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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(十九) 壬申の乱・一

史伝

「今聞くに、近江の朝廷の臣どもは、余を殺そうと謀っているとか。これによって汝ら三人は、急ぎ美濃国へ往き、安八磨あはちま郡の湯沐令ゆのうながし多臣品治おほのおみほむぢに会い、戦略の要点を伝えて、まずその郡の兵を興せ。ゆくゆく国司くにのみこともちらに触れて、諸々の軍を興し、速やかに不破の道を塞ぐようにせよ。余もすぐに発つであろう」

 と、大海人皇子おほしあまのみこが、国連男依むらくにのむらじをより和珥部臣君手わにべのおみきみて身毛君広むげつきみひろを招集して詔したのは、壬申の年六月二十二日のことである。前に朴井連雄君えのゐのむらじをきみが近江方の動向を報告したというのは、五月のことで、およそ一ヶ月は経つ間、表向きには平穏だったことになる。三人は東へ向かった。

 二十四日、大海人が出発しようとしているとき、一人の従者が先行きを案じて進言した。

「近江の群臣にはもともと謀反気がございました。必ず天下を乱すでありましょう。さればみちみち何があるかわかりませぬ。どうして一人の兵もなく、むな手にして東国あづまのくにへ入れましょうか。わたくしは事が成就せぬのではないかと気遣わしゅうございまする」

 大海人はこれに従い、男依らを召し返そうと思い、すぐに大分君恵尺おほきだのきみゑさか黄書造大伴きふみのみやつこおほとも逢臣志摩あふのおみしまを飛鳥の旧都に遣わし、駅鈴を乞わせた。駅鈴というのは駅馬によって物事を伝達するのに用いるのである。よって恵尺らに語って、

「もし駅鈴を得られなければ、志摩は戻って報せよ。恵尺は馳せて近江に往き、高市皇子たけちのみこ大津皇子おほつのみこを連れて、伊勢で落ち合うようにせよ」

 と命じた。時に飛鳥の旧都は王族の人高坂王たかさかのきみ留守司とどまりまもるつかさとして主衛していた。恵尺らは高坂王のもとに至り、皇子の命令だとして駅鈴を求めた。高坂王は駅鈴を渡さない。恵尺は近江へ向かい、志摩は戻って「駅鈴は得られませんでした」と報告した。

 大海人は東国への旅路に入った。事が急だったので徒歩で発った、と『日本書紀』は記している。急といっても雄君の報告からでも一ヶ月程度はあるのに、馬の一頭も用意しておけないはずはない。さて少し行くと県犬養連大伴あがたいぬかひのむらじおほともが馬に鞍乗せて忽然と現れた。大海人は馬に乗り、妃鸕野皇女うののひめみこは輿に載って進んだ。津振川に至る頃、大海人の愛馬が届けられた。

 この時、初めから従った人は、草壁皇子くさかべのみこ忍壁皇子おさかべのみこ、及び舍人朴井連雄君・県犬養連大伴・佐伯連大目さへきのむらじおほめ大伴連友国おほとものむらじともくに稚桜部臣五百瀬わかさくらべのおみいほせ書首根摩呂ふみのおびとねまろ書直智徳ふみのあたひちとこ山背直小林やましろのあたひをばやし山背部小田やましろべのをだ安斗連智徳あとのむらじちとこ調首淡海つきのおびとあふみら二十数人、女官十数人だった。

 宇陀の吾城野あきのに到ると、大伴連馬来田おほとものむらじまぐた・黄書造大伴が追って合流した。ここでは屯田みたのつかさの舎人土師連馬手はじのむらじうまてが一行に食糧を提供した。甘羅かむら村を過ぎると、大伴朴本連大国おほとものえのもとのむらじおほくにが狩人二十数人を率いて参り供に仕えた。また美濃王みののきみが召還に応じて合流した。ちょうど宇陀郡庁のあたりで伊勢国の米を運ぶ荷駄五十匹に遭遇したので、米俵を棄てて徒歩の者に乗らせた。

 大海人主従は山を越えて伊勢国へ向かっている。宇陀の大野まで来ると日が暮れ、暗くて山を進めないので、家の籬をこぼち取って灯火にした。夜半になって伊賀国名張なばり郡に入り、その駅に火を着けた。街中に唱えて、

殿下おほきみが東国へおいでになるによって、みなみな出て参れ」

 と呼んだが、ここではどうしたか誰も来なかった。やはり伊賀は大友皇子おほとものみこの母親を出した国だからだろうか。

 横河を渡ろうとすると、幅十丈ばかりと見える黒雲が天にたなびいていた。大海人はこれを異として、得意の天文学によって占った。昔の天文というのは今の天文・気象の対象を含んでいる。ちくを手にとって占い、

「天下が二つに分かれる兆しと見える。されど果ては余が天下を得るか」

 と判じたが、まさか占ってみるまで知らなかったはずはない。成算があるからこそこんな行動に出ているのだ。ただ従者の大半はこれが計画された行動だということを知らされず、深夜の山越えという異常な行動に不安を感じている。そこで占いに託して見通しの一端を示し、安心させたまでのことだろう。

 占いに励まされた一行は歩を速め、伊賀郡に到るとその駅にも火を放った。これは追っ手を避けるためだろうか。しかし中山という所まで来ると、その国の郡司こほりのみやつこらが数百の兵を率いて帰順した。空がほのぼのと明るむ頃、莿萩野たらのに至り、しばし足を休め食事を取った。積植つむゑの山口に到ると、高市皇子鹿深かふかから越えてここに出遭った。民直大火たみのあたひおほひ赤染造徳足あかそめのみやつことこたり大蔵直広隅おほくらのあたひひろすみ坂上直国麻呂さかのへのあたひくにまろ古市黒麻呂ふるいちくろまろ竹田大徳たけだのだいとく胆香瓦臣安倍いかごのおみあへが供をして来た。

 大山を越えて伊勢国鈴鹿郡に出た。ここにその国司くにのみこともち三宅連石床みやけのむらじいはとこすけ三輪君子首みわのきみこびと、及び湯沐令田中臣足麻呂たなかのおみたりまろ高田首新家たかたのおびとにひのみらが大海人主従を迎え、五百と号する軍を発して大山の道を塞いだ。川曲かはわの坂のふもとに到って日が暮れた。鸕野皇女が疲れを訴えたのでしばし輿を留めて休むうち、夜空に星が見えなくなり、雨が降りそうだったので、長く憩うことができず、また進まなければならなかった。そのうち冷たい雷雨が激しくなり、一行は着物が濡れて寒さに耐えないほどだった。どうせ天文を占うなら雨が分かればよいのに、さすがの大海人もこの時ばかりは肝を冷やしただろう。ようやく三重郡庁に到り、小屋一軒に火を着けて凍えた身を暖めた。この夜半、鈴鹿関司せきのつかさからのつなぎがあり、

