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天武天皇評伝(三) 入鹿と鎌足

 舒明王はその治世の十三年十月に崩御し、王后の宝王女が翌年正月に即位した。これが皇極王である。蘇我蝦夷が大臣に留任するが、その子の入鹿いるかの活動がこの頃から目立ち始めた。日本書紀には「自ら国政を執り、威は父に勝る」と記されている。一方、中臣鎌足なかとみのかまたりもまたこの頃から名を顕し始める。当時、寺院では仏典のみならず漢籍の講義も行われたらしく、藤氏家伝には「かつて群公子、みなみん法師の堂に集まり、周易を読む」云々とある。推古王の仏教興隆以来、学問の水準も上がり、入鹿や鎌足はこうした場で見識を高め、将来の王権を構想するようになったのだろう。

 時あたかも舒明王崩御の年、百済では義慈王が即位し、従来の貴族政治に対して改革を行い、王権の強化に着手した。義慈王は先年より質として倭国に駐在する豊璋の父である。皇極王の元年には、高句麗の権臣いり蓋蘇文かすみが、栄留王と貴族ら百余人を殺し、宝蔵王を立てて摂政となり実権を握った。権力の集中に成功した両国は、ともに兵を興して新羅を攻撃した。これらの事件はさほど間を置かず倭国へも伝えられた。入鹿や鎌足は背を押される思いだったに違いない。

 中臣氏は、この頃まで歴史上に確かな姿を現さない。むらじ姓だということになっているから、必ずしも家格が低いというわけではなさそうにも思えるが、勢力を持ったという一族ではない。もし鎌足が政界に重きをなそうとすれば、地位の高い人に取り入る必要がある。幸いなことに、鎌足は何かのきっかけで軽王子かるのみこの知遇を得て、恩顧を受ける関係を結んだ。軽王子は皇極王の同腹の弟である。そのつてで高位の人々の交わりに関わるようになって、いつか中大兄王子を知り、この人こそ非常の大器と見定めたのだという。鎌足は個人の才覚によって出世をするという新しい型の貴族であり、そのためより官僚的な政治指向を持っていた。

 蘇我氏は、5世紀代に倭王家と連合して権勢を振るった葛城かづらき氏の配下から出たものらしい。6世紀に入り、宣化王の時、蘇我稲目が大臣となり、次の欽明王には側室を入れて王家の姻戚となった。子の馬子が大臣の座を継ぎ、敏達王の時、蘇我の血を引く額田部王女が王の正妃となる。用明・崇峻・推古の三代は蘇我の女性から産まれた王であり、馬子は王家の外戚として重んじられた。蝦夷の代にはすでに古い大貴族となっており、この勢望を背景として、入鹿は生まれながらにして一定の地位を保証されている。

 推古王の時、馬子はおそらく王族に準じる礼遇を受けていたと思われる。馬子はまだ地位を獲得する苦労を知っていたに違いないが、蝦夷や入鹿にとってこの富貴はもう当然あるべきものになってしまっている。王族なみの贅沢はなかなかやめられないし、またそれだけの奢侈をして見せなければ大勢力の指導者として示しがつかない。蝦夷が入鹿に大臣の位を象徴する紫冠を独断で与えたとか、聖徳太子家に与えられた下僕を集めて蘇我家墓所に使役したとかのことは、日本書紀にはさも問題であるらしく書かれているが、当時としてはむしろ大臣の権利として認められていたことだろう。ただ墓所のことは聖徳太子家の人々には気に入らず、これによって遺恨ができたのだという。

 そして皇極王の二年、日本書紀は「蘇我臣入鹿、独り謀り上宮かみつみやみこ等をてて古人大兄ふるひとのおほえを立てて天皇とせんとする。‥‥上宮の王等の威名が天下に振るうことを深く忌み独り僣立を謀る」ということを言い出してくる。「上宮の王等」というのは、聖徳太子の子たち、特に山背大兄のことで、古人大兄は舒明王法提郎媛ほほてのいらつめの子、法提郎媛は入鹿のおばに当たる。

 それから入鹿による山背大兄殺害事件となるのだが、書紀の説明は少しおかしい。たしかに古人大兄を王として立てれば、入鹿は高句麗における泉蓋蘇文のような立場で権力を掌握できるかもしれない。しかしそれなら山背大兄は同じ蘇我に連なるものとして味方にこそしておくべきだし、殺したところで古人大兄に王位継承の優先権は回ってこない。なぜなら舒明王と皇極王の間に生まれた三人の子がいるからで、皇極王の即位によってこの純血の王子への王位継承はもう動かすまじき既定路線となっているのだ。

