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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(二)不安な安定

史伝

 推古王が崩御した後、最も有力な政治家は、父馬子から大臣の座を継いだ蘇我蝦夷そがのえみしだった。蝦夷は、敏達王の孫である田村王子たむらのみこを王位継承者として推した。これには阿倍臣麻呂あへのおみまろ大伴連鯨おほとものむらじくぢら采女臣摩礼志うねめのおみまれし高向臣宇摩たかむくのおみうま中臣連弥気なかとみのむらじみけ難波吉士身刺なにはのきしむざしなどが賛成した。一方、これに反対して、山背大兄やましろのおほえ王子を推したのは、境部臣摩理勢さかひべのおみまりせをはじめ、許勢臣大麻こせのおみおほまろ佐伯連東人さへきのむらじあづまひと紀臣塩手きのおみしほてらだった。境部臣は蘇我の一族で、摩理勢はあるいは馬子の弟とする伝えもある。推古王が田村と山背大兄の二人に口頭で伝えた遺言の内容と意味が問題になったが、ついに山背大兄は辞退し、蝦夷は摩理勢を殺した。この事件は崩御から半年後の九月のことで、翌年正月に田村王子は王位に即いたが、これが舒明王である。

 山背大兄王子は、聖徳太子の子で、用明王の孫に当たる。田村王子とは、ともに先王の孫であり、次期国王として期待されながら早く死んだ父を持つという、互いに似た立場にあった。父方から見れば二人の王子は対等の資格を持っている。その差は母方にあり、田村が父母ともに王族であるのに対して、山背大兄は蘇我大臣家刀自古郎女とじこのいらつめを母とする。刀自古は馬子の息女である。そこで摩理勢が山背大兄を支持したのは、蘇我氏の利益を図る行為だった。またこれは用明から推古まで三代の王が蘇我の女性から生まれたという前例を踏むことでもある。それでも蘇我氏の当主たる蝦夷が敢えて舒明王を推戴したのは、いったいどんな深謀遠慮によるものだろうか。

 舒明王には、即位と前後して、同じ敏達王の血を引く宝王女たからのみことの間に二男一女が生まれている。この王子が舒明王の後を継げば、それは王族の血の濃い両親から生まれた純度の最も高い王となる。双系的血統主義の傾向が強いこの国においては、尊い血の濃さは最も貴ばれる。動揺しがちな国際情勢に対応するには、権力の集中が必要であり、そのためにはまず国内において最大限の支持を得られる王を擁立することだ。丁度この十年ほど前に大陸では隋唐革命があり、その余波で中国から東夷方面への圧力は弱まっている。新しい体制を用意するには今しかない。家風として外交に通じている蘇我大臣としては、そこまでの考えがあったかもしれない。

 蝦夷に王権の強化という意図があったとしても、それは一足飛びには実現できなかった。舒明王の代は、前代のような充実した三角体制もできず、かといって別の新しい形ができたわけでもない。舒明王をより専制的な君主として立て、蝦夷が忠臣になりきろうというには、蘇我氏そのものの勢力が大きすぎた。蘇我氏は氏族集団の勢力を背景として政界に重きをなしたという点では古い型の豪族である。この勢力は簡単には解散できず、勢力を持つからにはそれなりのふるまいを求められる。王と大臣の間はもちろん協力関係にあるが、それはある種の緊張が含まれた関係である。

 王と大臣の二頭政治という形勢はすでに推古王の晩年からのものだが、その頃から政治的にはあまり大きな動きがない。これは急速な仏教化や新しい政治が続いたために世の中が休息を求めたということもあるだろう。外政面では唐が革命後の混乱収拾や突厥対策のために東への動きを控えていたこともある。しかし朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国が各々の利益を最大化しようとして断続的に抗争をしていたことは変わらない。特に六世紀末以来新羅に押されて最も不利な国になっていた百済にとっては、伝統的に概ね良好な政治関係を持っていた倭国の協力を引き出すことが課題だった。

 舒明王の政権は政治的に無為だったわけではない。日本書紀によると二年には最初の遣唐使を送り、四年には唐からの返使高表仁を迎えている。しかしこれを契機として何ら新しい外交を展開することがなかったのは、推古王の隋に対する場合と比べて余りにも消極的に見える。この同じ時期、百済の武王は孫の豊璋を質として倭国に送った。質というのは、この場合、一種の外交官だが、今の大使館のような不可侵権は持たず、相手国に身柄を預ける形になる。これは百済としては倭王に対して示すことのできる最大限の誠意だったが、これにも舒明王は何も積極的に応じることができていない。豊璋は以後長年倭国に滞在することになる。

 舒明王蝦夷は別に不仲ではなかった。蘇我氏からは馬子の息女法提郎媛ほほてのいらつめが王の側室に入っており、二人は姻戚でもある。ただしこの関係は矛盾を抱えている。もし二人の間に政策を巡って深刻な対立が生じると、仲裁ができるほどの実力者が他にない。だから二人には安定に努める必要がある。表面的な安定と、内在する不安。この矛盾の原因は主に蝦夷の方にあった。人というのは、しばしば矛盾したものを持ったまま、本人はそれで十分一貫していると信じている。それはよくあることだが、時にはそれが歴史の推進力となることがある。

 舒明王にとっては、即位と前後して宝王女との間に生まれた、中大兄なかのおほえ間人はしひと大海人おほしあまの三人の子は、実に心の支えだったに違いない。古事記天照大御神月読命須佐之男命三貴子みはしらのうづみこというが、舒明王と宝王女にとっては、この二男一女こそ三貴子とも呼びたい存在だっただろう。不安な安定、この時期は王子たちが幼年期を過ごすのに良い環境だったと言えるだろうか。舒明王は治世十三年にして崩御した。これは古代の王者としては短い方ではない。中大兄王子は、この時、歳十六にして弔辞を読んだという。子どもたちにとってはまだ早すぎる父の死だった。

 その翌年、宝王女が王位に即いたが、これが皇極王である。(続く)

天武天皇評伝(一) 女帝の余韻

史伝

 天武天皇は、舒明天皇皇極天皇の末子で、帝位に即く前は大海人皇子おほしあまのみこと呼ばれた。俗にオオアマノミコと読むが、オオシアマかそれを約めてオオサマというのが正しい。長子は中大兄なかのおほえこと葛城皇子かづらきのみこ、のちの天智天皇、次子は間人皇女はしひとのみこで、やがて孝徳天皇の皇后になる。父である舒明天皇は、彦人大兄皇子ひこひとのおほえのみこ糠手姫皇女あらてひめのみこの子、母の皇極天皇は、茅渟王ちぬのおほきみ吉備姫王きびつひめのおほきみの子であって、この三人の子は帝室の血が濃い兄弟だった。

