古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

「卑弥呼の鏡」は鉄製か――佐賀新聞の報道から

日本や中国では、利器の主役が鉄に移ってからも、鏡は銅で作るものだった。しかし三国時代、大陸では、主要な銅の産地は呉が領有したため、魏では銅材が不足し、鉄の鏡が作られたとされる。

佐賀新聞は一月三日付で、『卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡 中国・曹操陵の発掘責任者が見解』という記事を掲載した。

www.saga-s.co.jp

この鉄鏡とは、1933年にダンワラ古墳から出たと云われているもので、今回来日した河南省文物考古研究院の潘偉斌氏が、取材に応じてその見解を示したとしている。

所謂「卑弥呼の鏡」とは、《三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝》の中(通称〈魏志倭人伝〉の部分)で、天子からの回賜の品物を列挙した所に、”銅鏡百枚”と記されているもののことである。これが文字通りの銅鏡であれば、銅不足の魏朝で新たに作られたのではなく、漢代から残された古い製品だった可能性が高い。しかしもし当時の新作だったとすれば、銅鏡という字の方が間違いで、その実態は鉄鏡だったということは考えられる。あるいは古い銅鏡と新しい鉄鏡が混在していた可能性もあり、その場合は簡潔に総称するなら銅鏡とだけ書いて済ませることも考えられなくはない。

日本の考古学者の一部は、三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」であるとする説を長年支持している。だがこれは、様式の上からは南方系であり、時期的にもやや下り、造作からは日本列島で鋳造された可能性が高い。その説を除くと、従来は「卑弥呼の鏡」は後漢鏡である可能性が高いとする説が広く紹介されてきた。しかし鉄鏡が少なくとも一部に含まれていたとすれば、当時の最新作が贈られていたことになる。実態の解明にはさらに幅広く、国境を超えた総合的な研究が進展することを期待したい。

元祖キャッシュレスだった紙幣と、これからのキャッシュレス

ここに「紙幣」というものがある。みなさんは紙幣は「現金」だと思うだろうか。なぜ紙ペラが現金として通用するのだろうか。実は、紙幣が現金としての地位を確立したのは、そんなに古いことではない。どの時点で紙幣が現金になったかは、明確にいつというのは難しいかもしれないが、最終的には金本位制が廃止された1970年代前半だと言って良いだろうか。だとすると、それはまだ半世紀ほど前のことに過ぎない。

紙幣の始まりは「キャッシュレス」から

紙幣制度の起源は、中国史上の北宋の時代に用いられた「交子」と呼ばれるものにさかのぼる(そのまたさらに源流は、唐代の「飛銭」という一種の為替手形だとされる)。交子の発行は、今の四川省で始まった。《宋史・食貨志》によると、当時その地方では鉄貨が用いられていたが、重い上に低価値であるため大量に運ぶ必要があり、土地の人は苦しんでいた。そこで交子の制度が作られたとされる。

交子は、中国で早く発達した紙と印刷の技術を駆使したもので、鉄銭と兌換できることを前提として、貨幣として流通した。つまり交子の発行には、兌換に引き当てる現金=鉄銭の用意を必要とした。言い換えると、現金としての実体は鉄銭であり、交子は代替の決済方式、「キャッシュレス」だったのだ。当初は民間の交子舗十六戸がこれを発行していたが、後に取り付け騒ぎが起きたので、益州に交子務を設けてその発行を管理し、私製することは公文書偽造と同様に禁じられた。

こうして出発した交子は、ある程度普及した。交子は、紙を主な原料とするため、金属貨幣より増発が容易である。北宋政府は初め、兌換用に準備した鉄銭の総額を、交子発行の上限として、慎重に管理をした。しかし後には規律が崩れ、乱発したことで価値が下落し、制度の信用を失うことになった。

一千年の失敗と成功

こうして紙幣制度は、最初の実験には失敗したものの、これで見捨てられることはなかった。中国では、南宋の会子、元の交鈔などに受け継がれる。元の紙幣制度は、ヨーロッパにも伝えられた。フランスやアメリカでも紙幣制度の実験が行われた。こうした実験は、たびたび酷い失敗を引き起こして、経済を混乱させた。

