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《魏志・東夷伝》における倭韓両地の境界

 およそ歴史上の謎というものには二種類ある。一つは史実そのものに説明がつきにくいというものであり、もう一つは史料の読み方を誤ったためにありもしない謎を発見してしまうというものだ。そして私の考えでは、この謎というもののほとんどは後者ではないかと思われる。読み誤るありがちな原因の一つは、史料の作者が所与の前提としたことを見失ったり、後世的な認識によって作者が想定しなかったような予断をしてしまうことにある。述作者は読者が当然常識としているはずのことは一々説明しないものだが、そうした常識は状況の変化とともに失われやすいものであり、そのために誤解が生じることになる

 こうした陥穽を避けるためには、まず史乗の基礎的事実を何度でも確認しなおすことは当然として、それと同時に、そこに何が書かれなかったかを検討してみることである。

 ここでは《魏志東夷伝》における「倭」と「韓」の境界がどこであったかについて扱う。これについての基礎的事実は次の三条である。

  • 韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接
  • 其瀆盧國與倭接界
  • 倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑

 記述の起点として「帯方郡」があり、その南に「韓」、またその南に「倭」があったことは確かに分かる。

 帯方郡は、漢末から魏初にかけて遼東を根拠に勢力を張った公孫氏が、建安年間(196~220)、朝鮮半島の北西部に置かれていた楽浪郡の南部を割いて新たに設けたものだが、治所の正確な位置は分かっていない。しかし大まかに見れば、半島の北西部に楽浪郡、その南に帯方郡があり、南部が韓の境域だった。

 ところである意見によると、韓は「南は倭と接する」とあるから、半島の南端部のいくらかが倭の方に入っていたという。しかし、ここにはどのように接していたかが明記されていない。だからこの意見は、「接する」と言えば陸上で接しているはずだという予断を含んでいる。陳寿が同じ考えであったとすればこの意見は正しい。しかも倭人は「大海の中」にあり「山島」に国邑を営むというのだから、記述の矛盾によって謎が生じることになる。

 そうではなく、海峡を挟んでいてもこの表現が成立するならば、その予断は棄却すべき蓋然性が高いことになるだろう。この謎を解く鍵の一つは、韓の弁辰の涜盧国だけが特に「倭とさかいを接する」として挙げられていることにある。「界」とは「さかいめ」「境界」のことで、転じて「境界線で囲まれた範囲」を指すこともある。涜盧国は、朝鮮半島東南隅の東莱か、釜山の西南沖に浮かぶ巨済島にあったと考えられており、後者が有力だという。

 涜盧国が巨済島にあり、対馬との海峡がさかいであったとすると、実際の地理に照らして、その航路をこう想定することができる。即ち、《魏志東夷伝》によると、

從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里,始度一海,千餘里至對海國。

(〔帯方〕郡から倭に至るには、海岸にって水行し、韓国を歴ること乍南乍東、その〔大海の〕北岸の狗邪、韓の国、に到り、〔郡から〕七千余里して、始めて一回をわたり、千余里して対海国に至る)

 とある。狗邪国は今の金海付近にあったとされる。洛東江の河口に近く、地理環境的に物資の集まる所で、交易の拠点であり、航海のための準備に適した場であったろう。しかしここからただちに対馬を指して漕ぎだすと、西から東への強い海流によって出雲方面へ押し出されるおそれが濃い。そこで船は南西して巨済島の沿岸をその南端まで進む。ここからならばもし海流に舵を取られても対馬の北端にかじりつけそうである。これが「涜盧国は倭とさかいを接する」の実情だったと考えうる。すると、倭韓の境界は、《新唐書東夷列伝》に日本は「新羅の東南にあたり、海中に在り」とあるのと同じで、近世まで変わらず、今もそうであるのと同じことになる。

 それなら海峡によって界を接するというふうの用例が他にあるかとなると、ただちに参考になるものはなさそうである。というのは海峡という地理条件そのものが古代中国人の目にはほとんど触れなかったからだ。ただ川を界にしたという例がわずかに参考になるかもしれないので、ここにいくつか挙げておく。

  • 史記・秦本紀》
    東平晉亂,以河為界(東は晋の乱を平定し、黄河を界とした)
  • 魏志・孫礼伝》
    詐以鳴犢河為界(詐って鳴犢河を界とする)
  • 《蜀志・譙周伝》
    項羽與漢約分鴻溝為界(然るに項羽は漢と約束して鴻溝〔運河〕から分けて界とした)
  • 《呉志・魯肅伝》
    備遂割湘水為界劉備は遂に湘水より割いて界とした)
  • 魏志東夷伝》所引《魏略》
    朝鮮與燕界於浿水(朝鮮と燕は浿水を界とした)

