。そこで餅がモチを示すことになった。へいは普通平円形に作り、その形状のものの形容詞としても使われるので、その限りにおいて鏡餅のようなモチには相応しい。

 日本での粉食はウドン類が古くから定着したが、広く一般に食べられるようになったのは江戸時代まで下ると云われる。饅頭は14世紀に中国から入ったとされるが、食事になるものは廃れて、菓子としてのものだけが残った。いずれも間食や代替食として扱われる。日本では伝統的に主食になる粉ものがない。これはおそらく食料環境の違いによると思われる。パン類には動物性の油脂や肉が適するが、日本では魚介類が豊富に採れるので、タンパク源のために畜産に努力する動機に乏しかった。魚介類には粒食の方が合い、特にコメが最も良いということだろう。

 このことは要するに、人間の違いではなくて住む所の違いである。

 およそサルというものは、同じ種であれば離れた棲息地でも同じ構造の社会を作るそうだ。ヒトも基本的には同じだが、ただ応用性がいくらか高いので、様々な環境や経緯によって異なる社会や文化を作り、その積み重ねが各国各地の特色ある歴史になる。それは、球をコンクリートに投げたときと布団に落としたときとでは跳ね返り方が変わるようなもので、力学的原理が国や地域によって違うということはない。

極端な追尊の歴史 ― 日本と北魏

 日本の“天皇”号がいつ創案され制度化されたかについては明確な記録がない。随・唐と比肩しようとした者が相手と同じく“天子”かつ“皇帝”を称したとすれば理解しやすいが、なぜ“天皇”が使われることになったかもよく分からない。五胡十六国などでしばしば用いられた“天王”号との関係を考える意見もあるが、それが“皇帝”の代替であったのに対して、日本の制度は《養老律令・儀制令》に

天子。祭祀所称。天皇詔書所称。皇帝。華夷所称。

 とあるように、二称兼用にもう一つを加えたものなので、両者は簡単にはつながらない。しかしいずれにせよ制度化は七世紀代のことであり、それ以前の歴代の王者に天皇号を冠したことは所謂“追尊”の例である。初代以前の人物に帝号を追尊することは、魏の武帝曹操や、晋の宣帝司馬懿のように、せいぜい祖父くらいまでが普通だが、日本のように遠い祖先まで追尊した前例は北朝にあった。

 北朝北魏が、中国支配のための政治的宣言として、黄帝の子孫を称したことは前に述べた。

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 《魏書・序紀》によると、北魏の帝室拓跋氏の先祖は、北方の原野に封じられて、土地の素朴な風俗に順応して文字を用いず、その歴史は口承されるだけだった。夏・殷・周・秦・漢の時代には匈奴などの勢力に妨げられて中国に交わらず、そのため文献に記録されることもなかった。そして、

積六十七世,至成皇帝諱毛立。聰明武略,遠近所推,統國三十六,大姓九十九,威振北方,莫不率服。崩。

六十七世を積み、成皇帝(いみなは毛)が立つに至る。聡明にして武略あり、遠近に推され、国は三十六・大姓は九十九を統べ、威は北方に振るい、率服しないものはかった。崩じた。

 とあるのが“皇帝”の初めで、この後にほとんど事績のない名前の羅列が続く。

節皇帝諱貸立,崩。

莊皇帝諱觀立,崩。

明皇帝諱樓立,崩。

安皇帝諱越立,崩。

宣皇帝諱推寅立。南遷大澤,方千餘里,厥土昏冥沮洳。謀更南徙,未行而崩。

景皇帝諱利立,崩。

元皇帝諱俟立,崩。

和皇帝諱肆立,崩。

定皇帝諱機立,崩。

僖皇帝諱蓋立,崩。

威皇帝諱儈立,崩。

獻皇帝諱隣立。時有神人言於國曰:「此土荒遐,未足以建都邑,宜復徙居。」帝時年衰老,乃以位授子。

 この次の聖武皇帝には、多少事績らしい記載があるが、内容は神元皇帝の出生についての神秘的な説話に過ぎない。

 日本古代の史料についてある程度の知識がある人ならば、《魏書》をここまで読んでみておもしろいことに気付くだろう。北魏の成皇帝はさながら日本の神武天皇、その後の十三代は所謂“欠史八代”に相当する。これらの人物がそのままの名前で実在していたか、人数は合っているか、などはもとより確かめようもない。重要なの修史に当たってそれなりに信じるところがあって並べられたには違いないということだ。そしてもし北魏の歴史をよりもっともらしくしようと思えば、各代について皇后や子女や前後との続柄を書き込めば良く、そうすればそれは《日本書紀》のようになる。

