古代史を語る

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「病を称する」ということ

 病を称する、というのは昔から政治家が何か事情があって引っ込む際の理由付けとして、史書などによく書かれてある。

 喩えばあなたは五十代の会社員であるとする。誰でもそのくらいの年齢になれば持病らしいことの一つや二つは多少なりともある。あなたもかかる責任から胃痛がちである。胃痛なのはいつもなのだが、今やや疲れがあるので休みたい。ただ少し疲れていますでは言いにくい感じがある。そこで「胃痛がちょっと悪化しているので」と言う。これは見ようによっては嘘を吐いたようでもありながら、全くの嘘だとも言えない。言われた側は「病気なら仕方ない」と思うしかない。

 このように病気というのは休んだりする理由として説得力があるので、古くから政治的に利用されて「病を称する」という常套句がある。

 《史記》から例を拾ってみると、

子嬰與其子二人謀曰:「(中略)…我稱病不行,丞相必自來,來則殺之。」

 秦の公子嬰が丞相趙高を殺そうと謀る所、「我病を称して行かざれば、丞相必ずや自ら来、来れば殺さん」。

五月,莒子朝齊,齊以甲戌饗之。崔杼稱病不視事。

 莒国の主君が斉国を訪問し、斉国はこれを饗応したが、「崔杼病を称して事を視ず」。崔杼は見舞いに来た荘公を罠にかけて殺す。

范蠡遂去,自齊遺大夫種書曰:「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。(中略)…子何不去?」種見書,稱病不朝。

 范蠡は越国の大夫種に「狡兔死して走狗烹らる」という有名な信書を送る。「種は書を見、病を称して朝せず」。朝〔動詞〕は王に仕えること。種は反乱を企てているから出ないのだと讒言する者が有り、越王はこれを信じて種を自殺に追い込む。

 ここに見られるように、「病を称する」のは本当の理由を言えない場合、少なくとも隠していると疑われるときに多い。こういう場合に、出来の悪い歴史家でなければ政治家の自己申告を真に受けたりしないので、「病を称する」つまり、「病気だから出られなかった」のではなく、「病気だと言って出なかった」という感じで書いておく。こうしておけば病気が本当の理由であってもなくても嘘にならない。こんな風に微妙な言い方で事実を表す伝統が東洋にはある。

 伝統と言えば「病を称する」という行為そのものも一つの伝統となっていて、日本の明治以降の政治家は東洋的な政治の伝統を軽んじるわりに、こんなことだけはよく連綿と受け継いで今日に至っているわけで、私も自己申告を鵜呑みにするほどウブじゃないのでこんなことを走り書きしてしまったわけだ。