失敗を繰り返したにもかかわらず、紙幣制度が死滅しなかったのは、それが必要とされたからに他ならない。経済が発達すると、金属貨幣だけでは活動をまかなえなくなる。紙幣が必要であり、理想的には「現金」の裏付けを必要としない非兌換紙幣が求められる。

結局、紙幣制度が確立するには、これを適切に管理できる通貨当局の制度ができ、その当局に対する信用が確立されなければならなかった。そしてそれが実現した時には、紙幣はそれ自体が「現金」となり、兌換を前提とせずに通貨として流通することとなった。「キャッシュレスがキャッシュになった」のだ。ここまでに約一千年を人類は過ごした。

これからのキャッシュレス

さて「何か」が貨幣あるいは「現金」として通用するには「信用」が必要なのだと理解すれば、究極的には「信用」そのものが「現金」になりはしないかという考えが出てくる。今日では、「信用」そのものが、かなり多くの場面で決済に関与している。例えば、クレジットカードは、「後で実際に現金が支払われる」という信用のもと、その場では現金の支払いなしに売買を成立させる。いわゆる電子マネーやコード決済も、基本的には同じである。

私がある書店において、一冊の本をクレジットカードによって買ったとしよう。貨幣の「新」世界史──ハンムラビ法典からビットコインまで (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の様な本がふさわしいだろう(この稿の参考文献でもあることだし)。この時に、後で支払われるはずの現金は銀行口座に入っていて、それは雇用主から振り込まれたものだとすると、自分はその現金に一度も触れる機会がない。さらに書店にも直接現金が運ばれるのではなく、銀行口座に振り込まれるのだろうから、そこの店長もこの現金は見ない可能性がある。

ここで重要なのが現金の「所有権」なのだとすると、将来的には初めから「所有権」の形で通貨を発行するということが考えられる。つまり硬貨や紙幣の様な「有体」の通貨ではなく、「お金の権利」という「無体」の通貨だ。「所有権」に対して信用があれば良い。ここで「所有権」と「信用」という、互いに目に見えない二つのものの意味は、限りなく接近する。株ならすでに券面が廃止されて、所有権だけのやりとりになっているのと同じである。現在の「キャッシュレス」といわれるものは、その方向に人類を連れて行くだろうか。

ただ「無体通貨」が確立されたとしても、今なお硬貨が紙幣と併存している様に、ただちに現代の我々が思う「現金」がなくなるわけではないだろう。それにしても、「キャッシュレス」が本当に当たり前になった時には、「キャッシュレスもキャッシュの一つ」になっているはずだ。新しい形態の貨幣が、現金としての信用を得るには時間がかかるだろうが、また一千年を要すると思うのは悠長に過ぎるのだろう。

年号の起源の謎? どうしてそんなことを始めたのか

いわゆる年号(現在日本の法律用語では元号)という制度は、漢の武帝の時に始まったとされる。ただし明代以降(日本では明治以降)の一世一元制は、実質的には君主紀年法(某王の何年といった数え方)に回帰するもので、本来の年号制とはかけはなれた面がある。

漢の武帝の年号は、在位約五十四年間に十一を数える。一世一元以前の歴代の年号は、十年に及べば長い方であり、君主の治世を細切れにする点に本来の特色があると言える。統治権力の象徴という意味では、君主紀年の方が直接的で明確であり、年号制はそれより後退しているとも言える。

漢の武帝には建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元の年号がある。このうちで初期のものは、後からさかのぼって付けたものであるとする説が有力である。ただ実際の最初の年号は、元狩とする説の他、元鼎や元封とするものなどがあり、はっきりしない。

また、年号が用いられる様になった当初から、改元と新年号の決定が同時に行われていたとも限らない。今では改元は年号と不可分のものだと思われているが、そもそも改元とは年号を改めることではなく、紀年を一から数え直すことである。在位中に改元すること自体は年号よりも早くから行われていた。