 神元皇帝の段からは、年次を追って事件が記され、年代も明らかになる。神元帝の四十二年は、三国魏の景元二年(261)だという。この主君は後に北魏の“始祖”とも称され、あたかも崇神天皇を彷彿させる。《魏書》では、初代皇帝である道武帝拓跋珪より前の、実際には君長としての地位に就いていない文帝なども含め、三十人近い人物に帝号を追諡している。もし成帝を初代として数えれば、道武帝は二十八代目になるが、そんな数え方には意味がない。道武帝から遡れる所まで遡って最後に皇帝にされたのが成帝なのだった。

 日本の場合も、神武天皇を初代として代を数えることには意味がない。天武天皇の功績を前提として、遡って天皇に擬された最後の人物が神武だということである。そこで《日本書紀・神武紀》に、

故古語稱之曰。於畝傍之橿原也。太立宮柱於底磐之根。峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇。號曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。

かれ古語のこれをたたえて曰く、畝傍の橿原に於いて、宮柱をば底磐之根そこついはのねふとしき立て、搏風ちぎをば高天之原たかまのはら峻峙たかしりて、始馭天下之天皇、号して曰く神日本磐余彦火火出見かむやまといはれひこほほでみ天皇なり。

 とある所の「始馭天下之天皇」というのも、天武を起点とする歴史観の中で理解しなくてはならない。これをどう訓むかはともかく、その文字の含意は“後に天武天皇が天下を統べることの元になる事業を始めた”ということにある。

 拓跋鮮卑は、もと西拉木倫シラムレン河方面で遊牧生活を営んでいたが、《魏書・序紀》に見られるように、次第に南下して、ついには中国を支配するに至った。遊牧民は、遊牧を基礎文化とするからそう呼ぶが、ときには東西を結ぶ流通業者となり、またときには馬賊となって都市を寇掠し、またあるときには農業地帯をも征服するなどして、大陸の歴史上に重大な役割を演じた。

 大陸の遊牧民に相当する海洋的存在を、私は“遊漁民”という呼び方で規定したい。彼らは漁業を基本的な生業として津々浦々を渡って暮らすが、ときには海上交易に従事し、またときには海賊となって港市を掠奪し、またあるときには陸上勢力をも支配する。その実例は、西洋上古のクレタやミケーネ、中世のヴァイキング、東洋では倭寇や水軍として史乗に現れる。

 神武天皇もまた遊漁民的勢力と結び付いた王者だった。所謂“神武東征”にあたって、《日本書紀・神武紀》に、

時有一漁人。乘艇而至。天皇招之。因問曰。汝誰也。對曰。臣是國神。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來。故即奉迎。又問之曰。汝能爲我導耶。對曰。導之矣。天皇勅授漁人椎末令執而牽納於皇舟。以爲海導者。乃特賜名爲椎根津彦

時に一漁人が有り、艇に乗って至る。天皇はこれを招き、因って問うて曰く、「汝は誰だ」。こたえて曰く「わたくしは国つ神、名は珍彦うづひこもうす。曲浦わだのうらに魚を釣りし、天つ神の子が来ると聞き、迎え奉ります」。またこれに問うて曰く「汝は我が為に導くことができるか」。対えて曰く「導きましょうぞ」。天皇は勅して漁人にしひさをの末をわたし、執らせて皇舟にき納れ、以て海導者とし、そこで特に名を賜って椎根津彦しひねつひことした。

 とあるのは、その行動に遊漁民的勢力が介在したことを象徴している。神武天皇の航行した範囲、西は宇佐・遠賀から東は浪速まで、それは椎根津彦に代表される遊漁民的勢力の一派が主に活動した範囲を表していよう。そして神武が結局奈良平野の一地点に根拠を築いたことは、ヴァイキングのロシア方面における活動よろしく、陸地をまたぐ通商路を確保する目的があったと思われる。

 このことは神武一代のこととして記紀には描かれているが、拓跋鮮卑の南下が長い年月の間に段階的に行われたように、やはり実際には数代かけて成されたことであるに違いない。それを語り物として演じるときには一人がした大事業ということにした方が面白い。しかし他方ではこれが何世代かにかかるものだということも伝えられており、記紀では両系統の伝承を合成したので、神武が活躍する一方、続く八代は事績を奪われる形となったのだろう。もちろん、頭数が合っているか、名前は当時から伝えられたままかどうか、続柄はどうか、などは保証の限りではないが、十把一絡げに抹殺するほどの反証もないので、大まかに見ては真実が含まれていると考えておきたい。

