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日本書紀を読む

 《日本書紀》は日本における古代帝国的段階の成立までを通観できる唯一の古籍である。その歴史段階上の意義としては《史記》と比較すべきものだが、その性格は大きく異なっている。それが単なる過去の出来事の集積でなくて企図された編集物であるという点は両者に共通している。ただその目的意識が全く違うのである。

 日本の古代帝国的体制の確立と、《日本書紀》の成立とは密接な関わりを持っている。それは内的発展の到達点でもあるが、外的刺戟による作用も大きい。その変化の波は、北朝の隋による南朝討滅に始まる。南北朝時代、古代中国文明の正統を継ぐ者は南朝であると見なされており、倭王もそのためにそこへ朝貢していたことは前に触れた。

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 隋を継いだ唐は、後世には中国の代名詞ともなるが、それは結果に過ぎない。隋による制覇は、当時としては、中国の統一ではなくて、むしろ中国の滅亡だった。それは南朝派の諸国へ深刻な衝撃を与えたはずだ。

 推古天皇が自ら天子を称したことは、こうした国際情勢の連続性の中で見なくてはその意味を感じられない。

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 唐朝に対しても倭国は対等の関係を要求した。それは、《新唐書東夷伝》に、

太宗貞觀五年,遣使者入朝。帝矜其遠,詔有司毋拘歲貢。遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。久之,更附新羅使者上書。

太宗の貞観五年(631)、使者を遣わして入朝する。帝はその遠いことをあわれみ、有司に詔して歳貢にこだわることからしめる。新州刺史の高表仁を遣わし往って諭させるに、王と礼を争って平らかならず、えて天子の命をらずして還る。これより久しくして、あらためて新羅の使者にあずけて上書した。

 とあるので知れる。歳貢つまり一年ごとの貢納をしなくても良いということは、逆に言えば“数年に一度は挨拶に来い”と釘を刺したのである。この時の高表仁の使命はおそらく倭王としての冊封を受けるように天皇を説得することにあったのだろう。表仁が難波までは来たことは《日本書紀・舒明紀》によって確かめられる。その使命は果たされなかった。これに次ぐ遣唐使は二十年後のことになる。

 唐朝にとって倭国の態度は対処に困るものだが、焦眉の課題は朝鮮方面にあった。高句麗に引き倒された隋の轍を踏むことは許されない。唐は結局新羅と結んで高句麗百済を挟撃する遠交近攻の策に出た。倭にも百済を助けてこの方面に介入してきた経緯がある。ここに倭唐関係は最も緊迫した段階を迎える。唐の高宗の竜朔三年(663)、本邦は天智天皇の称制二年、倭唐両水軍は白村江はくすきのえに決戦のやむなきに至る。

 我々は未来の方から歴史を見ている。だからこれ以後の日唐関係により以上の破滅的な事件がなかったことを知っている。そのために当時の意識に鈍感になり、白村江の敗戦がどれほどの事態だったのかを軽視しがちである。この先どうなるだろうかは誰も知らなかった。天智政権は、西日本各地に城塞を築き、防人さきもりとぶひの制度を作り、近江遷都を決行した。“本土決戦”に備えてのことである。百済高句麗両国からは王族を含む大量の難民を受け入れた。

 唐では滅びた両国の故地にかつての楽浪郡のような州県制を敷くつもりだったが、思わぬことに新羅が反発した。新羅から見れば、両国は宿敵といっても、その人民は近縁の民族だから当然のことだった。国際情勢は一層混沌としてきた。しかし倭国にとっては外的危機をテコとしてその統合を最終的段階まで推し進める千載一遇の好機でもあった。おりしも天智天皇は重い病を得て床に臥した。その弟、大海人おほしあま皇子、後の天武天皇は、決断したのである。この年は唐の高宗の咸亨二年(671)、その十二月に天智天皇崩御した。翌年の干支は壬申に当たる。

 ともかくも天武天皇は甥である大友皇子を滅ぼして帝位に即いた。旧弊を一掃し、新しい体制を確立するには、その行為は単なる政変ではなくて“革命”でなくてはならない。その年(673)、天武天皇は、隣国からの、践祚を祝賀する使いだけは京に召し、天智の喪を弔う使いは筑紫に迎えるだけで帰国させた。その詔命に言う、

天皇新平天下。初之即位。

天皇は新たに天下をおさめ、初の即位なり。

 と。天武天皇は新王朝の初代だから、旧王朝に対する弔問は受け付けない。その行為が革命だったことを外国に対して明らかに示したのである。

 ただし革命にはそれを正当化する理論が要る。そして今は唐に比肩しうるだけの王権の由緒もなくてはならない。それがなくては新体制の安定は望めない。しかし中国では王家の交替が革命の原則であり、壬申の乱が革命運動だったことを証明してくれる思想を輸入によってまかなうことはできない。ここに日本独自の革命と王権の思想が必要とされてくる。

 《日本書紀》はこうした要求に応えるべくして編纂された。これをただの歴史だと思って読むと、字句は追えても意義が判らない。しかしこれは天武天皇の“革命”がやがてあることを前提とした過去の説明なのであって、言い換えればそれは新しい王権の宣言書であり、新しい君臣関係の契約書でもある。史書が要求されたわけではなく、必要とした事々を表現するのに史書の体裁を借りたのだ。そう思って読んだとき、そこに日本という王朝を樹立した初志の鋭さを感じることができるのである。

 そしてこうした編集の意図を把握すれば、それを解きほぐして、その中から真の歴史を見出すことができる。それは神代紀の中からさえ可能である。次回からはこれについて述べようと思う。