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《魏志・東夷伝》における倭韓両地の境界

 およそ歴史上の謎というものには二種類ある。一つは史実そのものに説明がつきにくいというものであり、もう一つは史料の読み方を誤ったためにありもしない謎を発見してしまうというものだ。そして私の考えでは、この謎というもののほとんどは後者ではないかと思われる。読み誤るありがちな原因の一つは、史料の作者が所与の前提としたことを見失ったり、後世的な認識によって作者が想定しなかったような予断をしてしまうことにある。述作者は読者が当然常識としているはずのことは一々説明しないものだが、そうした常識は状況の変化とともに失われやすいものであり、そのために誤解が生じることになる

 こうした陥穽を避けるためには、まず史乗の基礎的事実を何度でも確認しなおすことは当然として、それと同時に、そこに何が書かれなかったかを検討してみることである。

 ここでは《魏志東夷伝》における「倭」と「韓」の境界がどこであったかについて扱う。これについての基礎的事実は次の三条である。

  • 韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接
  • 其瀆盧國與倭接界
  • 倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑

 記述の起点として「帯方郡」があり、その南に「韓」、またその南に「倭」があったことは確かに分かる。

 帯方郡は、漢末から魏初にかけて遼東を根拠に勢力を張った公孫氏が、建安年間(196~220)、朝鮮半島の北西部に置かれていた楽浪郡の南部を割いて新たに設けたものだが、治所の正確な位置は分かっていない。しかし大まかに見れば、半島の北西部に楽浪郡、その南に帯方郡があり、南部が韓の境域だった。

 ところである意見によると、韓は「南は倭と接する」とあるから、半島の南端部のいくらかが倭の方に入っていたという。しかし、ここにはどのように接していたかが明記されていない。だからこの意見は、「接する」と言えば陸上で接しているはずだという予断を含んでいる。陳寿が同じ考えであったとすればこの意見は正しい。しかも倭人は「大海の中」にあり「山島」に国邑を営むというのだから、記述の矛盾によって謎が生じることになる。

 そうではなく、海峡を挟んでいてもこの表現が成立するならば、その予断は棄却すべき蓋然性が高いことになるだろう。この謎を解く鍵の一つは、韓の弁辰の涜盧国だけが特に「倭とさかいを接する」として挙げられていることにある。「界」とは「さかいめ」「境界」のことで、転じて「境界線で囲まれた範囲」を指すこともある。涜盧国は、朝鮮半島東南隅の東莱か、釜山の西南沖に浮かぶ巨済島にあったと考えられており、後者が有力だという。

 涜盧国が巨済島にあり、対馬との海峡がさかいであったとすると、実際の地理に照らして、その航路をこう想定することができる。即ち、《魏志東夷伝》によると、

從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里至對海國。

(〔帯方〕郡から倭に至るには、海岸にって水行し、韓国を歴ること乍南乍東、その〔大海の〕北岸の狗邪、韓の国、に到り、〔郡から〕七千余里して、始めて一回をわたり、千余里して対海国に至る)

 とある。狗邪国は今の金海付近にあったとされる。洛東江の河口に近く、地理環境的に物資の集まる所で、交易の拠点であり、航海のための準備に適した場であったろう。しかしここからただちに対馬を指して漕ぎだすと、西から東への強い海流によって出雲方面へ押し出されるおそれが濃い。そこで船は南西して巨済島の沿岸をその南端まで進む。ここからならばもし海流に舵を取られても対馬の北端にかじりつけそうである。これが「涜盧国は倭とさかいを接する」の実情だったと考えうる。すると、倭韓の境界は、《新唐書東夷列伝》に日本は「新羅の東南にあたり、海中に在り」とあるのと同じで、近世まで変わらず、今もそうであるのと同じことになる。

 それなら海峡によって界を接するというふうの用例が他にあるかとなると、ただちに参考になるものはなさそうである。というのは海峡という地理条件そのものが古代中国人の目にはほとんど触れなかったからだ。ただ川を界にしたという例がわずかに参考になるかもしれないので、ここにいくつか挙げておく。

  • 史記・秦本紀》
    東平晉亂,以河為界(東は晋の乱を平定し、黄河を界とした)
  • 魏志・孫礼伝》
    詐以鳴犢河為界(詐って鳴犢河を界とする)
  • 《蜀志・譙周伝》
    項羽與漢約分鴻溝為界(然るに項羽は漢と約束して鴻溝〔運河〕から分けて界とした)
  • 《呉志・魯肅伝》
    備遂割湘水為界劉備は遂に湘水より割いて界とした)
  • 魏志東夷伝》所引《魏略》
    朝鮮與燕界於浿水(朝鮮と燕は浿水を界とした)

 さてそもそも古代中国文明は海から遠い黄河中流域で生まれ育った。古くは海浜は沙漠や草原に類する辺境であり、海に関する語彙の発達は遅れていた。海峡という熟語は現代中国語では使われているが、これはかなり新しいものらしい。中国文明の中心は、東晋のときに初めて海に近い江東地方に移る。陳寿の時代はそれ以前で、中心地は古代以来の洛陽であり、また彼自身が長江上流方面にある今の四川省の出身なのだ。だから倭と韓の地理的関係を表すのに、川の例を海峡に引き当てたということは十分に考えられるし、それが陸上でなければならないと限ることはできないと思われる。

 さらに一つ付け加えておく。何人かの意見では、この時代には朝鮮半島南岸一帯が倭の方に入るとされていたと考えている。そういうことは果たしてどのくらい考えやすいことなのだろうか。たとえば、日本の東北地方には、アイヌ語系統の言語によるとみられる地名の稠密な分布が見られる。このことは、そこにその言語が普通に話された時代があったとする有力な証拠となっている。韓国の地名においてはどうだろうか。現存するものだけでなく、《日本書紀》などにも古い地名が記録されているが、どうだろうか。古代の倭韓関係が、どんな性質のものであったにせよ、どの程度のものだったかは、地名によって察することができそうである。