武帝の二代前の文帝は、その十八年を改元して後元年とした。一代前の景帝は、その治世で二度改元している。文帝の時には、『史記』や『漢書』の本紀によると、祥瑞があって改元を決めたという。しかし祥瑞があったらなぜ改元するのかは判らない。景帝が改元した理由は明らかでない。

武帝の時に年号を用い始めたことについては、『史記』封禅書や『漢書』郊祀志によると、それまでは改元するごとに一元、二元、三元といった呼称を使っていたが、「一二といった数を用いるのは宜しくない」ためにそうしたという。しかしなぜそれが宜しくないのかは判らない。

古代中国の文化を考えると、一二三四が良くないなら、甲乙丙丁といった十二支を当てることはありそうだが、それを避けたかの様に、年号という捻った制度が出来た。理由付けは、何となく習慣になったことに対して後からなされることもある。おそらく後世の学者が難しく考える様な大層な意図は無いのかもしれない。

参考
  • 秦漢帝国 (講談社学術文庫)
    なお元号武帝のときから始まり、建元は武帝の最初の元号。ただし実際に元号が制定されたのは、元鼎四年すなわち前一一三年に汾陰から銅鼎が発見されたときに命名されたものであって、それ以前の建元・元光・元朔・元狩という年号はさかのぼって命名されたものである
  • 年号 - 维基百科,自由的百科全书

    在中国歷史上,第一个年号出现在西汉汉武帝时期,年号为建元(前140年—前135年)。此前的帝王只有年数,没有年号。據清朝趙翼的《二十二史劄記》考證[3],年號紀年是在漢武帝十九年首創的,年號為「元狩」。《漢書》上記載說,前122年十月,漢武帝出去狩獵,捉到一隻獨角獸白麟,群臣認為這是吉祥的神物,值得紀念,建議用來記年,於是立年號為「元狩」,稱該年為元狩元年,并追認元狩前的年號建元、元光和元朔[4]。可是,過了六年,又在山西汾陽地方獲得一只三個腳的寶鼎,群臣又認為這是吉祥的神物,建議用來紀年,於是改年號為「元鼎」,稱那年為元鼎元年,後來,人們把這記錄年代的開始之年稱为「紀元」,改換年號(或帝王紀年時代改稱元年)叫做「改元」。首實行改元(改稱元年)者為漢文帝,但未取年号。此后,每次新皇帝登基,常常会改元,并同时改变年号。一般改元从下诏的第2年算起,也有一些从本年年中算起。

    辛德勇《改订西汉新莽纪年表》以為,太初改元之初可能還沒使用年號紀年,而是在五月與改正朔、易服色的改制措施同時實行。

  • 元狩 - 维基百科,自由的百科全书

    元狩年號問題,學界目前有兩種看法:

    其一認為年號為漢武帝後來追命,此派依據《史記·封禪書》、《漢書·郊祀志》的記載「有司言元宜以天瑞命,不宜以一二數。一元曰『建』,二元以長星曰『光』,三元〔以日月復始曰『朔』,四元〕[1]以郊得一角獸曰『狩』云」,認為在武帝元鼎三年時新作出來,再往前追加所定的。宋代的司馬光,清代的錢大昕、王先謙、周壽昌,近代的辛德勇均支持此論。辛德勇認為當時以一、二、三、四數紀元,太初元年以前,現實生活中一直沒有正式採用以年號紀元的方式,並舉例漢代銅器銘文有「四元七年正月甲寅造」一文以証明此論。

    其二認為年號為漢武帝登基時創制使用,並舉出《筠清馆金石记》、《小校經閣金文》、《藤花亭鏡譜》收錄的金文中有銘刻「建元」、「元朔」、「元光」、「元狩」等年號,認為這些文物上的款识都应该是当时所记,从而判断出元鼎之前年号并非追加的。李崇智即謂「以上諸器年款足以証明漢武帝建元、元光等並非後來追命」。赵翼《廿二史剳记》及王樹民《漢代的兩個年號問題》均认为元狩是中國第一个年号,之前年号是追记的。但是目前观点认为建元才是中國第一个年号。辛德勇從銘文形式、器制、管理制度,認為這些漢代器物多數皆出自後人所偽造的贗品,不能証明當時已使用年號紀元。

