古代史を語る

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再び、古代における歴史学的年代観について

 日本古代史の歴史学的年代観の問題について以前に軽く触れた。古代の中の時代区分、特に6世紀頃より前において、歴史学的年代観が確立せず、弥生時代古墳時代という考古学的年代観が流用されることについてである。

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 もっとも、6世紀以前のある期間を“大和朝廷時代”などと呼んだことはあった。この呼称が妥当でないのは、大和やまとという表記が8世紀以後のものだから、というだけではない。それは、その時代の歴史上における意義を明らかにした上での命名ではなく、分かったようで分かっていないという非常にあやふやなものだからである。大和をカタカナでヤマトと書けば済むという問題ではない。こんな呼び方をするくらいなら、考古学を援用した方がまだ安全なのだ。また、その後は、飛鳥時代奈良時代、そして平安時代と続くが、これにも本当は問題がある。

 歴史学的年代観を確立するには、歴史の全体像にある程度の見通しが立たなくてはならない。そのためには、この一年ほどの間にここで考えてきたことは、まだまだ不十分ではあるが、一応古代初期から古代的統一に至るまでを通して述べることができたので、このあたりで現時点での認識をまとめておきたい。

 古い方から順番に検討してみよう。


 考古学の時代区分における弥生時代は、紀元前300年乃至500年頃を上限とし、紀元3世紀後半頃を下限とする。九州が先行し、徐々に東へ広がった。本来は弥生式土器によってそれ以前の紋様繁多な土器の時代と区別した。弥生文化は、呉越地方を源流とする文化の刺戟によって成立したとみられ、水稲耕作を含む本格的な農業、金属器使用の開始、環濠を持った集落を特徴とする。金属器は青銅と鉄がほぼ同時に移入されたが、どういうわけか鉄は加工はできても採取する技術が遅れ、原料を輸入に頼ったため必ずしも自由に用いられない時期が長かったらしい。

 この時期の歴史は、《漢書》《三国志》《後漢書》によって垣間見ることができる。また、《日本書紀》《古事記》には、高天原の物語、天孫降臨、神武東遷といった形で象徴的に伝えられている。

 この時期は、歴史学的一般名詞的呼称としては、都市国家時代に当たる。弥生時代の全期間がそうであるかは別として、少なくともその後半は都市国家的段階に達している。環濠集落は古代都市の遺跡である。ただしこの古代都市は、自然環境や技術程度の制約から、さほど強固な施設を作ることがなく、世界の類例と比較してあまり発達しなかった。しかし都市国家としての性質を持っており、国家間の戦争や連合の形成、植民市の建設など、世界の他の都市国家時代と基本的に異ならない現象があったことは、史書の記述から確かに窺うことができる。固有的呼称としては、末期の一部地域に限っては邪馬台国時代という言い方ができる。

 考古学の古墳時代は、いわゆる古墳の造営が特徴をなす時期であり、4世紀から6世紀までの300年間を含む。環濠集落が解消され、一部の屋敷だけが堀で囲まれるようになり、後期には住居に作り付けの竈が普及するなど、社会構造や生活文化に大きな変化があったことが知られる。

 この時期は領土国家時代であり、《日本書紀》《古事記》の主な内容はこの段階に属する。奈良平野における領土国家の成立は、崇神天皇の事績として象徴されている。日本古代の領土国家時代は、中国のそれと比べて、大きな戦争が少なかった。戦争はあるにはあったが、ある地域に限っても社会全体が巻き込まれるほどのことにはならなかった。記紀の叙述の上でも、せいぜい有力者の居館を包囲して火をかければそれで終わりという程度である。おそらく諸国間で最有力の王者が秩序を調整するものとして尊重され、対立を表立って先鋭化させることは避ける傾向が強かったと思われる。

 各地域で農業的領土国家的なまとまりが形成される間、海洋的勢力は先行して広域化を進めた。海洋的勢力の代表として登場するのが葛城氏である。5世紀初頭、倭王家は葛城氏と結びつくことで列島周辺の水路と水運拠点を押さえ、諸国への影響力を強め、外交代表権を確立した。また葛城氏との関係で韓国南岸の権益に関与するようになり、百済新羅との接触も多くなる。中国古代文明の正統を受け継ぐ南朝宋には朝貢をして冊封を求め、そのことは《宋書》に記録された。

 6世紀に入ると、葛城氏の勢力は倭王家に吸収されるが、ある面でその役割を継承するものとして、やがて蘇我氏が頭角を現してくる。この頃には大型古墳はようやく陳腐化し、それに代わるものとして仏教の移入が模索されるようになる。仏教文化はすでに中世に達した中国の社会を経たものであり、これの輸入は日本の古代社会に中世的な洗練された文物を移植することでもあった。

