古代史を語る

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古代史を読む

 日本語に対する計量的調査は、二十世紀に生長した研究領域の一つである。

 日本語の系統に関しては未だ充分な証明が与えられてはいない。隣りあう韓国語の間でさえ、その隔たりは、英語とドイツ語やフランス語の距離では比較にならず、印欧祖語が分岐を始めた時代を思いあわせても、まだ参考にしがたいという。これは、日本語と韓国語が、共通の祖語から出たと仮定しても、分かれたのは六~七千年以上前のことだろうと考えられることを意味する。これはまた、古代以前に、さらに古代の段階において、両言語圏がどう関係したかをも示唆する。

 このことは、しかし、古い日本語を話した人々が、長く孤立していたことを意味するわけではない。日本語は豊富な外来語を持っており、和語と呼ばれる中にも、よほど古い時代の外来要素が含まれていることを言語学は示唆する。言語の系統と、種族、文化、さらには王権の系統が別の問題でありうることも忘れてはいけない。


 大業四年(六〇八)、隋朝は裴世清を倭国へ遣わした。中国からの公式の使節は、三国時代以来、三百数十年ぶりのことである。この時のことは、《隋書・東夷列伝》と《日本書紀推古天皇紀》の両方に記録されている。この年は推古天皇の十六年である。

 これより前、隋の開皇二十年(六〇〇)、隋書は倭王「姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌」からの遣使を王宮に迎えたことを記す。このことは日本書紀には載せられていない。ということは、書紀の編集部がどんな基準で取捨選択をしたかを知る手がかりの一つになる。隋では開皇初年に百済王余昌を上開府・帯方郡公・百済王とし、新羅王金真平を上開府・楽浪郡公・新羅王としたのにひきかえ、倭王に対しては何の爵位も与えていない。倭王の方からも求めなかったようであり、ここから倭国の特異な外交が始まる。

 推古天皇の十五年、「大礼小野臣妹子をば大唐に遣わし、鞍作福利を通事とする」。書紀では王朝の代をいちいち区別せず、場合によって唐とか呉などと呼ぶことで一貫している。中国でのことは書紀には記事がないが、隋書によって知られる。東夷列伝に曰く、

大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子至書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」

(大業三年、其の王の多利思比孤が遣使し朝貢した。使者の曰く:「海西の菩薩天子はあつく仏法を興すと聞こえる。故に朝拜に遣わされ、兼ねて沙門数十人は仏法を学びに来た。」其の国書の曰く「日の出る処の天子が日の没する処の天子に書を至す。恙無きや」云云。帝は之をよろこばず、鴻臚卿にかたって曰く:「蛮夷の書で無礼なる者が有れば、ふたたび聞かせるな。」)

 そこで大業四年、裴世清が倭国へ遣わされて来た。書紀によると裴世清は「鴻臚寺掌客」つまり一種の外務官僚である。隋書の以下の記述は裴世清の実見に多くをよっている。

 裴世清らの使節団は、おそらく山東半島あたりから出航し、百済国の西を渡り、𨈭羅国つまり済州島の北を通った。𨈭羅国は百済の附庸だという。さらに都斯麻国を過ぎ、東して一支国に着き、また竹斯国に着き、また東して秦王国に着いた。秦王国の人が「華夏に同じ」だというのはよく分からないが、状況的には南朝からの亡命者が住む居留地のような所があっても不思議はない。また十余国を経ると海岸に達した。竹斯国から東は全て倭の附庸であるという。附庸とは今の自治領のようなものを指す。つまり、倭人の土地は一つの国ではなく、倭国を中心に竹斯国・秦王国・その他の諸国が構成する連合体であると裴世清は見た。

 日本書紀によると、小野妹子が裴世清らをともなって筑紫に着いたのは、推古天皇の十六年夏四月のことである。裴世清らは六月十五日に難波津に入り、新しく建てられた客館に泊まった。倭の都に入ったのは秋八月三日、王宮に招かれたのは十二日となっている。

 さて、王宮を訪ねた裴世清、隋書によると、

既至彼都,其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境內,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」

(既に彼の都に至り、其の王は清と相まみえ、大いによろこび、曰く:「我は海西には大隋が有り、礼義の国であると聞き、故に朝貢を遣わした。我は夷人で海隅にって在り、礼義を聞くことがない。是のために境内にけいりゅうさせ、ただちに相見えなかった。今、ことに道を清め館を飾って大使をもてなす。ねがわくは大国惟新の化を聞きたい。」清の答えて曰く:「皇帝は、徳は二儀に並び、ひかりは四海に流れ、王が化を慕うによって、こと行人つかいを遣わし、来てここに宣諭するのである。」)

 とあって、倭王が裴世清を親しく引見したかのようである。ところが日本書紀によると、裴世清が携えてきた親書を、まず阿部鳥臣が受けとり、それをまた大伴囓連が受けとって、そして「大門の前の机上に置いて奏す」とあって、どうやら推古天皇が直に接見していないような書き方をしてある。

 おそらく推古天皇は裴世清に会わなかったのだろう。なぜなら裴世清は倭王に会いに来ている。しかし推古天皇は前に隋の皇帝に宛てた国書で自ら天子と称している。天子とは本来は天下にただ一人でなければならない。北朝の隋としては、せっかく宿敵南朝の陳を滅ぼして、久しくなかった天下一統の君主になったと思った所に、えたいの知れない国が天下の分割を提案してきたということなのだ。正統の文明を保持していた南朝ならまだしも、倭国とはいったい何者だろうか。この度の遣使には天子たる皇帝の権威がかかっている。

 裴世清は当然のこと倭国の王者に会って本意を試さなければならない。推古天皇としては、隋の勅使に会えば単なる国王としての扱いを受けることになり、すでに天子を称した者としては、格が下がることになって決まりが悪い。さもなくば隋にとって不倶戴天の敵となるかである。しかし幸いなことに、天子の権能としては国王を任命することができる。そこで、適当な男性一人を選んで倭王に立て、裴世清の接待をさせたかもしれない。裴世清はこの人物を倭王「姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌」として認識したことになる。

 単なる王と天子たる王との違いは決定的な意味を持つものであり、中国と並ぶ唯一の天子権を日本王朝が確立する直前の段階がこの時代であるとすれば、推古天皇が一度は公称した天子号を捨てるようなことをしたかどうかは疑わしい。

 裴世清らは九月に帰途につき、また小野妹子らが伴った。隋書はこの後に絶えたと記す。絶えたのは隋側の事情による。


 古代日本の状況を、初めて内外両面の記録から確かめられる、この七世紀初頭の事情を把握することは重要である。これ以前の段階は、この時期より過ぎたものでないという前提を置いて考えてみることにしよう。