 ここまでは都市国家的段階に属するという考えは前回に述べた。こうした植民や交易の活動は、やがて来る領土国家的段階の下地を用意した。日本史上の領土国家時代の到来は、崇神天皇の事績として記される。神武天皇の事績は内容としてはそう時を置かずに崇神天皇に接続するのである。

日本史上の“都市国家時代”

 証明することは難しく、仮定することは易しい。仮定はいくらでも任意に置いて構わないが、仮定の数が増えるだけ仮説の質は落ちることを覚悟しなくてはならない。しかしわずかの仮定によって多くの事実をうまく説明できるときは、それを置くことをためらう必要はない。そして誰も証明ができないことであるならば、最も質の高い仮説が共有の結論として採択されるべきである。

 記紀に見える天照大神の天岩戸隠れの描写が都市国家的情景ではないかという考えを前に述べた。

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 それは、都市国家的段階における事件から発生した説話に、日食に関する民話などが習合し、最終的には日本的王権の起源を説明するために整理されたものだと思われる。それは記紀の構成の中で、てんで見当外れの箇所にあるのではなく、都市国家から領土国家へという歴史的発展の経緯を示すかのような位置にある。

高天原の歴史的段階

 “高天原”は一つの都市国家が象徴化されたものとしての一面を持っているようである。しかも、天岩戸隠れの説話において、その中心的役割を日の神が演じていることは重要である。

 以前、私は、古代人の方位観について考えたときに、社会が広域化すると局所的なものに代わって太陽が方位の基準として選択されると述べた。

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 それは宗教についても似たことが言える。広範囲の社会的結合がより強まり、その精神的紐帯が必要とされたときには、それまでよりも普遍性の高い神が信仰の中心として選択されることがある。それは太陽神や天帝、あるいはより抽象的な神格として表現される。

 都市国家には、それぞれの都市の守護神があった。それは、その地域における名山だったり、その集団の祖霊であったりした。都市国家群が何らかの形で結合すると、諸国は必ずしも対等ではないので、神々の間にも序列ができる。そして結合が進んで、領土国家に近付き、社会が変動してくると、それは最高神を改めて選択する契機になる。

 天照大神がある程度の普遍性を持った太陽神であるならば、この説話は都市国家連合の進行した段階を象徴していると見なすことができる。もしそうであるとすれば、その歴史的段階は、“魏志倭人伝”に記された時代と一致する。

 こうした時期には、社会は古い構造と新しい構造の間で動揺している。素戔嗚尊は、天照大神と対立し、罪状を責められて高天原から追放されるが、出雲の一地域に下り、その土地の有力者を助け、八岐大蛇やまたのをろちという形で表象される何らかの問題を解決して、そこに地位を得る。有能な者が母国では受け入れられず、他の国で活躍することは、こうした状況ではありがちなことである。

都市国家は植民する

 都市国家都市国家たるゆえんは、その勢力範囲が狭いことにある。それは農業・軍事・通信などの水準によって制約を受けている。個々の都市国家の容量はさして大きいものではないので、ときとして植民活動が行われる。手頃な空き地があれば単に新たな都市を建設するが、さもなくば、先住者と協力したり、あるいは征服または駆逐して目的を達する。植民市といっても、近世の植民地とは違い、母国との制度的な従属関係は発生しない。新しい都市は、そのものが都市国家として独立し、当初は良好な関係を持つことが期待されるが、やがて疎遠になって敵対することもある。世界史の例によればそうである。

第一次植民時代

 さて高天原からの植民活動は、島根・鹿児島・奈良の三方面へ行われた。島根地方へのそれは、“国譲り”としてよく知られているから、ここで詳しくは述べないが、初めは融和的に、後には征服的に遂行される。鹿児島地方へは、天照大神の孫瓊瓊杵尊ににぎのみことが行き、在地の有力者の娘と結婚して定着し、後に神武天皇を輩出する。奈良地方へは、饒速日命にぎはやひのみことが下ってやはり在地の豪族と通婚し主君となっていた。これらが都市国家的段階の社会において行われたことだとすれば、彼らは各地方に新しい都市国家を建設したのであり、各地が高天原に併合されたのではない。だから各地方の服属が後に改めて記されることは別に説明を必要としない。

第二次植民時代

 植民活動の第二波は、鹿児島地方から起こる。それは一般に“神武東征”などとも呼ばれて一通りは知られているから、ここで詳しくは述べない。この行動は、瀬戸内海周辺の航行の要地を何カ所も経ていることなどからして、海上貿易との関係が一つの動機となったものらしい。しかもこれは、神武天皇がもといた鹿児島地方から奈良地方までを併せた領土を獲得したという話にはなっていない。このことも、これが都市国家時代のことだとすれば、別に説明する必要はない。鹿児島地方の勢力が各地に植民市を建設したことを伝えていると考えれば良い。

