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《魏志・東夷伝》による面積と距離の認知

 《魏志東夷伝》によると、魏から倭への公式の使節は、正始元年(240)の梯儁と同八年の張政の二回の記録がある。実際にはもっと多くの往来があったかと思われるが、この二回は、詔書を奉じており、天子の命によって行われたために、特に史乗に残されたのである。そしてこの二人は、旅行の始末を詳しく上書したはずであり、“魏志倭人伝”の記事は主にこれによって構成されたものと思われる。

 帯方郡を発った使節団の船は、海岸に沿って水行し、弁辰の狗邪国で渡海のための準備をし、涜盧国こと巨済島の沿岸を経て対馬を指したと考えられることは前に述べた対馬へ「始めて一海を度る」までの距離を七千余里としてある。魏晋時代の一里は普通に約434メートルと考えられているから、434×7000=3038kmで、帯方郡を候補地のどこに比定しても過大な距離となる。

 ここに見られるように、《魏志東夷伝》では邪馬台国までの道程をかなり引きのばしている。そしてその副作用として、旅程上の各地の面積がまた過大になる。この副作用をまず被ったのが韓国で、「方可四千里」とある。「可」はここでは「約」の意味だと思って良い。方幾々里とは、一辺が幾々里の正方形に等しい広さという意味である。だから実際の面積はおよそ四千里×四千里の答えとなる。これをメートル法に換算すると、(434×4000)×(434×4000)=301万3696平方kmとなる。当時において韓と呼ばれた地域の広さは、厳密には言えないが、今の大韓民国より大きくはないと思われる。今の韓国の面積は約10万平方kmだから、概数でせいぜい方七百里である。

 当時、韓の北には陸続きで帯方郡があった。帯方郡楽浪郡の南部を割いたもので、楽浪郡の設置は漢の武帝の時代であって、すでに三百年近く、漢、次いで魏の地方機関がそこに営まれていた。郡が置かれるということは、地理的な距離にかかわらず、制度的には等距離になる。郡からは定期的に計吏が上京する。計吏の本来任務は会計報告だが、その機会に風土などを問われることもあった。当然韓地のおよその広さくらいは洛陽に知られていたに違いない。少なくとも「方可四千里」があまりに広すぎることは、知識層にはすぐ分かったことだろう。

 韓地の面積がすでにこれほど誇大では、道程の里数も信じられないことが明らかとなる。信じられないとは、今日の我々にとって信じられないだけでなく、陳寿が想定した当時の読者にも信じられたものではないということである。

 念のために他の二例も検討してみよう。

 使節団は郡より七千余里したところで一海を渡り、千余里して対海(馬)国に至った。ただし《太平御覧》の引用では「始度一海,千餘里」の部分がなく、郡から七千余里で対馬国に至ると読める。いずれにせよ長すぎることに違いはない。対海国は「方可四百餘里」なので、(434×400)×(434×400)=3万136.96平方kmである。今の対馬島の面積は約696平方kmで、昔流の方六十余里に当たる。

 又南へ一海を渡ること千余里、一大国に至る。一国に当たるところは《梁書》《隋書》《北史》などでは一国になっている。「方可三百里」なので(434×300)×(434×300)=1万6952平方kmである。今の壱岐島は約134平方kmで、方二十七里程度になる。

 このように《魏志東夷伝》による韓・対海国・一大国の面積は、実際よりも膨大に広い。しかしこれは広さを誇張することに主眼があるのではなく、邪馬台国までの道程を長くすることが目的であったらしく見える。そのために方幾々里という文章上で目に入る数値を約六~十倍にしている。実測値に一定の値をかけた上で整然とした概数に丸めたものだろうと思われる。これは距離の里数も同じくらいに延ばされているのである。

 誰が、なぜ、このような誇張をしたかは、いくつか思いつかないでもないが、どれも蓋然性を測るほどの材料を欠いているから、ここでは扱わない。

 《魏志東夷伝》には、韓の弁辰の涜盧国は倭とさかいを接する、とある。涜盧国は巨済島であり、ここと対馬との海峡が倭韓両地の境界と考えられることは前に述べた。その航路は千余里とあるが、これは東京・大阪間の直線距離より長い。航路だから直線ではないとはいえ、界を接すると言うにはいくらなんでも遠すぎる。おそらく陳寿は張政か梯儁による実測値が載った報告書を手もとに持っていてそれを書いたのだろう。