山部やまべ石川いしかは両殿下がおこしになられました故、関にお泊め致しておりまする」

 とのことだった。大海人はただちに路直益人みちのあたひますひとを遣わして二人を呼びに行かせた。

 翌二十六日早朝、大海人は朝明あさけ郡の迹太とほ川のほとりで天照大神を眺拝した。ここに益人が鈴鹿関から還ってきたが、ともに現れた者はと見れば、それは山部王でも石川王でもなく、大海人の子の一人、大津皇子だった。何か行き違いがあったのか、それとも意図した誤報というものでもあるのか、ともかく両陣営が策謀を巡らしている中のことだから歴史を読む方の眼が問われる所だ。前に近江に向かった大分君恵尺をはじめ、難波吉士三綱なにはのきしみつな駒田勝忍人こまだのすぐりおしひと山辺君安摩呂やまのへのきみやすまろ小墾田猪手をはりだのゐて泥部胝枳はづかしべのしき大分君稚臣おほきだのきみわかみ根連金身ねのむらじかねみ漆部友背ぬりべのともせらが大津の供をして参上し、大海人を大いに喜ばせた。

 朝明郡庁に至ろうとする頃、村国連男依が駅馬に乗って馳せ着け、

「美濃の兵三千人を興して、不破の道を塞ぐことができました」

 と復命した。不破の道は近江と美濃の国境に当たり、畿内から東国へ連絡する要路の一つである。大海人は郡庁に着くと、高市皇子を不破に遣わして軍事を監察させ、また山背部小田・安斗連阿加布あとのむらじあかふには東海道へ、稚桜部臣五百瀬・土師連馬手には東山道へ行き、諸国の軍を徴発するように命じた。この日、大海人自身は桑名郡庁に宿り、ここに停まった。

 さてこの大海人皇子の行動は、当然さほど間を置かずして近江の朝廷にも聞こえた。これを迎えて立つ大友皇子には、一体どんな打つ手があるだろうか。あるいはこの頃に世の人が謡ったかともいわれる歌が『万葉集』に収められている。

  近江之海あふみのみ 泊八十有とまりやそあり 八十嶋之やそしまの 嶋之埼邪伎しまのさきざき 安利立有ありたてる 花橘乎はなたちばなを 末枝尓ほつえに 毛知引懸もちひきかけ 仲枝尓なかつえに 伊加流我懸いかるがかけ 下枝尓しづえに 比米乎懸ひめをかけ 己之母乎ながははを 取久乎不知とらくをしらに 己之父乎ながちちを 取久乎思良尓とらくをしらに 伊蘇婆比座与いそばひをるよ 伊可流我等比米登いかるがとひめと(近江の海 泊八十有り 八十嶋の 嶋の埼々 あり立てる 花橘を 末枝に 黐引き懸け 中枝に 斑鳩懸け 下枝に 媛を懸け 己が母を 取らくを知らに 己が父を 取らくを知らに いそばひ座るよ 斑鳩と媛と)

 (続く)

「聖徳太子」という呼称について

余談

数日前のことになるが、いわゆる「聖徳太子」について、学習指導要領の改訂案で表記を変更することになり云々、ということが新聞記事になっているのを目にした(聖徳太子、教科書で表記変更は妥当? 国会で論戦に:朝日新聞デジタル)。聖徳太子、という一般化した呼称が現れるのは、この人物の死後130年ほど経った天平勝宝三年(751)の『懐風藻』の序文が現存する最初だ。聖徳太子といえば古くからカリスマ的偉人であり、二つ名どころか様々な呼び名があった。以下に主なものを挙げる(皇太子・東宮王命みこのみことなど一般名詞的なものは除く/読みは必ずしも確定できるわけではなく、一例)。

古事記
上宮之厩戸豊聡耳命かむつみやのうまやとのとよとみみのみこと
日本書紀
廐戸皇子うまやとのみこ
豊耳聡聖徳とよみみとしょうとく
豊聡耳法大王とよとみみののりのおおきみ
法主のりのうしのきみ
厩戸豊聡耳皇子うまやとのとよとみみのみこ
上宮廐戸豊聡耳太子かむつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ
上宮聖徳法王帝説
厩戸豊聡耳聖徳法王うまやとのとよとみみのしょうとくほうおう
聖王ひじりのみこ
上宮厩戸豊聡耳命かむつみやのうまやとのとよとみみのみこと
上宮王かむつみやのみこ
厩戸豊聡八耳命うまやとのとよとやつみみのみこと
聖徳王
上宮聖徳法王かむつみやのしょうとくほうおう
法主
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
聖王
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
上宮法皇かむつみやのほうおう
天寿国繍帳銘
等已刀弥弥乃弥己等とよとみみのみこと

聖徳太子は日本仏教の興隆期に活躍した人物であることは確かで、聖や法という字がしばしば付くのも仏教的意味による。だから聖徳太子という呼び方はこの人物の歴史的意義を理解する上で妨げになるとは必ずしも言えない。昔の尊貴な人の呼び方が死後に定まるのは普通のことで、今それを採るべきかどうかは場合によりけりだ。甚だしい例を挙げると、672年に死んだ大友皇子に対する弘文天皇という諡号ははるかに下った1870年のものである。弘文天皇という呼び方は今では一般的には使われていないと思うが、今上を125代目とする数え方の中には含まれたままになっている。

ただ聖徳太子の事績には生前からすでに尾鰭が付き始めていたらしく、後世にはなおさら多くの伝説化がなされた。これは水戸黄門の場合とよく似ている。水戸黄門といったらテレビの黄門様の印象が強いから、それを避けて徳川光圀と呼ぶのは、歴史を扱う上でありうべき一つの態度だ。そうした態度を執る場合は、聖徳太子のことは厩戸王子と書くのが最も中庸を得た表記だろう。

しかし聖徳太子という呼称に対する後世の付会も真実でないからどうでもいいというものではない。聖徳太子は日本仏教の聖人として古代後期から中世にかけて長く尊敬された。江戸時代になると、仏教はやや衰退し、まず儒教の立場から仏教を広めたことで批判され、後には国学によって外来思想の導入者として非難された。その流れは明治の神仏分離廃仏毀釈となり、また古神道国家神道となって日本の伝統的宗教を大きく変質させた。昭和戦後になると、聖徳太子は1950年から発行された千円札にも描かれたし、歴史上の偉人として一般に親しまれた。近年の動きはまた別の傾向を見せているが、進歩したと言えるかどうか。

聖徳太子に対する評価の変遷は、過去を振り返るとはどういうことか、言い換えれば「歴史とは何か」という問題に迫る好個の材料となるのではないだろうか。

参考文献

上宮聖徳法王帝説 (岩波文庫)

上宮聖徳法王帝説 (岩波文庫)

 