 兄弟の年齢については、舒明天皇崩御の際に中大兄が年十六で弔辞を述べたと日本書紀にはあるだけで、大海人の生年はわからない。長男と第三子の関係だから、二三から五六歳程度の差があったのだろう。別に証拠はないが、ここでは三歳差の兄弟というくらいに想定しておくことにする。いずれにせよ推古天皇の晩年から舒明天皇の早期の間に産まれ、父の治世に幼少期を過ごしたのである。

 この天武天皇という歴史的存在について、その人生を追うことで考えていきたいのだが、この人物の前半生のことはほとんど伝えられていない。そこで我々の目的を果たすには、この人物が成長した情況を鏡としてその精神を写してみるしかない。大海人皇子が生まれたのは、ここでの仮定では舒明天皇の元年頃ということになる。それは、四十年近くもの間、この国を統治した推古天皇が世を去った直後であり、従ってこの偉大な女帝の築いた王権について知ることが、大海人皇子の幼少期を理解するための序章となるだろう。


 さて、ここまで私は慣例によって、何々天皇といういわゆる漢風諡号を使ってきた。しかし天皇号の制定は七世紀後半のことだろうから、ここからは天智天皇より後に限って天皇と呼び、それ以前は諡号を採りつつ天皇の字を去り、何々王と書くことにする。これは語弊を避けるためである。天皇号はおそらく近江令飛鳥浄御原令において制度上の用語として正式に定められた。もしそれ以前に天皇という字を示す確かな史料があったとしても、それは仏教的な用語としての天王という字の書き換えである。天皇号の制定された後、歴代の天皇に相当すると見なすべき人を選び、追尊して天皇と称したのだった。

 ただし、新しい君主号の選定は、新しい制度の確立、または確立しようとする意志とともにあるはずなのである。だから、過去の「いわゆる天皇」について、天皇をやめて王と呼び、たとえば即天皇位とあるところを即倭王位とでも書き換えさえすれば、それでその時代のことが理解できるというものではない。名号にこだわらず、権力の内容を検討してみなければならない。


 推古王は、欽明王堅塩媛きたしひめの間に産まれ、額田部王女ぬかたべのみこと呼ばれた。堅塩媛は蘇我稲目そがのいなめの息女である。長じて敏達王の正妃となった。敏達王の時は、物部守屋もののべのもりや大連おほむらじ蘇我馬子そがのうまこ大臣おほおみとした。敏達王は治世十四年にして薨去し、用明王が立った。用明王も堅塩媛の子で、穴穂部間人王女あなほべのはしひとのみこを正妃とし、聖徳太子を生んだ。穴穂部間人王女は欽明王小姉君をあねのきみの子で、小姉君は堅塩媛の妹である。王女の同腹の弟に、同じ名で呼ばれる穴穂部間人王子という乱暴者があり、敏達王の葬礼中、額田部王女に近づこうとしたところ、三輪君逆みわのきみさかふがこれを防いだ。逆は敏達王の寵臣だった。物部守屋は王子の肩を持って逆を殺した。用明王は守屋を大連、馬子を大臣とすることもととおりとしたが、ここにおいて守屋の地位は危ういものとなっていた。

 用明王は二年にして薨去し、物部守屋は穴穂部王子に跡を継がせようとした。蘇我馬子と額田部王女は兵を挙げて守屋と穴穂部王子を殺した。額田部王女は泊瀬部王子はつせべのみこを立てて王としたが、これが崇峻王で、やはり小姉君の子である。崇峻王は馬子を大臣とし、大連は置かなかった。崇峻王は五年にして馬子と対立して殺されたことになっている。代わって額田部王女が立って王となった。推古王は、蘇我馬子を大臣とし、聖徳太子摂政としたと伝えられる。

 聖徳太子については、「万機を総摂し天皇の事を行った」などと記されているが、これは誇大な讃辞である。太子は日本仏教の開祖として後々まで崇敬されたが、すでに早くから神秘的な説話が付会され、伝説化が始まっていた。太子の実際の仕事は、法大王・法主王といった異称もあるように、仏教を振興し、それを体制の原理に組み込むことだった。政治一般については、推古王が大略を決裁し、馬子が実務家として敏腕を振るったはずである。特に外交通であることは蘇我氏がこの時期に躍進した要因だった。

 蘇我馬子は、崇峻王を暗殺したにも関わらず、それについて何らの譴責も受けず、大臣の地位を保って天寿を全うした。それはこの暗殺事件に推古王の関与があったからであるはずだが、書紀はその間の事情を明らかにしない。その記述では、崇峻王が馬子への殺意をほのめかし、馬子がそれを聞いて先に手を打ったことになっている。しかし話の前後から考えると、これは推古王が崇峻王を廃位しようとして、崇峻王がそれに抵抗したために、馬子が推古王に代わって手を汚したのに違いない。

 敏達・用明・崇峻・推古の四代の王権は、言わば三角体制だった。これははじめ、四人の父、欽明王が作ったものだった。欽明王物部尾輿もののべのをこし大連と蘇我稲目そがのいなめ大臣とともに政治を執った。敏達王の時は、王と物部守屋大連・蘇我馬子大臣の三者が政権を形成していた。用明王は敏達王の体制を引き継いだが、守屋は馬子と推古王の圧迫を受けて次第に押し出され、ついには失脚した。次は推古王・崇峻王・蘇我大臣による三角体制になったが、崇峻王は聖徳太子が成長するまでの中継ぎにすぎなかった。崇峻王は更迭されて聖徳太子入閣し、ここに至って三角式の王権は最も充実した時期を迎える。

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 推古王は、宗教的な才能に恵まれた聖徳太子を重用して、内外両面に仏教政治を展開した。海外に対しては倭国の君主として初めて天子を公称し、隋との間には仏教的世界観を利用して対等の関係を求め、国際政治上有利な地位を占めようと狙い、かなりの程度成功した。これは列島内部の附庸諸国に対する優越的な地位をいっそう高めることでもあった。仏教の振興は海外の進んだ技術や学問の移入を更に促し、列島の文化水準は大いに進んだ。

