古代史を語る

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「大王」なる称号は本当にあったのか――ついでに天皇号の由来について

 日本古代史の概説書などを読むと、天皇号の前身として“大王”号が使われていた、ということがしばしば書いてある。しかしなぜそう言えるのか、考えてみるとよく分からない。


 “大王”という字は確かに日本の古い史料に出てくる。その意味では証拠のあることなのだが、はたして大王という字さえ出てくれば、それが称号として用いられていたと考えて良いのだろうか。そもそも大王だいわうという熟字は、古典漢語としては王に対する尊称であり、制度的な称号として使われてはいない。たとえば、《魏志武帝紀》の「漢の献帝曹操爵位を進めて魏王とした」という記事に付けられた裴氏の注に、《曹瞞伝》を引いて、

尚書右丞司馬建公所舉。及公為王,召建公到鄴,與歡飲,謂建公曰:「孤今日可復作尉否?」建公曰:「昔舉大王時,適可作尉耳。」王大笑。

曹操はかつて〕尚書右丞の司馬建公に〔尉の官職に〕挙げられた。公(曹操)の王となるに及び、建公を召して鄴に到らせ、ともに歓飲して、建公にかたって曰く「わしは今日でも尉になれるかな?」。建公の曰く「昔大王を挙げた時には、まさに尉とすべきだっただけです」。王は大いに笑う。

 とあるが、建公の発言にある大王とは魏王である曹操への尊称であり、逆に言うと大王という尊称に対応する称号は王である。こうした用例は枚挙に暇がないのでいちいち引かない。

 日本の史料でも、たとえば「天寿国繍帳」の銘文に、尾治王という人名が見えるが、この人物は同じ銘文の中で尾治大王とも呼ばれている。おそらくどちらも読み下すなら“をはりのおほきみ”と読ませるつもりなのだろう。きみという和語は王の字に対応し、おほはそれに付加する敬称であって、敬語体で読むなら王だけでもおほきみと訓じるべきなので、大の字は書かなくても良いのである。この銘文は四文字ごとに分記されていて、全四百文字丁度に収められている。字数を調整するために同じことを一方では王、他方では大王と書いたのだろう。

 「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」には、

小治田大宮治天下大王天皇をはりだのおほみやにあめのしたしらしめししおほきみすめらみこと

 という句があり、ここでは大王の二字ともが天皇に付加する敬称として使われている。この用法は漢文としては少しおかしいが、これが宣命体に近い変体漢文で書かれているために可能になっている。

 《日本書紀》でも大王という語は王と称するべき人物への尊称として使われ、漢文の一般的な例に従っている。書紀は正格漢文を志向しているから当然とも言える。《古事記》には大王の用例は見当たらない。

 「埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘」における大王という字は、あるいは称号と考えられないこともない。しかし称号であるという明らかな蓋然性があるわけでもない。「江田船山古墳出土大刀銘」は象嵌の剥落が激しく、「隅田八幡宮所蔵人物画像鏡」の銘文も釈読に疑いがありそうで、扱いに慎重さを要する。どちらともとれるというものは、一個の証拠としての判断を強いてするより、むしろ一般例から類推をしておくべきではないだろうか。

 このように見てくると、大王という称号が行われていたという証拠は、一つもなくなってしまいそうである。


 さてここまでは、実はかつて東洋史碩学宮崎市定が「天皇なる称号の由来について」(ちくま学芸文庫『古代大和朝廷』所収)で論じたことの一部を、改めて確認したものである。ここから私はもう一歩踏み込んで、大王号が存在しなかったことを示す、より積極的な証拠を探してみたい。いったいそんなものがあるのかというと、別に新発見の史料というわけではなく、昔からよく知られた文章の中にそれらしきものを見いだすことができる。

 《日本書紀》、推古天皇の十二年四月の条に、聖徳太子の作とする有名な十七条の憲法を全文引用してある。憲法といっても近代的な立憲主義における憲法とは意味が違うが、日本史上に知られる最初の明文法であり、当時各地で行われていた慣習法の存在を前提としつつ、それに王権による規制を及ぼそうとしたものとみられる。その第十二条は、

十二曰、國司國造、勿歛百姓。國非二君、民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦歛百姓。

 というのだが、ここに王とあるのは“いわゆる天皇”を指している。この用例はどういう意味を持つものだろうか。

 もちろん中国でも皇帝のことを王の字で示すことはあるが、それは皇帝制以前の上古の王になぞらえた象徴的な言い方である。もしそうした詩的表現でなしに皇帝を王と呼んだら、それは言葉の上で皇帝を貶めることになる。この意味では《日本書紀》においても、皇極天皇の元年十二月に、

於是、上宮大娘姫王、發憤而歎曰「蘇我臣、專擅國政、多行無禮。天無二日、國無二王。何由任意悉役封民。」

是に於いて、上宮大娘姫王かみつみやのいらつめのみこは、発憤して歎いて曰く「蘇我臣は、専ら国政をほしいままにし、多く無礼を行う。天には二つの日は無く、国には二りの王は無い。何に由って任意に悉く封民をつかうのか」

 とあるのや、また孝徳天皇の大化二年三月の条、中大兄皇子の上奏文の中に、

天無雙日、國無二王。是故、兼并天下、可使萬民、唯天皇耳。

天には双つの日は無く、国には二りの王は無い。是の故に、天下を兼併し、万民を使うべきは、唯天皇のみ。

 だとかの例がある。これらは漢籍に散見してよく知られる「天無二日、国(土)無二王」という文句を引いていることが明らかである。十七条憲法の例は、やはり有名な《詩経》の

普天之下,莫非王土;率土之濱,莫非王臣。

 というのをあるいは意識したかとも思われるが、意味内容は全く異なる。何より憲法は詩ではなく法律なのであって、その用語は正式のものであるはずではないだろうか。

 ただ書紀への引用だけが伝わるこの憲法の条文が、その採録に際して手を加えられていないかという問題はある。しかし天皇の祖先はずっと昔から天皇だったかのように印象づけようとしている書紀が、他の何かを改変して王にする理由はない。そうするとこの王という字は原文のままであると考えるしかなく、なぜそれが天皇という字に書き換えられなかったかが、この場合にはかえって問題になる。

 その答えは何か。それを理解するために、十七条憲法の全文を載せることは、長くなるのでしない。ここで重要なのは、この憲法が四字一句を基本とする駢儷体で書かれていることである。駢儷体は中世中国で盛んに行われた、当時流行の文体である。もし王という字を天皇の二字に変えると、四シラブルを基調とする斉一なリズムを壊してしまう。もし天皇乃至大王という称号が、この条文が作られた時にあったなら、その二字が入るように駢文を組むことはできた。もしそれが大王であったら、それを書紀の編集者が天皇に置き換えることは、同じ字数だから容易だったが、実際にはそうではなかったということになる。


