卑弥呼と東洋的古代王権
(承前)
漢末、倭人諸国間の秩序が乱れ、やがて一人の女子を「共立」して王とした。ここの共の字は《太平御覧》の引用にはなく、どちらが正しいか分からない。しかしもし元から共立であったとすると、「自立」との対比から卑弥呼の王権について考えることができる。
淵自儉還,遂自立為燕王,置百官,稱紹漢元年。
公孫淵は毌丘倹が還ると、遂に自立して燕王となり、百官を置き、紹漢元年と称した。
とか、《蜀志・杜微伝》に
曹丕篡弒,自立為帝,是猶土龍芻狗之有名也。
曹丕は篡弒(主上を殺し帝位を奪う)し、自立して帝となったが、これは土竜や芻狗が名のみあるようなものである。
また《蜀志・費詩伝》に
今大敵未克,而先自立,恐人心疑惑。
今は大敵にまだ克っていないが、なのに先ず自立〔して帝号を称〕すれば、おそらく人々の心は疑惑する。
などとあるように、そうする資格がないのに、ひとり勝手に王や皇帝を称した、というふうの、悪い評価を示している。それに対して、共立とは、やむをえない事情があって推戴された、それだけにそれなりの人物であるという、良い評価を表している。卑弥呼はかく倭王として認められたわけである。
王者の任務には祭祀を伴う。卑弥呼は鬼道を行ったという。鬼のことは、《礼記・礼器》に
禮也者,合於天時,設於地財,順於鬼神,合於人心,理萬物者也。
礼なるものは、天時に合わせ、地財に設け、鬼神に順い、人心を合わせ、万物を理めるものである。
とか、
禮,時為大,順次之,體次之,宜次之,稱次之。……社稷山川之事,鬼神之祭,體也。
礼は、時をば大とし、順はこれに次ぎ、体はこれに次ぎ、宜はこれに次ぎ、称はこれに次ぐ。……社稷・山川の事、鬼神の祭りは、体である。
などとあるように、その祭祀は古代中国で重視された儀礼の一つに数えられる。《礼記・祭義》などによると、鬼とは死者が土に帰ったもので、鬼と帰は同源の語だと考えられた。その気が昇って地上に現れることがあり、これが神の顕れだといい、後世のいわゆる幽霊だが、そのあるかなきかの姿を描いたものが鬼という字である。
祭祀といっても特別な資格ある人だけがしたのではなく、なべて昔の人は信仰家だった。家にあっては祖先を祭り、田作しては雨を乞い、狩猟しては神に供え、旅しては道すがら山川に祈った。身分が別れてくると、王者には王者にふさわしい祭祀が必要になる。言葉は同じでも、王者にとっての鬼と、民間の鬼とでは内容が違ってくる。卑弥呼の鬼道は王者の祭祀としてのものであり、単に民俗的なものと比較はできない。
王者としての鬼神の祭祀については、《史記・五帝本紀》に
帝顓頊高陽者,黃帝之孫而昌意之子也。靜淵以有謀,疏通而知事;養材以任地,載時以象天,依鬼神以制義,治氣以教化,絜誠以祭祀。
帝顓頊高陽は、黄帝の孫にして昌意の子である。静淵であって謀が有り、疏通にして事を知る。材を養うには地に任じ、載時のことは天に象り、鬼神に依って義を制し、気を治めて教化し、絜誠にして祭祀した。
また、
高辛生而神靈,自言其名。……取地之財而節用之,撫教萬民而利誨之,歷日月而迎送之,明鬼神而敬事之。
高辛は生まれながらにして神霊あり、自らその名を言う。……地の財を取ってこれを節用し、万民を撫教してこれに利誨させ、日月を歴えてこれを迎送し、鬼神を明らかにしてこれに敬事した。
などとあるように、上古の聖王はこれを正しく扱ったとされる。反対に、また《夏本紀》に帝孔甲は鬼神を方ることを好み、《殷本紀》には帝紂は鬼神を慢ったとあるように、王者がこれを怠ることは王朝の滅亡にもつながる凶事だった。
中国では天地・社稷・祖宗の祭祀は皇帝のするべきこととして清代まで続く。このことは、神武天皇が行軍中に香具山の土を採って器具を作り天神地祇を祭ったとか、崇神天皇が災いを除くために神々への占卜や祭祀を行ったと伝えられているように、日本においても然りとする。天皇は実権を臣下に委ねてからも伝統的祭祀を続け、後世にはそれだけが存在意義のようにもなった。
このように、昔の王者にとって祭祀をするのは普遍的なことであり、卑弥呼が特に宗教的な性格の濃い王者だったと考える必要はない。もし当時が都市国家的段階に属するとすれば、卑弥呼の鬼道は、アテネにおけるアテナ神のような、都市の守護神に対する祭祀と比較することができるだろう。これを鬼道という字で表現したのは、東夷諸国には中国上古の礼俗が伝わっているという観方によっている。ここからそれがシャーマニズムであるとかの内容を引き出すことはできない。ただ支配するだけの覇者ではなくて正当な王者であるという意味を表したのである。
卑弥呼は鬼道を行い、人々を「惑」したという。惑は、獲・國・域に通じ、外から囲われるように心を捉われることを指す。王者としての祭祀を怠らず、従って人々が心服した、ということを言っている。
卑弥呼は成年に達しても結婚しなかった。そして弟があって治国を補佐していた。ここの、
有男弟佐治國。
という言い方は、特定の個人を指していない。単に男弟があって、というよりも、ある男弟が、という意味である。また、“魏志倭人伝”にはしばしば個人名を記すが、ここにはない。だから「男弟」は二人以上いて、そのうちの一人か、あるいは交替で、女王を補佐したことになる。もし仮に卑弥呼の事績が天照大神に反映したと考えるならば、日の神には二人の弟があるとされることと奇妙に符合するが、それについてはまた別に検討を要するのでここでは述べない。
殷の湯王には伊尹があり、周の武王には呂尚があるというように、王者には優れた輔佐があってこそ明主たりうるということは、古代中国の王権思想において一つの類型になっていた。卑弥呼の弟がどれほどの人物だったかは知ることができないが、ここに記されたのはそうした関心によっている。
