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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

日本版・古代帝国への道(中編)

 (承前)

kodakana.hatenablog.jp

 改革を進めていくことは、常に現状との妥協による。

 皇極天皇はその治世の四年(645)六月、孝徳天皇に譲位し、その年は元号が立てられて大化元年と称した。孝徳天皇は、敏達天皇の曾孫、皇極天皇の同母弟で、仏法を尊び性格は柔仁で儒学を好んだという。舒明と皇極の間に産まれた間人皇女はしひとのひめみこを皇后、中大兄皇子なかのおほえのみこを皇太子とし、王権の中枢は親族で固められた。皇極上皇もなお皇祖母尊すめみおやのみことと号されてこれを後見している。大臣の座は左右に分けられ、左大臣阿部内麻呂あへのうちまろ、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろ、加えて中臣鎌足内臣うちつおみという異例の地位に任じられ、百官の上に立って進退廃置の計画を実行したといわれる。

 はじめ、皇極天皇中大兄皇子に譲位しようとしたが、皇子は鎌足の意見によって辞退した。中大兄皇子舒明天皇崩御した時に十六だったとあるから、この年はまだ二十歳である。いかに有望であったとしても経験不足の王者が許される情勢ではなかったと言えるかもしれない。

 蘇我大臣家を排除したこの新体制の大目標は、要するに附庸諸国の土地と人民を統一政府の領有するものとして戸籍・計帳に収め、これによって王権を強化し、国際政治上の地位を高めることにあった。各地の指導者にとっては伝統的な支配権を最終的に手放すことになる。

 統一のための思想的根拠としては、天皇が即位に際して上皇・皇太子・群臣を集えて盟誓した言葉、

天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄、君臣失序。

天は覆い地は載せる(天は君、地は臣の比喩)。帝道は唯一なり。而るを末代は澆薄にして(倫理が衰えること)、君臣は序を失う。

 また大化二年の皇太子上表、

昔在天皇等世、混齊天下而治。及逮于今、分離失業。

昔在むかし天皇等の世々は、天下を混斉にして治めました。今に及逮およんでは、分離して業を失っております。

 これらに見られるように、“太古には天下は一つだったが、次第に分かれてきた”ということ、そしてそれが再び統一されなければならないということが主張された。実際にはそんな時代はなく、「分離」した状態こそ本来の姿なので、今日から見ればあまり筋の良い主張とは言えないが、社会の発達とともに歴史という観念が成長してくる一つの段階を示すものとしては注目に値する。これには秦韓古代帝国の統一時代から魏晋南北朝の割拠時代を経て再び隋唐の統一に至った中国の動きも影響しているかもしれない。

 国々の掌握を実際的にはどうするかということになると、その要は、後に天武天皇が言ったように、まさに軍事にあった。といっても戦争をして反対者をどんどん討ち滅ぼしていくのではない。それは、大化元年八月の詔の一つに、

又於閑曠之所、起造兵庫、收聚國郡刀甲弓矢。

又、閑曠の所には、兵庫を起造し、国郡の刀甲弓矢を収集せよ。

 大化元年九月、

使者於諸國治兵。

使者を遣わして諸国には兵を治めさせる。

 大化二年正月、

使者、詔郡國修營兵庫。

使者を遣わし、郡国に詔して兵庫を修営させる。

 などとあるように、諸国の保有した兵器・兵権を供出させることだった。これを正当化するには対外戦争があろうということを理由にするほかはない。近畿より西では長く国際情勢に対応する必要があったことからすでに障害はかなり除かれていた。他方、東国をまとめるためには新たに東北地方へ向かっての戦争が想定された。これは大化・白雉の約十年間を経て一応は成功したように見える。しかし統一体制の法制度はまだまだ未熟であり、結束を保つには現に戦争をやって見せなければ済まないというところまで勢いは進んでしまったらしい。

 孝徳天皇は白雉五年(654)十月に崩御し、翌年正月に皇極上皇重祚した。これが斉明天皇である。この年は唐の高宗の永徽六年、新羅では前年に真徳王が薨去して武烈王に代わっている。百済義慈王の十五年、高句麗は宝蔵王の十四年に当たる。武烈王は、高句麗百済が兵を連ねて新羅に侵入し、その三十城あまりを攻め陥としたとして、唐に救援を請うた。高宗は蘇定方らを遣わして高句麗を撃ったが勝てなかった。