 前掲の宮崎説では、大王号の存在を否定した上で、“天王”号が五胡十六国からの影響で5世紀中頃から行われ、天皇号の起源になったとする。私は宮崎説にある程度まで賛成するが、“天王”号の導入はそれほど古いことではなく、推古天皇の時だと考える。十七条憲法の制定された時にはまだ倭国の正式の君主号は単に王だった。この憲法の第二条では、明確に仏教尊崇を定めている。これは隋朝が仏教に傾倒したのに呼応したものであり、対隋交渉の必要から推古天皇は当時、憲法制定後のある時期から“天王”と称したと思われる。天王とは仏教を外護する王者の謂である。王を皇に変えて“天皇”としたのは、おそらく天智天皇天武天皇の時で、法典の編纂に際しての用語確定に関係してのことであり、仏教への傾倒をいくらか修正する意図によるものだろう。

 王と皇は日本漢字音の呉音ではワウ(オウ)という同じ音である。呉音は南北朝時代の江東方言に由来する。7世紀には隋唐時代の長安標準語に基づく漢音が入り始め、特に桓武天皇の時には漢音が推奨された。以後、呉音と漢音は日本漢字音の二本柱となり、現代まで続いている。漢音では王はワウ(オウ)、皇はクヮウ(コウ)で同音にならない。道教などの用語としての天皇は漢音でテンコウと読む。漢音推奨後も日本の天皇がテンコウにならなかったことは、その由来を示唆しているのだろう。

再び、古代における歴史学的年代観について

 日本古代史の歴史学的年代観の問題について以前に軽く触れた。古代の中の時代区分、特に6世紀頃より前において、歴史学的年代観が確立せず、弥生時代古墳時代という考古学的年代観が流用されることについてである。

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 もっとも、6世紀以前のある期間を“大和朝廷時代”などと呼んだことはあった。この呼称が妥当でないのは、大和やまとという表記が8世紀以後のものだから、というだけではない。それは、その時代の歴史上における意義を明らかにした上での命名ではなく、分かったようで分かっていないという非常にあやふやなものだからである。大和をカタカナでヤマトと書けば済むという問題ではない。こんな呼び方をするくらいなら、考古学を援用した方がまだ安全なのだ。また、その後は、飛鳥時代奈良時代、そして平安時代と続くが、これにも本当は問題がある。

 歴史学的年代観を確立するには、歴史の全体像にある程度の見通しが立たなくてはならない。そのためには、この一年ほどの間にここで考えてきたことは、まだまだ不十分ではあるが、一応古代初期から古代的統一に至るまでを通して述べることができたので、このあたりで現時点での認識をまとめておきたい。

 古い方から順番に検討してみよう。


 考古学の時代区分における弥生時代は、紀元前300年乃至500年頃を上限とし、紀元3世紀後半頃を下限とする。九州が先行し、徐々に東へ広がった。本来は弥生式土器によってそれ以前の紋様繁多な土器の時代と区別した。弥生文化は、呉越地方を源流とする文化の刺戟によって成立したとみられ、水稲耕作を含む本格的な農業、金属器使用の開始、環濠を持った集落を特徴とする。金属器は青銅と鉄がほぼ同時に移入されたが、どういうわけか鉄は加工はできても採取する技術が遅れ、原料を輸入に頼ったため必ずしも自由に用いられない時期が長かったらしい。

 この時期の歴史は、《漢書》《三国志》《後漢書》によって垣間見ることができる。また、《日本書紀》《古事記》には、高天原の物語、天孫降臨、神武東遷といった形で象徴的に伝えられている。

 この時期は、歴史学的一般名詞的呼称としては、都市国家時代に当たる。弥生時代の全期間がそうであるかは別として、少なくともその後半は都市国家的段階に達している。環濠集落は古代都市の遺跡である。ただしこの古代都市は、自然環境や技術程度の制約から、さほど強固な施設を作ることがなく、世界の類例と比較してあまり発達しなかった。しかし都市国家としての性質を持っており、国家間の戦争や連合の形成、植民市の建設など、世界の他の都市国家時代と基本的に異ならない現象があったことは、史書の記述から確かに窺うことができる。固有的呼称としては、末期の一部地域に限っては邪馬台国時代という言い方ができる。

 考古学の古墳時代は、いわゆる古墳の造営が特徴をなす時期であり、4世紀から6世紀までの300年間を含む。環濠集落が解消され、一部の屋敷だけが堀で囲まれるようになり、後期には住居に作り付けの竈が普及するなど、社会構造や生活文化に大きな変化があったことが知られる。

 この時期は領土国家時代であり、《日本書紀》《古事記》の主な内容はこの段階に属する。奈良平野における領土国家の成立は、崇神天皇の事績として象徴されている。日本古代の領土国家時代は、中国のそれと比べて、大きな戦争が少なかった。戦争はあるにはあったが、ある地域に限っても社会全体が巻き込まれるほどのことにはならなかった。記紀の叙述の上でも、せいぜい有力者の居館を包囲して火をかければそれで終わりという程度である。おそらく諸国間で最有力の王者が秩序を調整するものとして尊重され、対立を表立って先鋭化させることは避ける傾向が強かったと思われる。

 各地域で農業的領土国家的なまとまりが形成される間、海洋的勢力は先行して広域化を進めた。海洋的勢力の代表として登場するのが葛城氏である。5世紀初頭、倭王家は葛城氏と結びつくことで列島周辺の水路と水運拠点を押さえ、諸国への影響力を強め、外交代表権を確立した。また葛城氏との関係で韓国南岸の権益に関与するようになり、百済新羅との接触も多くなる。中国古代文明の正統を受け継ぐ南朝宋には朝貢をして冊封を求め、そのことは《宋書》に記録された。

 6世紀に入ると、葛城氏の勢力は倭王家に吸収されるが、ある面でその役割を継承するものとして、やがて蘇我氏が頭角を現してくる。この頃には大型古墳はようやく陳腐化し、それに代わるものとして仏教の移入が模索されるようになる。仏教文化はすでに中世に達した中国の社会を経たものであり、これの輸入は日本の古代社会に中世的な洗練された文物を移植することでもあった。

 6世紀末からの100年前後を一般に飛鳥時代と呼び、奈良平野南部の飛鳥に王宮の置かれることが多かったというのがその理由だが、これにも問題がある。というのは、推古天皇皇極天皇の小治田宮が飛鳥に在ったというのは根拠が薄く、伝承のあるという桜井市大福が本当だとすれば、かなり長い間、宮地は飛鳥を離れていたことになる、というだけではない。政治的中心地によって時代を区切ることについてである。