卑弥呼は王となってから、見えた者が少ないという。ここの「見」は、単に目で視た、というよりも、会見・対面のことである。王者が謁見を制限することは、権力を神聖に飾るためにしばしば行われる。秦の始皇帝もそうしたし、徳川氏もこれによって大いに権威を重くした。女王は宗教的な禁忌に包まれてずっと宮殿の奥にこもっていた、などとというのではない。何せ、
以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。
というのだから、単に視たという人は少なくないはずだ。「自侍」というのは、誰かが卑弥呼に婢をあてがったのではなく、自身の意思で侍従させた、ということであり、ここにもその実際的権力者としての性格が表されている。
従来の諸説では、ここで文を切り、「飲食を給し、辞を伝えて出入りした」のは「男子一人」だけだと考えている。しかしそれでは「婢千人」が近習していると切り出しておきながら、なんとも尻切れトンボの感じがする。文章は首尾が相応じてこそ能筆と言えるのである。ここは現代文なら括弧を使って、
婢千人を自ら侍らせ(ただ男子一人だけはいて)飲食を給し辞を伝えて出入りさせている。
と書きたいところではないだろうか。卑弥呼の身近に仕えるのは女性にほぼ限られているが、男性の枠が一人分だけはある、というのである。昔はそういう記号がないから見分けにくいが、括弧付きの但し書きのような書き方そのものは行われていた。“倭人伝”の中だけでも、
到其北岸狗邪韓國
その北岸の狗邪(韓の)国に到る。
とか、
南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。
南して邪馬台国(女王の都する所)に至る、水行十日、陸行一月。
といった例がある。
なおここでも「男子一人」は特定の個人を指すのではなく、男性のある者が一人、という言い方をしている。
卑弥呼が居処するところの宮室・楼観には、城柵が厳しく設けられ、常に人があり武器を持って守衛していた。これは同伝に不耐濊王の居処は民間に雑在するとあるのに比べてその差がはなはだしい。対して卑弥呼の王権は同時代の東夷諸国の中で最も格式の整ったものとして記録されているのである。
宮室・楼観などというものは、弥生時代の日本にはなく、陳寿が想像で書いたのだ、という説をなす向きがかつてあった。周知の通り、その後の発掘によって、記述が実際に合うことが確かめられている。考古学的知見が足りなかったのは時代のせいだから悔いるに足りないが、だからといって想像で書いたなどとは却って迂闊な想像をしたものだ。ここには史料に向かう者が忘れてはならない教訓がある。
女王卑弥呼と乃の字の事情
女王の都する所・邪馬台国を訪れた梯儁は、金印や賜物を引き渡すという使命を果たすだけでなく、女王卑弥呼の政治や来歴について調査することも怠りなかった。梯儁はどんな眼でそれを観ただろうか。
そもそも中国の歴史は、古代帝国的段階の前半までは、万事がおおむね上昇する傾向にあり、社会の進歩に対する楽観的な見方が優勢だった。しかしその後半になると、長く天下を統べた漢の体制も破綻に向かい、政治は乱れ、経済は衰えて、三国時代には人口が十分の一にもなったと云われる。すると、「昔は良かった」という素朴な感覚が、勢い「古い時代ほど良かった」という思想と結び付いて、昔々の箕子が朝鮮に行って礼儀を伝えたとか、孔子が中国に礼が行われないのを嘆いていっそ海の向こうに住もうと言ったとかの故事が思い出されてくる。そのことは《漢書・地理志下》に、
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。(……殷の道が衰えると、箕子は去って朝鮮に之き、礼儀によって教え、田蚕織作させた。……それ東夷は天性従順にして、三方の外より異たり、故に孔子が道の行われないのを悼み、浮を海に設けて、九夷に居もうと欲したこと、さもありなんかな。楽浪の海中には倭人が有り、分かれて百余国を為し、歳時には来て献見するのである。)
と書いてある。だから、陳寿もこれを承けて《魏志・東夷伝》に、
雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。(夷狄の邦といっても、しかし俎豆の象が存たれている。中国が礼を失えば、これを四夷に求めるというのも、なお信なることらしい)
と述べたわけだ。東夷は本来従順な性格で南西北の外蛮よりも勝れているという。後漢前期の班固においてすでにこうだが、三国時代にはなおさら中国文明の行く末を悲観する気分が横溢し、東夷諸国への関心がそこに上古中国の反映を見いだしたいがために高まったのである。そこには中国が失ったものが伝わっている。それは、日本人が時々沖縄に「日本の原像」を求めるのに似て、その対象の独自性を軽視する面があるが、人情のやむをえない所があると理解できよう。
さて魏は倭の諸国を統べる卑弥呼を親魏倭王として冊立したが、女性であるということで問題になったという形跡はない。中国史にはこれより前に女性の正式な王者がいたとは見えないが、事実上の統治者としては呂太后をまず挙げることができる。呂太后は漢の高祖が死んだ後に実権を握った。司馬遷は、《史記》に呂太后のための本紀を立て、その時代は戦乱を忘れて平和であって農民は生業に励むことができ衣食はいよいよ豊かになった、と評価している。あるいは三皇の一人である女媧が想起され、東夷の国に女王とはありうべきことだと考えられたのかもしれない。