 この第二次植民時代については、後の回で考えたいこととも重複するので、これ以上は次回以降に述べたい。

日本書紀の冒頭を読む

 《日本書紀》の冒頭は天地創生の説話から始まる。

古天地未剖,陰陽不分,渾沌如鷄子,溟涬而含牙。及其清陽者薄靡而爲天,重濁者淹滯而爲地,精妙之合搏易,重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。

古には天地が未だけず、陰陽は分かれず、渾沌たること鶏子たまごの如く、溟涬めいけいとしてきざしを含む。其れ清陽な者は薄靡たなびいて天となり、重濁な者は淹滯とどこおって地となるに及ぶ。精妙の合はり易く、重濁の凝はき難い。故に天が先に成って地は後に定まった。然る後に神聖が其の中に生まれたのである。

 この部分は、《太平御覧・天部一・元気》に引用されて残る

《三五歷記》曰:未有天地之時,混沌狀如雞子,溟涬始牙,濛鴻滋萌,歲在攝提,元氣肇始。

又曰:清輕者上為天,濁重者下為地,沖和氣者為人。故天地含精,萬物化生。

 という文によく似ている。また、《淮南子・俶真訓》の

有未始有夫未始有有無者,天地未剖,陰陽未判,四時未分,萬物未生,汪然平靜,寂然清澄,莫見其形,若光燿之間於無有,退而自失也,

 だとか、同じく《淮南子・天文訓》の

氣有涯垠,清陽者薄靡而為天,重濁者凝滯而為地。清妙之合專易,重濁之凝竭難,故天先成而地後定。

 というのや、《芸文類聚・天部上・天》に引く

《廣雅》曰:太初,氣之始也。清濁未分,太始,形之始也。清者為精,濁者為形,太素,質之始也。已有素朴而未散也。二氣相接,剖判分離,輕清者為天。

 また

《徐整三五曆紀》曰:天地混沌如雞子,盤古生其中,萬八千歲,天地開闢,陽清為天,陰濁為地,

 といった文の中にも共通の文句や観念を見ることができる。中国では、人間が見聞きしたはずもないようなことは、正統派の学問としては扱われず、典雅な書物には載せられていないが、巷間では広く流布されたらしい。日本では、種々の書物に散見する説を総合して、後の話につながるように調整したもののようである。

 この後からが日本的神話であり、順次生成される神々の名によって世界の展開を述べる。その最後に伊弉諾尊いざなきのみこと伊弉冉尊いざなみのみことが登場して、両尊の共同作業によって島々が産み出される。ここで生まれる島は当時の日本の範囲だけで、世界の他の部分がどのようにできたかについては語られない。だから、大陸の方は中国の書物にあるようにできたと認め、しかし日本はそれとは別にできた、ということを言おうとしている。

 冒頭を中国におけるのと共通の天地創生で説き起こしたことには実際的な意味があった。《日本書紀》では唐朝をしばしば「唐」と美称し、その君主を「天子」と呼んでその地位を認めている。つまり日本としては、かつての南北両朝が互いを“島夷”“魏虜”などと蔑称したような関係ではなく、友好的に対等の交渉を求めたのであり、それをここにも表現しているのである。これに相当する文は《古事記》や書紀に載せる六種の異伝にはなく、書紀の本文では全く政治的意志によって加上したものと考えたい。

 そうでありつつ、この天地創生に日本創造が接続されていることは、天皇が唐の皇帝と並んで天子を称することに根拠を与える。日本は元来、天地創生の後に、大陸世界とは分岐して形成された、もう一つの天下であるという主張だ。

 これらの説話は、かつて孝徳天皇の白雉五年、高向玄理たかむくのぐゑんりらが唐に遣わされたときに、

於是東宮監門郭丈擧悉問日本國之地里及國初之神名。皆随問而答。

ここにおいて東宮監門の郭丈挙は、日本の国の地理及び国初の神名を悉く問う。みな問いに随って答える。

 ということがあり、こうした経験からも整理する必要が感じられていたものである。これに呼応するように、《新唐書東夷伝》には、

自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。

自ら言うには、初主の号は天御中主。彦瀲に至るまで、すべて三十二世、みな「尊」を号とし、築紫城にむ。

 という一節がある。

 さて伊弉諾伊弉冉両尊は、島々と山川草木を生み終えると、天下の主たる者を生もうと言って、日の神大日孁貴おほひるめのむち天照大神あまてらすおほみかみ)・月の神(月読尊つくよみのみこと)・蛭兒ひるこ素戔嗚尊すさのをのみことを産む。記ではその前にいくらかの説話を挿入しているが、紀にはない。大日孁貴は天上に挙げられ、月の神は日に配するとしてやはり天に送られた。蛭兒は不具の子として棄てられ、素戔嗚尊は暴虐であるとして根の国へ去ることを命じられる。ここまでは歴史性のない観念的な神話で、これによって地上に王権を下す天上の物語が導き出される。しかしこの後は、言わば神を俳優とした歴史劇の上演であって、そこからもう歴史は始まるのである。

