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「当在会稽東冶之東」を読み解く

 《魏志東夷伝》には、帯方郡からの道のりの他に、邪馬台国の位置に関係する情報がいくつかある。その一つは、

計其道里,當在會稽、東冶之東。

 というものである。やや意味を取りにくい書き方で、なぜここに会稽の東冶を持ち出す必要があるのかも分かりにくい。

 はるかに時代は下って、南宋の趙汝适が著した《諸蕃志》には、

倭國在泉之東北,今號日本國。

 かつ、

計其道里,在會稽之正東

 とある。趙汝适の示す方位観はやや複雑だが、長くなるので説明は省く。どうであれここでは大差がない。泉とは今の福建省泉州市のことで、当時随一の貿易港だった。会稽は浙江省紹興市である。後者の記載は、《魏志》の文を利用しつつ、字を改めて意味を変更している。日本の座標は「泉州の東北」で「紹興正東まひがし」だというから、これを信じて鹿児島にたどり着ける。

 唐の姚思廉の《梁書・諸夷伝》には、

去帶方萬二千餘里,大抵在會稽之東,相去絕遠。

 とあるが、「会稽の東冶」と単に「会稽」とでは地理的な開きが大きい。東冶は福建省の福州市で、紹興とは南北約450kmの隔たりがある。しかも《魏志》では「道里」つまり「二地点間の道のり」に関することを述べているのであって、単純な位置関係を言っているのではない。

 会稽は、上古の伝説的な天子である夏后禹にゆかりのある地名である。禹は、帝舜の治世に、各地を巡って治水を成功させたり、貢賦や五服の制度を整えたと伝えられる。禹は舜の後を継ぎ、後に会稽に行ったときに崩御した。禹は長江の南で諸侯と集会し、功績を計り、そこで崩御して埋葬されたので、その地が会稽と名付けられたと云われる。会稽は会計の意味だとされる。

 やがて、秦が楚を滅ぼすと、呉越の地に会稽郡を置いた。この年は秦王政の二十五年(前222)である。秦末漢初の曲折を経て、また会稽郡が置かれたが、前漢の末には江蘇省南部から浙江省福建省にわたる広い地域を領した。ただし広いというのは未開の地が広かったのである。《漢書・地理志上》に

會稽郡,戶二十二萬三千三十八,口百三萬二千六百四。縣二十六:吳,曲阿,烏傷,毗陵,餘暨,陽羨,諸暨,無錫,山陰,丹徒,餘姚,婁,上虞,海鹽,剡,由拳,大末,烏程,句章,餘杭,鄞,錢唐,鄮,富春,冶,回浦。

 とあり、この内の冶県の地が東冶とも呼ばれる。後漢時代には、東侯官、また侯官と改称されたが、行政制度上のことで、地名としてはなお東冶とも呼ばれた。

 会稽郡治は、はじめ呉県に置かれたが、後漢の順帝の永建四年(129)、北部を割いて呉郡を設けたため、山陰県に移された。呉県は今の江蘇省蘇州市、山陰県は浙江省紹興市である。山陰県の南に会稽山があり、その山中にかつて禹が葬られたと一般に信じられている。単に会稽と言えばここを指す。

 会稽郡は、開発が進むにつれて何度か分割され、呉の永安三年(260)、東冶を含む南部には建安郡が設けられた。しかし大まかな地方名としてはやはり会稽が使われることもあった。建安郡治は建安県に置かれたが、今の南平市でやや内陸にある。陸路不便だったこの地域では、海浜の東冶が交通の一拠点として重視されたようである。

 例として、《魏志・王朗伝》に、漢末、会稽太守だった王朗は、孫策を防ぎきれずに、海に浮かんで東冶に逃げ、そこで降伏したことが見える。裴松之が注に引く《献帝春秋》には、王朗はそこから船で交州まで逃げるつもりだったとある。交州とは今のベトナム北部であり、東冶という土地の性格がうかがえる。