 さてそもそも古代中国文明は海から遠い黄河中流域で生まれ育った。古くは海浜は沙漠や草原に類する辺境であり、海に関する語彙の発達は遅れていた。海峡という熟語は現代中国語では使われているが、これはかなり新しいものらしい。中国文明の中心は、東晋のときに初めて海に近い江東地方に移る。陳寿の時代はそれ以前で、中心地は古代以来の洛陽であり、また彼自身が長江上流方面にある今の四川省の出身なのだ。だから倭と韓の地理的関係を表すのに、川の例を海峡に引き当てたということは十分に考えられるし、それが陸上でなければならないと限ることはできないと思われる。

 さらに一つ付け加えておく。何人かの意見では、この時代には朝鮮半島南岸一帯が倭の方に入るとされていたと考えている。そういうことは果たしてどのくらい考えやすいことなのだろうか。たとえば、日本の東北地方には、アイヌ語系統の言語によるとみられる地名の稠密な分布が見られる。このことは、そこにその言語が普通に話された時代があったとする有力な証拠となっている。韓国の地名においてはどうだろうか。現存するものだけでなく、《日本書紀》などにも古い地名が記録されているが、どうだろうか。古代の倭韓関係が、どんな性質のものであったにせよ、どの程度のものだったかは、地名によって察することができそうである。

歴史時代の始めに―史料を分析して論資とすること

 古代日本に関する事件が、同時代的記録によって、絶対年代付きで知られる初めは、《魏志東夷伝》の景初二年六月、倭の女王が大夫の難升米を帯方郡に遣わして、天子への朝献を申請した、という記事である。ただし、ここの景初二年は三年の誤写とするのが定説で、私もそれが妥当であると考える。その理由については、よく知られていることだから、ここでは述べない。以下、正始元年・四年・六年・八年の記事が続く。そしてこの年代記風の記述は倭人の段の末尾にまとめられており、その前には地理・習慣・制度などに関する記事がある。読者にとって未知の地域のできごとを理解しやすいようにという、配慮が行きとどいた構成と言えよう。

 《三国志》の撰者である陳寿は、三国時代の蜀の生まれで、しばらく不遇だったが、晋の武帝の重臣である張華に見出されて官途に就いた。張華も少年時代に苦労をしたことから、陳寿のような人物を引き立てるのが好きだった。陳寿はやがて漢末から晋初に至る時代の歴史を魏書・蜀書・呉書という史書にした。これらをまとめて《三国志》といい、個別には魏志・蜀志・呉志と通称する。魏志の第三十巻の後半が東夷伝であり、その一部分がいわゆる“魏志倭人伝”である。陳寿は当時一流の文筆家であり、簡勁な表現で知られ、その文章は決して読みにくいものではない。

 《三国志》の成立年代は、正確には伝えられていないが、晋の太康年間(280~289)と考えられている。しかし、早い時期の写本は、わずかな残欠しかない。現在まとまった本として見ることができるものは、南宋時代に印刷されたものまで下る。陳寿の原稿から現存する刊本まで、八~九百年が経っている。だから、《三国志》の成立について考えるばあいには、陳寿の原稿ができるまでの事情だけではなく、数百年を伝わるうちに内容が変わったかどうかを視野に入れる必要がある。

 文書が長く世を伝わるうちに生じうる変化には、次のようなものがある。第一に、書写や板刻などの際に、字を誤ったり、脱するもの。また、元はない字を入れてしまうもの。第二に、本が破損したため修復する際に、順序を誤ったり、脱落するもの。また、誤って注であったものを本文に入れたり、本文であったものを注としてしまうもの。第三に、本の一部が失われたために、後世の人が補作するもの。基本的には、ざっとこんなところが考えられる。

 これは、単にその「可能性がある」というだけのことではなく、《魏志東夷伝》の現行本によって具体的にその蓋然性を見ることができる。《魏志東夷伝》を読んでいくと、まず「夫余」の段の後半には明らかに前後のつながりがおかしい点が数カ所あることに気付く。この部分が幸い宋代の百科全書《太平御覧》に引用されている。《太平御覧・四夷部》の「夫余」の項によってこれを見ると、文に違いがあり、流れがすっきりつながっている。《太平御覧》の方が本来の形に近く、現行本の《魏志》には衍文があることがうかがえる。逆に、《魏志》で裴松之の注として付いている文が、《太平御覧》では本文になっている箇所もここにはある。

 以下、沃沮・濊・韓などについても両者を比較してみると、やはり同様の異同がある。そして倭人の段にもある。それには《太平御覧》が省略をした部分もある。しかし、《魏志》の文に不審な点があり、そこが《太平御覧》では整った形になっているという例が多い。