 遷都が歴史的画期と重なることはありうるが、それがないことが画期のないことを保証はしない。たとえば中国では後漢曹魏西晋が続けて洛陽に都したが、洛陽時代という言い方を普通はしない。後漢は古代末期、魏晋は中世初期であり、そこに歴史的画期が認められる。首都の所在のような形式によった命名があるだけでは、歴史を理解する助けにはならない。

 7世紀はおおむね領土国家時代から古代帝国時代への過渡期である。この時期がわりあい緩やかな統合の過程であることを理解した上で、敢えて両時代の区切りを必要とするならば、私はそれを壬申の乱に求めたい。量子力学多世界解釈に従って、歴史には“もし”があると考えてみよう。我々の認識できる歴史から他の可能性を追い出して、我々の知ったように日本の古代後期を決定したのは、やはり天武天皇の新体制であったと思う。

 古代帝国時代の初期である、天武天皇から光仁天皇までの期間を、“プトレマイオス朝エジプト”や“リューリク朝ロシア”など、王朝の始祖の名によってそれを呼ぶ例に倣って、私は“天武朝日本”と言いたい。もっとも、天皇諡号によって何々朝と呼ぶのは、その天皇一代を指すのが従来の慣例である。しかし、日本史だけの用語を作るのは、特に必要がない限りは避けるべきだ。世界史の例と共通の性質を持つ事には、世界史と共通の言い方を用いることができなければならない。

 光仁天皇は、天武の血を引かない男子としては、天武朝日本で初めて天皇になった。光仁天智天皇の孫で、聖武天皇の皇女井上内親王との間に他戸親王が生まれていた。朝廷の路線としては、他戸親王に皇統を伝えるための、中継ぎ天皇のはずだった。しかし光仁は、この皇后と皇太子を暗殺し、別の女性に生ませた息子を皇太子に立てたが、これが後の桓武天皇である。天武朝日本はおよそ百年にして絶えた。桓武天皇以後、鎌倉幕府以前を、私は“桓武朝日本”と呼びたい。


 天武朝日本の時代、中国はすでに中世の末期にさしかかっている。日本の支配者層は中国の爛熟した中世的文化を大いに輸入し、社会全体はまだ濃厚に古代的性質を保っているのに、貴族階級だけが頭デッカチに中世化をしはじめた。やがて古代的統一が破綻し、武家が台頭してようやく社会全体が中世的段階に達するが、その時には中国はもう近世に入っている。日本の中世は始めから近世的文化の刺戟を受けた。移行期がダラダラと長く続くのも日本史の特徴である。さらに日本史の近世と言われる江戸時代も、内実は中世的割拠社会の特徴を色濃く残した中世的近世だった。

 しかし江戸時代の約260年間は、決して停滞した社会ではなかった。世界で最も成功した封建制度の中に、近世的統一をもっと進めようとする傾向は伏流していた。太平の眠りと言うほどには日本人は眠ってはいなかった。明治維新は外圧をテコとしたが、内的発展によったところも無視できない。すると明治維新によって成立したこの日本という統一国家は、歴史上でどういう段階にあるものなのだろうか。

 眼を西に転じると、中国はどうやら文明の古さから来る弊害が溜まり、社会が停頓しがちになって、近世という段階を長く続け過ぎたらしい。宋初から清末に至るまで約950年である。辛亥革命共産党体制が、中国の社会を新しい段階に引き揚げたのか、それともまだ長い長い近世を続けているのか、私にはよく分からない。

 人間というものはともすると、自分の時代は非常に進んでいて、その前とは隔絶された段階にあると思いやすい。そんな意識には歴史的な意味はないのである。将来の歴史家は、江戸時代を近世前期とし、明治維新以後の“東京時代”を近世後期とするのかもしれない。我々はまだそんな総括ができる段階には達していないのだが、少しはその準備をしておくべき時期には来ているのではないだろうか。


 最後は少し古代史から逸脱したが、歴史とは続いているもの、終わりのないもの、勢い現代に及ばざるを得ないこともある。

日本史の誕生

 古代という段階をそれより前と区別するならば、それは社会に不可逆の速い変化が起き始めた時代である。何千年何万年という間にほとんど変わりのない日常を繰り返した時期は過ぎた。時間は取り返しのつかないものになる。二度とない時を人々は深く記憶し、事件は語り継がれることになる。文字が発明されるとやがて日々の動静を書き留めておくことが始まる。そして社会の変化が節目を迎えた後で、適当な条件を得た時に、始めて歴史の典籍が編まれる。

 日本で日々の政治的動向を記録しておくことが何時頃から行われたかははっきりしない。ただ《宋書・夷蛮伝》を見ると、倭王武のもとにはかなり能筆の人物があったらしいことがわかる。ここに載せられている武の上表には、倭王側の立場からの事情の説明や要求の主張が、誇張も含めて存分に表現されている。こういう作文のできる人物がたまの朝貢のためにだけ雇われていたとは考えにくく、史官としての役割を担っていたという可能性を思わないわけにはいかない。しかしそうだとしても、それがそのまま後々まで継続したかどうかはまたわからない。

 記録によって知られる限りでは、《日本書紀》に、推古天皇の二十八年、聖徳太子蘇我馬子天皇記・国記・本記などを作ったというのが修史事業の始めとされる。これらの文書は早くに失われたのでその内容を知ることはできないが、敢えて推察するに史書と言うよりは史料の集積に近いものだったろう。これが直接ではないにしろ《古事記》序文の言う帝紀・本辞につながり、《日本書紀》の材料としても利用されたと考えられる。

 壬申の乱後の新体制における修史事業は、天武天皇の十年三月、川嶋皇子らに詔して「帝紀及び上古諸事を記定」することを命じたとあるのに始まる。ここから養老四年に書紀が完成するまでの経緯は必ずしも明らかではないが、史書を編むことが天武天皇の構想から出発したことは間違いないと思われる。書紀より八年前、和銅五年には《古事記》が撰上されたことになっている。なぜ同時期に多く重複した内容を持つ二つの書籍が作られたのか、両書はどういう関係にあるのかということはやはりよく分かっていない。ただ記がしばらく宮中に秘されたらしいのに対して、書紀は早くから講義が行われているので、流布された最初の日本の歴史は《日本書紀》だった。古代帝国のための日本史の誕生である。

 《日本書紀》の内容は、過去の事件をただ並べたというものではなく、ある歴史観によって統合された歴史である。我々は常に未来の方から過去を見るが、それは自身が生きる時代を通して歴史を観るということである。そこには、意識するかどうかにかかわらず、自ずとその人にとっての現代が投影される。そして誰でも自分の時代が前代からいかに変化した後期のものであるかということは忘れがちである。史書を読むにはそれが編まれた時代を理解することが必要だという理由はここにある。