ともあれ梯儁などもこうした時代の眼で卑弥呼を観たに違いない。その報告書は、魏の書庫に収められ、晋に引き継がれて、陳寿が“魏志倭人伝”を作るための資料となったはずだ。陳寿は事実を圧縮して表現するから、その文は短い。だが簡にして要を得ている。《魏志・東夷伝》によると、
其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞。
とある。この部分は《太平御覧》の引用でも違いは小さい。
倭國本以男子為王。漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐無定,乃立一女子為王,名卑彌呼。事鬼道,能惑眾。自謂年已長大,無夫婿,有男弟佐治國,以婢千人自侍,惟有男子一人給飲食,傳辭出入。其居處,宮室樓觀城柵,守衛嚴峻。
ただ「倭国乱」の時期が「漢の霊帝の光和中(178~184)」と特定されている。しかしいずれにせよこれは乱の発生した時期を示しているだけで、その経過と帰結は次の「相攻伐歷年,乃共立一女子為王」が表している。継続期間は不明だが、「歴年」だから一年では収まらないし、二~三年程度ということでもなさそうだ。この間の事情が簡単でないことは、乃の一字が物語っている。
乃という接続詞は、前段を承けて後段が起きることを示すが、その受け方は曲折的である。即や則が「すぐに」「ならば」などの意味を持ち、どちらも前後の文を直結するのに対して、乃は「ようやく」「そこまでして」といった意味で前後の関係が込み入っているという含みを持たせる。この字のいい用例が《蜀志・諸葛亮伝》にある。
由是先主遂詣亮,凡三往,乃見。(これにより先主は遂に亮を詣ね、凡べて三たび往き、ようやく見えた。)
これは“三顧の礼”として知られる名高い場面で、小説の《三国演義》では玄徳と孔明が会えるまでの情景をたっぷりと語り尽くしている。それも陳寿に書かせればたったこれだけのことだが、ここの乃の字が大事なのだ。もしこれが、
由是先主遂詣亮,凡三往,即見。
「三回行っただけですぐに会えた」とでも書いてあったら、もし羅貫中が百人いても想像を広げる余地がない。ここが乃であればこそ、その消息が思いやられるのである。もう一つ、《魏志・東夷伝》高句麗の段から用例を挙げておきたい。
其俗作婚姻,言語已定,女家作小屋於大屋後,名壻屋,壻暮至女家戶外,自名跪拜,乞得就女宿,如是者再三,女父母乃聽使就小屋中宿,傍頓錢帛,至生子已長大,乃將婦歸家。(その俗、婚姻するには、言語が定まったら、女の家では大屋の後ろに小屋を作る。壻屋と名ぶ。壻は暮れどきには女の家の戸外に至り、自ら名のって跪拝し、女の宿に就き得ることを乞う。これをこう再三すると、女の父母はやっと聴して小屋の中の宿に就かせ、旁らには銭と帛を頓む。生まれた子が長大になったら、ようやく婦を将れて家に帰る。)
乃という字がいかに使われたかがよく分かる。
霊帝の光和年間といえば、黄巾党の蜂起がその末年であり、三国鼎立の小康状態を得るまでに三十年近い歳月を必要とした。「倭国乱」においても、それに並行する期間を考えて良いのではないだろうか。
漢末、中国が大いに乱れた時期、倭人の諸国でも秩序が失われ、やがてそれは一人の女子を王として推戴することに結着した。女王は名を卑弥呼と称した。それが220年頃のことだったとすれば、その死が記されるまで在位30年程度となり、この時代の王者としては長い方に入るが、まだ考えやすい範囲には収まる。卑弥呼がどんな王者だったかについては、長くなるから次回に分けることにしよう。
「当在会稽東冶之東」を読み解く
《魏志・東夷伝》には、帯方郡からの道のりの他に、邪馬台国の位置に関係する情報がいくつかある。その一つは、
計其道里,當在會稽、東冶之東。
というものである。やや意味を取りにくい書き方で、なぜここに会稽の東冶を持ち出す必要があるのかも分かりにくい。
はるかに時代は下って、南宋の趙汝适が著した《諸蕃志》には、
倭國在泉之東北,今號日本國。
かつ、
計其道里,在會稽之正東
とある。趙汝适の示す方位観はやや複雑だが、長くなるので説明は省く。どうであれここでは大差がない。泉とは今の福建省泉州市のことで、当時随一の貿易港だった。会稽は浙江省紹興市である。後者の記載は、《魏志》の文を利用しつつ、字を改めて意味を変更している。日本の座標は「泉州の東北」で「紹興の正東」だというから、これを信じて鹿児島にたどり着ける。
唐の姚思廉の《梁書・諸夷伝》には、
去帶方萬二千餘里,大抵在會稽之東,相去絕遠。
とあるが、「会稽の東冶」と単に「会稽」とでは地理的な開きが大きい。東冶は福建省の福州市で、紹興とは南北約450kmの隔たりがある。しかも《魏志》では「道里」つまり「二地点間の道のり」に関することを述べているのであって、単純な位置関係を言っているのではない。
会稽は、上古の伝説的な天子である夏后禹にゆかりのある地名である。禹は、帝舜の治世に、各地を巡って治水を成功させたり、貢賦や五服の制度を整えたと伝えられる。禹は舜の後を継ぎ、後に会稽に行ったときに崩御した。禹は長江の南で諸侯と集会し、功績を計り、そこで崩御して埋葬されたので、その地が会稽と名付けられたと云われる。会稽は会計の意味だとされる。
やがて、秦が楚を滅ぼすと、呉越の地に会稽郡を置いた。この年は秦王政の二十五年(前222)である。秦末漢初の曲折を経て、また会稽郡が置かれたが、前漢の末には江蘇省南部から浙江省・福建省にわたる広い地域を領した。ただし広いというのは未開の地が広かったのである。《漢書・地理志上》に
