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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(二十六) 崩御

 天武天皇の治世十五年七月二十日、年号を立てて朱鳥あかみとり元年と称した。孝徳王の白雉以来、改元は久しく忘れられていたことである。朱は赤色の類に属し、赤は五行説では火の色とされる。白は金の色である。かつて戦国から漢の頃にかけて五行説が流行すると、歴代の王朝も木火土金水のいずれかの徳を帯びるものとされた。漢が五行のどれに当たるかは古くから議論があったが、末期には火徳を持つものと考えられた。漢から禅譲を受けた魏が、土徳の王朝に当たるとして、象徴の色として黄色を採用したのは、五行相生説による。五行相克説を採れば、火は金に克つという関係にある。したがって朱鳥とは白雉に克つという意味を込めた年号であり、天武天皇の革命思想が改めて示されたことになる。

 朱鳥の新年号はしかし、天武天皇にとってその偉業を記念する最後の一つであった。すでに十四年の秋から体調を崩していた天皇は、十五年五月にその病気が重くなる。折り悪く同じ頃に侍医の一人である百済出身の億仁おくにが病気して瀕死になり、天皇を診ることができない。侍医は一人しかいないわけではないとはいえ、このことは天皇の心に暗いものを投げかけたに違いない。天皇が医術の他に頼みとしたものはおもに仏教であった。十四年九月二十四日には、快復を願うために大官大寺弘福寺法興寺に三日にわたって経を誦ませた。十五年五月二十四日には、弘福寺に薬師経を説かせ、宮中でも講説を行う。

 六月十日、天皇の病気を占うと、草薙剣の祟りと出た。そこで草薙剣尾張国の熱田社に納める。今の熱田神宮である。これは効能がなく、病気は良くなる兆しを見せない。

 十六日、伊勢王いせのおほきみらを法興寺に遣わして勅し、

「このごろ朕が身は和らがぬ。三宝の霊威に頼り、身の安らぎを得んことを願いたい。これにより僧正・僧都そのほかの僧らは、誓願をしてくれるように」

 と曰い、寺に宝物を献じる。

 七月八日、百人の僧侶を宮中に招き、金光明経を読ませたが、その二日後に落雷があって民官かきべのつかさの倉庫が焼け、かえって不吉の感を強くする。十九日には、昨年以前に貧乏のため出挙を受けた者の返済を免除することを詔する。これは恤民を功徳として病気平癒のために仏の利益を請うものだろう。改元のことはこの翌日で、宮を名付けて飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやとしたのも同じ日である。またいろいろの読経・造像・悔過くゑくゎ天神地祇に祈るといったこともした。悔過とは過ちを悔いて罪の報いを避けることを願う仏教の儀式である。天皇が何を懺悔したのかは伝えられていない。

 朱鳥元年九月四日、皇子や諸臣らはそろって弘福寺に集まり、天皇の病のために誓願をした。しかし全て効験はなく、九日、天武天皇崩御した。歳は五十五、六歳だったと思われる。

 立法・修史・造都は天武天皇が志した三大事業だが、このどれもその生存中には完成しなかった。この三つはどれも社会のあり方と大きな関わりを持っている。人の作る社会は伝統を引きずる。伝統は何世代もかけて形成されるので、その弊を改めるにも人の一生を以て計るに超える時間を要することがある。だからその事業が成し遂げられなかったことは、天武天皇の失点に数えられるべきではない。晩年になっても焦りを見せず、功業を後世に託したことは、その構想の大きさを示している。こういう構想力のある人物は日本史に例が少ない。

 天武天皇が往生した時、鸕野うの皇后が詠んだ歌は『万葉集』に載せられている。

  八隅知之やすみしし 我大王之わごおほきみの(八隅知し 我ご大王の)
  暮去者ゆふされば 召賜良之めしたまふらし(暮去れば 召し賜ふらし)
  明来者あけくれば 問賜良志とひたまふらし(明け来れば 問ひ賜ふらし)
  神丘乃かむをかの 山之黄葉乎やまのもみちを(神丘の 山の黄葉を)
  今日毛鴨けふもかも 問給麻思とひたまはまし(今日もかも 問ひ給はまし)
  明日毛鴨あすもかも 召賜万旨めしたまはまし(明日もかも 召し賜はまし)
  其山乎そのやまを 振放見乍ふりさけみつつ(其の山を 振り放け見つつ)
  暮去者ゆふされば 綾哀あやにかなしみ(暮去れば あやに哀しみ)
  明来者あけくれば 裏佐備晩うらさびくらし(明け来れば うらさびくらし)
  荒妙乃あらたへの 衣之袖者ころものそでは(荒妙の 衣の袖は)
  乾時文無ふるときもなし(乾る時も無し)