 《日本書紀》の編纂にかかる時期を含む七世紀から八世紀にかけては、王権の血統主義が高まった時期である。先祖から受け継いだ偉大な王者の血が王権の正当性を保証する、という思想は、血という取り替えられないものを理由にしているだけに盤石に見える。父権の優越する社会ならば子は全く父の血だけを受け継ぐと思われがちなのでそれで通用する。しかし上古の日本は双系的傾向が強かったので、他人と結婚して子をなすと血は世代を経るごとに薄まってしまう。これを防ぐには近親結婚をすることだが、このころの天皇にはその例が多い。これはまた蘇我大臣家のような外戚を排除する効果を持ち、実際権力の集中につながった。

 血統主義が強調されるとき、歴史の上では、遠い昔の王者にまで血のつながりが探求され、歴々代々に天皇号が追諡される。また血統主義を軸に天命思想が結合すると、王権の正統性は天上の神から血を承けたことに由来するのだと逆算されることになる。この次第については前に考えを述べたことがあるので今は詳しく繰り返さない。

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 こうした王権の拡張は、統合に向かう古代社会の趨勢によって支えられたものでもある。社会の発展は内的成長と外的刺戟の相互作用によってもたらされる。七世紀後半、新羅の統一戦争によって生じた難民の内、少なくとも数千人、あるいは一万人を超える亡命者を日本は受け入れた。奈良時代律令体制によって把握された総人口はおよそ500万人前後と推計されているので、人口比に直すとこれがどのくらいのことだったかが察せられる。この中には百済の王族も含まれている。

 旧百済王子の余善光に対しては、持統天皇の時に百済くだらのこきしという姓が賜与されている。その孫の敬福は聖武天皇から称徳天皇のころに活躍して有名である。国土がないから百済王として冊封はできないが、賜姓というのはそれに準じたことというつもりだろう。天皇が外国の王を保護するということは、その地位は国王級より上ということになり、天子・皇帝を称するに足るということになる。王権の証明が必要とされた時代でもあった。

 そうすると新羅は理論上は格下ということになるが、強勢を遂げたその国は実際には警戒すべき力を備えている。自信と不安は同居できないようでいて実は仲の良いものである。新羅への警戒感は天皇の権威をいっそう尊重させる。これが歴史に投影されるとき、日本が格上になるのは始めから決まっていたことになり、逆算的に表現が改められる。通常の外交上の贈答であっても、日本からむこうへは「賜」、百済新羅高句麗からは「貢」「献」などの字を使うことで上下関係が設定される。加羅に持っていた多少の権益には任那日本府などとさも重要そうな名が与えられる。そうしたことの由来は神功皇后の活動を誇張することで求められた。

 記紀歴史観は、必ずしも当時の人が普通に信じた歴史ではなく、こうした逆算的作為を少なからず含んでいる。それは編纂当時には当然の認識だったことでも、その時代の特殊性のために、後世の人には感得しにくくなり、ここになぜこのようなかたちで歴史が描かれているのかという意図が読みづらくなった。そして古代という歴史の出発するところに対する認識があやふやなままで通過させられるために、日本史全体が理解しにくいものになってしまった。理解しにくいというのは、西洋史や中国史と同じ水準で日本史を捉えられないという意味である。

 しかし逆算的意図を差し引いてみると、そこには当時までに伝えられて過去の事実だと信じられていたらしいことが案外正直に書いてもある。それは作為を貫くならもっと整理や改変のできようことが少なからずあることによって分かる。だから、記紀を巡る問題の根本に切り込むためには、当時の思潮をもっと精確に理解し、それによってその構造を分解してみることが大事である。それが十分にできたときには、そうして取り出されたものを材として、これからの我々が本当に必要とする日本史を誕生させることができるだろう。

日本版・古代帝国への道(後編)

(承前)

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 高句麗の王都平壌が陥落し、宝蔵王が囚われのは、唐の高宗の総章元年(668)、日本は天智天皇の七年、新羅は文武王の八年のことだった。これにより唐は高句麗百済の故地を占領することとなったが、実態としてはまだ平定したとは言いかねる状況だった。

 これより前、唐は何度か高句麗遠征をしかけ、攻め込んでも占領を維持できず、形式的な謝罪をさせて収めるということを繰り返した。それなのにこのたびの戦争に限ってここまでうまく運んだのは、新羅の協力があったからに他ならない。つまり中国から兵を駆り集めて朝鮮まで出征すると補給線が長くなりすぎるところを、新羅が兵站を担って補ったのである。

 しかし新羅の補給能力にも限度がある。唐による占領が不安定な状態が続くと、新羅にとっては持ち出しばかりが多くなるだけでなく、二国の体制が復興するおそれもあった。唐としても安定化のためにできるなら新羅をも併呑しようという意図がないでもなかった。ここに両者の利害に不一致が表れてくる。ただし新羅に背かれると朝鮮半島における戦線を維持できないのは大唐の方なのである。

 咸亨元年(670)、新羅は旧百済領への進出を始め、また高句麗の遺臣が君主と推す、宝蔵王の外孫、安勝を保護してこれを高句麗王として承認した。新羅は言葉の上ではあくまで唐に恭順な姿勢を示しながら、やむをえない事情があることを主張し、複雑な情勢を活用して百済高句麗を併合しようとした。

 唐軍は、白村江の会戦より後、何度か日本に遣使をしている。その目的は、捕虜の交換といった戦後処理があったろうが、特に新羅との関係が悪化しはじめてからは、物資の補給を要求したものと思われる。唐の使者郭務悰が、おそらくは戦災難民をも含む二千人を連れて、太宰府に先触れを届けたのは、咸亨二年十一月、その時天智天皇死に至る病の床に伏せていた。

 その年の十月、天智天皇は病態が重くなり、寝殿大海人皇子おほしあまのみこを召し入れ、位を継がせようとした。大海人皇子天智天皇の同母弟である。大海人皇子は自身も病気がちであると称してこれを辞退し、皇后倭姫王やまとのひめおほきみを即位させて大友皇子おほとものみこに執政をさせることを提案し、自分は出家して天皇のために功徳を積みたいと申し出た。大友皇子は天智と伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめの間に生まれ、この年二十四歳で太政大臣に登っている。天智天皇はこれを許した、ということになっているが、内密の会見だったとすればこれを聞き伝えた人が他にいたかどうかわからない。ともかくも大海人皇子は近江宮を去り、僧形をして吉野宮に移った。

