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中臣連の輪郭

中臣連という氏族は有名なのでよく分かっているような気がする。後に隆盛を極める藤原氏につながることも、古くから名族であったかのような想像を誘う。しかし、その実は明らかでないことが多い。

日本書紀》によると、天岩屋隠れの所に出る天児屋根命が中臣連の遠祖であるとか、仲哀天皇の時に中臣烏賊津連という人物が現れるけれども、遠い祖先を加増することは広く世に行われているから余りアテにならない。地位が高くなるほど良い先祖も付いたものだ。

その後でどうにか実在の人物であるらしく出てくるのは、欽明天皇の世に鎌子、用明天皇の時に勝海という人があって、ともに物部氏とともに仏教導入に反対した。勝海は物部守屋大連が討たれようとする前に、旗色が悪いと見て陣営を離れ、彦人大兄(敏達帝皇子)に付こうとして殺される。中臣は日和見せねばならないような勢力であった。二人ともパッとしない感じで、後世の中臣氏系図からは抹消されている。

次に現れるのは弥気子という人で、推古天皇の禁中にあって取り次ぎ役をする。《尊卑分脈》を見ると弥気の父は方子、祖父は常磐で、この常磐の時に中臣連を賜り、それ以前は卜部を称していたことになっている。系図は弥気の代から急に具体的になる。それより数代前のことは余り確かではないようである。

弥気子の子が鎌子(前の鎌子の名を襲ったものか)で、後に鎌足と称し、中大兄皇子に重用されて、晩年に藤原姓を賜る。即ち藤原氏の高祖だが、この時はまだ氏族として大きい勢力を持っていたようではない。氏族の勢力を背負うのではなく、個人の才覚で名を顕すという、日本古代史では非常に稀有な例であったろう。

鎌足の伝記は《藤氏家伝》に収められているが、これは言わば藤原氏による”自家自賛”の書であり、空虚な賛辞の連続で、そういった美辞麗句を取り除いてしまうと、残るものが少なく、ナマの鎌足という人物を感じさせる所が少ない。ただ天智天皇の弔事には、切々なるものがあり、両人の密接な関係の実際を窺わせているかもしれない。

書紀の記述は家伝ほどでないとはいえ、やはり鎌足のために、いや不比等のためと言うべきか、その人物を立派めかそうとして事実を歪めたという臭いは拭えない。有名な蹴鞠のくだりはどうも話が出来すぎのようだし、乙巳の変(入鹿の殺害)の場面も精彩があるようで演劇的になりすぎている。このような虚飾を注意深く取り除くことができれば、現実的な泥臭い政争が復元されるのだろう。

参考文献

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

日本書紀〈1〉 (岩波文庫)

 
日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

日本書紀〈3〉 (岩波文庫)

 
日本書紀〈4〉 (岩波文庫)

日本書紀〈4〉 (岩波文庫)