 ところで、私が小学生のとき、ある一日の出来事を作文にしろ、というお題が出されたことがあった。私は「まず何々をしました。次に~をしました。次に~、次に~」という書き方をして、先生には単調で良くないと叱られた。さてそういう目で“魏志倭人伝”を読むと、まさにその良くない作文をしている所がある。

自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。

 これはやはり裴松之が注として引用した文が混入したものに違いない。陳寿がこんな小学生のような文を作るはずがないからである。この部分は《太平御覧》では、

其屬小國有二十一,皆統之女王。

 と簡単になっている。この方が陳寿の性格に相応しい。著者の文体に合致するかどうかということも、判断の有力な材料になる。それを厳密に証明するのは困難だが、考えることは考えないよりも良い。

 この《魏志東夷伝》のような外国列伝は、雑誌の付録のようなもので、あれば豪華に見えるが、なくても史書としての体裁には差しつかえがない。だから、一朝有事の際には、より大事に扱われず、他の巻よりは破損を被る機会が多かったかもしれない。

 《魏志東夷伝》に見られる破損の痕跡が生じたのは、一度のことではなかったかもしれないが、最終的には金の侵入による宋の南遷によるものではなかったかと考えたい。南宋では、混乱期のため、質の良い修復ができず、杜撰な所が残されることになった。外国のことは考証がしにくいという事情もある。《太平御覧》は北宋時代の成立であり、南遷以前の本に基づく文が伝わった。

 《魏志東夷伝》を読む上では、ただ漢籍として正しく読むというだけではなく、ここで見たようなことに注意しなければならない。少なくとも《太平御覧》と比較し、一致しない部分に関しては、史料としての価値をより慎重に検討する必要がある。このような分析によって史料が論資となるのである。

南北朝時代の倭国(後編)

 (承前南朝宋の元嘉二十年(443)、倭王済は遣使奉献し、五年前に珍が受けた安東将軍・倭国王の爵号を引き継ぐことを認められた。これに続く動きは、二十八年、そして大明四・六年に記録されている。永初から大明まで、何らかの事情で遅れることや記録の漏れがありうることを考慮すると、倭王は四年に一度の朝貢を割り当てられていたようである。朝貢は毎年することが望ましいが、遠方であるばあいは年を隔ててもかまわないとされていた。この時期の動きを一覧にすると次のようである。

永初二年(421)
《宋書・夷蛮伝》
高祖永初二年,詔曰:「倭讚萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」
元嘉二年(425)
《宋書・夷蛮伝》
太祖元嘉二年,讚又遣司馬曹達奉表獻方物。
元嘉七年(430)
《宋書・文帝紀
(春正月)是月,倭國王遣使獻方物。
元嘉十五年(438)
《宋書・文帝紀
(夏四月)己巳,以倭國王珍為安東將軍。
《宋書・夷蛮伝》
讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。
元嘉二十年(443)
《宋書・文帝紀
是歲,河西國、高麗國、百濟國、倭國並遣使獻方物。
《宋書・夷蛮伝》
二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。
元嘉二十八年(451)
《宋書・夷蛮伝》
二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。
《宋書・文帝紀
秋七月甲辰,安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。
大明四年(460)
《宋書・孝武帝紀》
(十二月)丁未,(…)倭國遣使獻方物。
大明六年(462)
《宋書・夷蛮伝》
濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」

 次に記録が現れるのは、《宋書・順帝紀》の昇明元年(477)である。この間の天子は前廃帝(464~465)・明帝(465~472)・後廃帝(472~477)で、貨幣制度が破綻しかけたり、政変が起きたりして、国事多難であり、朝貢を受け入れる余裕が少なかった。それにしても、高句麗百済が貢献の機会を得ているのに比べると、もし記録の漏れでないとすれば、この十五年の間に倭人の諸国に何らかの政治的事件があった可能性も想定される。

 宋の順帝は昇明元年(477)に即位した。これがこの王家の最後の皇帝で、この時にはのちの斉の高帝となる蕭道成が実権を握っている。この年、《宋書・順帝紀》の十一月に、倭国から遣使のあったことが久しぶりに記録された。この次の昇明二年のことは、この本紀と列伝の両方に見える。これは両度の朝貢があったわけではなく、元年十一月に使節が到着し翌年五月に徐授が行われたのだろう。

  • 《宋書・順帝紀
    五月戊午,倭國王武遣使獻方物,以武為安東大將軍。
  • 《宋書・夷蛮伝》
    興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。順帝昇明二年,遣使上表曰:「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道遙百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸假授,以勸忠節。」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王