 十二月に天智天皇崩御し、翌年(672)が壬申である。

 壬申年の前半、《日本書紀》の記述はどういうわけか飛び飛びになり、三月に郭務悰らに喪を知らせ、五月には甲冑弓矢などを与えたといったことがあるだけで、内政については何ら語るところがない。この五月、大海人皇子のもとに、近江方は皇子を殺そうとして攻撃の準備をしている、という旨の報告があり、ここから所謂“壬申の乱”の具体的な動きが始まったことになっている。

 この間の事情には謎めいたところがある。

 そもそも大海人皇子天智天皇の元年に皇太子に立てられているし、父子継承が原則となっていない当時の常識からしても、また年齢や経験からいっても、当然王位を継ぐはずだった。もし大海人が天智から譲位を受けていれば、それで何か問題があったのだろうか。大海人と大友の間に何らかの政策や思想上の対立があったのだろうか、しかし一人の政敵を殺すためとしては大海人のしたことはあまりに大がかりに過ぎると言われなければならないだろう。邪魔になるなら謀反の疑いでもかけてもっと穏便に殺すことがさして困難だったとも思われない。

 大海人皇子は兄と理想を共有しており、大友皇子もまた息子として純然たる後継者の素養を持っていたとすれば、大筋で対立するところはない。そうだとすれば、大海人皇子にとってのすべきことは武力行使そのものだったと受け取るほかはなさそうである。

 考えてもみよ、この武力とはもともと対外戦争のために諸国から収奪したものなのだ。しかしその外征は失敗に終わって得るものなく、そのことは天智天皇の治世に影を落とさずにはいなかった。せっかく思い切ってしたことが、何の役にも立たなかったのではないか、大化以来の改革の方向性は本当に正しいのかという疑念がつきまとった。それを挽回するには、この武力をむしろ内に向けて叩きつけ、これこそ統一体制であってこそ持てる威力なのだと思わせなくてはならない。

 そのために捧げるには、天智天皇の忘れ形見であってこそ最適な犠牲であり、大友皇子は敗戦に呪われた時代を道連れにして死ぬべきだった。

 大海人皇子は東海・東山道の兵を動かし、山陽・西海道の軍は動きこそしなかったが味方にしており、近江方が気づいて手を打とうとしたときにはもう遅かった。実は空白の五月以前にもう吉野方の手が回っていたのではないかと思われる。戦闘があったのは近畿地方の一部で、それも六月下旬から七月にかけての約一ヶ月間に終熄した。ただ論功行賞が十二月まで遅れるので、それまでは争乱の総括をすることがはばかられるような状況があったかもしれない。

 壬申の乱は内戦としてはこの程度のことに過ぎないが、それでも強い印象を残した。《日本書紀》は壬申年を元年と数え、大海人皇子が即位したのは二年二月、これが天武天皇である。書紀はこの人物を資質は雄抜・神武にして学問は天文・遁甲に通じていたと讃える。天武天皇壬申の乱の効果により空前の権威を獲得し、改革実現のための妥協を最小限に抑え、日本史上に古代帝国的段階をもたらすことができた。

 天皇号はいつ創案されそして制度的に用いられはじめたのか明確でないが、天皇制を確立した功績は天武天皇に帰せられなければならない。天皇制とは王朝の君主が天子・皇帝・天皇を称する制度であり、中国的皇帝制に倣いながら独自の要素を加えたものである。これは内的には壬申の乱という一種の革命運動によるが、外的には新羅の政策から受けた効果を無視できない。

 中国の皇帝と形式の上で並ぶ地位が国際的に承認されるかについては、唐との関係が決定的な要素だった。しかし唐としては新羅と戦争をする可能性が残る間、日本とは妥協した関係を結んでおかなければならず、そのため百済における敵対行為は不問にせざるをえないし、倭王が天子を称することもなあなあにしなければならなくなった。ここに唐の実力の限界があった。

 新羅百済の全部と高句麗の南部を併合して朝鮮半島に統一体制を築き、新羅王はかつての国王級より一等上の地位を得る寸前まで進んだ。だが中国との間に深刻な対立を作ることは慎重に避け、名分の上では冊封を甘受して唐朝には臣としての礼を執った。これは地政学的条件による制約というもので、もし渤海湾がもう少しだけ北に深く大陸を抉っていたら、ここにも皇帝制が樹立されていておかしくない。

 旧高句麗領北部には、則天皇帝の万歳通天(696~697)の頃、靺鞨人を率いる大祚栄が侵入し、聖暦年中(698~700)には自立して震国王と称し、睿宗の先天二年(713)、渤海郡王に封じられた。これが渤海国で、日唐双方に朝貢し、唐とは時に交戦もしたが、やがて独自の年号を立てて、以後200年余り国を保った。渤海の成立は日新唐相互の関係にも微妙な影響を及ぼし、日本と新羅にとっては結果的に古代的統一の発展に寄与した。

 唐にとってはこの方面に介入したことで得られたものはろくになかった。いったい中国の政治思想は名分主義的傾向の強い一面があり、形式さえ満足させればそれで結構十分とする場合がある。外国の王を冊立するとか、朝貢をさせるなどということは、詰まるところ外交上の形式の問題に過ぎない。新羅渤海が頭を下げて挨拶に来るならば、またその地域の秩序が保たれている限り、干渉する理由もなく、その能力の不足も明らかだった。

 日本に成立した王権は、もう一つの中華を自任し、周辺国をも統べることを目指した。新羅も一時は日本に対しても朝貢の形式を受け入れたこともあった。しかし、天武系の王統が絶え、天智系の子孫がこれに代わった平安時代初期には、こうした意識は次第に薄れ、やがて列島内五畿七道の諸国を治めるだけで自足するようになる。外地の権益などというものは、端切れでもつかんでいる内はどうしても要らないとは思えないが、手放してしまえばその方がすっきり落ち着いたという例である。

日本版・古代帝国への道(中編)

 (承前)

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 改革を進めていくことは、常に現状との妥協による。

 皇極天皇はその治世の四年(645)六月、孝徳天皇に譲位し、その年は元号が立てられて大化元年と称した。孝徳天皇は、敏達天皇の曾孫、皇極天皇の同母弟で、仏法を尊び性格は柔仁で儒学を好んだという。舒明と皇極の間に産まれた間人皇女はしひとのひめみこを皇后、中大兄皇子なかのおほえのみこを皇太子とし、王権の中枢は親族で固められた。皇極上皇もなお皇祖母尊すめみおやのみことと号されてこれを後見している。大臣の座は左右に分けられ、左大臣阿部内麻呂あへのうちまろ、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろ、加えて中臣鎌足内臣うちつおみという異例の地位に任じられ、百官の上に立って進退廃置の計画を実行したといわれる。

 はじめ、皇極天皇中大兄皇子に譲位しようとしたが、皇子は鎌足の意見によって辞退した。中大兄皇子舒明天皇崩御した時に十六だったとあるから、この年はまだ二十歳である。いかに有望であったとしても経験不足の王者が許される情勢ではなかったと言えるかもしれない。