  • 元鼎 - 维基百科,自由的百科全书

    史記》卷十二《孝武本紀》:「其後三年,有司言元宜以天瑞命,不宜以一二數。一元曰建元,二元以長星曰元光,三元以郊得一角獸曰元狩云。」從宋代劉攽《兩漢刊誤》、司馬光資治通鑑》,認為元鼎四年得寶鼎,是元鼎年號的來歷。也因此推斷元鼎才是年號的開始,之前的年號都是追加的。辛德勇認為當時以一、二、三、四數紀元,太初元年以前,現實生活中一直沒有正式採用以年號紀元的方式。現今目前的觀點認為建元確是第一個年號。

  • 漢書 : 紀 : 文帝紀 - 中國哲學書電子化計劃

    秋九月,得玉杯,刻曰「人主延壽」。令天下大酺,明年改元

  • 史記 : 書 : 封禪書 - 中國哲學書電子化計劃

    後三年,有司言元宜以天瑞,不宜以一二數。一元曰「建」,二元以長星曰「光」,今郊得一角獸曰「狩」云。

  • 漢書 : 紀 : 武帝紀 - 中國哲學書電子化計劃

    六月,得寶鼎后土祠旁。秋,馬生渥洼水中。作寶鼎、天馬之歌。

  • 史記 : 本紀 : 孝武本紀 - 中國哲學書電子化計劃

    五月,返至甘泉。有司言寶鼎出為元鼎,以今年為元封元年。

梅原猛さんの訃報

 哲学者の梅原猛さんが去る1月12日に亡くなられた。
 梅原さんは日本の歴史や文化にも造詣の深い方で、その関係の著書が祖父の蔵書にあったので私も何冊か読む機会を得た。その印象では、梅原さんの長所は、通説や常識に囚われない着眼の鋭さ、研究に打ち込む情熱の強さにある。一方で、対象に思い入れをしすぎて前のめりになる欠点も持っていた。
 今度の訃報でも代表作として挙げられている『隠された十字架』は、法隆寺聖徳太子についての論考で、1972年に一冊の単行本として出版された。

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

 

その数年後にももう一度聖徳太子論を書いている。この方は四冊の厚い本になった大変な労作なのだが、思い入れが深まりすぎて勢い表現が文学的になり、私などはちょっと引いてしまう様な所もあった。

聖徳太子 1 (集英社文庫)

聖徳太子 1 (集英社文庫)

 


 こういう態度は学者としてどうかとは思うのだが、罪のないおかしさというか、根底に人としての優しさを感じるので憎めないのが梅原さんの魅力だったと思う。梅原さんが何か言えば、梅原さんの意見が正しいかどうかは別としても、そこに注意すべき何ものかがあるのではないかと思わせる所があった。
 こういう梅原さんの魅力は周囲の人々を刺戟した。それで私は梅原さんの単著よりも、対談やシンポジウムを本にしたものの方がとびきり面白いと思う。私が読んだ中では、1979年の『万葉を考える』が、日本語の文章表現を考える上でも示唆に富むものだった。

万葉を考える (1979年)

万葉を考える (1979年)

 


 また、北海道民として立場から忘れられないものに『アイヌと古代日本』がある。梅原さんのアイヌ語・日本語同系論は、例によって前のめりに過ぎるのだが、金田一京助の「日本語は膠着語アイヌ語抱合語だから系統的関係はない」という説が通説的認識になっていた状況の中では、一定の意味のある主張だっただろう。

今日の言語学では、膠着語であり抱合語であるといったことは、言語の系統を分ける要素であるとは見なされていないというし、日本語とアイヌ語の間に、五千年とか八千年といったくらいの距離を考えれば、共通の祖語から分かれた可能性は無視できないものと認められる様だ。