 しかしこの成功した三角体制にも終わりの時がくる。聖徳太子は、書紀によると推古王の二十九年、別の伝えでは三十年ともするが、その頃に薨去した。蘇我馬子は三十四年に卒し、推古王もその三十六年三月に崩御した。歳は七十五だったという。宮廷は女帝の余韻に包まれ、表面は安定を装っていたが、継嗣あとつぎが決まらないまま半年を過ごした。(続く)

歴史と人物の理解と評価

補説

 《万葉集》巻十九に収められている、

おほきみ かみませ あかごま はら 京師みやこ

おほきみ かみませ みづとり  皇都みやこなし

 という歌はよく知られている。この二つには「壬申年之乱平定以後歌二首」と題詞が付けられているので、作られたおおよその時期が分かる。そしてこの二首における皇・大王とは、天皇一般ではなく、天武天皇その人を指しているのであると理解してこそ、歌の感興が伝わってくる。その大意は「わが殿は、神わざをなさるお方なので、人の住まない原野を、王宮にお変えなされた」というのである。

 この歌にも表されているように、天武天皇はそれまでのこの国の王者とはなにか違った偉さを人々に感じさせたのだった。そして後世にこの歌を見返す時にも、やはり天武天皇はその後の歴々と比べても違う偉さを感じさせる王者だったということを思わせる。しかしその偉さとはどういうもので、それは歴史にどういう意味を持つかということを、では我々は十分に評価できているのだろうか。正当な評価をするには、人物を過不足なく理解したいものだが、いったいこの人はどんな人だったのか。

 歴史を詳しく考えていると、そこに浮かび上がってくる人物像と、常識的な評価との間に、ずれを感じるのはよくあることだと思う。そのずれの中に何か重要なものがありそうで、気になる人物というのが私には何人かいる。


 たとえば、司馬懿という人物は、三国時代随一の巨人であったろうとは思うが、まずその人生の前三分の二くらいのことがよく分からない。《三国志》を繰ってみると、本紀では文帝のいまわの際に呼び出されれて遺詔を受けたということで初めて登場するが、この時すでに48歳である。その後73歳で死ぬまでのことは、本文と裴注によって追うことができる。それより前のことは、《晋書》にはいくらか載っているが、これは成立が唐代まで遅れる上、あまり質の良くない所もある史書で、何より最も信頼すべき《三国志》によって裏が取れないのだから困る。

 司馬懿のことはあまりよく分からないので、《三国演義》などでは諸葛亮の引き立て役としてどうにも損な扱いを受けている。たしかに小説の主人公にするなら、諸葛亮は逸話が豊富に伝わっていて取り上げやすい。憎らしいほどの英雄で、詩作なども残している曹操も魅力がある。他にもこの時代にはおもしろい人物は多い。それに比べて司馬懿は小説にならない男だ。しかしおもしろさによって歴史における人物の評価が決まるようではいけない。他の人物のように勇名奇功を以て知られるのではない所が仲達の真骨頂なのである。


 中国史では、武則天皇帝なども、評価の見直しを待っている人物の一人ではないかと思う。儒教では男性をさしおいて女性が表の顔になることを嫌うので、この人物を皇帝としての名で呼ばす、高宗の皇后としての則天武后という名で記すのが習いである。儒家は欠点を数え上げてこの人物を悪く言ったものだが、誰にでも長短があるのに女性であるからというのでそれを非難の理由にするのはおかしい。だいたい男性は世襲ができたから下らないのでも皇帝や宰相になれたが、女性は政治で上に立とうとすれば必ず実地に能力を問われたのである。

 女性の天子という存在を肯定するために仏教を援用したり、子が母親の喪に服する期間を引き上げたことなど、武則天の試みた思想改革は特に挙げておきたい。それが結局は思想としての男尊女卑を先鋭化させるという反動を招いたとしても、それは時代の限界というものだ。こうしたことは、学者の間では再評価が進んでいることだろうが、それが一般の印象を刷新していないとすれば、まだ意味をなしたとは言えない。この人に限らず、女性といえば歴史上の役割を軽く視る傾向が絶えてなくなったとはまだ聞かれない。


 日本史では、徳川家康などもまだ横取り者の古狸という印象が根強いのではないだろうか。江戸時代、家康は、一方では神君として崇敬され、他方では抑圧の元締めとして憎まれ、良くも悪くも客観的評価を受けるべき存在でなかったのはしかたない。そして明治維新後も否定すべき旧体制の創始者としての扱いをされなければならなかった。その反面、豊臣秀吉は過大に評価された。たしかに秀吉の人生は起伏に富んでいておもしろいかもしれない。しかしスポーツにたとえれば、秀吉は選手としては抜群に強かったが、競技連盟の会長になって統一ルールを作ることには成功しなかった。我々は家康の治世を構想する能力についてもっと考えてみる必要があると思う。


 仲達と孔明、あるいは家康と秀吉の例がよく示してくれるように、ある人物に対する評価のゆがみは他の人物へも波及する。ある人物への過大評価につられて他の人物が持ち上げられたり、反対に過小評価を受けたりする。これが連鎖して歴史の全体像をもゆがませるのか、または全体性のある歴史像をうまく描けていないから人物への評価がゆがむと言うべきだろうか。

 日本古代史を考える上では、やはり天武天皇が最も重要な人物の一人だろうということは言える。しかしこの人物がどう鍵を握っているかということは、私にはまだ十分理解できていない。それでもこれはどうしても必要なことだと思われるので、近いうちに何とか見通しをつけてみたいと思っている。

「大王」なる称号は本当にあったのか――ついでに天皇号の由来について

補説

 日本古代史の概説書などを読むと、天皇号の前身として“大王”号が使われていた、ということがしばしば書いてある。しかしなぜそう言えるのか、考えてみるとよく分からない。


 “大王”という字は確かに日本の古い史料に出てくる。その意味では証拠のあることなのだが、はたして大王という字さえ出てくれば、それが称号として用いられていたと考えて良いのだろうか。そもそも大王だいわうという熟字は、古典漢語としては王に対する尊称であり、制度的な称号として使われてはいない。たとえば、《魏志武帝紀》の「漢の献帝曹操爵位を進めて魏王とした」という記事に付けられた裴氏の注に、《曹瞞伝》を引いて、