 蘇我大臣家を排除したこの新体制の大目標は、要するに附庸諸国の土地と人民を統一政府の領有するものとして戸籍・計帳に収め、これによって王権を強化し、国際政治上の地位を高めることにあった。各地の指導者にとっては伝統的な支配権を最終的に手放すことになる。

 統一のための思想的根拠としては、天皇が即位に際して上皇・皇太子・群臣を集えて盟誓した言葉、

天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄、君臣失序。

天は覆い地は載せる(天は君、地は臣の比喩)。帝道は唯一なり。而るを末代は澆薄にして(倫理が衰えること)、君臣は序を失う。

 また大化二年の皇太子上表、

昔在天皇等世、混齊天下而治。及逮于今、分離失業。

昔在むかし天皇等の世々は、天下を混斉にして治めました。今に及逮およんでは、分離して業を失っております。

 これらに見られるように、“太古には天下は一つだったが、次第に分かれてきた”ということ、そしてそれが再び統一されなければならないということが主張された。実際にはそんな時代はなく、「分離」した状態こそ本来の姿なので、今日から見ればあまり筋の良い主張とは言えないが、社会の発達とともに歴史という観念が成長してくる一つの段階を示すものとしては注目に値する。これには秦韓古代帝国の統一時代から魏晋南北朝の割拠時代を経て再び隋唐の統一に至った中国の動きも影響しているかもしれない。

 国々の掌握を実際的にはどうするかということになると、その要は、後に天武天皇が言ったように、まさに軍事にあった。といっても戦争をして反対者をどんどん討ち滅ぼしていくのではない。それは、大化元年八月の詔の一つに、

又於閑曠之所、起造兵庫、收聚國郡刀甲弓矢。

又、閑曠の所には、兵庫を起造し、国郡の刀甲弓矢を収集せよ。

 大化元年九月、

使者於諸國治兵。

使者を遣わして諸国には兵を治めさせる。

 大化二年正月、

使者、詔郡國修營兵庫。

使者を遣わし、郡国に詔して兵庫を修営させる。

 などとあるように、諸国の保有した兵器・兵権を供出させることだった。これを正当化するには対外戦争があろうということを理由にするほかはない。近畿より西では長く国際情勢に対応する必要があったことからすでに障害はかなり除かれていた。他方、東国をまとめるためには新たに東北地方へ向かっての戦争が想定された。これは大化・白雉の約十年間を経て一応は成功したように見える。しかし統一体制の法制度はまだまだ未熟であり、結束を保つには現に戦争をやって見せなければ済まないというところまで勢いは進んでしまったらしい。

 孝徳天皇は白雉五年(654)十月に崩御し、翌年正月に皇極上皇重祚した。これが斉明天皇である。この年は唐の高宗の永徽六年、新羅では前年に真徳王が薨去して武烈王に代わっている。百済義慈王の十五年、高句麗は宝蔵王の十四年に当たる。武烈王は、高句麗百済が兵を連ねて新羅に侵入し、その三十城あまりを攻め陥としたとして、唐に救援を請うた。高宗は蘇定方らを遣わして高句麗を撃ったが勝てなかった。

 高宗の顕慶四年(659)、武烈王は百済が頻りに国境を侵すとしてまた唐に出兵を請うた。高宗は翌五年、再び蘇定方を将軍として遣わし、海を越えて新羅軍とともに百済を挟撃した。この作戦は大いに成功して、王都泗沘城は唐軍の為に占領される所となり、義慈王や太子の隆も今は俘囚となって長安へ送られた。

 こうして王を失ったとはいえ、百済軍は依然として抗戦をやめなかった。百済の重臣鬼室福信きしつふくしんの希望は、このとき斉明天皇のもとにいたもう一人の王子豊である。福信は使者を送って、王子豊を迎えて百済王に推戴したいこと、そして援軍を派遣してくれるようにと斉明天皇に請うてきた。この要請が着いたのは斉明天皇の六年十月、季節は冬に入っており、海路を考えれば派兵は早くとも春を待たなくてはならない。しかしどうしたことか翌年夏になってもまだ実行できず、そうこうするうちに斉明天皇は秋の口に崩御した。

 そのまた翌年(662)を《日本書紀天智天皇紀》は天智天皇の元年として数えるが、実際の即位はその七年まで遅れる。中大兄皇子は齢すでに三十代後半にさしかかっている。有力な王位継承の競争者だった古人大兄皇子は大化元年に、有間皇子斉明天皇の四年に、ともに謀反の疑いをかけて殺している。中大兄皇子は今や改革者として誰かまうことなく手腕を振るうべきであった。だがそこに時の勢いというものは容赦なく圧力をかけてくる。

 百済との間には長年にわたる関係があったとはいえ、唐と事を構える危険を冒してまで望みの薄い戦争に乗り出すほどの目的があったろうか。蝦夷との戦争も斉明天皇の代に数度実行されたが、これとてもとより火種があったのではない。対外戦争があろうことを理由にして諸国の兵器・兵権を収奪した以上、やらなくてはならない所に追い込まれたのである。統一のための内戦を回避した代償であったとも言えるかもしれない。

 ともかくも海を渡った救援軍はしばし韓国を転戦する。そして天智天皇の二年、高宗の竜朔二年、白村江で唐軍の迎撃に遭って決定的な敗北を喫し、結局多数の亡命者を連れて帰っただけに終わった。この間の事情はよく知られているからここで詳しくは述べない。

 翌三年二月、天智天皇は弟大海人皇子おほしあまのみこに命じて、冠位の改制、及び「氏上・民部・家部等の事」を宣告させた。この後者についてはいろいろ意見があるが、つまりこれまで撤廃を宣布してきた旧附庸諸国支配層の権利を部分的にでも回復させたものだとすれば、敗戦を受けての動揺を抑えるために改革の後退を強いられたことになる。

 この後も新羅の統一への戦争は続く。天智天皇の治世十年間は、何らかの新しい法典が定められたらしく、広く諸国にわたる戸籍の作成に初めて成功したことは、確かに特筆に値する。しかし、海外の戦争への対応と、近く予期された防衛戦の備えのために、多くの労力が費やされ、大化以来の改革の方向を思うほど伸ばすことができなかった。

 そもそも百済のことは、まだ勝算の立てようもある早いうちに介入しなかったのだから、もう出兵のできる場合ではなかった。外征というのは守りを固めてもなお余りがあればできるというもので、負けてきたからあわてて城を築くというのは順序があべこべでもある。元来が聡明な天智天皇のこと、そうならざるを得なかったことに苦しんだのだろう。八年には腹心の鎌足を失い、十年の秋に病の床に臥せ、十二月、不安な情勢の中で世を去り、時に四十六歳だった。