會稽郡,戶二十二萬三千三十八,口百三萬二千六百四。縣二十六:吳,曲阿,烏傷,毗陵,餘暨,陽羨,諸暨,無錫,山陰,丹徒,餘姚,婁,上虞,海鹽,剡,由拳,大末,烏程,句章,餘杭,鄞,錢唐,鄮,富春,冶,回浦。
とあり、この内の冶県の地が東冶とも呼ばれる。後漢時代には、東侯官、また侯官と改称されたが、行政制度上のことで、地名としてはなお東冶とも呼ばれた。
会稽郡治は、はじめ呉県に置かれたが、後漢の順帝の永建四年(129)、北部を割いて呉郡を設けたため、山陰県に移された。呉県は今の江蘇省蘇州市、山陰県は浙江省紹興市である。山陰県の南に会稽山があり、その山中にかつて禹が葬られたと一般に信じられている。単に会稽と言えばここを指す。
会稽郡は、開発が進むにつれて何度か分割され、呉の永安三年(260)、東冶を含む南部には建安郡が設けられた。しかし大まかな地方名としてはやはり会稽が使われることもあった。建安郡治は建安県に置かれたが、今の南平市でやや内陸にある。陸路不便だったこの地域では、海浜の東冶が交通の一拠点として重視されたようである。
例として、《魏志・王朗伝》に、漢末、会稽太守だった王朗は、孫策を防ぎきれずに、海に浮かんで東冶に逃げ、そこで降伏したことが見える。裴松之が注に引く《献帝春秋》には、王朗はそこから船で交州まで逃げるつもりだったとある。交州とは今のベトナム北部であり、東冶という土地の性格がうかがえる。
《呉志・孫策伝》には、
吳人嚴白虎等衆各萬餘人,處處屯聚。吳景等欲先擊破虎等,乃至會稽。策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。(呉人の厳白虎らは各々一万人あまりを衆め、処々に屯聚していた。呉景らはまず虎らを撃破してのちに会稽に至るつもりでいた。孫策は「虎らは群盗で、大志があるのでなく、いずれ禽となるだけのものだ」といい、兵を引きいて浙江を渡り、会稽に拠り、東冶を屠り、のちに虎らを攻め破った。)
とあり、会稽に次ぐ要地として東冶の名が見える。
また、《呉志・呉主伝》黄龍二年(230)の条には、
遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。(将軍の衛温・諸葛直を遣わし甲士一万人を将いて夷洲及び亶洲を求めさせた。亶洲は海中に在り、長老が伝えて言うには、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし童男童女数千人を将いて海に入らせ、蓬莱の神山及び仙薬を求めさせたが、この洲に止まって還らなかった。世々相承して数万家になり、その上の人民が、時に会稽に至り貨布することがあり、会稽の東県の人が海を行くに、やはり風に遭い流移して亶洲に至る者がある。所在絶縁で、卒に至ることができず、ただ夷洲の数千人を得て還った。)
という記事がある。会稽の東県とは東冶の誤りだろう。范曄の《後漢書・東夷列伝》には、
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠,不可往來。
とあって、東鯷人云々は《漢書・地理志》からの引き写し、夷洲と澶洲についても《呉志》の文とよく似ている。ここで「会稽の海外」は構文上「夷洲及び澶洲」にも係る形になっているのだが、中でも「会稽の東冶県」の人が澶洲に至ることがあると特に記されている点が注目される。
福州から海に出ると台北は目の前にある。そこから沖縄を経て島伝いに九州に至るのはさほど難しいことではないだろう。東冶を拠点とする遊漁民などは、史書を著すような知識人が考えるより、もっと簡単に海を往来していたかもしれない。
当時の呉はかなり大きい船を持っていたらしいが、それは沿岸航路用に過ぎない。未熟な大型船で海を越えることは、遣唐使船がしばしば難破したように、実際危険である。かえって小型船の方が、波の力を受けることが小さく、水夫に十分な経験があれば、より安全に航海できたと考えられる。
ともあれ、以上のことから、「会稽の東冶」とは、海上交通の一拠点であり、航海に長けた人々がいたことが察せられる。そこで、問題の一文は
其の道里を計ると、会稽の東冶の東に之くところに当たる。
という意味で、東冶の人が東の海に乗り出して至ることがあるという行き先と倭の女王国とは、伝えられるそれぞれの道のりによってみると、その位置がどうやら一致する、ということを言おうとしているのではないだろうか。もちろん中国人が実地に踏査した帯方郡からの道との比較では情報の精度に差があり、亶洲が即邪馬台国であるとまでは言えない。
ただこの一文とその前後は、《太平御覧》の引用には欠けており、文章が錯雑としたところもあって、どれだけが本当に陳寿の原稿にあったか、疑うべき理由がある。四川省出身の陳寿がこんなことを聞き知っていたかどうかも疑えば疑わしい。あるいは裴松之の注が混入したものかもしれない。裴松之が《三国志》の注を完成させたのは南朝宋の元嘉六年(429)で、これ以前に倭王賛が少なくとも二度朝貢をしている。裴松之は范曄と同時代の人でもある。范曄の《後漢書・東夷列伝》には、
其地大較在會稽東冶之東
という記述がある。この二人がその時代に共通の関心から似たことを書いたのだとすれば、その表現は必ずしも魏末晋初の認識ではなく、南朝時代に新しくもたらされた知見を反映している可能性があり、これに対する評価も違ってくることになる。
邪馬台国への針路
ここまでの里数・方位・日数についての検討で、邪馬台国への道をたどる一応の準備ができたと思う。出発地は、帯方郡であり、その正確な位置はともかく、ひとまず今のソウル付近の河口で船に乗ったと想定しておく。現行本《魏志・東夷伝》によってその経路を摘出すると、