天武天皇評伝(十八) 大友皇子と大海人皇子

史伝

 天智天皇が死に瀕していた十一月二日、唐から法師道久だうく筑紫君薩野馬つくしのきみさちやまら四人が対馬国つしまのくにのみこともちのもとへ来着した。道久はおそらく前の遣唐使の一員として渡った僧侶。薩野馬は百済への出兵に従って捕虜になっていたもので、他の二人も同じであるらしい。道久らが語った所によると、今、唐朝の使者郭務悰くゎくぶそうら六百人・送使沙宅孫登しやちやくそんとうら千四百人が、船四十七隻に分乗して比知ひち嶋に停泊している。そして、

「今われらは数が多く、突然に行くと倭の防人が驚いて防戦しようとするかもしれない。そこで道久らをやって、予め来意が知られるようにしておこう」

 と相談しているという。比知嶋というのは今のどこか未詳だが百済沿岸の小島の一つであることは分かる。このことは十日には筑紫大宰府に伝えられた。この時、筑紫率つくしのかみには栗隈くるくま王が赴任していた。栗隈王は敏達帝の孫に当たる。

 この報は十一月中には近江国大津宮にももたらされたろうが、まもなく天智天皇崩御し、大友皇子はまずその葬儀に当たらなければならなかった。新羅の使者金万物こむもんもつもがりを見届けて帰国した。

 明くる年は、唐ならば高宗の咸亨三年、干支は壬申である。近江の朝廷には主君がない。残された大友皇子は二十五歳になった。

 大友皇子については、『懐風藻』に小伝が載せられているものの、その評価はありきたりな賛辞を並べただけで、あまり実感がないという印象を受ける。そこで残された二首の短い漢詩から強いてその人柄を覗うと、父から期待をかけられてきただけに気負いと表面的自信が強い反面、自分の実力に対する不安から心を離すことができないという性格が見えるようである。

 そんな大友皇子がこの年の初めにしなければならない仕事は、郭務悰らに天皇の喪を知らせることだった。それも三月になってようやく使者を筑紫へ派遣したのである。この時、務悰は那の津、今の博多湾岸に留められていた。務悰らは喪服を着て哀悼の礼を行い、因って書翰と進物を渡した。

 郭務悰というのは、唐の百済占領統治に関係した人物で、これまでにも何度か来訪している。しかし今回は特に多くの人数を引き連れて来たというのはどういう事情によるものだろうか。当時通常の使節団がどのくらいの人数で行動したかはよく分からない。だからこれが普通よりどのくらい多いのかもよくは分からない。しかし今回は紛争発生の折なので、郭務悰ら六百人というのは相当数の護衛をも含むものだろう。沙宅孫登は百済人で、かつて義慈王とともに唐に投降した。沙宅孫登ら千四百人というのが、特に別に記されている所に何か意味がありそうである。これについては当時の状況からこう考えることができる。

 そもそも遠征軍においていつも問題になるのは兵站つまり軍需物資の輸送である。孫子も言うように、遠方への輸送は効率が悪く、できるだけ戦地の近くで物資を獲得するのが鉄則である。現に唐は高句麗との戦争において新羅から援助を受けなければ勝利することができなかった。かつて隋の煬帝が戦争に備えて掘らせた、南は杭州から北は涿州まで通じる大運河は機能していたが、これとて十分なものではなかった。そこで今度は新羅を相手に事を構えざるをえなくなると、別に補給の口を求める必要が出てくる。ところで新羅王のように天子から冊封され爵位を受けている者には、その恩のために天子の行う征伐には必要とあらば協力する礼儀的義務が生じる。しかし倭の国主という者は冊立されることを拒み自ら天子を称している。これ自体が唐にとっては問題だが、今は時が時なのでとにかく補給が要る。義務を負わない者に援助を求めるにはそれなりの支払いをしなければいけない。

 沙宅孫登ら千四百人というのは、おそらく百済で捕虜にした倭兵や亡命百済人の家族などで、彼らを送り届けるのと引き替えに物資を購ったのだろう。沙宅氏にも亡命した者があり、孫登自身もあるいはこれを機に亡命を希望したのかもしれない。これに対する近江の朝廷からの供給は、さらに五月まで遅れた。十二日、甲冑・弓矢の他、ふとぎぬ千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤が引き渡された。このおよそ半年間は郭務悰にとっては長すぎる時間だった。唐の百済占領統治は今や文武王の戦略によって窮地に追い込まれている。三十日、務悰らはようやく帰路に就くことができた。


 大海人おほしあま皇子は、昨年十月末以来、倭国やまとのくにの吉野宮にいる。倭国には伝統的な王権の基盤があり、それは王宮が近江に遷っても変わっていない。まずはここを押さえることが制覇への第一歩となるのだ。

 今この列島では、内外に政治上の課題が多い上に、王位継承法を巡って、天智天皇が進めてきた改革に与する人々と、これに抵抗を感じる人々とが衝突しようとしている。しかもそれは天智天皇の死によって急激に先鋭化してきそうである。人の心裡には変わりたいという望みと変わりたくないという想いが常に同居しており、そのどちらが強く出るかで保守派になるか改革派になるかが決まる。そしてこういう時にはおよそ保守派の方が強い。変えるより変えない方がさしあたり余計な面倒が少なくて済むような気がするからだ。

 ここで大海人皇子が吉野に隠棲する姿勢を示したことは、どちらに付くかを予め決めていたわけではない多くの人々を刺戟したはずだ。あの古人大兄王子が吉野で殺された事件は、もう二十七年ほど前のことになる。当時その報に触れて何らかの印象を胸に刻んだであろう若者たちは今、大海人もそうであるように、十分指導的地位に立つ年齢になっている。しかも今度は逆に純血の皇子が吉野に退き、近江の朝廷には伊賀の采女などが生んだという皇子が居座っている。当然帝王として立つべき人が、不当にも大友皇子によって殺されようとしているのではないか。

 大海人皇子は早くに近江の朝廷を脱け、こうした情況の中で先手を打って有利な地位を占めることができるという見通しを持っている。一方大友皇子は今やいやおうなく政治の当局者となって多忙である。自分はただ勝利を得ることに集中すればよいのだ。『日本書紀』は壬申の年五月までに何があったかについて多くを語らないが、こんな沈黙はやはり裏面で駆け引きが行われていたことを示していると見るべきだろう。

 ところで天智天皇の陵墓は、大津宮からそう遠くない山背国やましろのくに宇治郡山科郷に造ることが生前に決められていたらしい。その地は藤原内大臣の陶原すゑはらの家に近く、今の京都市山科区にある御廟野古墳に比定されている。この墳墓の造営がこの時は終わっておらず、もし工夫に鍬に替えて矛を持たせれば、ずっと南下して倭国に攻め入ることができる。そして大友方が少しでもそういう気配を見せれば、大海人方にとってはむしろ行動を起こす絶好の機会となる。