 かく悲しみを歌いながら、皇后は後継体制について考えなければならない。

 鸕野皇后は、天智天皇蘇我氏遠智娘をちのいらつめの子である。草壁皇子くさかべのみこを産んだのは、大海人皇子との結婚から六年目、天智天皇の称制元年、筑紫国那の津にあって百済の役に臨む緊張した雰囲気の中でのことだった。天智天皇の末年、大海人皇子に従って吉野に入り、壬申の年、挙兵の謀議をともにした。天武天皇の治世二年、皇后に立てられ、天皇の政治を終始輔佐したといわれる。

 天武天皇崩御したあと、王朝を主宰する権利は皇后の手にあった。皇后はまず天皇の葬礼をその偉業にふさわしいだけ荘厳に執り行い、しかるのち確実に皇太子草壁を皇位に即かせなければならない。鸕野皇后は天智天皇が持った過ぎるほどの聡明さと果断さを受け継いだただ一人の子だった。もしこの時に当たって草壁皇子の妨げになる者があるとすればそれは誰か。天武天皇の死を好機として事を起こす動機が誰かにあるとすれば、それは天智天皇の遺児である川嶋かはしま施基しき両皇子ではないだろうか。少なくとも疑いをかける理由がなくはない。しかし皇后が睨んだのは、この二人ではない。それは皇后の姉の子、大津皇子おほつのみこである。

 朱鳥元年九月二十四日、天武天皇もがりがまさに始まろうという中にあって、宮廷には恐るべき隠謀が巡らされた。大津皇子が皇太子に謀反を企んだというのである。(続く)

天武天皇評伝(二十五) 権力と身分

 皇族と内外の貴族の身分をどう秩序付けるかということは、その治世を通じて、天武天皇が最も意を用いたことであったろう。この気遣わしい作業を進めるために、第一に注意しなければならないのは、壬申の年の勝利に貢献した功臣たちの処遇だった。功績ある者にはそれなりに報いなければならないが、それによって大を成させると今度は王権の伸張を妨害する存在に化けやすい。むかし漢の高祖が異姓諸侯王を冊立するそばから次々と取りつぶしたのもこれがためだった。この点において、日本王朝の功臣たちにとっては、壬申の乱が戦争としては小規模であったためにその功績も大きくなりすぎなかったことがむしろ幸いであり、天武天皇にとっては彼らがあまり長生きしてくれなかったことがかえって良かった。

 壬申の年の功臣たちは、天武天皇の治世二年五月、将軍吹負ふけひの配下となって活躍した坂本臣財さかもとのおみたからが卒したのを初めとして、早くに死んだ例が多い。主なものを挙げると、三年二月に紀臣阿閇麻呂きのおみあへまろ。四年六月に大分君恵尺おほきだのきみゑさか。五年六月に栗隈王くるくまのおほきみ朴井連雄君えのゐのむらじをきみ、七月に国連男依むらくにのむらじをより、八月に三輪君子首みわのきみこびと。八年三月に大分君稚臣おほきだのきみわかみ。十二年には六月に大伴連馬来田おほとものむらじまぐた高坂王たかさかのおほきみ、八月には大伴連吹負おほとものむらじふけひが相次いで死んだ。彼らの死は天武天皇の肩を軽くしたに違いない。天皇は自ら手を汚さなくて済んだ。歴史上、これは例外的な幸運である。

 身分秩序の整理は、まず“かばねを賜う”という形で具体化された。十三年十月、有名な“八色やくさの姓”が定められ、旧来の慣習的な姓が、真人まひと朝臣あそみ宿禰すくね忌寸いみき道師みちのしおみむらじ稲置いなきの六つに整理されて、その序列が明確になる。十四年正月には、天智称制三年制定の二十六階制の冠位を改めて四十八階制とした。これはただ階級を細かくしただけでなく、上位十二階は皇族のため、以下三十六階は諸臣の位として分離された。姓は家門ごとに天皇から与えられ、冠位は個人ごとに天皇から授けられる。貴族の身分は天皇との関係如何によって個別に決定されることになる。