日本書紀の“革命思想”

 天武天皇が即位した頃(673)、唐は高宗の咸亨年間で、実権は武皇后の手にあった。隋唐統一の安定期は、安史の乱玄宗の天宝十四年(755)に起きているから、その巨大な印象に反して余り長くない。だがこの頃は、政界の確執はともかく、内政はわりあい平穏で、繁栄を讃えられる開元の治を準備した。天武天皇としては、かの盛んなる王朝と比肩すべく、自身の王権の由緒と革命の理論を証明しなくてはならない。ここに《日本書紀》の成立へとつながる修史事業が始まった。

 そもそも、人間に身分の差というものができてくると、人が人の上に立つことがなぜ正当でありうるかが問われることになる。血統主義は、上古から近世に至るまで、広く見られる。その昔に何らかの事情でそう決まった、それが血によって受け継がれる、という考え方である。これは世襲制を肯定する。しかし身分の固定はいつか社会の停滞を招くので、革命を是認する思想が要求される。そこで古代中国人は、天命主義を考え出した。誰が王権を担うべきかは天が決定する。天がもし衰退した王朝を見放すときには、人間は誰が新たに天命を受けるのかを理解しなければならない。それには、やむをえなければ武力によってする放伐も許されるが、血ぬらずに済む禅譲の方が望ましいとされた。

 こうした革命は、王家の交替という形で行われる。王者の姓がわるのでこれを易姓革命と呼ぶ。中国では易姓が革命の原則とされるが、それは中国の特殊状況において可能だったことで、日本上古の社会環境には当てはまらなかった。もっともそれは結果的に形成された観念なので、初めからそれを原理として革命が行われたわけでもない。当時において手近な例外としては、南朝の斉から梁への交替が挙げられる。両朝の帝室はともに蕭氏で、系図をたどれる程度の親戚だった。

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 また北朝北周・隋・唐の三代は、姓こそ宇文・楊・李と違っているが、女系中心に見ればほとんど同じ一家であって、男系主義の社会でなければ易姓革命の列に入らなかった。

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 日本上古の社会は両系的傾向が強かったと思われる。こういう状態では血統の区別としての氏姓の制度が確立しにくい。さらには、王権を担いうるような有力者は限られており、よしみのためにその間で通婚が行われると、細長い列島という環境では、すぐにみな親戚になってしまう。いわゆる万世一系というほどのことではなかったにしろ、こうした意味での“同族”による王権の争奪と継受が行われてきたことは真実と見て良いだろう。応神天皇の五世の孫を称する継体天皇、兄弟や近縁の者を何人も殺して権力を高めた雄略天皇、異母兄弟が殺された後に皇太子に立てられた応神天皇といった例を数えることができる。そこに日本式の革命を見出すことができ、それによって天武天皇の行為も新王朝樹立のためのこととして正当化される。

 ではそのようにして獲得された王権が由緒正しいものかどうかが問題である。ただ実力によって支配するだけで、その権力に名分が立たない、そんな主君は覇者と呼ばれて格落ちの扱いを受ける。

 南北朝時代南朝の王権は、漢の高祖が天下を統べるべく天命を受けて以来、魏・晋・南朝宋へと禅譲によって継承されたものだった。宋からは南斉・梁・陳へと禅譲され、ついに隋によって滅ぼされる。一方、北朝北魏は中原を制覇し、南朝宋と対立したが、帝室の拓跋氏は遊牧民系の鮮卑族で、その王権には由緒がなかった。これでは中国を統治するのに都合が悪い。そこで思い切って黄帝の子孫を称した。《魏書・序紀》に謂う、

昔黃帝有子二十五人,或內列諸華,或外分荒服,昌意少子,受封北土,國有大鮮卑山,因以為號。

昔、黄帝には子二十五人が有り、或るものは内にて諸華(中国文明圏)に列し、或るものは外にて荒服(夷狄の地)を分けた。昌意(黄帝の嫡子)の少子は、北土に封じられ、国は大鮮卑山にち、因って号とした。