尚書右丞司馬建公所舉。及公為王,召建公到鄴,與歡飲,謂建公曰:「孤今日可復作尉否?」建公曰:「昔舉大王時,適可作尉耳。」王大笑。

曹操はかつて〕尚書右丞の司馬建公に〔尉の官職に〕挙げられた。公(曹操)の王となるに及び、建公を召して鄴に到らせ、ともに歓飲して、建公にかたって曰く「わしは今日でも尉になれるかな?」。建公の曰く「昔大王を挙げた時には、まさに尉とすべきだっただけです」。王は大いに笑う。

 とあるが、建公の発言にある大王とは魏王である曹操への尊称であり、逆に言うと大王という尊称に対応する称号は王である。こうした用例は枚挙に暇がないのでいちいち引かない。

 日本の史料でも、たとえば「天寿国繍帳」の銘文に、尾治王という人名が見えるが、この人物は同じ銘文の中で尾治大王とも呼ばれている。おそらくどちらも読み下すなら“をはりのおほきみ”と読ませるつもりなのだろう。きみという和語は王の字に対応し、おほはそれに付加する敬称であって、敬語体で読むなら王だけでもおほきみと訓じるべきなので、大の字は書かなくても良いのである。この銘文は四文字ごとに分記されていて、全四百文字丁度に収められている。字数を調整するために同じことを一方では王、他方では大王と書いたのだろう。

 「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」には、

小治田大宮治天下大王天皇をはりだのおほみやにあめのしたしらしめししおほきみすめらみこと

 という句があり、ここでは大王の二字ともが天皇に付加する敬称として使われている。この用法は漢文としては少しおかしいが、これが宣命体に近い変体漢文で書かれているために可能になっている。

 《日本書紀》でも大王という語は王と称するべき人物への尊称として使われ、漢文の一般的な例に従っている。書紀は正格漢文を志向しているから当然とも言える。《古事記》には大王の用例は見当たらない。

 「埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘」における大王という字は、あるいは称号と考えられないこともない。しかし称号であるという明らかな蓋然性があるわけでもない。「江田船山古墳出土大刀銘」は象嵌の剥落が激しく、「隅田八幡宮所蔵人物画像鏡」の銘文も釈読に疑いがありそうで、扱いに慎重さを要する。どちらともとれるというものは、一個の証拠としての判断を強いてするより、むしろ一般例から類推をしておくべきではないだろうか。

 このように見てくると、大王という称号が行われていたという証拠は、一つもなくなってしまいそうである。


 さてここまでは、実はかつて東洋史碩学宮崎市定が「天皇なる称号の由来について」(ちくま学芸文庫『古代大和朝廷』所収)で論じたことの一部を、改めて確認したものである。ここから私はもう一歩踏み込んで、大王号が存在しなかったことを示す、より積極的な証拠を探してみたい。いったいそんなものがあるのかというと、別に新発見の史料というわけではなく、昔からよく知られた文章の中にそれらしきものを見いだすことができる。

 《日本書紀》、推古天皇の十二年四月の条に、聖徳太子の作とする有名な十七条の憲法を全文引用してある。憲法といっても近代的な立憲主義における憲法とは意味が違うが、日本史上に知られる最初の明文法であり、当時各地で行われていた慣習法の存在を前提としつつ、それに王権による規制を及ぼそうとしたものとみられる。その第十二条は、

十二曰、國司國造、勿歛百姓。國非二君、民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦歛百姓。

 というのだが、ここに王とあるのは“いわゆる天皇”を指している。この用例はどういう意味を持つものだろうか。

 もちろん中国でも皇帝のことを王の字で示すことはあるが、それは皇帝制以前の上古の王になぞらえた象徴的な言い方である。もしそうした詩的表現でなしに皇帝を王と呼んだら、それは言葉の上で皇帝を貶めることになる。この意味では《日本書紀》においても、皇極天皇の元年十二月に、

於是、上宮大娘姫王、發憤而歎曰「蘇我臣、專擅國政、多行無禮。天無二日、國無二王。何由任意悉役封民。」

是に於いて、上宮大娘姫王かみつみやのいらつめのみこは、発憤して歎いて曰く「蘇我臣は、専ら国政をほしいままにし、多く無礼を行う。天には二つの日は無く、国には二りの王は無い。何に由って任意に悉く封民をつかうのか」

 とあるのや、また孝徳天皇の大化二年三月の条、中大兄皇子の上奏文の中に、

天無雙日、國無二王。是故、兼并天下、可使萬民、唯天皇耳。

天には双つの日は無く、国には二りの王は無い。是の故に、天下を兼併し、万民を使うべきは、唯天皇のみ。

 だとかの例がある。これらは漢籍に散見してよく知られる「天無二日、国(土)無二王」という文句を引いていることが明らかである。十七条憲法の例は、やはり有名な《詩経》の

普天之下,莫非王土;率土之濱,莫非王臣。

 というのをあるいは意識したかとも思われるが、意味内容は全く異なる。何より憲法は詩ではなく法律なのであって、その用語は正式のものであるはずではないだろうか。

 ただ書紀への引用だけが伝わるこの憲法の条文が、その採録に際して手を加えられていないかという問題はある。しかし天皇の祖先はずっと昔から天皇だったかのように印象づけようとしている書紀が、他の何かを改変して王にする理由はない。そうするとこの王という字は原文のままであると考えるしかなく、なぜそれが天皇という字に書き換えられなかったかが、この場合にはかえって問題になる。

 その答えは何か。それを理解するために、十七条憲法の全文を載せることは、長くなるのでしない。ここで重要なのは、この憲法が四字一句を基本とする駢儷体で書かれていることである。駢儷体は中世中国で盛んに行われた、当時流行の文体である。もし王という字を天皇の二字に変えると、四シラブルを基調とする斉一なリズムを壊してしまう。もし天皇乃至大王という称号が、この条文が作られた時にあったなら、その二字が入るように駢文を組むことはできた。もしそれが大王であったら、それを書紀の編集者が天皇に置き換えることは、同じ字数だから容易だったが、実際にはそうではなかったということになる。