 あるいはこの頃のものかと思われる歌が天皇御製歌として『万葉集』に載せられている。

  三吉野之みよしのの 耳我嶺尓みみがのみねに 
  時無曽ときなくぞ 雪者落家留ゆきはふりける 
  間無曽まなくぞ 雨者零計留あめはふりける 
  其雪乃そのゆきの 時無如ときなきがごと 
  其雨乃そのあめの 間無如まなきがごと 
  隈毛不落くまもおちず 念乍叙来おもひつつぞくる 
  其山道乎そのやまみちを

 五月、大海人に従う舎人で朴井連雄君えのゐのむらじをきみという者が一つの報告を吉野宮にもたらした。

「私用があって美濃国にまかりましたところ、朝廷から美濃・尾張両国のみこともちに“御陵を造るによって予め人夫を選んでおけよ”と命じられたとか。されば人ごとに兵器を持たせている様子。わたくしが思うに、御陵を造るにはあらで、必ずくせごとがあるかと」

 またこれとは別にある人の告ぐらく、

「朝廷は大津より飛鳥までところどころに斥候を置き、また菟道うぢ橋守にも命じて、殿下の舎人が食料を運ぶのを遮らせておりますぞ」

 大海人皇子はこれをいぶかしみ、事実を探らせると、果たしてその通りだった。そこで曰わく、

「余が位を譲り世を遁れたのは、ただ病を治め身を全うし、平穏に一生を終えたいからだ。しかるに今せんすべなく禍いを受けようとしている。どうしてこのまま身を亡ぼそうか」

 さても相手が先に不当な行動をしたと主張するのは、挙兵に名分を立てるための常套手段である。もし大友皇子をして歴史を書き残させれば、大海人方から先に怪しい動きがあったのだと記すだろう。こういう場合、真実はだいたいにおいて有利な側から手を出したと見てよいだろうか。大海人は勝利への算段を固めつつあったが、韜晦することが得意なこの皇子は、まだそれを身内にも漏らさずにいるらしい。(続く)

天武天皇評伝(十七) 希なる改革者の最期

史伝

 天智天皇は、従来の慣習を破って、大友おほとも皇子に皇位を継承させる形を作ろうとしてきた。これに大海人おほしあま皇子は反対のはずである。しかし、兄弟の間に感情的なしこりがあるとはいえ、基本的には理想を共有している二人でもある。相続法を父子直系式に変えることと、王族の近親婚を減らしていくということについては、大海人も方向性としては賛成している。ただ大海人としてはそれはまだ先の世代の課題だと思っている。天智天皇としては自身が創始した天皇制のもとであくまで新しい相続法を実現するつもりだった。

 だが病の床に臥せた天智天皇は、いよいよ本当に命が終わろうとしていると悟ると、大友を後継者にするのは抵抗が大きいということをひしひしと感じて、いたたまれない思いになってきたものらしい。即位四年冬十月十七日、後のことを相談するため、寝殿大海人皇子を招いた。

 この時のことは、『日本書紀』の中でも天智天皇紀と天武天皇紀の両方に記されており、しかも微妙に事の感じが違う。どういうことだろうか。

 天智紀によると、この日、天皇は病状が悪化し、勅して大海人を寝室に召し入れた。詔して曰わく、

「余の病気は重い。後のことは汝に委ねる」

 云々と。大海人は再拝して自分も病気があると称し、固辞して受けず、曰く、

「帝業は皇后に委ね、大友王に摂政をさせたらよいでしょう。わたくしには天皇の御為に出家して修行をさせていただきたい」

 天皇はこれを許した。大海人は再拝して立ち、すぐに宮中の仏殿の南に出て、髪と髭を剃り落として法師の姿となった。天皇は人を遣わして袈裟を贈った。

 天武紀では、少し様子が違う。天智天皇蘇我安麻侶そがのやすまろを遣わして大海人を呼んだ。安麻侶は普段から大海人と仲がよかった。安麻侶はこっそりとふりかえり、

「お気をつけてお話しあれ」

 と告げた。そこで大海人は何か隠謀があることを疑って警戒した。天皇が大海人に帝業を授けようと勅すると、大海人は辞退して曰く、

「臣の不幸は、もともと病気がちなことです。どうしてよく社稷を保てましょう。陛下は天下を挙げて皇后に預け、かさねて大友皇子を皇太子となさればよろしいでしょう。臣は今日出家して、陛下の御為に功徳を修めましょう」

 天皇はこれを許した。大海人は即日出家して法衣をまとい、この機会に私家の兵器は全て官に納めた。

 ここでは安麻侶の忠告が強調され、壬申の乱への伏線としてこの会見が位置付けられている。ここで本当に何か隠された謀があったのかどうかは全く分からない。兄弟の会話については潤色の差があるだけで内容に違いはない。だが死に臨んだ兄が弟に言ったことはこれだけなのだろうか。そもそもこんな会談は人払いをしたに違いなく、証言者のいそうにない事件をどう記録するか、それは歴史の勝者に委ねられている。

 こういう状況で人は何を望むものだろうか。人は似た立場に置かれれば似たことを考えるものだとすれば、参考になりそうな例がある。

 中国北朝の斉は、南朝の斉と区別して史上に北斉と呼ばれる。北斉の初代文宣帝が崩御すると、長男でまだ十五歳のいんが二代皇帝に立てられた。一年足らずして、文宣帝の弟のえんは、殷を廃位させて自ら帝位に即いた。これが孝昭帝である。殷は廃位されたので廃帝と呼ばれる。初め、両者は互いに害をなさないことを約束していた。即位の二年目、孝昭帝は廃帝の逆襲を恐れて、鴆毒をやって死なせようとしたが、廃帝は服まなかった。そこで孝昭帝は廃帝を絞め殺した。ところが政敵がなくなって安心とはいかず、ひどく後悔して、そのためか熱病にかかった。孝昭帝の次男百年はくでんが皇太子になっていたが、まだ幼いので後を継がせず、弟のたむを登極させることに決めた。臨終の間際、孝昭帝は弟に宛てて手ずからこんな遺書を書いた。

「百年はまだ罪のない子どもだ。どこかいい所に置いてやってくれ。前例に学ぶのではないぞ」

 湛が帝位に即いたが、これが武成帝で、結局四年後に百年を殺した。

 これは実にありうべきことだ。別に立派でない人でも最期に望むのは子どもの命が無事であってほしいということなのだ。天智天皇もやはり、確かに位は譲るから大友の命だけは助かるようにしてやってくれ、と大海人に頼んだはずではないか。自分のしてきたことを忘れたわけではなく、自覚があるからこそ今さらながらに因果応報ということが恐くなるのだ。自分が死ねば、大友は有力な外戚の後ろ盾もない、政治的に孤児同然の皇子ではないか。弟はきっと兄がしたようにこの子を殺すに違いない。