 この上表文の中で、高句麗朝貢を妨げたこと、高句麗と争っていること、私的に開府儀同三司を称して任官を行ったことが報告されている。名分上のことだが、開府儀同三司になると幕府を設け属官を任命することが認められる。高句麗王には大明七年にこの資格が与えられ、「開府儀同三司・使持節・散騎常侍・督平・営二州諸軍事・車騎大将軍・高句驪王・楽浪公」とされている。

 倭の武が徐授された爵号は「使持節・都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」である。これはかつて済に与えられたものと変わりがない。私称した開府儀同三司は削られ、格としては高句麗王に並んでいない。高句麗北魏の境域に接していることから、安全のために南北両朝にまめまめしく朝貢する政策をとった。宋にとっては面白くないことだが、北魏を牽制するためには高句麗を重んじなければならなかった。

 それはさておき、倭王が珍のとき以来要求し続けた、韓の諸国を含む都督~諸軍事という号は何の意味を持つものだろうか。これには爵号を引き延ばして立派そうに見せるという意図が何割かは含まれているようである。それは秦韓・慕韓というこの時期には無意味とみられる地域名を含んでいることから推しはかれる。任那加羅などは領土国家への発展が遅れた小勢力で、新羅はこの頃はまだ国際的に顕著な活動はしておらず、いずれも宋朝とは公式の関係を持っていない。だから宋とすれば実態は関知する必要がなかったと言えば言えないこともない。

 それならこれは全くの虚号だったのかとなると、そうとは言えないような事情はあったようだ。状況としては、倭王が海外の利権を確保することで倭の諸国から抜きんでる地位を固めようとしたということは、ありそうに思われる。ただそれについては、宋書には判断の材料が不足しており、検討は別の機会に委ねなければならない。

 この時代、倭王は一貫して南朝にだけ貢献している。かつて四世紀、本来の中国である黄河流域が遊牧系勢力に征服される所となり、古代中国文明の正統を受け継ぐ多くの貴族・知識人は江南に亡命して、南北には文明の厚みに大きな差ができた。だから南北朝といっても、文明という点で、両者の価値は対等ではなかった。倭王が一度も北朝へ鞍替えせず、また倭の諸国から合意に反して北朝へ通好するものの出なかったことは、彼らの間に文明を基準とする価値観が理解されていたことを意味しているようである。

 付け加えると、南朝の王権が漢以来禅譲によって継承されてきたものであるのに対して、北朝には権力の由緒がなかった。北魏の帝室は黄帝の子孫を称していたが、もちろん事実ではなく、一種の政治的思想的宣言である。倭人の諸国が南北朝の王権の系統に違いがあることまで理解して関係を選択していたとすれば、それは日本的王権の確立に何らかの影響を与えただろう。

 倭王武を最後に、倭国のことは南朝の記録に見えなくなる。南朝の斉に代わった梁の時代は、表面的には華やかだったが、政治・経済の衰退は進んでいた。百済南朝最後の陳まで朝貢を続けた。倭人朝貢という外交上の大事業を断った。前後のつながりを考えると、これにより内的発展に政治能力をより集中させることができ、諸国の同盟は結合を強め、古代帝国的段階に進むことになる準備がされたようである。外的要因によって共同で朝貢のための代表を出したことは、こうした内的発展を刺戟したと思われる。

 やがて南朝の伝えた文明が隋のために供されたあと、かの皇帝の前に天子を公称するもう一人の人物が姿を現すことになるのである。

南北朝時代の倭国(前編)

 五世紀の南朝宋・北朝魏の対立から六世紀末の隋の統一までの約一七〇年間を普通に中国史南北朝時代と呼んでいる。これを国史南北朝時代とはいっても、その状況は国際的なものであり、周辺諸国をも巻きこむものだった。だから二十世紀後半の日本を「冷戦時代の日本」とも言えるように、五~六世紀頃については「南北朝時代倭国」とも言えるのだ。もちろんそれは歴史の一面であるにすぎないが、ただ複雑な立体物はその全面を一度に見ることはできないから、まずはその一面からこの国を見てみようというのである。

 前回「弥生文化式都市国家論」では、三世紀代の倭人の状況は都市国家同盟の段階であり、初回「古代史を読む」では、六〇〇年頃は領土国家の連合が進み古代帝国的段階に至る直前にあたるという、それぞれの見通しをつけることができた。すると時期的にその中間である五世紀頃は、社会の発達もやはりその中間の状態にあるという予測が立つ。これをこの時代を理解するための大まかな前提としよう。

 南北朝時代倭国をうかがう同時代的史料としては《宋書》がある。南朝梁の沈約の撰で、単に対象とする時代からさほど年を隔てていないというだけではなく、南北朝時代という一連の状況の中で成立した史書であることで価値が高い。南朝の通史としては唐の李延寿の手になる《南史》がある。これは各王朝史の総集編で、独自の記事はないが字句に疑いのある場合の参考になる。