六世紀末に流行した天然痘

 『日本書紀敏達天皇の十四年(585)三月の条に、当時流行した病気の症状について記されている。「瘡ができて死ぬ者が国にあふれた。その瘡を患った者は、体が焼かれ打たれ砕かれるようだと言い、泣きむせびながら死んだ」という意味のことが書かれている。この病気は今の天然痘かとみられている。国立感染症研究所のウェブサイト(天然痘(痘そう)とは)によると、天然痘の前駆期には「急激な発熱(39 ℃前後)、頭痛、四肢痛、腰痛などで始まり、発熱は2 〜3 日で40 ℃以上に達する。」とあり、「体が焼かれ打たれ砕かれるよう(原文、身如被燒被打被摧)」というのに同じく、瘡(水疱)ができること、流行性であることも符合する。

 このほか、同年二月の条に“疫疾”が起こり民に死者が多く出たとか、欽明天皇の十三年(553)に“疫気”が起こって民に若死にする者があったといい、それぞれ症状は不明ながら、天然痘の可能性が考えられる。

 この十四年三月の際には、敏達天皇物部守屋も瘡を患ったとある。二月の時には蘇我馬子も疾を患ったとあり、天然痘かもしれないが病状は伝わらない。敏達天皇はこの年の八月に病死しており、天然痘かその合併症によるものだろう。

 九月には用明天皇が即位する。しかし二年(587)の四月二日、新嘗を行った当日に病気になり、九日に崩御した。新嘗の儀式は通常は十一月の冬至に近い時期に行ったものである。用明天皇についてはこのこと以外は全然動静が伝えられていない。病状は不明だが、やはり天然痘関連の病死かも知れない。

 天然痘による死亡原因と合併症について国立感染症研究所のウェブサイトは「死亡原因は主にウイルス血症によるものであり、1週目後半ないし2週目にかけての時期に多い。その他の合併症として皮膚の二次感染、 蜂窩織炎、敗血症、丹毒、気管支肺炎、脳炎、出血傾向などがある。出血性のものは予後不良となりやすい。」としている。

 この病気の流行について、『日本書紀』は物部守屋らによる「蘇我氏が仏教を行ったからだ」という主張と、民間の「守屋が仏像を焼いた罪だ」という噂の両方を載せている。これはおそらく記事を構成する資料として寺院の文書を利用したためだろう。人の出入りが決して妨げられてはいなかったのだから、二十世紀半ばまで世界を席巻することになる伝染病が流入するのは時間の問題に過ぎなかった。

崇峻天皇暗殺事件

 崇峻天皇はその在位第五年(隋の文帝の開皇十二年、西暦592)の十一月三日、暗殺され、即日埋葬された。『日本書紀』によると時の大臣おおおみ蘇我馬子そがのうまこが、東漢直駒やまとのあやのあたいこまに手を下させたという。

殺害の動機と嫌疑

 『日本書紀』では、この年の十月、崇峻天皇が献上された猪を指して「いつかこの猪の首を切るように、わが嫌うところの人を斬りたい」と言ったという。また、その時に通常よりも兵仗を多く設けていた。これを馬子が伝え聞き、自分が憎まれていると思い、暗殺を謀ったということになっている。

 しかし蘇我馬子は、次の推古天皇の代にも大臣として長く務めており、暗殺について何らの罰も受けていない。このことから、暗殺には推古天皇が関与しており、記録の上ではそのことを故意に書き落とし、馬子が首謀者であるように造作された疑いがある。

崇峻天皇の死で誰が利益を受けたか

 蘇我馬子はその時に大臣であり、その後も大臣である。また、崇峻天皇を殺害しても自分が天皇になれる地位にはない。自分が崇峻天皇に殺されるのを避けるために先手を打ったというのが『日本書紀』の筋書きだが、こういう理由付けは行為を正当化するための常套手段でもあるので、本当かどうか分からない。