 この兄の願いに対する弟の答えが、皇后への譲位という提案だったとすると、天智天皇にとっては恐ろしい結果を予想しなければならないものだった。王族の人であるやまと皇后が、伊賀の采女に生まれた大友皇子を守ってくれるという保証はない。それに皇后は今でこそ皇后に収まっているが、天皇が死んでしまいさえすれば、父古人大兄ふるひとのおほえが殺された恨みを晴らそうとはしないだろうか。

 それにしても大海人皇子はなぜ譲位の提案をことわるのか。それは大海人にとって悪い話ではない。病を称するというのは辞退の常套句であり、本当のことだとは限らない。平穏裡に皇位を手にして、もし大友が邪魔になれば後からいくらでも理由を付けて抹殺することもできる。しかしここで大海人は、ちょっと待てよ、と考える。大海人は天文・遁甲という学術の実践者でもあった。つまり理論的に物事の見通しを立て、身の処し方を考えることのできる頭脳の持ち主なのだ。

 大海人としてはもしここで譲位を受けても、それは従来の慣習を踏襲するだけのことであり、それ自体は何にもならない。継承権は当然自分が持っているのだ。それにここ数年の兄の政策は、近江への遷都や人材の抜擢などで評判が悪い。海外の事情もどう転ぶか測りがたいものがある。ここで天智体制をそのまま受け継ぐのは損だ。自分が思うような方向へ軌道を修正するだけで大変な労力を取られることになる。そしてその過程でどうしても天智派の人々と衝突することは避けられないだろう。ならばどういう道があるのか、大海人にはもう計算ができてしまったらしい。

 十九日、僧形になった大海人は近江国あふみのくにを去り、倭国やまとのくに吉野山へ向かった。天智天皇にはもはやどうする力もなく、ただ痛切な思いを諦念の中に閉じ込めるだけであったろう。

 十一月二十三日、大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前に座り、左大臣蘇我赤兄そがのあかえ・右大臣中臣金なかとみのかね、また御史大夫蘇我果安そがのはたやす巨勢人こせのひと紀大人きのうしが侍した。大友皇子がまず立って香炉を手に取り、誓盟して曰く、

「六人は心を同じくして天皇の詔を奉る。もし違う者あらば、必ず天罰を受けようぞ」

 云々と。ここに左大臣ら香炉を取って次第のままに立ち上がり、涙も血に染まらんばかりに泣いて、

やつこら五人、殿下に従いて天皇の詔を奉る。もし違う者あらば、四天王これを打てよ、天神地祇もまた誅罰せよ、帝釈天もこれ聞こしめせ。子孫はまさに絶え、家門は必ず亡びん」

 云々と誓った。

 二十九日、左大臣ら五人は大友皇子を奉じて、天皇の御前に盟誓を報告した。この日、新羅の文武王に絹五十匹・絁五十匹・綿千斤・革百枚を贈ることとし、使節金万物こむもんもつらに預けた。今はとにかく平穏を図るに限る。

 十二月三日、天智天皇大津宮崩御した。四十六歳だった。

 天智天皇は、先見の明に優れ、決断力に富み、妥協の機微を知り、史上に希な真の改革派の闘士だった。しかし晩年には改革を急いで中庸を失う所があり、そのために大友皇子を一層困難な状況に置き残した。もっともこんな行き過ぎは変革期を担う人物にはありがちなことで、これだけの勢いをもってしなければここまでの改革は実現できなかったのかもしれない。その人格や事績は、秦の始皇帝織田信長と比較されるべきである。

 時に当たって世の人が唄ったという歌三首が『日本書紀』に引かれている。

  美曳之弩能みえしのの 曳之弩能阿喩えしののあゆ 阿喩擧曾播あゆこそは 施麻倍母曳岐しまへもえき 愛倶流之衛えくるしゑ 奈疑能母縢なぎのもと 制利能母縢せりのもと 阿例播倶流之衞あれはくるしゑ(み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島辺も吉き え苦しゑ 水葵のもと 芹のもと 吾は苦しゑ)

  於彌能古能おみのこの 野陛能比母騰倶やへのひもとく 比騰陛多爾ひとへだに 伊麻拕藤柯禰波いまだとかねは 美古能比母騰矩みこのひもとく(臣の子の 八重の紐解く 一重だに 未だ解かねは 御子の紐解く)

  阿箇悟馬能あかごまの 以喩企波々箇屡いゆきはばかる 麻矩儒播羅まくずはら 奈爾能都底擧騰なにのつてこと 多拕尼之曳鶏武ただにしえけむ(赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし吉けむ)

(続く)

天武天皇評伝(十六) 天智天皇の焦り

史伝

 文武王の反撃が開始されて以来、各勢力間の外交も活発に行われた。天智天皇が送った遣唐使は、咸亨元年に高宗に謁見して高句麗の平定を祝賀したという。天智天皇のもとへも、即位四年・咸亨二年になると、新羅側と唐側の両方から複数の使節があり、いずれも状況を少しでも自己の有利に引き寄せようとしていた様子がある。

 この間、内政面では、即位三年二月、初の全国的な戸籍とされる、いわゆる庚午年籍が造られた。全国的というのは、少なくとも関東から九州までの範囲である。天智天皇にとって、この造籍事業の成功は、今まで苦労して進めてきた王権拡張の成果を実感させるものだったに違いない。藤原内大臣を喪った心の痛手も、これで少しは和らいだだろうか。同じ頃、天皇は琵琶湖の東蒲生野かまふの行幸した。蒲生野といえばかつて即位元年に大海人おほしあま皇子や藤原内大臣らを引き連れてともに娯しんだ思い出がある。日本書紀には「宮地を観る」と書かれており、より本格的な都城の建設を企てたものだろう。

 ところが同じ年の四月、倭国やまとのくに斑鳩法隆寺に火災があり、一つの屋舎も残さず焼けるという不吉なことがあった。法隆寺の火災については、その時期に異伝があるが、焼失の事実は発掘によって確かめられている。『日本書紀』の記述を信用すれば、あまたの仏像も焼けただれて、もし現場を看れば恐ろしいありさまだったと想像される。焼け落ちて顔だけになった薬師如来が、相変わらず涼しい眼差しで曇りゆく空を眺めていただろうか。天智天皇の心理にこの事件が響いたものかどうか、どうやらこの頃から、自身の死が近いことを予期して、跡目のことが気がかりになってきたものらしい。

 即位四年の正月五日、天智天皇は、大友おほとも皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄そがのあかえ左大臣中臣金なかとみのかねを右大臣、蘇我果安そがのはたやす巨勢人こせのひと紀大人きのうし御史大夫に配置するという組閣を行った。大友皇子太政大臣任官については『日本書紀』と『懐風藻』で年が違い、事実としてあったのかどうかも疑えば疑えないこともない。ただ、大友皇子を事実上の皇位継承者として位置付け、生きている内に後継体制を固めておこうとしたのだとすると、この後の事件が理解しやすい。おそらくそうなのだろう。