 改革を進めるには常に妥協が必要だが、妥協のしようによってその行く末は全く下らないものになってしまうこともある。大海人皇子は、今ここがその岐路だと考えただろうか。それについては長くなるので次回に分ける。

日本版・古代帝国への道(前編)

 《隋書・東夷列伝》の中には、隋の大業三年(608)、裴世清が倭国へ派遣された際の報告に基づくと思われる記事がある。それによると、竹斯国から東は十余国を経て海岸に達した、という。海岸とは、倭国の海岸ということで、《日本書紀》を参照すると、推古天皇の十六年六月に、裴世清らが難波津に泊まった、という記事がこれに対応する。すると難波まで来て初めて倭国に着いたということで、それ以西は何なのかというと、「竹斯国より東は、みな倭に附庸する」とある。

 附庸とは、《孟子・万章下》に、

天子之制,地方千里,公侯皆方百里,伯七十里,子、男五十里,凡四等。不能五十里,不達於天子,附於諸侯,曰附庸。

天子の制、地は方千里、公・侯は皆方百里、伯は七十里、子・男は五十里、凡て四等。五十里にりなくば、天子に達せず、諸侯に附き、附庸と曰う。

 とあるように、小国の君主は天子に直に挨拶することができず、諸侯に交渉を負託し、その国は附庸と呼ばれる。

 《隋書・東夷列伝》には附庸の用例が他にもある。百済国の南海には𨈭牟羅国があり、百済に附庸する、という。𨈭牟羅は《日本書紀》では耽羅たむらと表記し、百済義慈王が唐に降服した翌年、斉明天皇の七年(661)五月、

丁巳。耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。

丁巳(二十三日)、耽羅が始めて王子阿波伎らを遣わして貢献した。

 とあるのをはじめ、天智・天武・持統の各代に数度来訪のことが見える。《三国史記》などを参考にすると、耽羅国は五世紀末頃から附庸として百済国の勢力圏に入り、百済滅亡後は暫時国王を立てて独自に外交し、日本としてもこれを取り込もうとした。後には新羅に付き、その崩壊後にはまた暫時自立した。また後には高麗に属し、十二世紀に耽羅郡が置かれ、次いで済州と改められた。今の済州島である。

 附庸とはこういう国のことであり、裴世清が来訪した時には、まだこうした国々が列島の各地にあり、推古天皇を盟主として連合していた。この時期は考古学的には古墳終末期にさしかかっている。この三百年ほど続いた大型古墳の時代は終わりつつあった。そして古墳の斜陽と反比例するように仏教がその存在感を増してきた。

 仏教は、すでに千年以上の歴史を持ち、高い普遍性と国際性、それに体系的に整理された信仰の世界を確立していた。しかもそれは建築や彫刻・絵画などを伴っており、高度な精神文化であるとともに発達した物質文化として人々を驚かした。

 かつて卑弥呼親魏倭王に封じられた時に、仏教は中国にはかなり入っていた。だから日本列島へももっと早くに渡ってくる機会がなかったのではない。しかしゴロゴロした豆のままの大豆にニガリをかけても何にもならない。大豆が豆腐になるには然るべく準備をした後でこそニガリが効く。倭人諸国はゆるやかながら統合していく傾向にあり、そこに仏教が迎えられた。

 仏教の影響は、各地の土着的な神々の整理を促し、それは現実的には政治的統合と表裏一体となって、倭人社会の結合を早め、やがて古代帝国としての日本をここに出現させるはずである。だがそのためにはまだ実際的な問題を解決していかなければならない。

 仏運興隆を導いた推古天皇の治世は約三十六年、舒明天皇が後を継ぎ、その政策も先帝の方針を踏襲したらしく見える。舒明天皇の治世は概ね平穏無事、十三年で崩じ、皇極天皇が立った。推古帝よりこの頃まで、王権は天皇家蘇我大臣家のいわば連立与党が担ってきた。蘇我大臣家は王権の拡張に大いに寄与したが、その権勢の強さからともすると主従が逆転するおそれがあった。

 おりしも皇極即位の前後、このところ小康を得ていた国際情勢がにわかに緊張してきた。舒明天皇の末年(641)は、唐の太宗の貞観十五年、百済義慈王の元年である。義慈王は性格勇胆にして孝子の評判あり、即位すると王権の強化に努め、二年には自ら兵を率いて新羅に侵入した。この年、高句麗では泉蓋蘇文が栄留王を弑殺し、宝蔵王を立てて実権を握った。義慈王は、その三年、高句麗と結んで新羅を攻めることを企図し、新羅善徳王は唐に助けを求めた。唐の太宗は、自身が高句麗王と認めた栄留王がその臣下に殺されたことをこころよく思わず、遠征の準備にかかった。

 貞観十九年(645)、太宗は親征の軍を率いて遼河を越え、高句麗と会戦した。この間、倭国では大臣蘇我入鹿が権力の集中を進めていた。もし他に英傑がなければ、天皇制は成立せず、日本的王権は別の形で確立されたかもしれない。この歳は皇極天皇の四年である。蘇我入鹿は、偽りによって天皇の御前に呼び出され、これを斬殺したのは、中大兄皇子、後の天智天皇であり、この謀略には中臣鎌足が深く関与していた。

 その翌日には入鹿の父蝦夷も殺され、蘇我大臣家は一朝にして滅びた。蘇我氏に擁立されようとしていた古人大兄皇子は出家して吉野に退き、皇極天皇は退位して、軽皇子が立ったが、これが孝徳天皇である。半世紀近く王権の半分を担ってきた蘇我大臣家が消えたことで、この度の王位継承は群臣から推戴されるという形をとらず、全く天皇家の意志によって行われた。

 孝徳天皇のもとで中大兄皇子は皇太子となり、腹心の鎌足とともに改革者として活動し始める。この代には“改新の詔”をはじめ様々な法令が発布されるが、こうした動きには中臣鎌足とその智謀に導かれた若い中大兄皇子が主導権をつかみつつあった。ここに日本統一への方向性が明らかに示され、それをいかに実現していくかが焦眉の課題となってきた。以下、次回に続く。

海東の護法天子――推古天皇(後編)

 (承前)隋の大業四年(608)、煬帝は鴻臚寺掌客の裴世清を倭国へ派遣した。倭国の首都に入った裴世清は、《隋書》の方では“倭王”に面会し歓談したように書かれている。“国王”なら当然勅使とは直に会うべきである。しかし《日本書紀》の方では、推古天皇が裴世清と会ったのかどうか、明らかでない書き方をしている。隋朝の立場としては推古天皇倭国王として遇したいが、推古天皇としてはすでに天子を称した以上、国王扱いを受け入れることは大きすぎる譲歩になると考えたはずだ。