 五世紀代の事件としては《晋書・安帝紀》の義熙九年(四一三)に

是歲,高句麗、倭國及西南夷銅頭大師並獻方物。

 とあるのが最初だが、《晋書・四夷伝》の倭人の段には三世紀代にかかる内容しかないのでここでは役に立たない。

 《宋書・夷蛮伝》は、《魏志東夷伝》や《隋書・東夷伝》と違って、政治的交渉の記録がほとんどであり、諸国の体制や文化に関する記事がない。だから事実として確かに分かることは宋朝と諸国との関係だけだが、先に立てておいた前提を置いてみればそれなりに得るところがある。

 ここでの前提によるばあい、四~六世紀頃の倭人の社会は、各地域における都市国家間の結合が、各地域ごとに領土国家的体制に進み、さらに領土国家間の同盟が形成されていく段階にあたることになる。これは中国史の春秋・戦国時代の展開に比較できる。中国史の戦国末期から秦・漢の初期までは、日本史の七世紀と比較できる段階である。

 だから五世紀の倭人の社会は、各地域ごとに領土国家が営まれていたと考えることができる。しかし古代の国というものは、今日のように国でさえあれば対等の権利を認められるとは限らない。むしろ企業間の関係のように、それぞれの持つ力によっておのずと資格に差がついてくる。そこで宋への朝貢にあたっては、諸国の王者の中から一人が立って代表することにもなる。

 このことは宋の皇帝側の事情にもよる。というのは、天子たる皇帝は朝貢を受ければ返礼に回賜の品を贈らなければならない。回賜というのは献上品への対価ではなく、天子の徳を表現するものである。卑弥呼が「男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈」の献上に対して、魏の皇帝から銅鏡百枚を含む多大な品々を受けとったことを思い出せばよい。だから、皇室財政によほど余裕のあるときでなければ、群小の諸国が別々に来ると困る。そこでまとめて代表を出させる。《魏志東夷伝》に記された韓国の辰王などはそのはなはだしい例で、王とはいいながらほとんど代表権しか持っていなかったらしく書かれている。

 《宋書・夷蛮伝》によると倭宋関係は

高祖永初二年,詔曰:「倭讚萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」

 とあるのに始まる。この年は西暦四二一年にあたり、高祖つまり宋の武帝が晋から禅譲を受けた翌年になる。この前年、武帝は、高句麗王と百済王に対して、晋が与えていた将軍号を大将軍号に進め、持節・都督・王・公はそのまま認めている。即ち高句麗の高璉は使持節・都督営州諸軍事・征東大将軍・高句驪王・楽浪公に、百済の余映は使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王として認知されている。宋朝による承認は国際的にも通用する。倭人勢力は東夷の有力集団の中で国際的地位の確保が遅れていた。しかしこの時は「可賜除授」つまり「爵号を与えることにする」というだけで、実際の徐授が行われたようには書いていない。

 それから四年後になっても、

太祖元嘉二年,讚又遣司馬曹達奉表獻方物。

 というありさまで、朝貢はしたが地位は認められていないらしい。讃なる人物の代表者としての資格が疑われたのだろうか。また五年後、《宋書・文帝紀》の元嘉七年春正月に、

是月,倭國王遣使獻方物。

 とある。貢献を定期的に行うことで信用は高められたことだろう。しかし倭王に爵号が与えられたことが初めて見えるのは、そのまた八年後のことである。

讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。

 この《宋書・夷蛮伝》の記事には年次がないが、《宋書・文帝紀》を参照すると元嘉十五年のことと分かる。ここで倭王珍は「使持節・都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」を請求し、宋が認めたのは「安東将軍・倭国王」である。また珍が「倭隋ら十三人」のために求めた平西将軍・征虜将軍・冠軍将軍・輔国将軍はそのまま認められている。将軍号で珍と並んだ十三人は、まさに各地域に営まれた領土国家の王者だっただろう。珍は国王号を持つことで抜きんでてはいるが、ここでは代表権を認知されたのに過ぎない。(つづく

弥生文化式都市国家論

 かつては日本の都市は飛鳥・奈良時代の政治的計画都市に始まるとして誰もあやしまなかった。氏族制度の社会から都市国家の段階を経ずに領土国家ないし古代帝国的段階へ進んだと考えられていた。しかし弥生文化時代のいわゆる環壕集落の実態がだんだん明らかになってくると、これは都市ないし都市国家ではなかったかという考えが持ちあがってきた。