- 從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國
- 七千餘里,始度一海,千餘里至對海國
- 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國
- 又渡一海,千餘里至末盧國
- 東南陸行五百里,到伊都國
- 東南至奴國百里
- 東行至不彌國百里
- 南至投馬國,水行二十日
- 南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月
という順序である。念のために校合したいが、《太平御覧・四夷部》に引用された《魏志》には、
- 從帶方至倭,循海岸水行,歷韓國,從乍南乍東到其北岸拘耶韓國
- 七千餘里,至對馬國戶千餘
- 又南渡一海一千里,名曰瀚海,至一大國
- 又渡海千餘里,至未盧國
- 東南陸行五百里,到伊都國
- 又東南至奴國百里
- 又東行百里,至不彌國
- 又南水行二十日,至於投馬國
- 又南水行十日,陸行一月,至耶馬臺國
となっている。現行本と御覧の魏志ではかなり字句の違いがある。肝心の国名にも「邪馬壹(=壱)」と「耶馬臺(≒台)」という違いがある。それにも関わらず、方角と距離や日数は一致している。《魏志》に基づいたらしい《梁書・諸夷伝》の記述では、
- 從帶方至倭,循海水行,歷韓國,乍東乍南
- (なし)
- 七千餘里始度一海;海闊千餘里,名瀚海,至一支國
- 又度一海千餘里,名未盧國
- 又東南陸行五百里,至伊都國
- 又東南行百里,至奴國
- 又東行百里,至不彌國
- 又南水行二十日,至投馬國
- 又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國
とあって、対馬が抜けている他は、両種の魏志と一致している。さらに《翰苑》という書物があり、その注に《魏略》からとする引用がある。
- 從帶方至倭循海岸水行歷韓國到狗耶韓國
- 七千餘里始度一海千餘里至對馬國
- 南度海至一支國
- 又度海千餘里至末盧國
- 東南五百里到伊都國
- (以下なし)
《翰苑》の現存する写本はあまり質の良いものではなく、史料としての扱いには注意を要するが、方位と里数に関しては異なるところがない。
これによって見れば、その道のりに関する限り、誤字があると考えるべき材料は、文献上にはない。誤字はどこにでも発生しうるが、他の事実との矛盾や別の証拠がない限り、その可能性はゼロではないと言える程度にとどまる。里数は実際の地理との差によって短縮することが支持されるだろう。その類推から日数も短縮すべき無視できない程度の蓋然性がある。方位に関しては読み換えるべき根拠がなさそうである。成書以前のこととなると、実地を踏査したはずの使節が方角を大幅に誤って報告したと考えることは困難である。仮説のためには任意の仮定を置いても良いが、仮定を増やせば仮説の質を落とすことになる。
さて、正始元年(240)のことである。先年、倭の女王が大夫難升米らを遣わして朝献したのに対して、魏の天子は、親魏倭王の金印を帯方太守に預け、銅鏡百枚など大量の回賜の品々は難升米らに預けて、女王のもとへ届けさせることにした。帯方太守の弓遵は、建中校尉の梯儁を正使として、難升米らが帰るのに伴って、倭国へ派遣した。その使命は、詔書・印綬などを女王に与えることに加え、どうやら地理や政情の調査も兼ねたものだったらしい。
帯方郡から出発した梯儁ら一行は、韓国の海岸に沿って船で南下した。韓国の西には小島が多く、海が急に狭くなっているところを、潮流を利用して縫うように走る。「乍南乍東」とはこのことである。半島の西南隅で進路を西に転じ、「其北岸狗邪韓國」に船を着ける。今の金海である。「その北岸」とは、前文の「倭人在帶方東南大海之中」を受け、その大海の北であることを意味する。ここで渡海の準備を整え、風の向く日を待つ。
海を渡り、対海国に至る。南宋慶元年刊紹熙本に「對海國」、紹興本に「對馬國」、《御覧》にも「對馬國」とあり、今の対馬である。土地は山が険しく、良田がなく、海産物を食べ、船に乗って南北に交易する。
また南へ海を渡り、一大国に至る。《梁書》には「一支國」とあり、今の壱岐である。いくらか田地があるが、なお食うに足らず、やはり南北に交易する。この両国は、おそらく貿易の要地であることから人が増え、そのために食糧不足になったのだろう。
また海を渡り、末廬国に至る。山が海に迫っており、その間のわずかな土地に人々が住んでいる。後の肥前松浦郡だろう。
東南へ陸行して伊都国に着く。代々王があるが、女王国に統属する。やや想像を広げれば、この王とはもと奴国の王であり、邪馬台国のために領地を狭められて伊都王になったのだろう。福岡県旧糸島郡前原市付近と考えられる。かつての怡土郡である。
東南して奴国に至る。後の那珂郡がその地名の遺存したものである。
東行して不弥国に至る。福岡県糟屋郡宇美町がその地名の遺存だと思われる。
南へ水行して投馬国に至る。宇美町付近から南へ通行できる水地形は限られる。おそらく御笠川だろう。この流域には投馬に相当する地名は見られない。あるいは、投馬が日本語のツマに当たるとすれば、投馬国という一つの国があったのではないかもしれない。夫婦のツマ、着物の褄、建物のツマ、刺身のツマのように、主に対する副、身に対する縁、正面に対する側面などをツマと言う。だから投馬国とは邪馬台国の附庸諸国の総称だった可能性がなくもない。
