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天武天皇評伝(二十三) 日本王朝の成立

 『日本書紀』は、壬申の年を、天武天皇の元年として数える。天武天皇の即位は、二年二月二十七日である。天武天皇の二年は、唐の高宗の咸亨四年、新羅は文武王の十三年に当たる。

 天武天皇は正妃鸕野皇女うののひめみこを立てて皇后とした。鸕野皇女は天智天皇蘇我氏遠智娘をちのいらつめの子である。皇后は草壁皇子くさかべのみこを産んだ。

 また皇后の同腹の姉大田皇女おほたのひめみこを妃とし、大来皇女おほくのひめみこ大津皇子おほつのみこを産んだ。

 次の妃大江皇女おほえのひめみこは、天智天皇忍海造おしぬみのみやつこ色夫古娘しこぶこのいらつめの子で、長皇子ながのみこ弓削皇子ゆげのみこを産んだ。

 妃新田部皇女にひたべのひめみこは、天智天皇阿倍氏橘娘たちばなのいらつめの子で、人皇とねりのみこを産んだ。

 また夫人氷上娘ひかみのいらつめは、藤原鎌足の子で、但馬皇女たぢまのひめみこを産んだ。

 次の夫人五百重娘いほへのいらつめは、氷上娘の妹で、新田部皇子にひたべのみこを産んだ。

 夫人太蕤娘おほぬのいらつめは、蘇我赤兄の子で、穂積皇子ほづみのみこ紀皇女きのひめみこ田形皇女たかたのひめみこを産んだ。

 また額田王ぬかたのおほきみは、鏡王かがみのおほきみの子で、十市皇女とをちのひめみこを産んだ。

 胸形君徳善むなかたのきみとくぜんの子尼子娘あまこのいらつめは、高市皇子たけちのみこを産んだ。

 宍人臣大麻ししひとのおみおほまろの子榖媛娘かぢひめのいらつめは、忍壁皇子おさかべのみこ磯城皇子しきのみこ泊瀬部皇女はつせべのひめみこ託基皇女たきのひめみこを産んだ。

 ここ飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやに、天武天皇の新体制は発足した。天武天皇は最初に手を着ける事業として、三月、弘福寺に書生を集めて一切経の書写を始めさせる。続いて四月、大来皇女伊勢神宮に遣わすこととしてまず斎戒をさせる。伊勢の斎王の制はこれより常例となる。先年の挙兵に際して、天武天皇が天下を得るという兆しが天に現れたとか、天照大神を拝んだとかのことが、ここに活きてくる。つまりこの新体制の発足は、単なる政権交代ではなく、人知を超えたものに導かれた新しい王朝の誕生でなければならない。

 この意志は、海外に対しても明らかに示された。六月、新羅国からの使節が筑紫に到着する。使節は二団に分かれており、金承元こむじようごん金祗山こむぎせん霜雪しやうせちらは天武天皇の即位を祝う使い、金薩儒こむさちにゆう金池山こむぢせんらは天智天皇の喪を弔う使いとして来た。八月、金承元らは飛鳥に招かれ、金薩儒らは筑紫に留められる。このとき耽羅国の使者も筑紫に来ており、弔喪使を招かないことについて、筑紫太宰は天武天皇の意思を伝える。

天皇は、新たに天下を平定なさり、初の即位をされた。これにより、ただ賀使を除いて、その外は招かれないこと、汝らがその目で見たとおりだ」

 天武天皇は新王朝の初代君主であるから、滅ぼした所の旧体制に対する弔問は受け付けない、よってあなたがたも招かれない、というのである。

 ところで王朝には、秦・漢・隋・唐、のような名号が要る。それは王朝の交替によって改められうるものである。そこで“日本”を号として採用したのは、この頃のことだったと思われる。その意味は『旧唐書』東夷列伝に「其の国が日辺に在るを以て」とある通りだが、これは日本列島が世界全体の中で東に寄った位置にあるという認識を前提としている。日本人がこの段階でこのように自己の位置を相対化する観念を持ったことは、すでに数百年前から断続的ながら大陸との政治的関係を持ってきたことと、さらには仏教から読み取った世界観によってのことだろう。“日本”の確実とみてよい初出は、『旧唐書』武周の長安二年冬十月、「日本国が遣使して方物を貢した」というもので、このことは『続日本紀文武天皇慶雲元年秋七月の条、粟田朝臣真人が帰朝したという記事に併せて、次のように述べられている。

「初め唐に至る時、ある人が問うて曰く“どこの使いの者かね”、答えて曰く“日本国の使いなり”と」

 これはまだ、天武天皇即位より三十年ほど先のこと。

 こうして新体制が“革命”という形式をとって始められたことは、この王権の傘下に入る人々の身の上に、静かにしかし大きな変化を与えつつある。天武天皇に協力して壬申の乱を戦った貴族たちにしてみれば、それは既得権益を守るための戦いのつもりであったろう。今、それは一応安堵されたようでいながら、ただしそれは天皇によって“与えられた”ものに、いつのまにかすり替えられている。なぜなら全ては古い倭王朝の破綻とともに御破算となり、新しく日本王朝のもとに再編成されたのだから。天武天皇は、人々の保守的に傾く心理を利用しながら、実は最も重要な革新の種を確かに植え付けることに成功している。

 かつて大海人皇子が生まれた頃、この地にあった王権は、倭王家と蘇我大臣家の言わば並立政権だった。倭王家は貴族群の中の最も大なる貴族であり、倭王は貴族連合の盟主に過ぎなかった。今ここにある者は、昔日の倭国の王ではない。東の天下を統べる天子にして皇帝、かつ天皇である。

 こうして王権が拡張されることは、古代史的発展の結果として、世界の多くの地域に見られることであり、その意味では何も特別なことはない。しかしここには日本的な特徴も現れてきている。古代における王権の拡張は、古代的貴族層を没落させ、代わりに庶民の地位を向上させることがよくある。王者は庶民とより直接的に結び付き、人口の大多数に支えられて権力の集中を最大化させることができる。日本においては社会がまだそれを可能にするほど発達しておらず、古代的貴族層が変動を受けながらも王権を支え続ける。中国では漢の高祖劉邦もそうであるように、西漢の頃には低い身分からの成り上がり者が少なくない。東漢の代になると、家格が固定する傾向が次第に強くなり、改めて中世的貴族層が現れてくる。日本でも武家が中世的貴族層として新たに現れるが、古代的貴族層を継承する公家が並行して存続していくことになる。これはまだ先の話。(続く)