 推古天皇は、崇峻天皇の王座を相続した。当時の相続の慣習では、一般に公的な地位に就くのは男性であり、王位も男子の兄弟間で相続され、親世代の候補が尽きると次の世代に権利が移った。女子が王権を執るには、男子の兄弟が死んだ上で、次世代の候補が未熟であったりして継承者が定まらない必要があった。これより前に、大連おおむらじだった物部守屋もののべのもりやが擁立しようとした穴穂部皇子あなほべのみこ(崇峻の同母兄弟)も、推古と馬子によって殺されている。崇峻天皇がもういくらか長く生きていると、推古は王座に即く機会を失う可能性があった。

推古天皇崇峻天皇

 蘇我馬子から見ると、崇峻と推古はどちらも自分の姉妹の子に当たり、どちらが天皇であっても外戚としての立場は変わらない。崇峻天皇には、王者としての資格に欠けるところがあったのか。そう考えられる点の一つは後継者問題にある。

 江戸時代の大名も跡継ぎの確保に苦心したように、血筋で身分が決まる時代にはそれが大問題だった。古代日本では同じ天皇の子でも母親の身分によって差別があった。母親も皇族であれば一番、蘇我氏などの実力ある大貴族の女性であれば二番で、王位継承候補としてはそのどちらかが望ましかった。

 崇峻天皇は大伴氏の小手子こてこ妃との間に、蜂子はちのこ皇子と錦代にしきて皇女が生まれている。『日本書紀』に明記されている妃はこの一人だけである(『古事記』では一人の妃も載せていない)。古代の王者にとって、高貴な身分の女性と結婚することは、跡継ぎを作るために、また有力者との協力のためにも重要だった。それが十分にできていないことは、崇峻天皇の政治的な資質や意欲の不足を感じさせる。

 一方、推古天皇は、敏達天皇との間に五女二男を生んでいる。しかも、第一子の貝蛸かいだこ皇女は厩戸うまやど皇子(用明天皇と皇后穴穂部皇女の子)と、第三子の小墾田おはりだ皇女は彦人大兄ひこひとのおおえ皇子(敏達天皇と前の皇后広姫ひろひめの子)と、第六子の田眼ため皇女は田村たむら皇子(彦人大兄の子、後の舒明天皇)と結婚している。次世代の王位継承候補の保護者として、推古の権威は高いものがあったと思われる。

第二の殺人

 下手人の東漢直駒は、その十一月、蘇我馬子によって殺された。蘇我氏天皇の妃に入れていた河上娘かわかみのいらつめを、駒がぬすんだからということになっている。河上娘はどの天皇の妃か不明で、いきさつなどよく分からない。

 この事件について考える場合の複雑さは、歴史の勝者と敗者という関係が重層している点にある。この事件の際には勝者に見える蘇我大臣家も、半世紀後の政変で滅ぼされる。『日本書紀』が編纂される時には、古代天皇制が確立されている。勝者になれば人を殺した理由などは、後からいくらでも言いつくろえるが、敗者になると弁護する人もない。今日の捜査でも裏付けなしに自白を信用しないように、歴史上の事件も記録された動機にとらわれず考察する必要がある。

「なぜそんなものを食べるのか」? 食不食論を考える

f:id:Kodakana:20180424181627j:plain

 歴史を掘り下げる中で「食」に出会うと、今の料理と変わらない旨さが想像できる事もあれば、なぜそんなものを食べるのかと驚く様な事もある。しかし考えてみれば、食べるものを選べるという状況がずいぶんと贅沢なのであって、人類は長い間、獲得できるものを否応なく食べて、どうにかこうにか生存してきたというのが事実なのだろう。食べられるものは食べる、というのが基本であって、そこから「食べられるけど食べない」という選択が生じてくる所に歴史的事情がある。とすれば「なぜそれを食べるのか」という問題設定をするよりも、「なぜそれを食べないのか」と考えてみる方が意味がある。


