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日本書紀の“革命思想”

 天武天皇が即位した頃(673)、唐は高宗の咸亨年間で、実権は武皇后の手にあった。隋唐統一の安定期は、安史の乱玄宗の天宝十四年(755)に起きているから、その巨大な印象に反して余り長くない。だがこの頃は、政界の確執はともかく、内政はわりあい平穏で、繁栄を讃えられる開元の治を準備した。天武天皇としては、かの盛んなる王朝と比肩すべく、自身の王権の由緒と革命の理論を証明しなくてはならない。ここに《日本書紀》の成立へとつながる修史事業が始まった。

 そもそも、人間に身分の差というものができてくると、人が人の上に立つことがなぜ正当でありうるかが問われることになる。血統主義は、上古から近世に至るまで、広く見られる。その昔に何らかの事情でそう決まった、それが血によって受け継がれる、という考え方である。これは世襲制を肯定する。しかし身分の固定はいつか社会の停滞を招くので、革命を是認する思想が要求される。そこで古代中国人は、天命主義を考え出した。誰が王権を担うべきかは天が決定する。天がもし衰退した王朝を見放すときには、人間は誰が新たに天命を受けるのかを理解しなければならない。それには、やむをえなければ武力によってする放伐も許されるが、血ぬらずに済む禅譲の方が望ましいとされた。

 こうした革命は、王家の交替という形で行われる。王者の姓がわるのでこれを易姓革命と呼ぶ。中国では易姓が革命の原則とされるが、それは中国の特殊状況において可能だったことで、日本上古の社会環境には当てはまらなかった。もっともそれは結果的に形成された観念なので、初めからそれを原理として革命が行われたわけでもない。当時において手近な例外としては、南朝の斉から梁への交替が挙げられる。両朝の帝室はともに蕭氏で、系図をたどれる程度の親戚だった。

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 また北朝北周・隋・唐の三代は、姓こそ宇文・楊・李と違っているが、女系中心に見ればほとんど同じ一家であって、男系主義の社会でなければ易姓革命の列に入らなかった。

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 日本上古の社会は両系的傾向が強かったと思われる。こういう状態では血統の区別としての氏姓の制度が確立しにくい。さらには、王権を担いうるような有力者は限られており、よしみのためにその間で通婚が行われると、細長い列島という環境では、すぐにみな親戚になってしまう。いわゆる万世一系というほどのことではなかったにしろ、こうした意味での“同族”による王権の争奪と継受が行われてきたことは真実と見て良いだろう。応神天皇の五世の孫を称する継体天皇、兄弟や近縁の者を何人も殺して権力を高めた雄略天皇、異母兄弟が殺された後に皇太子に立てられた応神天皇といった例を数えることができる。そこに日本式の革命を見出すことができ、それによって天武天皇の行為も新王朝樹立のためのこととして正当化される。

 ではそのようにして獲得された王権が由緒正しいものかどうかが問題である。ただ実力によって支配するだけで、その権力に名分が立たない、そんな主君は覇者と呼ばれて格落ちの扱いを受ける。

 南北朝時代南朝の王権は、漢の高祖が天下を統べるべく天命を受けて以来、魏・晋・南朝宋へと禅譲によって継承されたものだった。宋からは南斉・梁・陳へと禅譲され、ついに隋によって滅ぼされる。一方、北朝北魏は中原を制覇し、南朝宋と対立したが、帝室の拓跋氏は遊牧民系の鮮卑族で、その王権には由緒がなかった。これでは中国を統治するのに都合が悪い。そこで思い切って黄帝の子孫を称した。《魏書・序紀》に謂う、

昔黃帝有子二十五人,或內列諸華,或外分荒服,昌意少子,受封北土,國有大鮮卑山,因以為號。

昔、黄帝には子二十五人が有り、或るものは内にて諸華(中国文明圏)に列し、或るものは外にて荒服(夷狄の地)を分けた。昌意(黄帝の嫡子)の少子は、北土に封じられ、国は大鮮卑山にち、因って号とした。

 と。こんなことを鮮卑族が言い伝えていたはずはないのだが、真実性よりもこれが政治的宣言となることに意味がある。黄帝の子孫であると称した以上は、王者として徳を修め、中国にふさわしい政治をすると誓ったことになる。そして王権の起源が黄帝にあるということは、それが南朝よりもずっと古いという点で由来が良い。北魏の王権は、北周・隋を通して、禅譲によって唐に受け継がれる。つまり唐の王権は黄帝に由緒を持つ。

 これが天武天皇が比肩しようとした相手なのだ。その統治下には、倭人と古参の渡来人だけでなく、新羅統一の戦争によって生じた万という数の百済高句麗両国からの亡命者をも抱えている。そしてその手にはかつてどんな倭人の王者も持ったことがないほどの権力を握っている。これを確かなものにするには、それにふさわしい王権の由来を発見しなくてはならない。これは必ずしも新しい試みではなく、《隋書・東夷伝》に

使者言倭王以天爲兄,以日爲弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。

使者が言う。倭王は、天を兄とし、日を弟とし、天がまだ明けない時に出て政を聴き、跏趺して坐り(僧侶がする足の甲を腿に乗せるような深いあぐら)、日が出れば理務を停め、我が弟に委ねようと云う。

 とあるのは、日本的王権思想の確立に向けた努力の跡として評価すべきである。しかしそれはまだ成功したものではない。

 中国では、古くから王権思想が発達した。森羅万象の背後には天なるものの働きがあるように、誰が王権を執るべきかも天の働きによって決定されると考えられた。早くに議論が尽くされ、常識となって、“天命”の一言で説明が済むほどになった。だから古代中国にはギリシャ神話のような擬人化された神々の物語が全くなかったわけではないが、知識人はこれを俗説として却けた。“天”とは空のような具体物の別名ではなく、“天帝”といってもゼウスのような神が雲の上に住んでいるのではない。

 日本にはこうした条件がないので、王権の由来を説くのに神話的説明が求められることになる。抽象的な“天”の代わりに具体的な天上界があり、“天帝”に当たる人間的な神が設定される。すでに神を擬人化したからには、そこにも地上のような出来事の展開が想定される。それまでに伝えられてきた上古の事実や、外来のものを含む民話などを材料とし、修史事業に係る時期の政情を加味して、いわゆる日本神話が構成されることになる。

 そして、日本の王権は、日本的環境における血統主義により、かつて天上の神の子孫が地上に降りたことに由来し、天武天皇はその血を引いていると考えられることになった。その来歴を考証し撰述することでやがて《日本書紀》は完成する。しかしそれまでには思わぬことに四十年近い歳月を要し、その内には編纂方針の変動もいくらかあったようだ。そのためにやや混雑した所のある歴史観が形成されたものらしい。