 前掲の宮崎説では、大王号の存在を否定した上で、“天王”号が五胡十六国からの影響で5世紀中頃から行われ、天皇号の起源になったとする。私は宮崎説にある程度まで賛成するが、“天王”号の導入はそれほど古いことではなく、推古天皇の時だと考える。十七条憲法の制定された時にはまだ倭国の正式の君主号は単に王だった。この憲法の第二条では、明確に仏教尊崇を定めている。これは隋朝が仏教に傾倒したのに呼応したものであり、対隋交渉の必要から推古天皇は当時、憲法制定後のある時期から“天王”と称したと思われる。天王とは仏教を外護する王者の謂である。王を皇に変えて“天皇”としたのは、おそらく天智天皇天武天皇の時で、法典の編纂に際しての用語確定に関係してのことであり、仏教への傾倒をいくらか修正する意図によるものだろう。

 王と皇は日本漢字音の呉音ではワウ(オウ)という同じ音である。呉音は南北朝時代の江東方言に由来する。7世紀には隋唐時代の長安標準語に基づく漢音が入り始め、特に桓武天皇の時には漢音が推奨された。以後、呉音と漢音は日本漢字音の二本柱となり、現代まで続いている。漢音では王はワウ(オウ)、皇はクヮウ(コウ)で同音にならない。道教などの用語としての天皇は漢音でテンコウと読む。漢音推奨後も日本の天皇がテンコウにならなかったことは、その由来を示唆しているのだろう。

再び、古代における歴史学的年代観について

本論

 日本古代史の歴史学的年代観の問題について以前に軽く触れた。古代の中の時代区分、特に6世紀頃より前において、歴史学的年代観が確立せず、弥生時代古墳時代という考古学的年代観が流用されることについてである。

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 もっとも、6世紀以前のある期間を“大和朝廷時代”などと呼んだことはあった。この呼称が妥当でないのは、大和やまとという表記が8世紀以後のものだから、というだけではない。それは、その時代の歴史上における意義を明らかにした上での命名ではなく、分かったようで分かっていないという非常にあやふやなものだからである。大和をカタカナでヤマトと書けば済むという問題ではない。こんな呼び方をするくらいなら、考古学を援用した方がまだ安全なのだ。また、その後は、飛鳥時代奈良時代、そして平安時代と続くが、これにも本当は問題がある。

 歴史学的年代観を確立するには、歴史の全体像にある程度の見通しが立たなくてはならない。そのためには、この一年ほどの間にここで考えてきたことは、まだまだ不十分ではあるが、一応古代初期から古代的統一に至るまでを通して述べることができたので、このあたりで現時点での認識をまとめておきたい。

 古い方から順番に検討してみよう。


 考古学の時代区分における弥生時代は、紀元前300年乃至500年頃を上限とし、紀元3世紀後半頃を下限とする。九州が先行し、徐々に東へ広がった。本来は弥生式土器によってそれ以前の紋様繁多な土器の時代と区別した。弥生文化は、呉越地方を源流とする文化の刺戟によって成立したとみられ、水稲耕作を含む本格的な農業、金属器使用の開始、環濠を持った集落を特徴とする。金属器は青銅と鉄がほぼ同時に移入されたが、どういうわけか鉄は加工はできても採取する技術が遅れ、原料を輸入に頼ったため必ずしも自由に用いられない時期が長かったらしい。

 この時期の歴史は、《漢書》《三国志》《後漢書》によって垣間見ることができる。また、《日本書紀》《古事記》には、高天原の物語、天孫降臨、神武東遷といった形で象徴的に伝えられている。

 この時期は、歴史学的一般名詞的呼称としては、都市国家時代に当たる。弥生時代の全期間がそうであるかは別として、少なくともその後半は都市国家的段階に達している。環濠集落は古代都市の遺跡である。ただしこの古代都市は、自然環境や技術程度の制約から、さほど強固な施設を作ることがなく、世界の類例と比較してあまり発達しなかった。しかし都市国家としての性質を持っており、国家間の戦争や連合の形成、植民市の建設など、世界の他の都市国家時代と基本的に異ならない現象があったことは、史書の記述から確かに窺うことができる。固有的呼称としては、末期の一部地域に限っては邪馬台国時代という言い方ができる。

 考古学の古墳時代は、いわゆる古墳の造営が特徴をなす時期であり、4世紀から6世紀までの300年間を含む。環濠集落が解消され、一部の屋敷だけが堀で囲まれるようになり、後期には住居に作り付けの竈が普及するなど、社会構造や生活文化に大きな変化があったことが知られる。

 この時期は領土国家時代であり、《日本書紀》《古事記》の主な内容はこの段階に属する。奈良平野における領土国家の成立は、崇神天皇の事績として象徴されている。日本古代の領土国家時代は、中国のそれと比べて、大きな戦争が少なかった。戦争はあるにはあったが、ある地域に限っても社会全体が巻き込まれるほどのことにはならなかった。記紀の叙述の上でも、せいぜい有力者の居館を包囲して火をかければそれで終わりという程度である。おそらく諸国間で最有力の王者が秩序を調整するものとして尊重され、対立を表立って先鋭化させることは避ける傾向が強かったと思われる。

 各地域で農業的領土国家的なまとまりが形成される間、海洋的勢力は先行して広域化を進めた。海洋的勢力の代表として登場するのが葛城氏である。5世紀初頭、倭王家は葛城氏と結びつくことで列島周辺の水路と水運拠点を押さえ、諸国への影響力を強め、外交代表権を確立した。また葛城氏との関係で韓国南岸の権益に関与するようになり、百済新羅との接触も多くなる。中国古代文明の正統を受け継ぐ南朝宋には朝貢をして冊封を求め、そのことは《宋書》に記録された。

 6世紀に入ると、葛城氏の勢力は倭王家に吸収されるが、ある面でその役割を継承するものとして、やがて蘇我氏が頭角を現してくる。この頃には大型古墳はようやく陳腐化し、それに代わるものとして仏教の移入が模索されるようになる。仏教文化はすでに中世に達した中国の社会を経たものであり、これの輸入は日本の古代社会に中世的な洗練された文物を移植することでもあった。

 6世紀末からの100年前後を一般に飛鳥時代と呼び、奈良平野南部の飛鳥に王宮の置かれることが多かったというのがその理由だが、これにも問題がある。というのは、推古天皇皇極天皇の小治田宮が飛鳥に在ったというのは根拠が薄く、伝承のあるという桜井市大福が本当だとすれば、かなり長い間、宮地は飛鳥を離れていたことになる、というだけではない。政治的中心地によって時代を区切ることについてである。