 と。こんなことを鮮卑族が言い伝えていたはずはないのだが、真実性よりもこれが政治的宣言となることに意味がある。黄帝の子孫であると称した以上は、王者として徳を修め、中国にふさわしい政治をすると誓ったことになる。そして王権の起源が黄帝にあるということは、それが南朝よりもずっと古いという点で由来が良い。北魏の王権は、北周・隋を通して、禅譲によって唐に受け継がれる。つまり唐の王権は黄帝に由緒を持つ。

 これが天武天皇が比肩しようとした相手なのだ。その統治下には、倭人と古参の渡来人だけでなく、新羅統一の戦争によって生じた万という数の百済高句麗両国からの亡命者をも抱えている。そしてその手にはかつてどんな倭人の王者も持ったことがないほどの権力を握っている。これを確かなものにするには、それにふさわしい王権の由来を発見しなくてはならない。これは必ずしも新しい試みではなく、《隋書・東夷伝》に

使者言倭王以天爲兄,以日爲弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。

使者が言う。倭王は、天を兄とし、日を弟とし、天がまだ明けない時に出て政を聴き、跏趺して坐り(僧侶がする足の甲を腿に乗せるような深いあぐら)、日が出れば理務を停め、我が弟に委ねようと云う。

 とあるのは、日本的王権思想の確立に向けた努力の跡として評価すべきである。しかしそれはまだ成功したものではない。

 中国では、古くから王権思想が発達した。森羅万象の背後には天なるものの働きがあるように、誰が王権を執るべきかも天の働きによって決定されると考えられた。早くに議論が尽くされ、常識となって、“天命”の一言で説明が済むほどになった。だから古代中国にはギリシャ神話のような擬人化された神々の物語が全くなかったわけではないが、知識人はこれを俗説として却けた。“天”とは空のような具体物の別名ではなく、“天帝”といってもゼウスのような神が雲の上に住んでいるのではない。

 日本にはこうした条件がないので、王権の由来を説くのに神話的説明が求められることになる。抽象的な“天”の代わりに具体的な天上界があり、“天帝”に当たる人間的な神が設定される。すでに神を擬人化したからには、そこにも地上のような出来事の展開が想定される。それまでに伝えられてきた上古の事実や、外来のものを含む民話などを材料とし、修史事業に係る時期の政情を加味して、いわゆる日本神話が構成されることになる。

 そして、日本の王権は、日本的環境における血統主義により、かつて天上の神の子孫が地上に降りたことに由来し、天武天皇はその血を引いていると考えられることになった。その来歴を考証し撰述することでやがて《日本書紀》は完成する。しかしそれまでには思わぬことに四十年近い歳月を要し、その内には編纂方針の変動もいくらかあったようだ。そのためにやや混雑した所のある歴史観が形成されたものらしい。

日本書紀を読む

 《日本書紀》は日本における古代帝国的段階の成立までを通観できる唯一の古籍である。その歴史段階上の意義としては《史記》と比較すべきものだが、その性格は大きく異なっている。それが単なる過去の出来事の集積でなくて企図された編集物であるという点は両者に共通している。ただその目的意識が全く違うのである。

 日本の古代帝国的体制の確立と、《日本書紀》の成立とは密接な関わりを持っている。それは内的発展の到達点でもあるが、外的刺戟による作用も大きい。その変化の波は、北朝の隋による南朝討滅に始まる。南北朝時代、古代中国文明の正統を継ぐ者は南朝であると見なされており、倭王もそのためにそこへ朝貢していたことは前に触れた。

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 隋を継いだ唐は、後世には中国の代名詞ともなるが、それは結果に過ぎない。隋による制覇は、当時としては、中国の統一ではなくて、むしろ中国の滅亡だった。それは南朝派の諸国へ深刻な衝撃を与えたはずだ。

 推古天皇が自ら天子を称したことは、こうした国際情勢の連続性の中で見なくてはその意味を感じられない。

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 唐朝に対しても倭国は対等の関係を要求した。それは、《新唐書東夷伝》に、

太宗貞觀五年,遣使者入朝。帝矜其遠,詔有司毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。

太宗の貞観五年(631)、使者を遣わして入朝する。帝はその遠いことをあわれみ、有司に詔して歳貢にこだわることからしめる。新州刺史の高表仁を遣わし往って諭させるに、王と礼を争って平らかならず、えて天子の命をらずして還る。これより久しくして、あらためて新羅の使者にあずけて上書した。