 《呉志・孫策伝》には、

吳人嚴白虎等衆各萬餘人,處處屯聚。吳景等欲先擊破虎等,乃至會稽。策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。(呉人の厳白虎らは各々一万人あまりをあつめ、処々に屯聚たむろしていた。呉景らはまず虎らを撃破してのちに会稽に至るつもりでいた。孫策は「虎らは群盗で、大志があるのでなく、いずれとりことなるだけのものだ」といい、兵を引きいて浙江を渡り、会稽に拠り、東冶を屠り、のちに虎らを攻め破った。)

 とあり、会稽に次ぐ要地として東冶の名が見える。

 また、《呉志・呉主伝》黄龍二年(230)の条には、

遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。(将軍の衛温・諸葛直を遣わし甲士一万人をひきいて夷洲及び亶洲を求めさせた。亶洲は海中に在り、長老が伝えて言うには、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし童男童女数千人を将いて海に入らせ、蓬莱の神山及び仙薬を求めさせたが、このしまとどまって還らなかった。世々相承して数万家になり、そのあたりの人民が、時に会稽に至り貨布あきないすることがあり、会稽の東県の人が海を行くに、やはり風に遭い流移して亶洲に至る者がある。所在絶縁で、ついに至ることができず、ただ夷洲の数千人を得て還った。)

 という記事がある。会稽の東県とは東冶の誤りだろう。范曄の《後漢書東夷列伝》には、

會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠,不可往來。

 とあって、東鯷人云々は《漢書・地理志》からの引き写し、夷洲と澶洲についても《呉志》の文とよく似ている。ここで「会稽の海外」は構文上「夷洲及び澶洲」にも係る形になっているのだが、中でも「会稽の東冶県」の人が澶洲に至ることがあると特に記されている点が注目される。

 福州から海に出ると台北は目の前にある。そこから沖縄を経て島伝いに九州に至るのはさほど難しいことではないだろう。東冶を拠点とする遊漁民などは、史書を著すような知識人が考えるより、もっと簡単に海を往来していたかもしれない。

 当時の呉はかなり大きい船を持っていたらしいが、それは沿岸航路用に過ぎない。未熟な大型船で海を越えることは、遣唐使船がしばしば難破したように、実際危険である。かえって小型船の方が、波の力を受けることが小さく、水夫に十分な経験があれば、より安全に航海できたと考えられる。

 ともあれ、以上のことから、「会稽の東冶」とは、海上交通の一拠点であり、航海に長けた人々がいたことが察せられる。そこで、問題の一文は

其の道里を計ると、会稽の東冶の東にくところに当たる。

 という意味で、東冶の人が東の海に乗り出して至ることがあるという行き先と倭の女王国とは、伝えられるそれぞれの道のりによってみると、その位置がどうやら一致する、ということを言おうとしているのではないだろうか。もちろん中国人が実地に踏査した帯方郡からの道との比較では情報の精度に差があり、亶洲が即邪馬台国であるとまでは言えない。

 ただこの一文とその前後は、《太平御覧》の引用には欠けており、文章が錯雑としたところもあって、どれだけが本当に陳寿の原稿にあったか、疑うべき理由がある。四川省出身の陳寿がこんなことを聞き知っていたかどうかも疑えば疑わしい。あるいは裴松之の注が混入したものかもしれない。裴松之が《三国志》の注を完成させたのは南朝宋の元嘉六年(429)で、これ以前に倭王賛が少なくとも二度朝貢をしている。裴松之は范曄と同時代の人でもある。范曄の《後漢書東夷列伝》には、

其地大較在會稽東冶之東

 という記述がある。この二人がその時代に共通の関心から似たことを書いたのだとすれば、その表現は必ずしも魏末晋初の認識ではなく、南朝時代に新しくもたらされた知見を反映している可能性があり、これに対する評価も違ってくることになる。