 遷都が歴史的画期と重なることはありうるが、それがないことが画期のないことを保証はしない。たとえば中国では後漢曹魏西晋が続けて洛陽に都したが、洛陽時代という言い方を普通はしない。後漢は古代末期、魏晋は中世初期であり、そこに歴史的画期が認められる。首都の所在のような形式によった命名があるだけでは、歴史を理解する助けにはならない。

 7世紀はおおむね領土国家時代から古代帝国時代への過渡期である。この時期がわりあい緩やかな統合の過程であることを理解した上で、敢えて両時代の区切りを必要とするならば、私はそれを壬申の乱に求めたい。量子力学多世界解釈に従って、歴史には“もし”があると考えてみよう。我々の認識できる歴史から他の可能性を追い出して、我々の知ったように日本の古代後期を決定したのは、やはり天武天皇の新体制であったと思う。

 古代帝国時代の初期である、天武天皇から光仁天皇までの期間を、“プトレマイオス朝エジプト”や“リューリク朝ロシア”など、王朝の始祖の名によってそれを呼ぶ例に倣って、私は“天武朝日本”と言いたい。もっとも、天皇諡号によって何々朝と呼ぶのは、その天皇一代を指すのが従来の慣例である。しかし、日本史だけの用語を作るのは、特に必要がない限りは避けるべきだ。世界史の例と共通の性質を持つ事には、世界史と共通の言い方を用いることができなければならない。

 光仁天皇は、天武の血を引かない男子としては、天武朝日本で初めて天皇になった。光仁天智天皇の孫で、聖武天皇の皇女井上内親王との間に他戸親王が生まれていた。朝廷の路線としては、他戸親王に皇統を伝えるための、中継ぎ天皇のはずだった。しかし光仁は、この皇后と皇太子を暗殺し、別の女性に生ませた息子を皇太子に立てたが、これが後の桓武天皇である。天武朝日本はおよそ百年にして絶えた。桓武天皇以後、鎌倉幕府以前を、私は“桓武朝日本”と呼びたい。


 天武朝日本の時代、中国はすでに中世の末期にさしかかっている。日本の支配者層は中国の爛熟した中世的文化を大いに輸入し、社会全体はまだ濃厚に古代的性質を保っているのに、貴族階級だけが頭デッカチに中世化をしはじめた。やがて古代的統一が破綻し、武家が台頭してようやく社会全体が中世的段階に達するが、その時には中国はもう近世に入っている。日本の中世は始めから近世的文化の刺戟を受けた。移行期がダラダラと長く続くのも日本史の特徴である。さらに日本史の近世と言われる江戸時代も、内実は中世的割拠社会の特徴を色濃く残した中世的近世だった。

 しかし江戸時代の約260年間は、決して停滞した社会ではなかった。世界で最も成功した封建制度の中に、近世的統一をもっと進めようとする傾向は伏流していた。太平の眠りと言うほどには日本人は眠ってはいなかった。明治維新は外圧をテコとしたが、内的発展によったところも無視できない。すると明治維新によって成立したこの日本という統一国家は、歴史上でどういう段階にあるものなのだろうか。

 眼を西に転じると、中国はどうやら文明の古さから来る弊害が溜まり、社会が停頓しがちになって、近世という段階を長く続け過ぎたらしい。宋初から清末に至るまで約950年である。辛亥革命共産党体制が、中国の社会を新しい段階に引き揚げたのか、それともまだ長い長い近世を続けているのか、私にはよく分からない。

 人間というものはともすると、自分の時代は非常に進んでいて、その前とは隔絶された段階にあると思いやすい。そんな意識には歴史的な意味はないのである。将来の歴史家は、江戸時代を近世前期とし、明治維新以後の“東京時代”を近世後期とするのかもしれない。我々はまだそんな総括ができる段階には達していないのだが、少しはその準備をしておくべき時期には来ているのではないだろうか。


 最後は少し古代史から逸脱したが、歴史とは続いているもの、終わりのないもの、勢い現代に及ばざるを得ないこともある。

日本史の誕生

本論

 古代という段階をそれより前と区別するならば、それは社会に不可逆の速い変化が起き始めた時代である。何千年何万年という間にほとんど変わりのない日常を繰り返した時期は過ぎた。時間は取り返しのつかないものになる。二度とない時を人々は深く記憶し、事件は語り継がれることになる。文字が発明されるとやがて日々の動静を書き留めておくことが始まる。そして社会の変化が節目を迎えた後で、適当な条件を得た時に、始めて歴史の典籍が編まれる。

 日本で日々の政治的動向を記録しておくことが何時頃から行われたかははっきりしない。ただ《宋書・夷蛮伝》を見ると、倭王武のもとにはかなり能筆の人物があったらしいことがわかる。ここに載せられている武の上表には、倭王側の立場からの事情の説明や要求の主張が、誇張も含めて存分に表現されている。こういう作文のできる人物がたまの朝貢のためにだけ雇われていたとは考えにくく、史官としての役割を担っていたという可能性を思わないわけにはいかない。しかしそうだとしても、それがそのまま後々まで継続したかどうかはまたわからない。

 記録によって知られる限りでは、《日本書紀》に、推古天皇の二十八年、聖徳太子蘇我馬子天皇記・国記・本記などを作ったというのが修史事業の始めとされる。これらの文書は早くに失われたのでその内容を知ることはできないが、敢えて推察するに史書と言うよりは史料の集積に近いものだったろう。これが直接ではないにしろ《古事記》序文の言う帝紀・本辞につながり、《日本書紀》の材料としても利用されたと考えられる。

 壬申の乱後の新体制における修史事業は、天武天皇の十年三月、川嶋皇子らに詔して「帝紀及び上古諸事を記定」することを命じたとあるのに始まる。ここから養老四年に書紀が完成するまでの経緯は必ずしも明らかではないが、史書を編むことが天武天皇の構想から出発したことは間違いないと思われる。書紀より八年前、和銅五年には《古事記》が撰上されたことになっている。なぜ同時期に多く重複した内容を持つ二つの書籍が作られたのか、両書はどういう関係にあるのかということはやはりよく分かっていない。ただ記がしばらく宮中に秘されたらしいのに対して、書紀は早くから講義が行われているので、流布された最初の日本の歴史は《日本書紀》だった。古代帝国のための日本史の誕生である。