 弥生文化における普通の居住形態は、家々を集めて壕で囲った。壕の外側には、ほとんど形を留めていないが、多く土塁を築いたらしい。これを漢字で表すなら村よりも邑がふさわしい。和語的表現としてはムラかマチのどちらかとすればマチの方に入るだろう。これを都市と呼びうるかについては、ギリシャや中国の古代都市も基本的には農業都市であったことを思いあわせる必要がある。都市と呼びうるとして、この環壕集落の一つ一つが元来政治上の独立単位であったすれば、それは都市国家だったことになる。


 三世紀の同時代的史料としては《魏志東夷伝》がある。ここに記された倭人の状況は、おそらく環壕集落時代の末期に当たるだろう。この一部である通称“魏志倭人伝”の冒頭には

倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。

 とある。この国邑とは、春秋・戦国の領土国家時代には各国の首都を指し、漢代には転じて部分的封建制の封地を呼んだ。しかし国と邑とは本来ほぼ同義であり、都市国家時代の状況に置いてみれば「都市国家たる都市」を指すことになる。倭人の諸国は一人の王者を代表として魏の天子に朝貢した。これは、ギリシャにおけるデロス同盟や第二海上同盟のような、都市国家が連合する段階を示しているようである。

 さてしかし、これを都市国家と呼んで、では世界の他の都市国家にあったものがどれだけあったかとなると、これはなはだ心もとない。たとえば下水道はないし、市民権に類する観念があったかどうか、控えめに言っても疑わしい。青銅器はあっても馬車はない。また都市的生活から生じたものが後世の文化や思想に大きく寄与したということもなさそうである。

 それなら都市国家時代の生活をうかがわせるものが全然ないかというと、一つ思い当たるふしがある。それは《古事記》と《日本書紀》に記録されて有名な天の岩戸の話である。その内容はよく知られているから詳しくは述べない。ここで重要なのは、八百万の神々が集会し、種々の職能を象徴する神々が協力して、権力を象徴する神を顕界に復帰させたということである。

 この話が都市国家的であるということは、神功皇后の説話と比較すると一層よくわかる。神功皇后は、仲哀天皇武内宿禰とともに、暗い室内にこもり、神がかりをして、仲哀天皇神託に背いたために死ぬ。

 前者は、開放的であり、権力者と市民が一体となって都市を運営し、祭祀も一体であるという、都市国家の情景を思わせる。後者は、閉鎖的で、少数の権力者だけが与る祭祀であり、庶民が排除された場で重要な政策が決定されている。それは、支配者の居館だけが集落から独立し濠で囲まれた、古墳時代の居住形態にふさわしい。

 記紀における高天原時代が考古学の弥生時代を反映しており、それは都市国家時代を表しているという、ここで述べた考えが承認されるならば、さらに次のことが判明する。天の岩戸の話に続く、国譲り・天下り・神武東征などの説話は、ある都市国家からあふれた市民による植民都市の建設や、都市国家が別の都市国家を併合して領土国家へ進む過程を伝えている。これについては別に詳しく述べる機会があるだろう。


 中国やギリシャ・ローマでは古代帝国の時代まで都市国家時代の都市が存続した。これらの地域では、城壁や住居など都市の設備を比較的頑丈に建設しえたこと、それに古代都市的生活に由来するものが社会の形成に寄与すること大であったことによるだろう。中国では古代都市は漢の後期から破綻しはじめ、農民は荘園や村落に移る一方、主要な都市は政治的都市として続く。

 日本では、弥生式都市は急速に解消された。これは都市の設備が建材・気候・技術水準などの制約を受けて崩壊しやすいものであったこと、社会がさほど都市的にならないうちに都市国家時代が終わってしまったことによると思われる。このため都市のない時代がおそらく四〇〇年ほど続き、古代都市が後世の都市に接続しなかった。

 八世紀初頭に建設された平城京は、計画どおりの整然とした官庁街だった。しかし同世紀末からの平安京の造営は、思うようには進まず、十世紀には右京が廃れ東側に市街地が発達する。権力による計画を経済の勢いが上書きしたもので、これが現在のような都市の先蹤となった。 

古代における歴史学的年代観への展望

 ある時代について、その時代に対する歴史学年代観が立たない、ということは、その時代は歴史学的には扱えないということを意味する。ジュラ紀には歴史学的年代観は立たない。縄紋時代もその点では恐竜時代と変わらない。遺跡があっても史料がないという時代は、本来の意味で歴史学的に扱うことはできない。史料があっても歴史学的年代観が立っていないというのは、史料が足りないか、研究が至らないかのどちらかである。

 日本の古代では、壬申の乱をさかいに同時代的な記録が豊富に連続的になる。以後は歴史学的に扱いやすい。これ以前も決して歴史学的に不毛の時代というほどではない。しかるにこの前期古代の大部分を、弥生時代古墳時代という、考古学的年代観でとらえるのはどういうものだろう。