南へ水陸行して邪馬台国に至る。御笠川をさかのぼった以上、その範囲はおのずと限られる。今日では忘れられがちなことだが、日本では川の水運は盛んに行われていた。川船でも積載量は牛馬の背よりずっと多い。トラックや貨物列車はおろか、牛馬さえまだ利用されなかった時代となれば、その重要性は殊に高かったはずだ。九州北部の地形を見ると、幹線になりそうな水系は御笠川・筑後川・宝満川・遠賀川などがあり、これらの要を押さえる地点に政治的中心があったかと思われる。
邪馬臺という字は日本語の「ヤマト」か「ヤマタ」または「ヤマダ」を写した蓋然性がある。ところで壱岐にはかつて壱岐郡と石田郡があった。下に「タ」「ダ」「ト」という音が付く地名は各地に多い。これらはその言葉がある種の地名であることを示す接尾辞だったのだろう。それが接尾辞として意識されている間は、付けて呼ぶことも付けないこともあったはずだ。すると、石田のイシは壱岐と同源であり、接尾辞の付いた形で定着したものが石田となり、外れた形が壱岐となったのである。
邪馬台国の名がもし後世の地名に伝わっていれば、それは「ヤマト」や「ヤマダ」かもしれないし、別の接尾辞に代わって「ヤマキ」「ヤマシロ」、助詞が挟まって「ヤマガタ」のような音になっているかもしれない。転訛を考慮すると「ヤマ」が「アマ」になっているかもしれない。
九州北部の範囲でそれを探してみると、福岡県旧山門郡、朝倉市甘木、大分県中津市の耶馬溪(山国谷)などが見つかる。七万戸あまりを有したと伝えられる邪馬台国は、すでにかなり広い版図を持っていたために、その名が各地別々に遺伝したのだろうか。
以上は一案であり、検討に値する他の仮説もある。しかし最も仮定の数が少なくて済み、従って仮説の質が最も良いと言えるのは、大筋でこんなところだろう。
「泛海南去三佛齊五日程」
我々は張政や梯儁の跡を追って邪馬台国にたどりつきたい。そこで、これまでに里数や方位について検討してきた。ところが《魏志・東夷伝》では肝心のところに里数がない。末廬国に上陸後、伊都国・奴国・不弥国を経て、
南至投馬國,水行二十日
そして
南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月
とある。そこで、この日数から距離を見積もることができるかどうかが問題となる。もっとも、里数の誇張から、ここの日数も、六~十倍にした上で概数に丸めたものと類推すれば、問題はかなり小さくなる。しかし誇張がなかったとしても、日数から距離を云々できるだろうか。
中国では、古くから地理的な距離を「里」という単位で表してきた。 里数は距離の測量的表現である。これに対して、「日程」という表現がある時期から使われた。《宋史・外国列伝》五「占城国」の段に、
泛海南去三佛齊五日程(海に泛び南して三仏斉に去くこと五日程)
などとある。この「日程」とは、距離の時間的表現である。その経路を一日で進行できる距離を一日程とする。海路を占城から三仏斉へ至るのに、普通はだいたい五日かかる、ということになる。距離の表現だから風待ちなどで進まなかった日数は計算に含めないはずだ。この後には、
陸行至賓陀羅國一月程,其國隸占城焉。東去麻逸國二日程,蒲端國七日程。北至廣州,便風半月程。東北至兩浙一月程。西北至交州兩日程,陸行半月程。
と続く。長さによっては「月程」や「歳程」も使われる。
対して、同巻「三仏斉国」の段に、
是年,潮州言,三佛齊國蕃商李甫誨乘舶船載香藥、犀角、象牙至海口,會風勢不便,飄船六十日至潮州,其香藥悉送廣州。(この年、潮州が言う、三仏斉国の蕃商李甫誨が舶船に乗り香薬・犀角・象牙を載せて海口〔海南省海口市〕に至り、会も風勢不便、船を飄わせ六十日して潮州〔広東省潮州市〕に至り、その香薬は悉く広州〔広東省広州市〕に送る)
とある中の「六十日」とは、距離の表現ではない。この年に三仏斉国の商人李甫誨が来たときには、途中から風が悪くなって六十日もかかった、という、特定の旅行における実際の日数である。こういう例では「日程」は使われない。同段には三仏斉国からの航路について、
泛海使風二十日至廣州
ともあるから、風の都合によって随分とかかる日数の違ったことが分かる。
距離の表現としての「日程」は、唐代以後の文献に見られるが、特に南洋方面に関する記事に現れてくる。南洋諸国との交通が盛んになるにつれて、おそらく海路の長さを表すのに便利であることから、次第に普通に用いられるようになったものらしく見受けられる。
この「日程」式の表記法は三国時代までの文献には見られないようであり、少なくとも正式には距離の時間的表現は使われていなかったと考えて良さそうである。また、単に日だけで距離を表そうとしたとも考えにくい。従って、《魏志・東夷伝》に記された投馬国・邪馬台国までの日数は、ある時の旅行でかかった総日数に基づいたと考えるのが妥当である。誇張がなかったとしても、どこまで行ってしまうとか、そこでは近すぎる、などと言うことはできない。
「日程」単位はその通路における平均的な速度が分かれば距離に換算できるはずだが、旅行にかかった総日数からは距離は割り出せない。昔の旅行は天候の影響を大きく受けたし、祭祀や宗教的な理由で進むのを控えることもあった。道路はろくに整備されたものではなく、台風にでも遭えば、泥が乾き水が引くのを待たなければならなかった。正始元年の梯儁は、詔書を奉じ賜物を届けただけでなく、おそらく途上各地の視察をも兼ねたのだろう。八年の張政のときは、邪馬台国と狗奴国とが抗争しており、折悪しく女王が逝去したこともあり、政情不安の中の旅行だった。そうした事情から足が遅くなったことも考えられる。
