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崇峻天皇暗殺事件

 崇峻天皇はその在位第五年(隋の文帝の開皇十二年、西暦592)の十一月三日、暗殺され、即日埋葬された。『日本書紀』によると時の大臣おおおみ蘇我馬子そがのうまこが、東漢直駒やまとのあやのあたいこまに手を下させたという。

殺害の動機と嫌疑

 『日本書紀』では、この年の十月、崇峻天皇が献上された猪を指して「いつかこの猪の首を切るように、わが嫌うところの人を斬りたい」と言ったという。また、その時に通常よりも兵仗を多く設けていた。これを馬子が伝え聞き、自分が憎まれていると思い、暗殺を謀ったということになっている。

 しかし蘇我馬子は、次の推古天皇の代にも大臣として長く務めており、暗殺について何らの罰も受けていない。このことから、暗殺には推古天皇が関与しており、記録の上ではそのことを故意に書き落とし、馬子が首謀者であるように造作された疑いがある。

崇峻天皇の死で誰が利益を受けたか

 蘇我馬子はその時に大臣であり、その後も大臣である。また、崇峻天皇を殺害しても自分が天皇になれる地位にはない。自分が崇峻天皇に殺されるのを避けるために先手を打ったというのが『日本書紀』の筋書きだが、こういう理由付けは行為を正当化するための常套手段でもあるので、本当かどうか分からない。

 推古天皇は、崇峻天皇の王座を相続した。当時の相続の慣習では、一般に公的な地位に就くのは男性であり、王位も男子の兄弟間で相続され、親世代の候補が尽きると次の世代に権利が移った。女子が王権を執るには、男子の兄弟が死んだ上で、次世代の候補が未熟であったりして継承者が定まらない必要があった。これより前に、大連おおむらじだった物部守屋もののべのもりやが擁立しようとした穴穂部皇子あなほべのみこ(崇峻の同母兄弟)も、推古と馬子によって殺されている。崇峻天皇がもういくらか長く生きていると、推古は王座に即く機会を失う可能性があった。

推古天皇崇峻天皇

 蘇我馬子から見ると、崇峻と推古はどちらも自分の姉妹の子に当たり、どちらが天皇であっても外戚としての立場は変わらない。崇峻天皇には、王者としての資格に欠けるところがあったのか。そう考えられる点の一つは後継者問題にある。

 江戸時代の大名も跡継ぎの確保に苦心したように、血筋で身分が決まる時代にはそれが大問題だった。古代日本では同じ天皇の子でも母親の身分によって差別があった。母親も皇族であれば一番、蘇我氏などの実力ある大貴族の女性であれば二番で、王位継承候補としてはそのどちらかが望ましかった。

 崇峻天皇は大伴氏の小手子こてこ妃との間に、蜂子はちのこ皇子と錦代にしきて皇女が生まれている。『日本書紀』に明記されている妃はこの一人だけである(『古事記』では一人の妃も載せていない)。古代の王者にとって、高貴な身分の女性と結婚することは、跡継ぎを作るために、また有力者との協力のためにも重要だった。それが十分にできていないことは、崇峻天皇の政治的な資質や意欲の不足を感じさせる。

 一方、推古天皇は、敏達天皇との間に五女二男を生んでいる。しかも、第一子の貝蛸かいだこ皇女は厩戸うまやど皇子(用明天皇と皇后穴穂部皇女の子)と、第三子の小墾田おはりだ皇女は彦人大兄ひこひとのおおえ皇子(敏達天皇と前の皇后広姫ひろひめの子)と、第六子の田眼ため皇女は田村たむら皇子(彦人大兄の子、後の舒明天皇)と結婚している。次世代の王位継承候補の保護者として、推古の権威は高いものがあったと思われる。

第二の殺人

 下手人の東漢直駒は、その十一月、蘇我馬子によって殺された。蘇我氏天皇の妃に入れていた河上娘かわかみのいらつめを、駒がぬすんだからということになっている。河上娘はどの天皇の妃か不明で、いきさつなどよく分からない。

 この事件について考える場合の複雑さは、歴史の勝者と敗者という関係が重層している点にある。この事件の際には勝者に見える蘇我大臣家も、半世紀後の政変で滅ぼされる。『日本書紀』が編纂される時には、古代天皇制が確立されている。勝者になれば人を殺した理由などは、後からいくらでも言いつくろえるが、敗者になると弁護する人もない。今日の捜査でも裏付けなしに自白を信用しないように、歴史上の事件も記録された動機にとらわれず考察する必要がある。