 とあるので知れる。歳貢つまり一年ごとの貢納をしなくても良いということは、逆に言えば“数年に一度は挨拶に来い”と釘を刺したのである。この時の高表仁の使命はおそらく倭王としての冊封を受けるように天皇を説得することにあったのだろう。表仁が難波までは来たことは《日本書紀・舒明紀》によって確かめられる。その使命は果たされなかった。これに次ぐ遣唐使は二十年後のことになる。

 唐朝にとって倭国の態度は対処に困るものだが、焦眉の課題は朝鮮方面にあった。高句麗に引き倒された隋の轍を踏むことは許されない。唐は結局新羅と結んで高句麗百済を挟撃する遠交近攻の策に出た。倭にも百済を助けてこの方面に介入してきた経緯がある。ここに倭唐関係は最も緊迫した段階を迎える。唐の高宗の竜朔三年(663)、本邦は天智天皇の称制二年、倭唐両水軍は白村江はくすきのえに決戦のやむなきに至る。

 我々は未来の方から歴史を見ている。だからこれ以後の日唐関係により以上の破滅的な事件がなかったことを知っている。そのために当時の意識に鈍感になり、白村江の敗戦がどれほどの事態だったのかを軽視しがちである。この先どうなるだろうかは誰も知らなかった。天智政権は、西日本各地に城塞を築き、防人さきもりとぶひの制度を作り、近江遷都を決行した。“本土決戦”に備えてのことである。百済高句麗両国からは王族を含む大量の難民を受け入れた。

 唐では滅びた両国の故地にかつての楽浪郡のような州県制を敷くつもりだったが、思わぬことに新羅が反発した。新羅から見れば、両国は宿敵といっても、その人民は近縁の民族だから当然のことだった。国際情勢は一層混沌としてきた。しかし倭国にとっては外的危機をテコとしてその統合を最終的段階まで推し進める千載一遇の好機でもあった。おりしも天智天皇は重い病を得て床に臥した。その弟、大海人おほしあま皇子、後の天武天皇は、決断したのである。この年は唐の高宗の咸亨二年(671)、その十二月に天智天皇崩御した。翌年の干支は壬申に当たる。

 ともかくも天武天皇は甥である大友皇子を滅ぼして帝位に即いた。旧弊を一掃し、新しい体制を確立するには、その行為は単なる政変ではなくて“革命”でなくてはならない。その年(673)、天武天皇は、隣国からの、践祚を祝賀する使いだけは京に召し、天智の喪を弔う使いは筑紫に迎えるだけで帰国させた。その詔命に言う、

天皇新平天下。初之即位。

天皇は新たに天下をおさめ、初の即位なり。

 と。天武天皇は新王朝の初代だから、旧王朝に対する弔問は受け付けない。その行為が革命だったことを外国に対して明らかに示したのである。

 ただし革命にはそれを正当化する理論が要る。そして今は唐に比肩しうるだけの王権の由緒もなくてはならない。それがなくては新体制の安定は望めない。しかし中国では王家の交替が革命の原則であり、壬申の乱が革命運動だったことを証明してくれる思想を輸入によってまかなうことはできない。ここに日本独自の革命と王権の思想が必要とされてくる。

 《日本書紀》はこうした要求に応えるべくして編纂された。これをただの歴史だと思って読むと、字句は追えても意義が判らない。しかしこれは天武天皇の“革命”がやがてあることを前提とした過去の説明なのであって、言い換えればそれは新しい王権の宣言書であり、新しい君臣関係の契約書でもある。史書が要求されたわけではなく、必要とした事々を表現するのに史書の体裁を借りたのだ。そう思って読んだとき、そこに日本という王朝を樹立した初志の鋭さを感じることができるのである。

 そしてこうした編集の意図を把握すれば、それを解きほぐして、その中から真の歴史を見出すことができる。それは神代紀の中からさえ可能である。次回からはこれについて述べようと思う。

卑弥呼の死と都市国家時代の終焉

 魏の少帝の正始六年(245)、天子から倭の大夫難升米に黄幢を賜い、帯方郡に付託して授けさせることになった。ところがたまたま帯方郡と諸韓国の間に紛争があり、帯方太守の弓遵は戦死した。この前後のことは、“魏志倭人伝”に

其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。

 とある。

 正始八年、新しい帯方太守として王頎が着任した。その頃、倭人の諸国では邪馬台国を中心とする連合体と狗奴国との間で衝突が起こり、倭王卑弥呼は遣使して郡にその状況を報せた。王頎は、塞曹掾史の張政を遣わして、ようやく難升米に黄幢をもたらすのとともに、檄をつくってこれに告諭した。とは、人に何らかの行動を求めるための告げ文のことである。