 《日本書紀》の内容は、過去の事件をただ並べたというものではなく、ある歴史観によって統合された歴史である。我々は常に未来の方から過去を見るが、それは自身が生きる時代を通して歴史を観るということである。そこには、意識するかどうかにかかわらず、自ずとその人にとっての現代が投影される。そして誰でも自分の時代が前代からいかに変化した後期のものであるかということは忘れがちである。史書を読むにはそれが編まれた時代を理解することが必要だという理由はここにある。

 《日本書紀》の編纂にかかる時期を含む七世紀から八世紀にかけては、王権の血統主義が高まった時期である。先祖から受け継いだ偉大な王者の血が王権の正当性を保証する、という思想は、血という取り替えられないものを理由にしているだけに盤石に見える。父権の優越する社会ならば子は全く父の血だけを受け継ぐと思われがちなのでそれで通用する。しかし上古の日本は双系的傾向が強かったので、他人と結婚して子をなすと血は世代を経るごとに薄まってしまう。これを防ぐには近親結婚をすることだが、このころの天皇にはその例が多い。これはまた蘇我大臣家のような外戚を排除する効果を持ち、実際権力の集中につながった。

 血統主義が強調されるとき、歴史の上では、遠い昔の王者にまで血のつながりが探求され、歴々代々に天皇号が追諡される。また血統主義を軸に天命思想が結合すると、王権の正統性は天上の神から血を承けたことに由来するのだと逆算されることになる。この次第については前に考えを述べたことがあるので今は詳しく繰り返さない。

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 こうした王権の拡張は、統合に向かう古代社会の趨勢によって支えられたものでもある。社会の発展は内的成長と外的刺戟の相互作用によってもたらされる。七世紀後半、新羅の統一戦争によって生じた難民の内、少なくとも数千人、あるいは一万人を超える亡命者を日本は受け入れた。奈良時代律令体制によって把握された総人口はおよそ500万人前後と推計されているので、人口比に直すとこれがどのくらいのことだったかが察せられる。この中には百済の王族も含まれている。

 旧百済王子の余善光に対しては、持統天皇の時に百済くだらのこきしという姓が賜与されている。その孫の敬福は聖武天皇から称徳天皇のころに活躍して有名である。国土がないから百済王として冊封はできないが、賜姓というのはそれに準じたことというつもりだろう。天皇が外国の王を保護するということは、その地位は国王級より上ということになり、天子・皇帝を称するに足るということになる。王権の証明が必要とされた時代でもあった。

 そうすると新羅は理論上は格下ということになるが、強勢を遂げたその国は実際には警戒すべき力を備えている。自信と不安は同居できないようでいて実は仲の良いものである。新羅への警戒感は天皇の権威をいっそう尊重させる。これが歴史に投影されるとき、日本が格上になるのは始めから決まっていたことになり、逆算的に表現が改められる。通常の外交上の贈答であっても、日本からむこうへは「賜」、百済新羅高句麗からは「貢」「献」などの字を使うことで上下関係が設定される。加羅に持っていた多少の権益には任那日本府などとさも重要そうな名が与えられる。そうしたことの由来は神功皇后の活動を誇張することで求められた。

 記紀歴史観は、必ずしも当時の人が普通に信じた歴史ではなく、こうした逆算的作為を少なからず含んでいる。それは編纂当時には当然の認識だったことでも、その時代の特殊性のために、後世の人には感得しにくくなり、ここになぜこのようなかたちで歴史が描かれているのかという意図が読みづらくなった。そして古代という歴史の出発するところに対する認識があやふやなままで通過させられるために、日本史全体が理解しにくいものになってしまった。理解しにくいというのは、西洋史や中国史と同じ水準で日本史を捉えられないという意味である。

 しかし逆算的意図を差し引いてみると、そこには当時までに伝えられて過去の事実だと信じられていたらしいことが案外正直に書いてもある。それは作為を貫くならもっと整理や改変のできようことが少なからずあることによって分かる。だから、記紀を巡る問題の根本に切り込むためには、当時の思潮をもっと精確に理解し、それによってその構造を分解してみることが大事である。それが十分にできたときには、そうして取り出されたものを材として、これからの我々が本当に必要とする日本史を誕生させることができるだろう。

日本版・古代帝国への道(後編)

本論

(承前)

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 高句麗の王都平壌が陥落し、宝蔵王が囚われのは、唐の高宗の総章元年(668)、日本は天智天皇の七年、新羅は文武王の八年のことだった。これにより唐は高句麗百済の故地を占領することとなったが、実態としてはまだ平定したとは言いかねる状況だった。

 これより前、唐は何度か高句麗遠征をしかけ、攻め込んでも占領を維持できず、形式的な謝罪をさせて収めるということを繰り返した。それなのにこのたびの戦争に限ってここまでうまく運んだのは、新羅の協力があったからに他ならない。つまり中国から兵を駆り集めて朝鮮まで出征すると補給線が長くなりすぎるところを、新羅が兵站を担って補ったのである。

 しかし新羅の補給能力にも限度がある。唐による占領が不安定な状態が続くと、新羅にとっては持ち出しばかりが多くなるだけでなく、二国の体制が復興するおそれもあった。唐としても安定化のためにできるなら新羅をも併呑しようという意図がないでもなかった。ここに両者の利害に不一致が表れてくる。ただし新羅に背かれると朝鮮半島における戦線を維持できないのは大唐の方なのである。

 咸亨元年(670)、新羅は旧百済領への進出を始め、また高句麗の遺臣が君主と推す、宝蔵王の外孫、安勝を保護してこれを高句麗王として承認した。新羅は言葉の上ではあくまで唐に恭順な姿勢を示しながら、やむをえない事情があることを主張し、複雑な情勢を活用して百済高句麗を併合しようとした。

 唐軍は、白村江の会戦より後、何度か日本に遣使をしている。その目的は、捕虜の交換といった戦後処理があったろうが、特に新羅との関係が悪化しはじめてからは、物資の補給を要求したものと思われる。唐の使者郭務悰が、おそらくは戦災難民をも含む二千人を連れて、太宰府に先触れを届けたのは、咸亨二年十一月、その時天智天皇死に至る病の床に伏せていた。