 両史の差違を理解する一つの可能性として、推古天皇は天子の権能で誰かを“倭王”に冊封し、裴世清の接待をさせたかもしれないということは、前にも述べた。もしそうだとすれば、その人はおそらく蘇我馬子聖徳太子であったろう。これで裴世清も倭王に会う使命を果たしたことになって顔が立つ。相手の顔を立てるということは、いつの時代でも外交に求められる常識である。しかし下手をすると、このままでは推古天皇の存在が浮き上がって、国際政治上の地位を失うおそれがある。

 そこで推古天皇は、次の国書で改めてその地位を主張しようとしたのだろう。裴世清が帰るのに副えてまた小野妹子を遣わし、煬帝を聘問する辞が《日本書紀》に載せられている。

天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悆。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。

東の天皇が西の皇帝に敬白します。使人鴻臚寺掌客裴世清らが至り、久しいおもいがやっと解けました。季秋ながつきになりようようすずしいころです。あなたはどうですか。想うに清悆おだやかでしょうか。こちらいつものとおりです。今、大礼蘇因高そいんこう小野妹子)・大礼乎那利をなりらを往かせます。謹白。具ならず。

 これを“天皇”号の使用された確実な早期の例とみる向きもあったが、何をして確実とするかは難しい問題であり、ここにも後世の改変と判断すべき理由がある。

 この“某甲敬白‥‥”という書き出しは、仏教界で手紙によく使われた形式で、末尾に“謹白”が付くことも多い。こういう信書上の儀礼的書式は現代中国ではあまり用いないそうだが、現代日本で“拝啓‥‥敬具”などと書く方にむしろ伝わっているのだろう。この形式の文書で当時において有名だったと思われるものに、南朝宋の武帝が書いた《断酒肉文》がある。これは唐の道宣が編んだ《広弘明集》に収められているので見ることができる。その書き出しを引く。

弟子蕭衍敬白諸大德僧尼、諸義學僧尼、諸寺三官。

 この蕭衍というのが武帝の本名である。皇帝ともあろう者が姓名を称するのは異例のへりくだり方で、同じ《広弘明集》に載せる《舎利感応記》に、

菩薩戒佛弟子皇帝某,敬白十方三世一切諸佛,一切諸法,一切賢聖僧。

 とあるくらいがせいぜい普通にありうる程度だろう。ここの「某」は謙遜の一人称で、「菩薩戒仏弟子皇帝某」とは隋の文帝のことである。しかしいずれにせよこれは弟子から師匠へ差し出す形式であり、謙遜した自称を使ってこそそれが「敬白」と照応する。だから、もし、

天皇敬白西皇帝。

 というのが当時のものそのままだったとしたらどうだろうか。《日本書紀》の述作者はすでに日本的な意味での“天皇”が成立した後で書いているからそれほどおかしいとも思わなかったかもしれないが、もともと“天皇”にはいくつかの意味があり、受け取り様では“天帝”と同義になって天子より上に出てしまう。それではいくら「敬白」してみたところでちぐはぐになっておかしい。

 ここには本来、

東大王敬白西皇帝。

 とあったという意見もあるけれども、大王というのは称号ではなく王に対する敬称として使うのが普通だから、この用法は考えにくい。ましてや“東倭王敬白”などとして国王格まで下るのは、もう一人の天子としての地位を獲得したい推古天皇としては避けなくてはならない。

 国際的な仏教隆盛、推古天皇が仏教を擁護する王者として登場し、また外交上もそれを利用してきたことを思い出そう。するとこれはもともと、

東天王敬白西皇帝。

 とあったと考えるべきではないだろうか。この“天王”とは仏教的文脈における意味を持つ。仏教上の天王にも種類があるが、この場合に参考になるのは、やはり《梁書》に載せる狼牙脩国からの上表である。

大吉天子足下:離淫怒癡,哀愍衆生,慈心無量。端嚴相好,身光明朗,如水中月,普照十方。眉間白毫,其白如雪,其色照曜,亦如月光。諸天善神之所供養,以垂正法寶,梵行衆增,莊嚴都邑。城閣高峻,如乾陁山。樓觀羅列,道途平正。人民熾盛,快樂安穩。著種種衣,猶如天服。於一切國,爲極尊勝。天王愍念羣生,民人安樂,慈心深廣,律儀清淨,正法化治,供養三寶,名稱宣揚,佈滿世界,百姓樂見,如月初生。譬如梵王,世界之主,人天一切,莫不歸依。敬禮大吉天子足下,猶如現前,忝承先業,慶嘉無量。今遣使問訊大意。欲自往,復畏大海風波不達。今奉薄獻,願大家曲垂領納。

 ここでは、梁の武帝に対して、まず「大吉天子足下」と呼びかけ、次に「天王」と称し、また「梵王」の如しだと讃えている。梵王とは、大梵天梵天王などとも呼び、仏教では正法護持の神とされる。そして、梵王になぞらえてなのだろう、仏教を護持する王者を天王と称することがあった。この意味での天王は中国的王権思想の外から来ているので、その対象は国王でも天子でもいい。

 これより前、“天王”は五胡十六国の君主が皇帝を称する前の準備的な称号として用いたこともあった。この場合は皇帝よりは一等下るが、国王よりは上になる。五胡十六国的天王号の成立に寄与したのは、仏教の影響と、周代の用例だった。上古には周王が天王と呼ばれたことがあり、これは“天子たる王”というくらいの意味合いだろう。

 これらの例を思い合わせると、推古天皇が“天王”と自称したとすれば、一つには一歩譲って煬帝の顔を立てたことになり、二つには天子の称を撤回したことにはならず、三つには“敬白”と照応して無理のない構文だったことになる。それに加えて、これは謙遜の自称であることが前提だから、実際には自分は“天王以上”なのだという含みを暗に持たせてもいる。

 煬帝としても、形式的に一応は顔が立つことになるし、仏教的世界観を押し出されては無碍にもできないし、内外に焦眉の課題が迫っていることでもあり、引っかかる所がないではないが、対倭問題はこれでしばらく納めておくことにはしやすかっただろう。幸い倭国は地を離れ海を隔てた向こうにあり、気にさえしなければ実際上の問題にはまだなりにくい。

 推古天皇が、隋に対し天子を称して対等の関係を要求したからには、皇帝とも号したろうという想定は、ほぼ自動的に成立する。中国では漢代以来“天子・皇帝”を併せ、場合によって使い分けた。ここに、交渉上の必要から一を加えて、“天子・皇帝・天王”を兼称したすれば、日本律令の“天子・皇帝・天皇”制が成立する過程を解く鍵になるかもしれない。