古代史を語る

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「泛海南去三佛齊五日程」

 我々は張政や梯儁の跡を追って邪馬台国にたどりつきたい。そこで、これまでに里数や方位について検討してきた。ところが《魏志東夷伝》では肝心のところに里数がない。末廬国に上陸後、伊都国・奴国・不弥国を経て、

南至投馬國,水行二十日

 そして

南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月

 とある。そこで、この日数から距離を見積もることができるかどうかが問題となる。もっとも、里数の誇張から、ここの日数も、六~十倍にした上で概数に丸めたものと類推すれば、問題はかなり小さくなる。しかし誇張がなかったとしても、日数から距離を云々できるだろうか。

 中国では、古くから地理的な距離を「里」という単位で表してきた。 里数は距離の測量的表現である。これに対して、「日程」という表現がある時期から使われた。《宋史・外国列伝》五「占城国」の段に、

泛海南去三佛齊五日程(海にうかび南して三仏斉スリヴィジャヤくこと五日程ごじってい

 などとある。この「日程」とは、距離の時間的表現である。その経路を一日で進行できる距離を一日程とする。海路を占城から三仏斉へ至るのに、普通はだいたい五日かかる、ということになる。距離の表現だから風待ちなどで進まなかった日数は計算に含めないはずだ。この後には、

陸行至賓陀羅國一月程,其國隸占城焉。東去麻逸國二日程,蒲端國七日程。北至廣州,便風半月程。東北至兩浙一月程。西北至交州兩日程,陸行半月程。

 と続く。長さによっては「月程」や「歳程」も使われる。

 対して、同巻「三仏斉国」の段に、

是年,潮州言,三佛齊國蕃商李甫誨乘舶船載香藥、犀角、象牙至海口,會風勢不便,飄船六十日至潮州,其香藥悉送廣州。(この年、潮州が言う、三仏斉国の蕃商李甫誨が舶船に乗り香薬・犀角・象牙を載せて海口〔海南省海口市〕に至り、おりしも風勢不便、船をただよわせ六十日して潮州〔広東省潮州市〕に至り、その香薬は悉く広州〔広東省広州市〕に送る)

 とある中の「六十日」とは、距離の表現ではない。この年に三仏斉国の商人李甫誨が来たときには、途中から風が悪くなって六十日もかかった、という、特定の旅行における実際の日数である。こういう例では「日」は使われない。同段には三仏斉国からの航路について、

泛海使風二十日至廣州

 ともあるから、風の都合によって随分とかかる日数の違ったことが分かる。

 距離の表現としての「日程」は、唐代以後の文献に見られるが、特に南洋方面に関する記事に現れてくる。南洋諸国との交通が盛んになるにつれて、おそらく海路の長さを表すのに便利であることから、次第に普通に用いられるようになったものらしく見受けられる。

 この「日程」式の表記法は三国時代までの文献には見られないようであり、少なくとも正式には距離の時間的表現は使われていなかったと考えて良さそうである。また、単にだけで距離を表そうとしたとも考えにくい。従って、《魏志東夷伝》に記された投馬国・邪馬台国までの日数は、ある時の旅行でかかった総日数に基づいたと考えるのが妥当である。誇張がなかったとしても、どこまで行ってしまうとか、そこでは近すぎる、などと言うことはできない。

 「日程」単位はその通路における平均的な速度が分かれば距離に換算できるはずだが、旅行にかかった総日数からは距離は割り出せない。昔の旅行は天候の影響を大きく受けたし、祭祀や宗教的な理由で進むのを控えることもあった。道路はろくに整備されたものではなく、台風にでも遭えば、泥が乾き水が引くのを待たなければならなかった。正始元年の梯儁は、詔書を奉じ賜物を届けただけでなく、おそらく途上各地の視察をも兼ねたのだろう。八年の張政のときは、邪馬台国と狗奴国とが抗争しており、折悪しく女王が逝去したこともあり、政情不安の中の旅行だった。そうした事情から足が遅くなったことも考えられる。

 つまり「水行二十日」「水行十日,陸行一月」という日数だけなら、その目的地は西日本およびその周辺のおよそどこにでも求められる。しかし、その実際の範囲はむしろ「水行」によって制限されるのである。

 言葉というものは、それが可能なあらゆるところに使われるとは限らない。現代日本語で「泥棒」とは「盗人」の意味に専用され、「泥のついた棒」のような意味には使わない。「手紙」「信書」「メール」はそれぞれ同義語だが、手紙は紙に書いて郵送などの手段で渡すもの、信書は郵便法上の用語、メールは電子的通信手段によって送信するものに使い分けている。慣習的に意味を制限することで、簡潔に言いたいことを表現できる。慣習だから変化するものであって、古文を読むにはその時代の語法を把むことが何よりも大事なのである。

 「水行」とは、水面上を移動することであって、潜在的可能性としては川でも海でも湖でも良い。ただし時代によっては慣習的制限がなかったとは言えない。

 古代中国文明黄河中流域に発祥し、西晋時代までその中心は海から離れていた。海のことは長く中国人の親しむところではなかった。かつては川を呼ぶのに河水・漢水・淮水などと「水」を接尾したように、地形について「水」と言えばまずは川を指した。だから普通に「水行」とだけ言えばそれは川を下るか上るかすることを示したはずだ。海について「水行」を使った陳寿の頃までの例としては、《魏志東夷伝》の

從郡至倭,循海岸水行,歷韓國

 と、裴松之が引用した《魏略》の、

澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,水行半歲,風疾時一月到

 というのがあるが、どちらも海であることが明らかに分かる文脈に置いている。読者が「水行」から川を想起することを避けようと注意したことが窺われる。単に「水行」とあれば川のことだと思うのが普通だったとすれば、邪馬台国までの「水行」は川船に乗ったことを言っている蓋然性が十分に高い。末廬国から邪馬台国までは地続きだということになる。