つまり「水行二十日」「水行十日,陸行一月」という日数だけなら、その目的地は西日本およびその周辺のおよそどこにでも求められる。しかし、その実際の範囲はむしろ「水行」によって制限されるのである。
言葉というものは、それが可能なあらゆるところに使われるとは限らない。現代日本語で「泥棒」とは「盗人」の意味に専用され、「泥のついた棒」のような意味には使わない。「手紙」「信書」「メール」はそれぞれ同義語だが、手紙は紙に書いて郵送などの手段で渡すもの、信書は郵便法上の用語、メールは電子的通信手段によって送信するものに使い分けている。慣習的に意味を制限することで、簡潔に言いたいことを表現できる。慣習だから変化するものであって、古文を読むにはその時代の語法を把むことが何よりも大事なのである。
「水行」とは、水面上を移動することであって、潜在的可能性としては川でも海でも湖でも良い。ただし時代によっては慣習的制限がなかったとは言えない。
古代中国文明は黄河中流域に発祥し、西晋時代までその中心は海から離れていた。海のことは長く中国人の親しむところではなかった。かつては川を呼ぶのに河水・漢水・淮水などと「水」を接尾したように、地形について「水」と言えばまずは川を指した。だから普通に「水行」とだけ言えばそれは川を下るか上るかすることを示したはずだ。海について「水行」を使った陳寿の頃までの例としては、《魏志・東夷伝》の
從郡至倭,循海岸水行,歷韓國
と、裴松之が引用した《魏略》の、
澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,水行半歲,風疾時一月到
というのがあるが、どちらも海であることが明らかに分かる文脈に置いている。読者が「水行」から川を想起することを避けようと注意したことが窺われる。単に「水行」とあれば川のことだと思うのが普通だったとすれば、邪馬台国までの「水行」は川船に乗ったことを言っている蓋然性が十分に高い。末廬国から邪馬台国までは地続きだということになる。
古代人の方位観を捉えるために
《魏志・東夷伝》には、帯方郡から邪馬台国までの行程が示されており、そこには「又南渡一海千餘里」とか「東南陸行五百里」のように多く方位を付けてある。これを信じればその順路をたどることができそうだが、そのためにはまず方位観の発達について考えておく必要がある。
現代人が地図上で認識する方位は、北極点と南極点を直線で結んでその方向を南北とし、これに直行する直線を東西とする。しかし人類が初めからこのような方位観を持ったわけではない。依るところは自然の産物だが、どこを取って方位とするかは人為による。時間が経つのは自然現象だが、いつを何時とするかは人為の選択による。季節が移るのは自然現象だが、どこを節分とするかは人為の決定による。方位もまたこれを定めるのは人為であり自明のものではない。
我々は行動中に方位を測るには磁石を用いることを知っている。これは地軸による方位とは厳密には一致しないので、現代人も複数の方位観を持っていることになる。古代中国では、磁石そのものの利用は始まっており、磁石が自由に動く状態では一定の方向を指すことも一部の人には知られていたらしい。しかし磁石を旅行に利用したという確実な記録は中世までに現れないようである。
そもそも現代人は東西南北の四極で方位を捉えることを当然だと思っているが、これとて自明のことではない。非常に素朴な段階の生活を考えてみると、初めは地勢によって方位を決めたのである。例えば一方にしか山がない地域ならば、山側とその逆側、それに山を前にしてその左右といった捉え方をする。地域によっては海や川が基準となる。地形によってはもっと複合的な基準を持つこともありうるだろう。
しかし行動や交流の範囲が広がると、ある地域でしか通用しない方位観では不便になる。そこでやっと太陽を仰ぐ。太陽は、どこから見ても、東から出て、南に昇り、西に沈む。これによって東西南北の段階に達するが、まだ人類普遍の方位観を獲得したとは言えない。なぜなら、日の出・日の入りの方角は季節によって変動するので、どこを正位とするかには選択の余地が残るからである。
太陽によって東西を決定するときには、日の出・日の入りの、夏至の日の方角を基準とするか、冬至とするか、その中間にするか、または季節に従って正位が変動すると考えることもありうる。だから東と西が一直線で結ばれるとも限らないし、東西南北の領域が四等分されるとも限らない。方位とはかくも人為的なものなのである。さらに複数の方位観が併用されるときには、それらを組み合わせてより複雑な方位観が形成されることもありうる。
かてて加えて、方位観がここまで発達しても、それがいつも精確に用いられるとも限らない。JR北海道に東室蘭駅がある。この付近では線路はおおむね北東から南西へ走っているので、駅の出口は北西と南東に付いている。しかしこれを北西口などとは言わず、西口・東口と称している。日本は南北に長いなどとよく言うが、もちろん列島が北から南へ直線的に並んでいるわけではない。それで足りるときや、事実が明らかだったり、慣用句になっているときなどは、かなり単純化してしまう。また日常的にはさほど厳密に方位を認識していない。現代人でもこうである。
こう考えてくると、史乗に現れる方位詞について、これを単純に現代人の方位観をもって正誤を判断できないことが分かるだろう。古い記録を読んでいると、現代の地図に照らして、方位がずれていると思われるときがある。だからそれは全く当てにならないと投げすててしまうのは考えものだ。ずれるにはそれなりの理由があったはずなので、個別の例に寄りそってそれを解明したいものである。
