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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

海東の護法天子――推古天皇(中編)

承前

 推古天皇の八年以降、新羅と戦争のあることが予期され、来目皇子くめのみこが征新羅将軍に任じられたが、筑紫で備えをする間に病を得て、十一年春二月に薨去した。その秋、当摩皇子たぎまのみこが後任として難波から船出したが、播磨で妻舎人姫王とねりのひめのおほきみが急死したので引き返し、そのまま出兵のことは沙汰止みとなった。このあたりにきても《日本書紀》の紀年は厳密に信じられるかどうか疑いがなくもないが、要するに開皇二十年(600)の遣隋使の背景には新羅との対立があり、出兵をやめたことも隋との交渉が不調に終わったことが原因であるかもしれない。

 翌る十二年正月、前年の暮れに制定された十二階の官位が施行された。これは内政よりもむしろ外政面で交渉に当たる官人の地位を外国のそれと比較可能にする目的であったらしい。この冠位十二階の制度は大化の改制まで続くが、これによって叙階されたのは近畿地方かその近辺を本貫とする者に限られるようである。この年の四月には聖徳太子憲法十七条を作る。その内容は、儒教に基づく所があるが、第二条で三宝尊重を定めるなど、仏教の思想も多分に含まれている。十三年四月、推古天皇は、「皇太子・大臣及諸王・諸臣」と共同の発願として、鞍作鳥くらつくりのとりに命じ、丈六の仏像を作らせる。十四年、潅仏会の日にその仏像を法興寺の金堂に納めた。この年には聖徳太子に仰せて宮殿で勝鬘経・法華経の講義もさせている。

 このように仏教を興す一方で、十五年には天地・山川の祭祀も怠るべからずという詔を発して、実際に拝礼を挙行してもいる。仏教とともに在来の信仰に配慮することは、隋の政策と軌を一にしている。こうしたことがこの時期に行われたのは、決して偶然ではなく、やはり外交との関係で理解しなければならない。推古天皇の十五年は、隋の煬帝の大業三年(607)に当たる。

 この年、《日本書紀》によると大礼小野臣妹子おののおみいもこが「大唐」に遣わされた。大唐とは“もろこし”“から”というふうの代名詞的用法であって、別に書紀の編者に隋と唐の区別ができなかったのではない。それは二十六年条には高句麗からの使節の発言を引く形で正しく「隋の煬帝」と書いているので判る。大礼は冠位十二階制の第五位で、中国の品階では正六品に相当するとみられる。これに対応する記事は《隋書》及び《北史》に載っている。

大業三年,其王多利思比孤遣朝貢,使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」國書曰:「日出處天子致書日沒處天子,無恙。」云云。帝覽不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」

大業三年、その王の多利思比孤たらしひこ朝貢おくり、使者の曰く「海西の菩薩天子が仏法を重ねて興したと聞いたので、朝拝に遣わされ、兼ねて沙門数十人には仏法を学びに来させました」、国書の曰く「日が出る処の天子が、日の没する処の天子に書を致す。恙無きや」云々と。帝はて悦ばず、鴻臚卿にかたって曰く「蛮夷の書で無礼なものが有っても、ふたたび聞かせるな」。

 ここでは煬帝に「海西の菩薩天子」と呼びかけ、「重興仏法」とは北周の廃仏の後で隋朝がそれを再び興したことを指している。皇帝の仏教護持を讃える言辞は、南北朝時代の諸国からの朝貢にともなう上表にままみられたものだが、ここではただそれを踏襲したわけではない。これはその国書において推古天皇を“天子”として煬帝と対等の地位に置くことの前提になっているのである。

 そもそも“天子”とは、地上において天帝を代理する唯一の者である。そして、天子は中国に在り、中国とは世界の中心であるということが、その権威を支えていた。自分たちの住む所を世界の中心であると考えるのは、いわゆる“未開”の社会にありがちなことで、普通は少し世界が開けてくると、その誤りを知ることになる。しかし中国は実際に東洋世界における文明の中心地であったので、かえってこの未開な観念を長く持ち続けた。これを中国中土説と呼ぶ。

 魏晋南北朝時代になると、天子を称するものが並立して地を分けた。遠方からの来朝も次第に繁くなり、世界はどうも東に狭く西に広いということが感じられてきた。そこへ仏教が浸透してくると、インドこそ世界の中心ではないかという、天竺中土説が持ち上がってくる。天竺中土説の立場では、中国も世界の一区画に過ぎず、天子といってもその一区画に君臨するのに過ぎない。天子が一区画の君主に過ぎないという考えをもし徹底して敷衍すれば、別の一区画を統べる天子がもう一人いてもかまわないという理屈が成り立つわけだ。

 煬帝は、古来の王権思想からすれば絶対であるべき天子の地位を、言葉の上に過ぎないとはいえ、揺さぶられたことについては当然不愉快だった。だが外交上焦眉の課題としては、文帝が開皇十八年に敢行して一度は失敗した、あの高句麗遠征がくすぶっている。それに備えて運河の開削も進めているが、かねて都城の造営や長城の修築で大勢の人民に苦役を強いたために、重ねての徴発で世上に恨みを買っていた。また、革命前には帝室楊氏と同格程度だった家柄の者たちも風下に立つことにまだ不平を抱いている。そこへ絶えて無かった倭王からの遣使があり、菩薩天子と呼んで称揚してくれたについて悪い気はしていない。遠方からの珍しい朝貢は天子としての徳が高いことの実証になる。

 そこで煬帝としては、国書の無礼のことはひとまずしまっておいて、倭王と悪くない関係を妥結するに越したことはない。翌大業四年、煬帝倭国の調査と修好のために、文林郎裴世清を派遣する。文林郎とは散官だから名目だけのもので、書紀の方に鴻臚寺掌客とあるのが職務を表している。一種の外交官である。裴世清訪倭のことは前にも述べたので重複も出るが、もう一度次回に考えてみたい。