 その年の十月、天智天皇は病態が重くなり、寝殿大海人皇子おほしあまのみこを召し入れ、位を継がせようとした。大海人皇子天智天皇の同母弟である。大海人皇子は自身も病気がちであると称してこれを辞退し、皇后倭姫王やまとのひめおほきみを即位させて大友皇子おほとものみこに執政をさせることを提案し、自分は出家して天皇のために功徳を積みたいと申し出た。大友皇子は天智と伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめの間に生まれ、この年二十四歳で太政大臣に登っている。天智天皇はこれを許した、ということになっているが、内密の会見だったとすればこれを聞き伝えた人が他にいたかどうかわからない。ともかくも大海人皇子は近江宮を去り、僧形をして吉野宮に移った。

 十二月に天智天皇崩御し、翌年(672)が壬申である。

 壬申年の前半、《日本書紀》の記述はどういうわけか飛び飛びになり、三月に郭務悰らに喪を知らせ、五月には甲冑弓矢などを与えたといったことがあるだけで、内政については何ら語るところがない。この五月、大海人皇子のもとに、近江方は皇子を殺そうとして攻撃の準備をしている、という旨の報告があり、ここから所謂“壬申の乱”の具体的な動きが始まったことになっている。

 この間の事情には謎めいたところがある。

 そもそも大海人皇子天智天皇の元年に皇太子に立てられているし、父子継承が原則となっていない当時の常識からしても、また年齢や経験からいっても、当然王位を継ぐはずだった。もし大海人が天智から譲位を受けていれば、それで何か問題があったのだろうか。大海人と大友の間に何らかの政策や思想上の対立があったのだろうか、しかし一人の政敵を殺すためとしては大海人のしたことはあまりに大がかりに過ぎると言われなければならないだろう。邪魔になるなら謀反の疑いでもかけてもっと穏便に殺すことがさして困難だったとも思われない。

 大海人皇子は兄と理想を共有しており、大友皇子もまた息子として純然たる後継者の素養を持っていたとすれば、大筋で対立するところはない。そうだとすれば、大海人皇子にとってのすべきことは武力行使そのものだったと受け取るほかはなさそうである。

 考えてもみよ、この武力とはもともと対外戦争のために諸国から収奪したものなのだ。しかしその外征は失敗に終わって得るものなく、そのことは天智天皇の治世に影を落とさずにはいなかった。せっかく思い切ってしたことが、何の役にも立たなかったのではないか、大化以来の改革の方向性は本当に正しいのかという疑念がつきまとった。それを挽回するには、この武力をむしろ内に向けて叩きつけ、これこそ統一体制であってこそ持てる威力なのだと思わせなくてはならない。

 そのために捧げるには、天智天皇の忘れ形見であってこそ最適な犠牲であり、大友皇子は敗戦に呪われた時代を道連れにして死ぬべきだった。

 大海人皇子は東海・東山道の兵を動かし、山陽・西海道の軍は動きこそしなかったが味方にしており、近江方が気づいて手を打とうとしたときにはもう遅かった。実は空白の五月以前にもう吉野方の手が回っていたのではないかと思われる。戦闘があったのは近畿地方の一部で、それも六月下旬から七月にかけての約一ヶ月間に終熄した。ただ論功行賞が十二月まで遅れるので、それまでは争乱の総括をすることがはばかられるような状況があったかもしれない。

 壬申の乱は内戦としてはこの程度のことに過ぎないが、それでも強い印象を残した。《日本書紀》は壬申年を元年と数え、大海人皇子が即位したのは二年二月、これが天武天皇である。書紀はこの人物を資質は雄抜・神武にして学問は天文・遁甲に通じていたと讃える。天武天皇壬申の乱の効果により空前の権威を獲得し、改革実現のための妥協を最小限に抑え、日本史上に古代帝国的段階をもたらすことができた。

 天皇号はいつ創案されそして制度的に用いられはじめたのか明確でないが、天皇制を確立した功績は天武天皇に帰せられなければならない。天皇制とは王朝の君主が天子・皇帝・天皇を称する制度であり、中国的皇帝制に倣いながら独自の要素を加えたものである。これは内的には壬申の乱という一種の革命運動によるが、外的には新羅の政策から受けた効果を無視できない。

 中国の皇帝と形式の上で並ぶ地位が国際的に承認されるかについては、唐との関係が決定的な要素だった。しかし唐としては新羅と戦争をする可能性が残る間、日本とは妥協した関係を結んでおかなければならず、そのため百済における敵対行為は不問にせざるをえないし、倭王が天子を称することもなあなあにしなければならなくなった。ここに唐の実力の限界があった。

 新羅百済の全部と高句麗の南部を併合して朝鮮半島に統一体制を築き、新羅王はかつての国王級より一等上の地位を得る寸前まで進んだ。だが中国との間に深刻な対立を作ることは慎重に避け、名分の上では冊封を甘受して唐朝には臣としての礼を執った。これは地政学的条件による制約というもので、もし渤海湾がもう少しだけ北に深く大陸を抉っていたら、ここにも皇帝制が樹立されていておかしくない。

 旧高句麗領北部には、則天皇帝の万歳通天(696~697)の頃、靺鞨人を率いる大祚栄が侵入し、聖暦年中(698~700)には自立して震国王と称し、睿宗の先天二年(713)、渤海郡王に封じられた。これが渤海国で、日唐双方に朝貢し、唐とは時に交戦もしたが、やがて独自の年号を立てて、以後200年余り国を保った。渤海の成立は日新唐相互の関係にも微妙な影響を及ぼし、日本と新羅にとっては結果的に古代的統一の発展に寄与した。

 唐にとってはこの方面に介入したことで得られたものはろくになかった。いったい中国の政治思想は名分主義的傾向の強い一面があり、形式さえ満足させればそれで結構十分とする場合がある。外国の王を冊立するとか、朝貢をさせるなどということは、詰まるところ外交上の形式の問題に過ぎない。新羅渤海が頭を下げて挨拶に来るならば、またその地域の秩序が保たれている限り、干渉する理由もなく、その能力の不足も明らかだった。

 日本に成立した王権は、もう一つの中華を自任し、周辺国をも統べることを目指した。新羅も一時は日本に対しても朝貢の形式を受け入れたこともあった。しかし、天武系の王統が絶え、天智系の子孫がこれに代わった平安時代初期には、こうした意識は次第に薄れ、やがて列島内五畿七道の諸国を治めるだけで自足するようになる。外地の権益などというものは、端切れでもつかんでいる内はどうしても要らないとは思えないが、手放してしまえばその方がすっきり落ち着いたという例である。