 ある地域で食べていたものが、食べられなくなる原因としては、およそ次の様な理由を想定できるだろう。一に、資源の枯渇によって食べる事が出来なくなる。二に、食糧となる以外の重要な役割を与えられる。三に、外来文化の影響によって価値観が変わる。四に、政治/宗教などの権力によって禁止される。五に、人為的食糧生産の増大によって野生食糧を食べる必要が無くなる場合。

 最も古い家畜といわれる犬の場合について見てみよう。犬は、早くに失われた例を含めると、世界の広い範囲で食べられた。東洋古代史をやっていても、必ず中国の犬肉食を知る事になる。戦国時代、殺人を犯して故郷を去った聶政は、斉国に逃れて「狗屠」を職業とし、生活は豊かではないが老母を養って十分に食えたという。有名な荊軻は燕国で「狗屠」の某および高漸離と仲良くなり、日々市場でともに酒を飲んだ(《史記・刺客列伝》)漢の高祖劉邦の旧友で、その天下取りを助けた樊噲はもと「屠狗」を職業としていた(《史記・樊酈滕灌列伝》)。犬を解体して肉を売る仕事である。犬は豚とともに一般的な食肉だった。牛は重要なお供え物とされていたから祭祀などの機会に食べられる事もあったが、それよりは農耕や運搬の動力としての役割が重視されていたとみられる。

 犬は古代には確かに一般的に食べられていたが、中世には忌避される様になっていく。おそらく漢末から魏晋南北朝、唐初にかけて、遊牧系文化の影響を大きく受けた事が要因として考えられる。後には狗屠/屠狗の語は卑しい人や職業を指す代名詞に転じた。

 中国周辺の地域では、ベトナム琉球、朝鮮、そして日本などにも犬肉食の習慣が見られる。日本では縄紋文化期には犬が飼われていたが、食べた痕跡はほとんど見られないという。主に狩猟における役割が与えられていた為だろう。弥生文化の遺跡からは、解体された犬の骨が出ている。農耕文化とともに犬肉食の習慣が移入されたらしい。豚もいくらか飼っていたとみられるが、畜産文化は定着しなかった。犬は中世の都市遺構からも食べた跡が見付かっている。江戸時代初期には文献的証拠がある。「犬公方」と渾名された徳川綱吉の政策によって犬を殺す事は禁じられた。犬肉食はそれまで日本の伝統食だったと言えるだろう。

 韓国は現在も犬肉食が行われている地域の一つで、海外からの非難によってよく知られる事となった。中国にも一部の地域には犬肉食が伝えられており、国内でも余り知られていなかったのが、外国からの反対運動に遭って有名になったと聞く。この点は日本のイルカの場合と似ている。やめろと言われて反って伝統文化の自覚が強まり、より執着する心理を生じるのも共通の傾向らしい。

 日本では綱吉以後、一般的習慣としての犬肉食は復活しなかった。今では日本料理の伝統は犬抜きで形成されている。戦争による食糧不足の折には犬を食べたと聞くが、戦後の高度成長期に犬は家庭における地位を確立し、食べるという事は考えがたくなった。食べるのが伝統なら、食べなくなるのも伝統で、それはそれでそれなりに食文化は成り立ってくる。伝統だから是非とも食べ続けなければならないという事も無いし、食べたくなくても食糧難で食べなければならないという事態も起こる。反対するのが自由なら、食べるのも自由でもある。


 ついでに個人的な事を言うと、今まで食文化に関して一番驚いたのは、豚をペットとして飼う人がいると知った時だった。それまで自分にとって豚は食べるだけのもので、食べられる為の生き物であるかの様に思っていた事を自覚した。どんな生き物も人がかわいいと思えばかわいくなるのだと知れば、食べるのが悪いような気もしてくる。その気持ちを大事にしながら、今日も豚を食べた。

参考文献

中華料理の文化史 (ちくま文庫)

中華料理の文化史 (ちくま文庫)

 
魏志倭人伝の考古学 (岩波現代文庫)

魏志倭人伝の考古学 (岩波現代文庫)

 
ドキュメント 屠場 (岩波新書)

ドキュメント 屠場 (岩波新書)