 しかし大友皇子皇位継承者として指名されたとすれば、大海人皇子にとってそれは大きな懸念を招くことであったろう。それはひとり大海人自身が政治を執る機会を奪われるというだけではない。これまで慣習的に行われてきた倭王家の継承法は、親世代の有資格者が順に王座に就き、それが尽きて初めて次の世代に権利が回ってくるというものだったのである。だから天智天皇がもし崩御すれば、皇位を継ぐのは当然大海人皇子だと世の中では思っている。それに経験や年齢からいっても差があるし、何よりも問題なのは母親の身分が高くないことである。双系主義の傾向が強い社会では、子の資質には父母双方の血が関わると考えられる。だから従来倭王家の跡継ぎとして資格があったのは、王族でなければ蘇我や阿倍といった大貴族の女性が産んだ子である。王権を支える貴族や諸国の豪族が大友皇子を後継者として担いでくれるかどうかということは、当時の常識として当然懸念される。

 それにも関わらず天智天皇大友皇子を事実上の後継者に指名することを敢えてした。なぜだろうか。その理由はいくつか考えられる。

 第一にそれは、王権の強化というこれまで進めてきた改革の帰結として理解できる。従来の倭王家の継承法では、継承者の資格は父母双方の血によって決まる。これは天皇といっても子に皇位を伝える資格の半分しか持っていないことを意味する。もし天皇たる父の子でさえあればよいという、父権主義的な継承法を実現すれば、天皇皇位を伝える資格の全部を持つことになり、その権威は最大限に高められることになる。

 第二には、海外に対する意識がむしろ後世よりも強かった当時のことだから、継承法を東アジアの標準となっていた父子直系継承に合わせることで、わが国の国際的地位の上昇を図ることである。それはとりもなおさず、今や完全な内国となりつつある列島諸国に対する支配力をいっそう増すことにもなる。

 第三には、近親交配を避ける必要である。天智天皇の后妃・子女を見ると、王族の女性との間には子を作っていない。また大貴族の女性との間には成長した男子はない。近親婚はこの列島では昔から特に忌まれはせず、江戸時代になっても俗に「いとこどうしは鴨の味」などと言って、むしろ歓迎されていた。近親婚といっても、いとことの間に子を産むくらいでは、とにかく問題はない。しかし、近親交配に近親交配をかけあわせるということを何代も続けると、しばしば不妊になったり、普通はしないような病気の併発にかかるといったことが起きやすくなるという。いま天智天皇は父母ともに王族であり、その両親がまた王族の間に産まれている。近親婚がよくないという意識は、畜産文化の希薄なこの列島では醸成されなかったとはいえ、知識人である天智天皇は学んでいておかしくないし、近来の亡命人にも快ばれなかったことは想像にかたくない。こうなると昔から王家と関係の深い大貴族の女性もまずい気がしてくる。そこで特に縁のない伊賀国から献上された采女が生んだ大友皇子こそ健康的で頼もしいと思ってかわいがったのだろう。

 しかしこうした理由があるにもせよ、王位継承法を従来の世代平行段式から父子直系式へと早急に変えようとすることは、天智天皇自身との間に深刻な矛盾を生じさせずにはおかない。天智天皇の改革が今まで支持を失わなかったのもその純血のためだし、少しでも政敵となる可能性のある人物をまだそうならない内から抹殺するという、余りに果断な行為もまたそのために許容されてきたのではなかったか。もし死者にも精神があるなら、あの古人大兄王子は果たしてこれを見てどう思うだろうか。ましてや今を生きる人々が大友皇子に従ってくれるという保証はない。

 確かに父系主義への移行は方向性としては正しかったかもしれない。しかし今こうすることは、実際、時代を百年は先取りすることになる。今の社会制度の中で生きている人々にとってこれは困るのだ。みんなで王者として担ぎ上げている天智天皇がそんな急進的なことを敢えてするなら、それが旧来の相続法ではいい目を見られない立場の人々を刺戟して、世の中至る所で相続争いが起きないとは誰に言えるだろうか。社会には変われるときと変われないときとがあり、政治にも成るときと成らないときとがある。改革には進めることのできる最大速度というものがあり、どんな権力者でもそれを超えることはできない。もし超えようとすれば反動を食らって努力をふいにするだけだ。だから改革を進めることは常に妥協とともにあるのだ。

 では天智天皇は妥協の機微というものを全く忘れてしまったのかといえばそうでもない。大友皇子には、大海人皇子額田ぬかた王との間に生まれた十市とをち皇女を嫁に取らせている。大友と十市の間には、幸いにして葛野かどの王という男子が生まれている。だから大友には十市の婿としての資格もあるし、大友を通して葛野という純度の高い王子に帝位を伝えるのだと言えば、保守派を説得する材料になる。大海人に対しては、この孫のためにということで、何とか懐柔できるだろう。いやどうしてもしなければならないのだ。

 天智天皇の決意というのは、おそらくこういったものだっただろう。我が子大友皇子に跡を継がせることで、一生涯をかけた改革の完成とし、それを見て死にたい。しかし天は人の心など意に介さないものか。即位四年の秋頃から、天智天皇は病の床に臥せるようになり、十月にはもう先が短いと思われた。海外では新羅と唐の間に冷たい冬の風が吹き、それは海峡を渡って玄界灘にまで吹き付けてくるようだった。(続く)

天武天皇評伝(十五) 文武王の反撃

史伝

 唐の高宗の咸亨元年、倭の天智天皇の即位三年、この春にはいよいよ新羅と唐の間に緊張したものが表面化してきた。晩春から初夏にかけて、新羅高句麗の反抗軍を支援し、唐側の靺鞨兵と戦って大いに勝利した。

 夏になると、高句麗の遺臣剣牟岑こむむじむが唐に叛き、安舜あんしゅんなる者を君主として立てた。この安というのは、もと高句麗高蔵かうさうの外孫といわれるが、新羅の歴史では安という字で記され、先年新羅に帰順したという、高蔵の庶子とされる安勝あんしょうと同一人物ではないのかどうかよく分からない。新羅の歴史では、牟岑は、唐が高句麗に派遣した役人などを殺害した後、船を浮かべて新羅に向かい、仁川沖の史冶しじ島で安を見つけ、文武王に信書を送ってこう述べたことになっている。

「滅びた国を興し絶えた世を継がせることは、天下の公義でありまして、これは大国でなければお頼みできません。我が国の先王は道を失って滅ぼされ、今わたくしらは国の貴族安勝を得まして、君主として立てたいと思います。どうか藩屏となって永く世々忠を尽くさせてください」

 牟岑がいかに窮迫していたとはいえ、この嘆願は新羅側に都合がよすぎると言うべきかもしれない。中国に伝わった所では、高宗が左監門大将軍の高侃かうかんを遣わして牟岑を撃つと、安舜は牟岑を殺して新羅に逃げたことになっている。要するに旧高句麗王家と何らかのつながりのある人物を文武王が見つけて保護したことは事実らしい。

