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女王卑弥呼と乃の字の事情

 女王の都する所・邪馬台国を訪れた梯儁は、金印や賜物を引き渡すという使命を果たすだけでなく、女王卑弥呼の政治や来歴について調査することも怠りなかった。梯儁はどんな眼でそれを観ただろうか。

 そもそも中国の歴史は、古代帝国的段階の前半までは、万事がおおむね上昇する傾向にあり、社会の進歩に対する楽観的な見方が優勢だった。しかしその後半になると、長く天下を統べた漢の体制も破綻に向かい、政治は乱れ、経済は衰えて、三国時代には人口が十分の一にもなったと云われる。すると、「昔は良かった」という素朴な感覚が、勢い「古い時代ほど良かった」という思想と結び付いて、昔々の箕子が朝鮮に行って礼儀を伝えたとか、孔子が中国に礼が行われないのを嘆いていっそ海の向こうに住もうと言ったとかの故事が思い出されてくる。そのことは《漢書・地理志下》に、

玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。(……殷の道が衰えると、箕子は去って朝鮮にき、礼儀によって教え、田蚕織作させた。……それ東夷は天性従順にして、三方の外よりたり、故に孔子が道の行われないのを悼み、いかだを海に設けて、九夷にもうと欲したこと、さもありなんかな。楽浪の海中には倭人が有り、分かれて百余国を為し、歳時には来て献見するのである。)

 と書いてある。だから、陳寿もこれを承けて《魏志東夷伝》に、

雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。(夷狄の邦といっても、しかし俎豆のかたちたもたれている。中国が礼を失えば、これを四夷に求めるというのも、なおまことなることらしい)

 と述べたわけだ。東夷は本来従順な性格で南西北の外蛮よりも勝れているという。後漢前期の班固においてすでにこうだが、三国時代にはなおさら中国文明の行く末を悲観する気分が横溢し、東夷諸国への関心がそこに上古中国の反映を見いだしたいがために高まったのである。そこには中国が失ったものが伝わっている。それは、日本人が時々沖縄に「日本の原像」を求めるのに似て、その対象の独自性を軽視する面があるが、人情のやむをえない所があると理解できよう。

 さて魏は倭の諸国を統べる卑弥呼親魏倭王として冊立したが、女性であるということで問題になったという形跡はない。中国史にはこれより前に女性の正式な王者がいたとは見えないが、事実上の統治者としては呂太后をまず挙げることができる。呂太后は漢の高祖が死んだ後に実権を握った。司馬遷は、《史記》に呂太后のための本紀を立て、その時代は戦乱を忘れて平和であって農民は生業に励むことができ衣食はいよいよ豊かになった、と評価している。あるいは三皇の一人である女媧が想起され、東夷の国に女王とはありうべきことだと考えられたのかもしれない。

 ともあれ梯儁などもこうした時代の眼で卑弥呼を観たに違いない。その報告書は、魏の書庫に収められ、晋に引き継がれて、陳寿が“魏志倭人伝”を作るための資料となったはずだ。陳寿は事実を圧縮して表現するから、その文は短い。だが簡にして要を得ている。《魏志東夷伝》によると、

其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衞。

 とある。この部分は《太平御覧》の引用でも違いは小さい。

倭國本以男子為王。漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐無定,乃立一女子為王,名卑彌呼。事鬼道,能惑眾。自謂年已長大,無夫婿,有男弟佐治國,以婢千人自侍,惟有男子一人給飲食,傳辭出入。其居處,宮室樓觀城柵,守衛嚴峻。

 ただ「倭国乱」の時期が「漢の霊帝の光和中(178~184)」と特定されている。しかしいずれにせよこれは乱の発生した時期を示しているだけで、その経過と帰結は次の「相攻伐歷年,乃共立一女子為王」が表している。継続期間は不明だが、「歴年」だから一年では収まらないし、二~三年程度ということでもなさそうだ。この間の事情が簡単でないことは、の一字が物語っている。

 乃という接続詞は、前段を承けて後段が起きることを示すが、その受け方は曲折的である。即や則が「すぐに」「ならば」などの意味を持ち、どちらも前後の文を直結するのに対して、乃は「ようやく」「そこまでして」といった意味で前後の関係が込み入っているという含みを持たせる。この字のいい用例が《蜀志・諸葛亮伝》にある。

由是先主遂詣亮,凡三往,見。(これにより先主は遂に亮をたずね、べて三たび往き、ようやくまみえた。)

 これは“三顧の礼”として知られる名高い場面で、小説の《三国演義》では玄徳と孔明が会えるまでの情景をたっぷりと語り尽くしている。それも陳寿に書かせればたったこれだけのことだが、ここの乃の字が大事なのだ。もしこれが、

由是先主遂詣亮,凡三往,見。

 「三回行っただけですぐに会えた」とでも書いてあったら、もし羅貫中が百人いても想像を広げる余地がない。ここが乃であればこそ、その消息が思いやられるのである。もう一つ、《魏志東夷伝高句麗の段から用例を挙げておきたい。

其俗作婚姻,言語已定,女家作小屋於大屋後,名壻屋,壻暮至女家戶外,自名跪拜,乞得就女宿,如是者再三,女父母乃聽使就小屋中宿,傍頓錢帛,至生子已長大,乃將婦歸家。(その俗、婚姻するには、言語はなしまったら、女の家では大屋おもやの後ろに小屋を作る。壻屋とぶ。壻は暮れどきには女の家の戸外に至り、自ら名のって跪拝し、女の宿ねどこに就き得ることを乞う。これをこう再三すると、女の父母はやっとゆるして小屋の中の宿に就かせ、旁らには銭と帛をむ。生まれた子が長大おとなになったら、ようやくつまれて家に帰る。)

 乃という字がいかに使われたかがよく分かる。

 霊帝の光和年間といえば、黄巾党の蜂起がその末年であり、三国鼎立の小康状態を得るまでに三十年近い歳月を必要とした。「倭国乱」においても、それに並行する期間を考えて良いのではないだろうか。

 漢末、中国が大いに乱れた時期、倭人の諸国でも秩序が失われ、やがてそれは一人の女子を王として推戴することに結着した。女王は名を卑弥呼と称した。それが220年頃のことだったとすれば、その死が記されるまで在位30年程度となり、この時代の王者としては長い方に入るが、まだ考えやすい範囲には収まる。卑弥呼がどんな王者だったかについては、長くなるから次回に分けることにしよう。