 日本考古学では古代においては古墳が時代をくぎる重要な指標となっている。ところで中国の古墳は文献との対照によって絶対年代を特定しやすい。遺跡の絶対年代を特定するには歴史学的知見が適用できればいちばん簡単だ。これによって歴史学と考古学が結びつけられる。しかし日本では史料の信憑性や比定の問題が大きくて困難がつきまとう。近年では遺物の自然科学的分析によって年代を出すことも行われつつあるが、これにもいろいろと問題があって、十分に安全な総合的科学的結論を得るにはまだ時間がかかりそうである。

 年代観に限らず、考古学的知見の利用には注意すべきことがある。たとえば佐賀県吉野ヶ里遺跡からは麻や絹の布が出ている。ここは邪馬台国に関係するいわば重要参考人のような遺跡である。この麻は大麻だという。しかしここから《魏志東夷伝》(その中の“魏志倭人伝”)に「紵麻」とあるのを否定することはできない。布のように失われやすいものはほとんどが残らず、棺に入ったために全損しなかったものが発見されたに過ぎない。だから「死者は大麻の布を着けていた」と言えるだけである。

 遺物は選択的に残る。地上にある間に失われず、腐りにくい状態で埋められ、実際に腐らず、盗掘などで失われず、最後に発掘される機会を得るという、選択に選択を重ねて生き残ったものが遺物である。腐りやすいものほど残りにくいし、焼却する習慣があったり、金属でも改鋳されたものはもとの形が残らない。古墳のような遺跡でも破壊されたり後世の修築が加わっていることがある。考古学には考古学の偏りがあるのだ。考古学的知見をどれだけ一般化できるかは、遺物の性質などによって慎重に検討されなければならない。

 私は、歴史は取りかえしのつかない偏りを抱えていることを認めるが、遺跡によってその全てが埋めあわされるわけではないことも知っている。歴史学がそうであるように、考古学的知見の利用にも限界をわきまえる必要がある。

 私がこれから語ろうとするのは、以上に述べたような問題ある時代を主な対象とする。関心を置く所はその時代の歴史である。この時代の同時代的史料としては、《魏志》・《宋書》・《隋書》など、それに《日本書紀》の末尾百年分くらいは加えてもいいだろう。成立の遅れたものとしては、《後漢書》・《晋書》や《古事記》と《日本書紀》の多くの部分などがある。さらに言えば、これらの史書の理解を助けてくれる多くの古典もある。

 これらの質と量とは、本当はどのくらい不足なのだろうか。私はまだその答えを聞いた気がしない。分かることはどのくらいで、分からないことはどのくらいなのだろうか。考えてみよう。やがてそこに歴史学的年代観が見えてくるだろう。

古代史を読む

 日本語に対する計量的調査は、二十世紀に生長した研究領域の一つである。

 日本語の系統に関しては未だ充分な証明が与えられてはいない。隣りあう韓国語の間でさえ、その隔たりは、英語とドイツ語やフランス語の距離では比較にならず、印欧祖語が分岐を始めた時代を思いあわせても、まだ参考にしがたいという。これは、日本語と韓国語が、共通の祖語から出たと仮定しても、分かれたのは六~七千年以上前のことだろうと考えられることを意味する。これはまた、古代以前に、さらに古代の段階において、両言語圏がどう関係したかをも示唆する。

 このことは、しかし、古い日本語を話した人々が、長く孤立していたことを意味するわけではない。日本語は豊富な外来語を持っており、和語と呼ばれる中にも、よほど古い時代の外来要素が含まれていることを言語学は示唆する。言語の系統と、種族、文化、さらには王権の系統が別の問題でありうることも忘れてはいけない。


 大業四年(六〇八)、隋朝は裴世清を倭国へ遣わした。中国からの公式の使節は、三国時代以来、三百数十年ぶりのことである。この時のことは、《隋書・東夷列伝》と《日本書紀推古天皇紀》の両方に記録されている。この年は推古天皇の十六年である。

 これより前、隋の開皇二十年(六〇〇)、隋書は倭王「姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌」からの遣使を王宮に迎えたことを記す。このことは日本書紀には載せられていない。ということは、書紀の編集部がどんな基準で取捨選択をしたかを知る手がかりの一つになる。隋では開皇初年に百済王余昌を上開府・帯方郡公・百済王とし、新羅王金真平を上開府・楽浪郡公・新羅王としたのにひきかえ、倭王に対しては何の爵位も与えていない。倭王の方からも求めなかったようであり、ここから倭国の特異な外交が始まる。

 推古天皇の十五年、「大礼小野臣妹子をば大唐に遣わし、鞍作福利を通事とする」。書紀では王朝の代をいちいち区別せず、場合によって唐とか呉などと呼ぶことで一貫している。中国でのことは書紀には記事がないが、隋書によって知られる。東夷列伝に曰く、