 しかし卑弥呼は「死」つまりすでに死んでいた。以はと同源同音で、しばしば通用する。

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 以死=已死とは「死んだ」ということで、この文脈では「張政が難升米に会ったときには卑弥呼もう死んでいて、女王から帯方郡への遣使に対する返答は間に合わなかった」ことを意味する。

 卑弥呼が死んで、大いに冢を作った。

 穴を掘って棺を埋め、土を戻すと余りが出るので、それを盛り上げる。これが本来のだが、やがて盛り土が高いほど立派な墓だという考えができ、よそから土を持ってきてまで高く作ることになる。冢が切り立つほどの形状になったものがいわゆる墳墓である。高さを確保するためには裾を広くする必要がある。つまり中国では墳墓の広さは高さの副産物である。

 漢の法律では身分ごとにどれほどの高さまで作って良いかが定められていたらしいが、今詳しくは分からない。後漢の班固が編んだ《白虎通徳論・崩薨》には、

春秋《含文嘉》曰:「天子墳高三仞,樹以松;諸侯半之,樹以柏;大夫八尺,樹以欒;士四尺,樹以槐;庶人無墳,樹以楊柳。」

 とある。一仞は周制で八尺、漢制で七尺、一尺は漢代で約23.1cm、一尺は十寸で、周制の一尺は漢制の八寸に当たるという。この引用は周代の話で、実際の漢代の皇帝の墳墓は高さが30m前後ある。しかし三国時代になると、労働力の不足や思想の動揺があり、また多くの墓が副葬品や建材を取り出すために破壊されたこともあって、大きな墓を作るのは無駄なことだという考えが出てくる。《魏志・文帝紀》黄初三年冬十月甲子の条によると、文帝は上古の帝王が顕著な墳墓を作らなかったことを述べ、以後はそれに習って厚く葬るべからざることを命じた。これが有名な薄葬令である。

 卑弥呼の冢は「径百余歩」とある。とは、車が入れないような狭い道のことで、また小路がしばしば近道であることから「直情径行」のように短絡すること、それから物の大きさを周囲の長さなどではなく「さしわたし」つまり「またぐ」ように測ることを指す。円形ならその直径、もし方形なら対角線の長さである。百余歩は140m前後で、これはその広さを表している。中国では伝統的に墓の高さに関心を持つはずだが、ここにはそれがない。

 魏の薄葬令では、墓は自然の山地形を墳の代わりとし、それと分かるような施設を作らないことを旨とした。高さが記されない卑弥呼の墓は、それに習ったものだったかどうか、どんなものだったか今は分からない。

 女王を失った倭人諸国は、代えて男王を立てた。男王と言えば、狗奴国の男王の名は卑弥弓呼で卑弥呼とは卑弥が共通している。名の前にあって複数の人に共通するものは普通なら氏姓の類である。ありがちなことだが、同族間の覇権争奪がこの抗争の内情であったのかもしれない。

 しかし諸国間にはこの男王擁立には反対も強く、両派が互いに攻伐して千人余りが死んだ。そこで卑弥呼の一族の者で十三歳の女子を立てて王とすることで妥協した。卑弥呼が健在の時の形態をかたどるものだが、権力に似つかわしくない幼い王を立てたことは、その体制が形骸化しつつあることを思わせる。誰が実権を握ったのだろうか。

 前にも述べたように、私は弥生文化のいわゆる環濠集落は都市国家的段階の存在を示していると考える。純粋な都市国家は一つの都市が政治上の独立単位を形成する。都市国家は一度成立すると他の都市国家と常に関係を持ちつつ活動し、やがて何らかの形で結合していく。

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 “魏志倭人伝”に記された状況は、邪馬台国を中心とする都市国家連合の段階を表している。そこには領土国家的段階への発展が兆しながらまだ到達していない。邪馬台国とその周辺はこの列島の中で最も早くに都市国家的社会の成立した地域であっただろう。だがその時代の社会が成熟してくると、先進地域ではその古さが足かせとなり、次の段階への発展が遅れるものだ。むしろ後進地域の方が、旧時代の構造が強くないだけに、急速に発展して先進地域を凌駕することがある。上古中国に対する秦、古代ギリシャに対するマケドニアの例である。後発先至こそ歴史の法則である。

 今や邪馬台国は狗奴国に圧迫されつつあるらしい。これは都市国家時代から領土国家時代への漸進を意味する。だが、秦が漢に、マケドニアがローマに取って代わられたように、狗奴国の覇権もやがて東から興ってくる勢力によって脅かされる運命にある。曰く、女王国の東、海を渡ること千里、また国々があり、みな倭種なりと。ここまで数回にわたって、主に中国の史書から日本の古代を考えてきたが、ようやく日本の史書を扱える段階に来たようである。