 入鹿が山背大兄を殺したのは、むしろその既定路線を確実にするためだっただろう。舒明王と王位を争って敗れた山背大兄が、もしまだそのことに未練を持っているとすると、誰かに担ぎ出されて反乱を起こさないとも限らない。後顧の憂いはあらかじめ断っておくに越したことはないのだ。こんな残虐は古代にはしばしばあることで、入鹿が特に悪辣だったということはない。山背大兄殺害事件はおおむね次のように描かれている。

  1. 蘇我入鹿は、巨勢徳太こせのとこだらを派遣して斑鳩宮に山背大兄らを襲わせる。徳太は宮に火を放つが、山背大兄は馬の骨を身代わりに置き、胆駒山に逃げかくれる。徳太らは灰の中に骨を見つけ、山背大兄は死んだと報告する。

  2. 山背大兄らは四五日間山中に留まる。従者が東国に脱けて兵を起こせば必ず勝てると進言するが、山背大兄は人民を患わせるに忍びないとして、山を下りて法隆寺に入る。

  3. 入鹿らは法隆寺を包囲する。山背大兄は従者を遣わして「私は戦えば必ず勝てるのだが、百姓を兵役に使うことを望まない。それでこの身をくれてやるのだ」と入鹿に伝え、家族とともに自殺する。この時「五色の幡蓋、種種の伎楽、空に照灼し寺に臨垂す」という奇跡が起きたが、入鹿が振り返って見た時には黒い雲に変わっていた。

 この書紀の記述はどうも線香くさくてそのままには信じられない。第一なぜこの貴公子の家に都合よく馬の骨などあって咄嗟に取って身代わりになどできたのか。おそらく真実はこの最初の焼き打ちで山背大兄は死んでいる。後の話は法隆寺の僧侶あたりが噂話などをもとにして仏教説話らしくまとめたものだろう。とすればこれは、父聖徳太子の余沢で仏教と関係の深かった山背大兄を殺したことで、入鹿が僧侶らから減点を受けるという結果を招いたことを意味する。

 翌年正月、「中臣鎌子なかとみのかまこのむらじ神祇伯す」ということで、日本書紀はここに初めて鎌足の名を出す。鎌足にとって入鹿の行為は泉蓋蘇文に重なって見えたのだろう。鎌足の理想は専制君主に官僚・貴族が仕える体制にある。それは蝦夷や入鹿にとっても大同小異だったが、蘇我大臣家が第一与党としての地位を捨てるほどのことは考えていない。それに自身にそのつもりがなかったとしても、蘇我氏という大族を率いている以上、ことの勢いがどう転ぶかは分からない。鎌足にとっては蘇我氏が勢門として健在である限り、大臣に匹敵する地位を得て思うままに政治を改革することもできない。

 皇極王にとっても蘇我氏は危険な存在と映るようになっていたかもしれない。舒明王蘇我氏から側室を迎えるという関係を持っていたが、それは皇極王には関係がないと言えばないとも言える。中大兄や大海人への王位継承にとって山背大兄が後顧の憂いになるなら、それは蘇我大臣家についてもそうだと思えばそうだとも思えることだ。ここに鎌足神祇伯に指名されたことは、軽王子と中大兄の推薦によったはずだが、これは王家と鎌足が反蘇我大臣家で一致したことを示すようである。

 鎌足にとって入鹿が僧侶らに嫌われたらしいというのは事をやりやすくした。もともとは蘇我氏こそ仏教の移入に努力してきたのだが、山背大兄殺害事件で入鹿と僧侶らの間に溝ができたとすれば、王家と鎌足蘇我を討っても仏教を敵にしないで済む。とはいえ相手は大貴族であり、計画は慎重に進められた。この過程で鎌足蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろを味方に引き入れることにした。石川麻呂は入鹿のいとこだが仲が悪かった。中大兄は石川麻呂の息女を妃に納れて互いに姻族となって、その後に大臣父子を討つ計画を打ち明けたのだという。これは一人に利益を約束してその一族を分裂させる策である。

 ついに皇極王の四年、歳は乙巳、夏六月十二日、決行の時は来た。(続く)