 七月、文武王は、百済の残衆が反乱を起こそうとしている、という疑いをかけた。この疑惑についての話し合いのため、唐が百済に置いた熊津都督府から、禰軍ねくんという人が文武王の所へ来た。禰軍というのは、百済人で、唐の占領統治に協力し、熊津都督府の司馬つまり軍務長官という役に就いている。文武王は、禰軍がわれを暗殺しようと謀ったとして、留めて帰さず、そのすきに兵を挙げて百済へ攻め入り、多くの城市を占領した。

 八月、文武王は安勝高句麗王として封じた。その冊書に曰く、

新羅王が高句麗の嗣子安勝に命を致す。きみの太祖中牟ちうむ王は、徳を北山に積み、功を南海に立て、威風は青丘に振るい、仁教は玄菟を被った。子孫は相継ぎて、本支とも絶えず、地を開くこと千里、年は八百にならんとした。男建・男産兄弟に至り、禍いは内輪に起こり、争いは血で血を洗い、祖国は破れて滅び、宗廟は潰えてしまった。人々は道に迷い、心のよりどころもない。公は危難を山野に避け、単身を隣国に投じた。難を避けることは晋の文侯に同じく、国を再興することは衛の侯爵に等しい。それ百姓には君主がなければならず、昊天には必ずなさけがある。先王の跡を嗣げるのは、ただ公だけだ。先祖の祭祀は、公でなくて誰がする。謹んで使者を遣わし、ついては公に策命を与えて高句麗王としよう。公は遺民を集めてよく知らしめ、宗家を継承し、永く善隣をなせ。兄弟同然につきあおう。よく慎みたまえよ」

 しかしこれは奇妙なことではないか。王を冊封するというのは、天子たる者の権能であって、一介の国王にすぎない文武王にはできるという原理がない。だから安勝は国際的には全く認知されない高句麗王だった。これは安勝の地位も生命もほとんど新羅王に依存することを意味する。文武王にとって、自分が認める高句麗王にすぎない安勝をどうするかは、その意思一つで決められる。つまり文武王は旧怨ある高句麗の遺民を懐柔するための手駒を得たのだ。

 翌咸亨二年にかけて、新羅軍は百済地方へ侵攻を続け、唐の正規兵とも交戦に及んだ。この時、かつて対高句麗戦で活躍し勇名をはせた薛仁貴せつじんくゐは、前年に吐蕃チベットとの戦争で大敗した責任によって、本来なら死罪の所を特に容赦されて免官となっていた。高宗は仁貴を再び起用して、鶏林道行軍総管に任命し、新羅へ差し向けた。鶏林とは新羅の別名であり、この名は新羅への進軍を意図している。

 秋七月、仁貴は文武王に書を送り、その非を問い道を外れることを惜しみ、行為を改めるように諭した。文武王は報書をしたため、先代からの唐とのよしみを挙げ、百済高句麗との戦争における新羅の功績を述べ、それについて評価が十分でないために国内に不満や危惧があることを訴えながら、だからとて叛意はないとし、直近の状況について伝える中でこう説く。

新羅百済は代々敵対しており、いま百済の形勢を見ると、自立して一国をなしているかのようで、百年の後、わが子孫が呑滅されないともかぎりません。新羅は全く皇帝の臣下となっており、両国が分かれている理由はありません。願わくば一家となり、長く後の憂いをなくしたいものです」

 そして今まで折り合いがつかず事情を申し上げられなかったことを詫び、叛逆とされるのは誤解だとして、あくまで恭順な姿勢を示した。文武王は中国的形式主義をうまく利用して鋭鋒を避けたのだ。唐としても新羅があくまで臣従するというなら攻撃の名分が立たないし、また本当は実力に自信がないので戦わずにすむならそれに越したことはない。

 しかし文武王は欲する所のものをあきらめるつもりはさらさらなかった。高句麗では高侃が率いる唐軍と高句麗遺民の反抗軍との戦いが続いていたし、十月には新羅も唐の船団七十艘ほどを攻撃し、兵船郎将の鉗耳大侯けむじたいこうと士卒百人あまりを捕らえ、水に没した死者は数えられないほどだった。

 さて、天智天皇が病気で床に臥し、もう治らないと思われたのは、ちょうどこの頃のことだった。(続く)

天武天皇評伝(十四) 藤原を散らす冬の風

史伝

 外交能力は最高の戦力である。ここ数年、倭国の朝廷は唐や高句麗などからの使節をいつも迎えている。丁度平壌城が陥落したかしないかの頃にも、近江の大津宮新羅からの使者金東厳こむとうごむが訪れた。この時は天智天皇の即位元年・唐の高宗の総章元年九月中旬。その下旬、中臣鎌足なかとみのかまたりからは新羅最大の功臣金庾信こむゆしん宛てに船一隻、天智天皇から文武王宛てにも船一隻を贈ることとし、東厳に預けられた。平壌城の陥落は、十月までには確かなこととして大津宮にも伝えられたらしい。東厳は十一月に帰国し、これに際して文武王へ絹五十匹・綿五百斤・革百枚を贈り、東厳ら使節団にもみやげが与えられた。また道守臣麻呂ちもりのおみまろ吉士小鮪きしのをしび新羅へ遣わされた。

 この時期の新羅の政治は極めて戦略的だった。そもそも半島がいつも不安定で紛争が多かったのは、この地域に三ヶ国が割拠し、互いに利害を争う所があったからである。今、百済高句麗は滅んだが、そこを唐が占領したのでは問題の解決にならない。ことの勢いは、新羅も滅ぶか、さもなくば唐を追い出すかに帰着する。文武王には早くからこのことが分かっていたに違いない。

 新羅が唐から離反する直接のきっかけは、対高句麗戦後の論功行賞にあった。唐は新羅の貢献を十分に評価しなかっただけでなく、行軍中の若干の行き違いによって新羅を問責する動きさえ見せた。これは唐の立場としては、法の正しい適用にすぎないとも言える。かつてはあの劉仁軌りうじんくゐさえ同様の理由で罷免されたことがあるし、今回の戦争でも劉仁願りうじんぐゑんが流刑に処されている。しかし文武王としてはこれは承服できない。またしかし、文武王はここで単純に憤りに任せてむやみな反抗はしない。

 唐の占領統治はうまくいかなかった。総章二年二月、もと高句麗高蔵かうさうの庶子、安勝あんしょうが、四千戸あまりの人々を率いて、新羅に身を投じた。文武王はこれを受け入れて保護した。高句麗の遺民には離反する者が多く、唐は騒乱を防ぐために三万八千戸もの住民を江州・淮州の南や山南・京西諸州の空き地に移住させる措置をとらなければならなかった。