 6世紀末からの100年前後を一般に飛鳥時代と呼び、奈良平野南部の飛鳥に王宮の置かれることが多かったというのがその理由だが、これにも問題がある。というのは、推古天皇皇極天皇の小治田宮が飛鳥に在ったというのは根拠が薄く、伝承のあるという桜井市大福が本当だとすれば、かなり長い間、宮地は飛鳥を離れていたことになる、というだけではない。政治的中心地によって時代を区切ることについてである。

 遷都が歴史的画期と重なることはありうるが、それがないことが画期のないことを保証はしない。たとえば中国では後漢曹魏西晋が続けて洛陽に都したが、洛陽時代という言い方を普通はしない。後漢は古代末期、魏晋は中世初期であり、そこに歴史的画期が認められる。首都の所在のような形式によった命名があるだけでは、歴史を理解する助けにはならない。

 7世紀はおおむね領土国家時代から古代帝国時代への過渡期である。この時期がわりあい緩やかな統合の過程であることを理解した上で、敢えて両時代の区切りを必要とするならば、私はそれを壬申の乱に求めたい。量子力学多世界解釈に従って、歴史には“もし”があると考えてみよう。我々の認識できる歴史から他の可能性を追い出して、我々の知ったように日本の古代後期を決定したのは、やはり天武天皇の新体制であったと思う。

 古代帝国時代の初期である、天武天皇から光仁天皇までの期間を、“プトレマイオス朝エジプト”や“リューリク朝ロシア”など、王朝の始祖の名によってそれを呼ぶ例に倣って、私は“天武朝日本”と言いたい。もっとも、天皇諡号によって何々朝と呼ぶのは、その天皇一代を指すのが従来の慣例である。しかし、日本史だけの用語を作るのは、特に必要がない限りは避けるべきだ。世界史の例と共通の性質を持つ事には、世界史と共通の言い方を用いることができなければならない。

 光仁天皇は、天武の血を引かない男子としては、天武朝日本で初めて天皇になった。光仁天智天皇の孫で、聖武天皇の皇女井上内親王との間に他戸親王が生まれていた。朝廷の路線としては、他戸親王に皇統を伝えるための、中継ぎ天皇のはずだった。しかし光仁は、この皇后と皇太子を暗殺し、別の女性に生ませた息子を皇太子に立てたが、これが後の桓武天皇である。天武朝日本はおよそ百年にして絶えた。桓武天皇以後、鎌倉幕府以前を、私は“桓武朝日本”と呼びたい。


 天武朝日本の時代、中国はすでに中世の末期にさしかかっている。日本の支配者層は中国の爛熟した中世的文化を大いに輸入し、社会全体はまだ濃厚に古代的性質を保っているのに、貴族階級だけが頭デッカチに中世化をしはじめた。やがて古代的統一が破綻し、武家が台頭してようやく社会全体が中世的段階に達するが、その時には中国はもう近世に入っている。日本の中世は始めから近世的文化の刺戟を受けた。移行期がダラダラと長く続くのも日本史の特徴である。さらに日本史の近世と言われる江戸時代も、内実は中世的割拠社会の特徴を色濃く残した中世的近世だった。

 しかし江戸時代の約260年間は、決して停滞した社会ではなかった。世界で最も成功した封建制度の中に、近世的統一をもっと進めようとする傾向は伏流していた。太平の眠りと言うほどには日本人は眠ってはいなかった。明治維新は外圧をテコとしたが、内的発展によったところも無視できない。すると明治維新によって成立したこの日本という統一国家は、歴史上でどういう段階にあるものなのだろうか。

 眼を西に転じると、中国はどうやら文明の古さから来る弊害が溜まり、社会が停頓しがちになって、近世という段階を長く続け過ぎたらしい。宋初から清末に至るまで約950年である。辛亥革命共産党体制が、中国の社会を新しい段階に引き揚げたのか、それともまだ長い長い近世を続けているのか、私にはよく分からない。

 人間というものはともすると、自分の時代は非常に進んでいて、その前とは隔絶された段階にあると思いやすい。そんな意識には歴史的な意味はないのである。将来の歴史家は、江戸時代を近世前期とし、明治維新以後の“東京時代”を近世後期とするのかもしれない。我々はまだそんな総括ができる段階には達していないのだが、少しはその準備をしておくべき時期には来ているのではないだろうか。


 最後は少し古代史から逸脱したが、歴史とは続いているもの、終わりのないもの、勢い現代に及ばざるを得ないこともある。