 地位を与え、与えることで分断し、分断することで支配する。これが専制権力の原理である。天皇は貴族たちに、できるだけ小さい単位で、個別に手綱を懸けて、馬のように繋いでおくことができる。馬たちは天皇から身分を認められ、それが公的な地位として全国に通用する代わりに、勝手に勢力を扶植するわけにはいかない。馬たちはこのありがたい地位を守るため互いに互いを牽制するようにもなる。皇族と比べて貴族群の総数は遙かに多いとはいえ、貴族たちは個々別々に天皇の手に把握され、天皇から離れて力を集めることはできないはずだ。かつての葛城や蘇我のような大貴族ができることはもうあるまい。これはかなりの程度まで目論見どおりに実現されていくだろう。

 ところでここに付け加えておかなければならないことがある。藤原鎌足ふぢはらのかまたりの跡継ぎになるはずの次男不比等ふひとは、その父が四十をこしてから生まれた子であった。壬申の年には十四、五の少年であり、まだ出仕しなかったので、何も責任を問われるような地位になく、そのため身を滅ぼさずに済んだ。もし父がまだ健在であったら、もしくは不比等自身がもう何年か早く生まれていたら、大友皇子と運命をともにしなかったとは言えない。不比等が無傷で新時代を迎えたことが、やがて藤原氏の繁栄を招き、後世の歴史教科書に藤原の某という名前が大量に並ぶことにもなったのである。これはまだ先の話し。

 さて身分秩序の整理は、天武天皇の皇子たちの身の上にも関わってくる。後継者問題は、一つ間違えば王朝の命取りにもなる。それは天武天皇が一番よく知っている。治世八年五月、天武天皇鸕野うの皇后と六人の皇子を連れて吉野の離宮に出かけた。このときに呼ばれた皇子は、草壁くさかべ大津おほつ高市たけち忍壁おさかべと、あとの二人は天智天皇の子である川嶋かはしま施基しきである。大友皇子の腹違いの兄弟である両皇子は、天武天皇のもとでも皇子としての待遇を与えられている。大友皇子の子である葛野王かどののおほきみでさえ、罪を受けずに諸王の地位を認められていた。もっとも葛野は天武天皇にとっても孫に当たる。

 天武天皇は六皇子に向かって曰く、

「余は今日ここで汝らと誓いを立てて、後の世に災いがないようにしたいが、どうだ」

 皇子らの答えて曰く、

「ごもっともです」

 そこで草壁皇子がまず進み出て、

天神地祇及び天皇、証したまえ。吾ら兄弟長幼あわせて十余王は、各々異腹より出でたり、然れども同じきと異なりと別れず、ともに天皇の勅に随いて、相助けて背くこと無からん。もし今より後、この誓いの如くにあらずば、身命は亡び、子孫は絶えん。忘れじ、過たじ」

 と誓った。他の五皇子も、順次この通りに誓った。天皇が応じて、

「我が子らは各々異腹に生まれたり。然れども今は一母同産の如くに慈しまん」

 と言い、襟を開いて六皇子を抱き、

「もしこの誓いに違わば、たちまちに我が身を亡ぼさん」

 と誓った。皇后もまた天皇と同じく誓った。

 ここで「一母同産の如く」などと言った所を見ると、皇子の扱いを母親の出自によって分けることをやめるという宣言のようでもある。しかし天武の長男である高市をさしおいて、草壁が全皇子を代表していることは重要である。実際に十年二月、草壁は皇太子に立てられる。十四年正月の新冠位制施行にあたっても、草壁に浄広一、大津にその一つ下の浄大二、高市にはそのまた一つ下の浄広二が与えられ、皇后の子である草壁、皇后の姉の子である大津、胸形むなかた尼子娘あまごのいらつめの子である高市という序列が重ねて明確にされた。天武は高市の地位をできるだけ引き上げようとはしたが、しかし無理にまではしないという慎重さを決して忘れなかった。(続く)

天武天皇評伝(二十四) まだ見ぬ都城への道のり

 天武天皇の脳裡には、即位の当初から、本格的な都城の建設という構想があったに違いない。しかし天武天皇は急がない。そもそも都城は何のために必要か。それは見栄や満足のためではない。都城は法制度の容器である。法典の編纂は、すでに先代において近江令があったとはいえ、それがどのくらい効果的に用いられたかは疑わしい。法律は紙の上に書いてあるだけでは意味がなく、それがどう実際上の制度を形成するかは施行の如何による。律令のような煩瑣な成文法を十分に施行するには、役人の集団的な運用を必要とする。役人を必要なだけ働かせるためには、彼らを宮廷の近くに居住させるか、少なくとも長期間の滞在ができるようにしなくてはならない。そのための施設が都城である。まずはこの飛鳥を容器とし、内容を充実させていき、ここからあふれるまでになれば、多くの人が都城の必要性を理解し、進んでその建設に協力してくれるはずだ。

