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南北朝時代の倭国(後編)

 (承前南朝宋の元嘉二十年(443)、倭王済は遣使奉献し、五年前に珍が受けた安東将軍・倭国王の爵号を引き継ぐことを認められた。これに続く動きは、二十八年、そして大明四・六年に記録されている。永初から大明まで、何らかの事情で遅れることや記録の漏れがありうることを考慮すると、倭王は四年に一度の朝貢を割り当てられていたようである。朝貢は毎年することが望ましいが、遠方であるばあいは年を隔ててもかまわないとされていた。この時期の動きを一覧にすると次のようである。

永初二年(421)
《宋書・夷蛮伝》
高祖永初二年,詔曰:「倭讚萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」
元嘉二年(425)
《宋書・夷蛮伝》
太祖元嘉二年,讚又遣司馬曹達奉表獻方物。
元嘉七年(430)
《宋書・文帝紀
(春正月)是月,倭國王遣使獻方物。
元嘉十五年(438)
《宋書・文帝紀
(夏四月)己巳,以倭國王珍為安東將軍。
《宋書・夷蛮伝》
讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。
元嘉二十年(443)
《宋書・文帝紀
是歲,河西國、高麗國、百濟國、倭國並遣使獻方物。
《宋書・夷蛮伝》
二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。
元嘉二十八年(451)
《宋書・夷蛮伝》
二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。
《宋書・文帝紀
秋七月甲辰,安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍。
大明四年(460)
《宋書・孝武帝紀》
(十二月)丁未,(…)倭國遣使獻方物。
大明六年(462)
《宋書・夷蛮伝》
濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」

 次に記録が現れるのは、《宋書・順帝紀》の昇明元年(477)である。この間の天子は前廃帝(464~465)・明帝(465~472)・後廃帝(472~477)で、貨幣制度が破綻しかけたり、政変が起きたりして、国事多難であり、朝貢を受け入れる余裕が少なかった。それにしても、高句麗百済が貢献の機会を得ているのに比べると、もし記録の漏れでないとすれば、この十五年の間に倭人の諸国に何らかの政治的事件があった可能性も想定される。

 宋の順帝は昇明元年(477)に即位した。これがこの王家の最後の皇帝で、この時にはのちの斉の高帝となる蕭道成が実権を握っている。この年、《宋書・順帝紀》の十一月に、倭国から遣使のあったことが久しぶりに記録された。この次の昇明二年のことは、この本紀と列伝の両方に見える。これは両度の朝貢があったわけではなく、元年十一月に使節が到着し翌年五月に徐授が行われたのだろう。

  • 《宋書・順帝紀
    五月戊午,倭國王武遣使獻方物,以武為安東大將軍。
  • 《宋書・夷蛮伝》
    興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。順帝昇明二年,遣使上表曰:「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道遙百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸假授,以勸忠節。」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王

 この上表文の中で、高句麗朝貢を妨げたこと、高句麗と争っていること、私的に開府儀同三司を称して任官を行ったことが報告されている。名分上のことだが、開府儀同三司になると幕府を設け属官を任命することが認められる。高句麗王には大明七年にこの資格が与えられ、「開府儀同三司・使持節・散騎常侍・督平・営二州諸軍事・車騎大将軍・高句驪王・楽浪公」とされている。

 倭の武が徐授された爵号は「使持節・都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」である。これはかつて済に与えられたものと変わりがない。私称した開府儀同三司は削られ、格としては高句麗王に並んでいない。高句麗北魏の境域に接していることから、安全のために南北両朝にまめまめしく朝貢する政策をとった。宋にとっては面白くないことだが、北魏を牽制するためには高句麗を重んじなければならなかった。

 それはさておき、倭王が珍のとき以来要求し続けた、韓の諸国を含む都督~諸軍事という号は何の意味を持つものだろうか。これには爵号を引き延ばして立派そうに見せるという意図が何割かは含まれているようである。それは秦韓・慕韓というこの時期には無意味とみられる地域名を含んでいることから推しはかれる。任那加羅などは領土国家への発展が遅れた小勢力で、新羅はこの頃はまだ国際的に顕著な活動はしておらず、いずれも宋朝とは公式の関係を持っていない。だから宋とすれば実態は関知する必要がなかったと言えば言えないこともない。

 それならこれは全くの虚号だったのかとなると、そうとは言えないような事情はあったようだ。状況としては、倭王が海外の利権を確保することで倭の諸国から抜きんでる地位を固めようとしたということは、ありそうに思われる。ただそれについては、宋書には判断の材料が不足しており、検討は別の機会に委ねなければならない。

 この時代、倭王は一貫して南朝にだけ貢献している。かつて四世紀、本来の中国である黄河流域が遊牧系勢力に征服される所となり、古代中国文明の正統を受け継ぐ多くの貴族・知識人は江南に亡命して、南北には文明の厚みに大きな差ができた。だから南北朝といっても、文明という点で、両者の価値は対等ではなかった。倭王が一度も北朝へ鞍替えせず、また倭の諸国から合意に反して北朝へ通好するものの出なかったことは、彼らの間に文明を基準とする価値観が理解されていたことを意味しているようである。

 付け加えると、南朝の王権が漢以来禅譲によって継承されてきたものであるのに対して、北朝には権力の由緒がなかった。北魏の帝室は黄帝の子孫を称していたが、もちろん事実ではなく、一種の政治的思想的宣言である。倭人の諸国が南北朝の王権の系統に違いがあることまで理解して関係を選択していたとすれば、それは日本的王権の確立に何らかの影響を与えただろう。

 倭王武を最後に、倭国のことは南朝の記録に見えなくなる。南朝の斉に代わった梁の時代は、表面的には華やかだったが、政治・経済の衰退は進んでいた。百済南朝最後の陳まで朝貢を続けた。倭人朝貢という外交上の大事業を断った。前後のつながりを考えると、これにより内的発展に政治能力をより集中させることができ、諸国の同盟は結合を強め、古代帝国的段階に進むことになる準備がされたようである。外的要因によって共同で朝貢のための代表を出したことは、こうした内的発展を刺戟したと思われる。

 やがて南朝の伝えた文明が隋のために供されたあと、かの皇帝の前に天子を公称するもう一人の人物が姿を現すことになるのである。