 また、かつて百済鬼室福信くゐしちふくしんら反抗軍が鎮圧された後、高宗の勅命により、熊津うしん(こむなり)において劉仁願が立ち会い、もと王子の扶余隆ふよりゅうと文武王は、白馬を犠牲にして血をすすって誓い、領地の境界を画定して互いに侵さないことを約束した。しかし文武王の主張によると、総章元年、百済側からこれを破る動きがあり、国境の標識を動かし、新羅側の田地や奴婢を侵取し、百姓を誘引したりした。またこの頃、唐が軍船を修理し、それは倭国を征伐するためだとして、その実は新羅を打とうとしているのだという噂がたったという。文武王は唐との交渉を絶やさず形式的には恭順を示す一方、百済地方へ進出を始める。

 軍事力とは軍隊や兵士に関することだけではない。政治力、中でも外交能力は戦争の行方を左右する決定的要素の一つである。文武王は巧みな外交を展開して政治力の高さを発揮しはじめ、唐にとってにわかに新しい脅威としての姿を現してきた。こうした不穏な国際情勢の中にあって、時ならぬ風があたら咲きごろの花を吹き散らすように、天は一人の希有な人物を召そうとしていた。

 中臣鎌足が二度と癒えることのない病を患って床に伏したのは、この晩秋のことであったらしい。即位二年冬十月十日、天智天皇は親ら鎌足の私邸を見舞い、天帝に命を請うて効を求めた。しかし祈誓の甲斐なく、病はいよいよ重かった。そこで詔して曰わく、

「天の道理は仁を輔けるというが、それは嘘なのであろうか。積善の家には余慶ありというのに、どうして効験がないのであろう。余にできることがあれば、何でも申してみよ」

 鎌足の答えて曰く、

「臣はもういけませぬ。何を申し上げることがござりましょう。ただ死んだ後は、どうか厚く葬らないでくだされよ。生きていてもこの事態の役には立ちませぬのに、死んでさえ百姓に苦労をかけることはなりませぬぞ」

 言い終えると眠ってまた言葉を継ぐことがなかった。

 十五日、天智天皇大海人おほしあま皇子を鎌足の家に遣わし、詔を伝えて曰わく、

「はるかに前代を思うに、執政の臣は、時々世々、一二のみではないのだ。しかれども労を計り能をくらぶるに、だれも公にならぶに足りない。ただ朕が汝の身を寵するのみではないのだ。わが後嗣ぎの帝王とも、実に子孫までも恵むこと、忘れず遺さず、広く厚く酬い答えよう。この頃は病が重いと聞き、朕がこころはいよいよいたむ。汝が得るべき任になそう」

 かさねて大織の冠と大臣の位を授け、姓を賜って藤原ふぢはら氏とした。これにより鎌足藤原内大臣ふぢはらのうちつおほおみと通称される。

 十六日、藤原鎌足は再び日の光を見ることはなかった。時に五十六歳だった。天智天皇はこれにいたく慟哭し、朝堂を閉ざすこと九日に及んだ。そしてこの十二支一つ分ほど年上の功臣の死にあたって、自身の命があとどれだけあるかを思わないではなかっただろう。

 十九日、天皇藤原鎌足の家をおとない、恩詔を下して悲痛を述べ功績を讃えた。

「内大臣は思いがけず忽然と殂去した。どうして天よ、我が君子をほろぼしたのか。痛きかな悲しきかな、朕を棄てて遠く逝くこと。怪しきかな惜しきかな、朕に乖き永く離れること。別れを送る言葉も届かないとはこのことだ。
 日夜相携えて伴をなし、ことを任せて心配なく、言動に間違いはなかった。国家のことは、大小となくともに決し、八方ともやすく静まり、万民みなうれうことがない。これほどの讃辞を贈ってもまだ足りないのだ。ああそれなのにどうして。公が朝堂に説を献じれば、民には自ずから利となる。内裏に意見を交わせば、必ず朕と合う。これこそは千載一遇というものだ。周の文王が太公望を任じ、漢の高祖が張良を得たということも、どうしてわれら二人におよぼう。これだから朝晩手を握り、愛でて飽かず、出入りするに車を同じくして、遊んでも礼があった。
 大河をまだ渡りきらないのに、舟楫ふなかじは沈んでしまい、やっと大家の基をすえたばかりなのに、棟梁はかく折れてしまった。誰とともに国を統べ、誰とともに民を治めよう。この念に至るごとに、痛切なることいよいよ身にこたえる。
 ただ“無上の大聖でも避けられない”と聞き、それでわずかに痛みを慰め、やや安穏を得た。もし死者にも精神があり、まことに先帝と皇后にまみえ奉ることができたなら、聞かせよ、“我が先帝陛下は、平生の日、淡海あふみと平浦の宮地を遊覧されたこと、今も昔のままです”と。朕はこのものを見るごとに、見渡して心を傷めないということはないのだ。一歩も忘れず、一言も遺さず、仰いでは聖徳を望み、伏しては係恋を深くする。
 加えて、出家して仏に帰するには、必ず法具がある。それで純金の香炉を賜う。この香炉を持って、汝の誓願のとおり、観音菩薩くゎんおんぼさちの後より、兜率陀天とそちだてんの上まで、日々夜々、弥勒みろくの妙説を聴かせ、朝々夕々、真如しんにょの法輪を転じよう」

 鎌足は智謀の人、稀代の先覚者であって、しかもつねに主君の陰にあってこれに功を取らせた。そして、氏族の勢力を代表して政治に参与するのではなく、個人の才覚によって抜擢され活躍するという、この列島にあっては全く新しい人間の型を創った。しかるにその子孫が大貴族となり層をなして朝廷をほとんど占有したのは、決してこの人物の望んだことではなかっただろう。

 それにしても、大織冠を授けたときは、天皇は自身で行かず、弟に訪わせたというのは、何か深い意味があるのだろうか。やはり鎌足と大海人の間にはまだ確執があり、鎌足をはさんだ兄弟のわだかまりを解消する最後の機会となることを望んだのではないだろうか。もし弟がこの兄と心を一つにしてくれなければ、兄にとっては恐るべき結果が待っているかもしれないのだ。

 同じ冬、高祖・太宗・高宗の三代に仕えた唐初最大の労将、李勣りせきが病気にかかって容態は重かった。高宗は李家の子弟で都外にある者をことごとく召し帰して病床に付かせた。はじめ高宗と皇太子が薬を賜うと、勣はこれを取って服用していたが、家の者が医者を呼ぼうとすると、門に入れることを許さなかった。

「わしはもとただの田夫だのに、たまたま名君に用いられ、位は三公に到り、歳は八十を超えたこと、もう分を過ぎておるのじゃ。命は天に係るもの、どうして医術によって活を求めることがあろう」

 弟のひつが顔を見せると、

「今日は少し具合がよい。みなで酒でも呑みたいものじゃ」

 と語り、家族を集めてともに楽しんだが、遺言をするとまた伏して再び物を言うことがなかった。

 時代の節目に天は不思議と偉人の命を終えさせることがある。冬の風は飂々と空を吹き渡り、春の芽はまだ蕾を養っていた。(続く)