梯儁と張政の二回の使節団は、勅命を帯びた大事な身だから、渡航にはできるかぎり安全を期した。この海峡の気象を按じると、おそらく夏場に来てその夏のうちに戻ったか、または越冬して翌年の夏に帰ったろう。ことによると数年を過ごしたかもしれない。いずれにせよ越海には夏が良さそうである。
行程の中に末盧国から伊都国へは「東南陸行五百里」とある。末盧国を呼子、伊都国を伊都郡旧前原市付近とすると、今の地図で見てその方角は東であって東南とは言えない。しかし、もし夏至に近い時期の日の出の方角によって東を認識したとすれば、東南と感じても不思議はない。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡には、二つの内曲輪が検出されており、北よりにあるものを北内郭と呼んでいる。北内郭は、上空から見ると釣り鐘を横にしたような形で、その先頭が冬至の日の入りの方角を向いている。反対側は夏至の日の出である。この一例だけから確かなことは言えないが、こうした遺構も当時の方位観を解明する手がかりの一つになるだろう。
《魏志・東夷伝》による面積と距離の認知
《魏志・東夷伝》によると、魏から倭への公式の使節は、正始元年(240)の梯儁と同八年の張政の二回の記録がある。実際にはもっと多くの往来があったかと思われるが、この二回は、詔書を奉じており、天子の命によって行われたために、特に史乗に残されたのである。そしてこの二人は、旅行の始末を詳しく上書したはずであり、“魏志倭人伝”の記事は主にこれによって構成されたものと思われる。
帯方郡を発った使節団の船は、海岸に沿って水行し、弁辰の狗邪国で渡海のための準備をし、涜盧国こと巨済島の沿岸を経て対馬を指したと考えられることは前に述べた。対馬へ「始めて一海を度る」までの距離を七千余里としてある。魏晋時代の一里は普通に約434メートルと考えられているから、434×7000=3038kmで、帯方郡を候補地のどこに比定しても過大な距離となる。
ここに見られるように、《魏志・東夷伝》では邪馬台国までの道程をかなり引きのばしている。そしてその副作用として、旅程上の各地の面積がまた過大になる。この副作用をまず被ったのが韓国で、「方可四千里」とある。「可」はここでは「約」の意味だと思って良い。方幾々里とは、一辺が幾々里の正方形に等しい広さという意味である。だから実際の面積はおよそ四千里×四千里の答えとなる。これをメートル法に換算すると、(434×4000)×(434×4000)=301万3696平方kmとなる。当時において韓と呼ばれた地域の広さは、厳密には言えないが、今の大韓民国より大きくはないと思われる。今の韓国の面積は約10万平方kmだから、概数でせいぜい方七百里である。
当時、韓の北には陸続きで帯方郡があった。帯方郡は楽浪郡の南部を割いたもので、楽浪郡の設置は漢の武帝の時代であって、すでに三百年近く、漢、次いで魏の地方機関がそこに営まれていた。郡が置かれるということは、地理的な距離にかかわらず、制度的には等距離になる。郡からは定期的に計吏が上京する。計吏の本来任務は会計報告だが、その機会に風土などを問われることもあった。当然韓地のおよその広さくらいは洛陽に知られていたに違いない。少なくとも「方可四千里」があまりに広すぎることは、知識層にはすぐ分かったことだろう。
韓地の面積がすでにこれほど誇大では、道程の里数も信じられないことが明らかとなる。信じられないとは、今日の我々にとって信じられないだけでなく、陳寿が想定した当時の読者にも信じられたものではないということである。
念のために他の二例も検討してみよう。
使節団は郡より七千余里したところで一海を渡り、千余里して対海(馬)国に至った。ただし《太平御覧》の引用では「始度一海,千餘里」の部分がなく、郡から七千余里で対馬国に至ると読める。いずれにせよ長すぎることに違いはない。対海国は「方可四百餘里」なので、(434×400)×(434×400)=3万136.96平方kmである。今の対馬島の面積は約696平方kmで、昔流の方六十余里に当たる。
又南へ一海を渡ること千余里、一大国に至る。一大国に当たるところは《梁書》《隋書》《北史》などでは一支国になっている。「方可三百里」なので(434×300)×(434×300)=1万6952平方kmである。今の壱岐島は約134平方kmで、方二十七里程度になる。
このように《魏志・東夷伝》による韓・対海国・一大国の面積は、実際よりも膨大に広い。しかしこれは広さを誇張することに主眼があるのではなく、邪馬台国までの道程を長くすることが目的であったらしく見える。そのために方幾々里という文章上で目に入る数値を約六~十倍にしている。実測値に一定の値をかけた上で整然とした概数に丸めたものだろうと思われる。これは距離の里数も同じくらいに延ばされているのである。
誰が、なぜ、このような誇張をしたかは、いくつか思いつかないでもないが、どれも蓋然性を測るほどの材料を欠いているから、ここでは扱わない。
《魏志・東夷伝》には、韓の弁辰の涜盧国は倭と界を接する、とある。涜盧国は巨済島であり、ここと対馬との海峡が倭韓両地の境界と考えられることは前に述べた。その航路は千余里とあるが、これは東京・大阪間の直線距離より長い。航路だから直線ではないとはいえ、界を接すると言うにはいくらなんでも遠すぎる。おそらく陳寿は張政か梯儁による実測値が載った報告書を手もとに持っていてそれを書いたのだろう。