大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子至書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」

(大業三年、其の王の多利思比孤が遣使し朝貢した。使者の曰く:「海西の菩薩天子はあつく仏法を興すと聞こえる。故に朝拜に遣わされ、兼ねて沙門数十人は仏法を学びに来た。」其の国書の曰く「日の出る処の天子が日の没する処の天子に書を至す。恙無きや」云云。帝は之をよろこばず、鴻臚卿にかたって曰く:「蛮夷の書で無礼なる者が有れば、ふたたび聞かせるな。」)

 そこで大業四年、裴世清が倭国へ遣わされて来た。書紀によると裴世清は「鴻臚寺掌客」つまり一種の外務官僚である。隋書の以下の記述は裴世清の実見に多くをよっている。

 裴世清らの使節団は、おそらく山東半島あたりから出航し、百済国の西を渡り、𨈭羅国つまり済州島の北を通った。𨈭羅国は百済の附庸だという。さらに都斯麻国を過ぎ、東して一支国に着き、また竹斯国に着き、また東して秦王国に着いた。秦王国の人が「華夏に同じ」だというのはよく分からないが、状況的には南朝からの亡命者が住む居留地のような所があっても不思議はない。また十余国を経ると海岸に達した。竹斯国から東は全て倭の附庸であるという。附庸とは今の自治領のようなものを指す。つまり、倭人の土地は一つの国ではなく、倭国を中心に竹斯国・秦王国・その他の諸国が構成する連合体であると裴世清は見た。

 日本書紀によると、小野妹子が裴世清らをともなって筑紫に着いたのは、推古天皇の十六年夏四月のことである。裴世清らは六月十五日に難波津に入り、新しく建てられた客館に泊まった。倭の都に入ったのは秋八月三日、王宮に招かれたのは十二日となっている。

 さて、王宮を訪ねた裴世清、隋書によると、

既至彼都,其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境內,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」

(既に彼の都に至り、其の王は清と相まみえ、大いによろこび、曰く:「我は海西には大隋が有り、礼義の国であると聞き、故に朝貢を遣わした。我は夷人で海隅にって在り、礼義を聞くことがない。是のために境内にけいりゅうさせ、ただちに相見えなかった。今、ことに道を清め館を飾って大使をもてなす。ねがわくは大国惟新の化を聞きたい。」清の答えて曰く:「皇帝は、徳は二儀に並び、ひかりは四海に流れ、王が化を慕うによって、こと行人つかいを遣わし、来てここに宣諭するのである。」)

 とあって、倭王が裴世清を親しく引見したかのようである。ところが日本書紀によると、裴世清が携えてきた親書を、まず阿部鳥臣が受けとり、それをまた大伴囓連が受けとって、そして「大門の前の机上に置いて奏す」とあって、どうやら推古天皇が直に接見していないような書き方をしてある。

 おそらく推古天皇は裴世清に会わなかったのだろう。なぜなら裴世清は倭王に会いに来ている。しかし推古天皇は前に隋の皇帝に宛てた国書で自ら天子と称している。天子とは本来は天下にただ一人でなければならない。北朝の隋としては、せっかく宿敵南朝の陳を滅ぼして、久しくなかった天下一統の君主になったと思った所に、えたいの知れない国が天下の分割を提案してきたということなのだ。正統の文明を保持していた南朝ならまだしも、倭国とはいったい何者だろうか。この度の遣使には天子たる皇帝の権威がかかっている。

 裴世清は当然のこと倭国の王者に会って本意を試さなければならない。推古天皇としては、隋の勅使に会えば単なる国王としての扱いを受けることになり、すでに天子を称した者としては、格が下がることになって決まりが悪い。さもなくば隋にとって不倶戴天の敵となるかである。しかし幸いなことに、天子の権能としては国王を任命することができる。そこで、適当な男性一人を選んで倭王に立て、裴世清の接待をさせたかもしれない。裴世清はこの人物を倭王「姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌」として認識したことになる。

 単なる王と天子たる王との違いは決定的な意味を持つものであり、中国と並ぶ唯一の天子権を日本王朝が確立する直前の段階がこの時代であるとすれば、推古天皇が一度は公称した天子号を捨てるようなことをしたかどうかは疑わしい。

 裴世清らは九月に帰途につき、また小野妹子らが伴った。隋書はこの後に絶えたと記す。絶えたのは隋側の事情による。


 古代日本の状況を、初めて内外両面の記録から確かめられる、この七世紀初頭の事情を把握することは重要である。これ以前の段階は、この時期より過ぎたものでないという前提を置いて考えてみることにしよう。