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日本版・古代帝国への道(前編)

 《隋書・東夷列伝》の中には、隋の大業三年(608)、裴世清が倭国へ派遣された際の報告に基づくと思われる記事がある。それによると、竹斯国から東は十余国を経て海岸に達した、という。海岸とは、倭国の海岸ということで、《日本書紀》を参照すると、推古天皇の十六年六月に、裴世清らが難波津に泊まった、という記事がこれに対応する。すると難波まで来て初めて倭国に着いたということで、それ以西は何なのかというと、「竹斯国より東は、みな倭に附庸する」とある。

 附庸とは、《孟子・万章下》に、

天子之制,地方千里,公侯皆方百里,伯七十里,子、男五十里,凡四等。不能五十里,不達於天子,附於諸侯,曰附庸。

天子の制、地は方千里、公・侯は皆方百里、伯は七十里、子・男は五十里、凡て四等。五十里にりなくば、天子に達せず、諸侯に附き、附庸と曰う。

 とあるように、小国の君主は天子に直に挨拶することができず、諸侯に交渉を負託し、その国は附庸と呼ばれる。

 《隋書・東夷列伝》には附庸の用例が他にもある。百済国の南海には𨈭牟羅国があり、百済に附庸する、という。𨈭牟羅は《日本書紀》では耽羅たむらと表記し、百済義慈王が唐に降服した翌年、斉明天皇の七年(661)五月、

丁巳。耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。

丁巳(二十三日)、耽羅が始めて王子阿波伎らを遣わして貢献した。

 とあるのをはじめ、天智・天武・持統の各代に数度来訪のことが見える。《三国史記》などを参考にすると、耽羅国は五世紀末頃から附庸として百済国の勢力圏に入り、百済滅亡後は暫時国王を立てて独自に外交し、日本としてもこれを取り込もうとした。後には新羅に付き、その崩壊後にはまた暫時自立した。また後には高麗に属し、十二世紀に耽羅郡が置かれ、次いで済州と改められた。今の済州島である。

 附庸とはこういう国のことであり、裴世清が来訪した時には、まだこうした国々が列島の各地にあり、推古天皇を盟主として連合していた。この時期は考古学的には古墳終末期にさしかかっている。この三百年ほど続いた大型古墳の時代は終わりつつあった。そして古墳の斜陽と反比例するように仏教がその存在感を増してきた。

 仏教は、すでに千年以上の歴史を持ち、高い普遍性と国際性、それに体系的に整理された信仰の世界を確立していた。しかもそれは建築や彫刻・絵画などを伴っており、高度な精神文化であるとともに発達した物質文化として人々を驚かした。

 かつて卑弥呼親魏倭王に封じられた時に、仏教は中国にはかなり入っていた。だから日本列島へももっと早くに渡ってくる機会がなかったのではない。しかしゴロゴロした豆のままの大豆にニガリをかけても何にもならない。大豆が豆腐になるには然るべく準備をした後でこそニガリが効く。倭人諸国はゆるやかながら統合していく傾向にあり、そこに仏教が迎えられた。

 仏教の影響は、各地の土着的な神々の整理を促し、それは現実的には政治的統合と表裏一体となって、倭人社会の結合を早め、やがて古代帝国としての日本をここに出現させるはずである。だがそのためにはまだ実際的な問題を解決していかなければならない。

 仏運興隆を導いた推古天皇の治世は約三十六年、舒明天皇が後を継ぎ、その政策も先帝の方針を踏襲したらしく見える。舒明天皇の治世は概ね平穏無事、十三年で崩じ、皇極天皇が立った。推古帝よりこの頃まで、王権は天皇家蘇我大臣家のいわば連立与党が担ってきた。蘇我大臣家は王権の拡張に大いに寄与したが、その権勢の強さからともすると主従が逆転するおそれがあった。

 おりしも皇極即位の前後、このところ小康を得ていた国際情勢がにわかに緊張してきた。舒明天皇の末年(641)は、唐の太宗の貞観十五年、百済義慈王の元年である。義慈王は性格勇胆にして孝子の評判あり、即位すると王権の強化に努め、二年には自ら兵を率いて新羅に侵入した。この年、高句麗では泉蓋蘇文が栄留王を弑殺し、宝蔵王を立てて実権を握った。義慈王は、その三年、高句麗と結んで新羅を攻めることを企図し、新羅善徳王は唐に助けを求めた。唐の太宗は、自身が高句麗王と認めた栄留王がその臣下に殺されたことをこころよく思わず、遠征の準備にかかった。

 貞観十九年(645)、太宗は親征の軍を率いて遼河を越え、高句麗と会戦した。この間、倭国では大臣蘇我入鹿が権力の集中を進めていた。もし他に英傑がなければ、天皇制は成立せず、日本的王権は別の形で確立されたかもしれない。この歳は皇極天皇の四年である。蘇我入鹿は、偽りによって天皇の御前に呼び出され、これを斬殺したのは、中大兄皇子、後の天智天皇であり、この謀略には中臣鎌足が深く関与していた。

 その翌日には入鹿の父蝦夷も殺され、蘇我大臣家は一朝にして滅びた。蘇我氏に擁立されようとしていた古人大兄皇子は出家して吉野に退き、皇極天皇は退位して、軽皇子が立ったが、これが孝徳天皇である。半世紀近く王権の半分を担ってきた蘇我大臣家が消えたことで、この度の王位継承は群臣から推戴されるという形をとらず、全く天皇家の意志によって行われた。

 孝徳天皇のもとで中大兄皇子は皇太子となり、腹心の鎌足とともに改革者として活動し始める。この代には“改新の詔”をはじめ様々な法令が発布されるが、こうした動きには中臣鎌足とその智謀に導かれた若い中大兄皇子が主導権をつかみつつあった。ここに日本統一への方向性が明らかに示され、それをいかに実現していくかが焦眉の課題となってきた。以下、次回に続く。