 高宗の顕慶四年(659)、武烈王は百済が頻りに国境を侵すとしてまた唐に出兵を請うた。高宗は翌五年、再び蘇定方を将軍として遣わし、海を越えて新羅軍とともに百済を挟撃した。この作戦は大いに成功して、王都泗沘城は唐軍の為に占領される所となり、義慈王や太子の隆も今は俘囚となって長安へ送られた。

 こうして王を失ったとはいえ、百済軍は依然として抗戦をやめなかった。百済の重臣鬼室福信きしつふくしんの希望は、このとき斉明天皇のもとにいたもう一人の王子豊である。福信は使者を送って、王子豊を迎えて百済王に推戴したいこと、そして援軍を派遣してくれるようにと斉明天皇に請うてきた。この要請が着いたのは斉明天皇の六年十月、季節は冬に入っており、海路を考えれば派兵は早くとも春を待たなくてはならない。しかしどうしたことか翌年夏になってもまだ実行できず、そうこうするうちに斉明天皇は秋の口に崩御した。

 そのまた翌年(662)を《日本書紀天智天皇紀》は天智天皇の元年として数えるが、実際の即位はその七年まで遅れる。中大兄皇子は齢すでに三十代後半にさしかかっている。有力な王位継承の競争者だった古人大兄皇子は大化元年に、有間皇子斉明天皇の四年に、ともに謀反の疑いをかけて殺している。中大兄皇子は今や改革者として誰かまうことなく手腕を振るうべきであった。だがそこに時の勢いというものは容赦なく圧力をかけてくる。

 百済との間には長年にわたる関係があったとはいえ、唐と事を構える危険を冒してまで望みの薄い戦争に乗り出すほどの目的があったろうか。蝦夷との戦争も斉明天皇の代に数度実行されたが、これとてもとより火種があったのではない。対外戦争があろうことを理由にして諸国の兵器・兵権を収奪した以上、やらなくてはならない所に追い込まれたのである。統一のための内戦を回避した代償であったとも言えるかもしれない。

 ともかくも海を渡った救援軍はしばし韓国を転戦する。そして天智天皇の二年、高宗の竜朔二年、白村江で唐軍の迎撃に遭って決定的な敗北を喫し、結局多数の亡命者を連れて帰っただけに終わった。この間の事情はよく知られているからここで詳しくは述べない。

 翌三年二月、天智天皇は弟大海人皇子おほしあまのみこに命じて、冠位の改制、及び「氏上・民部・家部等の事」を宣告させた。この後者についてはいろいろ意見があるが、つまりこれまで撤廃を宣布してきた旧附庸諸国支配層の権利を部分的にでも回復させたものだとすれば、敗戦を受けての動揺を抑えるために改革の後退を強いられたことになる。

 この後も新羅の統一への戦争は続く。天智天皇の治世十年間は、何らかの新しい法典が定められたらしく、広く諸国にわたる戸籍の作成に初めて成功したことは、確かに特筆に値する。しかし、海外の戦争への対応と、近く予期された防衛戦の備えのために、多くの労力が費やされ、大化以来の改革の方向を思うほど伸ばすことができなかった。

 そもそも百済のことは、まだ勝算の立てようもある早いうちに介入しなかったのだから、もう出兵のできる場合ではなかった。外征というのは守りを固めてもなお余りがあればできるというもので、負けてきたからあわてて城を築くというのは順序があべこべでもある。元来が聡明な天智天皇のこと、そうならざるを得なかったことに苦しんだのだろう。八年には腹心の鎌足を失い、十年の秋に病の床に臥せ、十二月、不安な情勢の中で世を去り、時に四十六歳だった。

 改革を進めるには常に妥協が必要だが、妥協のしようによってその行く末は全く下らないものになってしまうこともある。大海人皇子は、今ここがその岐路だと考えただろうか。それについては長くなるので次回に分ける。