古代史を語る

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古代における歴史学的年代観への展望

 ある時代について、その時代に対する歴史学年代観が立たない、ということは、その時代は歴史学的には扱えないということを意味する。ジュラ紀には歴史学的年代観は立たない。縄紋時代もその点では恐竜時代と変わらない。遺跡があっても史料がないという時代は、本来の意味で歴史学的に扱うことはできない。史料があっても歴史学的年代観が立っていないというのは、史料が足りないか、研究が至らないかのどちらかである。

 日本の古代では、壬申の乱をさかいに同時代的な記録が豊富に連続的になる。以後は歴史学的に扱いやすい。これ以前も決して歴史学的に不毛の時代というほどではない。しかるにこの前期古代の大部分を、弥生時代古墳時代という、考古学的年代観でとらえるのはどういうものだろう。

 日本考古学では古代においては古墳が時代をくぎる重要な指標となっている。ところで中国の古墳は文献との対照によって絶対年代を特定しやすい。遺跡の絶対年代を特定するには歴史学的知見が適用できればいちばん簡単だ。これによって歴史学と考古学が結びつけられる。しかし日本では史料の信憑性や比定の問題が大きくて困難がつきまとう。近年では遺物の自然科学的分析によって年代を出すことも行われつつあるが、これにもいろいろと問題があって、十分に安全な総合的科学的結論を得るにはまだ時間がかかりそうである。

 年代観に限らず、考古学的知見の利用には注意すべきことがある。たとえば佐賀県吉野ヶ里遺跡からは麻や絹の布が出ている。ここは邪馬台国に関係するいわば重要参考人のような遺跡である。この麻は大麻だという。しかしここから《魏志東夷伝》(その中の“魏志倭人伝”)に「紵麻」とあるのを否定することはできない。布のように失われやすいものはほとんどが残らず、棺に入ったために全損しなかったものが発見されたに過ぎない。だから「死者は大麻の布を着けていた」と言えるだけである。

 遺物は選択的に残る。地上にある間に失われず、腐りにくい状態で埋められ、実際に腐らず、盗掘などで失われず、最後に発掘される機会を得るという、選択に選択を重ねて生き残ったものが遺物である。腐りやすいものほど残りにくいし、焼却する習慣があったり、金属でも改鋳されたものはもとの形が残らない。古墳のような遺跡でも破壊されたり後世の修築が加わっていることがある。考古学には考古学の偏りがあるのだ。考古学的知見をどれだけ一般化できるかは、遺物の性質などによって慎重に検討されなければならない。

 私は、歴史は取りかえしのつかない偏りを抱えていることを認めるが、遺跡によってその全てが埋めあわされるわけではないことも知っている。歴史学がそうであるように、考古学的知見の利用にも限界をわきまえる必要がある。

 私がこれから語ろうとするのは、以上に述べたような問題ある時代を主な対象とする。関心を置く所はその時代の歴史である。この時代の同時代的史料としては、《魏志》・《宋書》・《隋書》など、それに《日本書紀》の末尾百年分くらいは加えてもいいだろう。成立の遅れたものとしては、《後漢書》・《晋書》や《古事記》と《日本書紀》の多くの部分などがある。さらに言えば、これらの史書の理解を助けてくれる多くの古典もある。

 これらの質と量とは、本当はどのくらい不足なのだろうか。私はまだその答えを聞いた気がしない。分かることはどのくらいで、分からないことはどのくらいなのだろうか。考えてみよう。やがてそこに歴史学的年代観が見えてくるだろう。