 都城の建設、即ち統治制度の完備に向けて、天武天皇が打った最初の布石は、治世二年五月の詔に、

「初めて出身せん者は、まず大舎人に仕えしめよ。しかる後にその才能を選択して、適当の職に充てよ。また婦女は、夫あると夫なきと及び長幼をも問うことなく、出仕せんと欲する者はゆるせ。その考選は男子の例に準じよ」

 という、畿内貴族の登用の法。次に四年二月の詔、

「甲子の年に諸氏に給えりし領民は、今より以後、みなこれを除く。また親王・諸王及び諸臣並びに諸寺などに賜えりし山沢・島浦・林野・陂池は、前後とも除く」

 さらに五年四月、

「外国の人で出仕せんと欲する者は、おみむらじ伴造とものみやつこの子、及び国造くにのみやつこの子はこれを聴せ。ただしこれ以下の庶人としても、その才能の長じたるはやはりこれを聴せ」

 という畿外諸国からの登官の法などと続く。

 さて天武天皇の五年は、唐は高宗の儀鳳元年、新羅は文武王の十六年に当たる。

 文武王は唐に対して硬軟両様、武力には武力を以て占領を退ける一方、外交的には飽くまで恭順の態度を執って高宗の天子たる矜持に訴え、その懐柔に努めてきた。唐は劉仁軌りうじんくゐ李謹行りきんかう薛仁貴せつじんくゐなどの名だたる将軍を差し向けたものの有効な勝利を得られない。文武王はこの頃までに旧百済領の全部と、旧高句麗領の南部に支配を固めることに成功した。高句麗北部は気候冷涼で土地の生産力が乏しく、取っても利得が少ない上に防衛線が伸び過ぎる。そこで新羅としてはほぼ平壌以南に満足する。北部は唐に与えてやればよい。守りを固めていれば唐と戦っても負けないことはこれまでの実績から確信している。

 高宗は、儀鳳二年、旧高句麗王の高蔵かうさうを遼東州都督・朝鮮王とし、また旧百済王子の扶余隆ふよりうを熊津都督・帯方王とし、ともに遼東の地に赴任させてわずかに名目を保つ。高宗は儀鳳三年にも新羅討伐を企図したが、侍中の張文瓘ちゃうぶんくゎんが病を押して謁見し、

「今は吐蕃チベツトあだなし、西へ兵を発して討とうとする所でございます。新羅が順わないといっても、未だかつて辺を犯したことはございません。もしまた東征なさるならば、臣が恐れるのは官民ともその弊に堪えないのではないかということにございます」

 と諫めたので沙汰止みとなった。

 こうして新羅は東方第一の強国として台頭する。恐るべきは百済高句麗を併合する経略を成功させた文武王の政治的能力であり、この人物を輩出した新羅の政治的風土である。日唐間の政治的交渉はこれまで百済を足がかりとして使節を往来させてきたので、壬申の年を最後として、新羅のために中断させられる。しかし日本と新羅の交渉は活発に行われ、互いに政情を探り合った。天武天皇にとって、この大国新羅の存在は、向こうにもあれだけの王権が出現したのだから、こちらはなおさら強大にならねばならぬ、そのためには貴族の特権をいくらか取り上げることも止むを得ぬという口実になる。

 治世五年、天武天皇新城にひきと呼ぶ所に都城の建設を始めようとし、区画に入る田地の耕作を放棄させることまでしたものの、まだ手を着けられないままになった。大事業であるだけに慎重を要するのだ。

 政治制度の整備は、七年十月の詔による内外文武官昇進の法、八年正月の身分別拝礼の法などを発布する。そうして十年二月、天皇は皇后とともに大極殿において南面し、親王・諸王・諸臣を召して、

「朕は今より新しく律令を定め法式を改めようと思う。故に汝らは倶にこのことを修めよ。されどもひたすらこれに専念すると、政事を欠くことがあろう。係を選んでこれに当てよ」

 と詔した。しかし法典の完成にはさらに長い年月が掛かることになる。

 この翌月には、川嶋皇子かはしまのみこ忍壁皇子おさかべのみこ広瀬王ひろせのおほきみ竹田王たけだのおほきみ桑田王くはたのおほきみ三野王みののおほきみ上毛野君三千かみつけののきみみちぢ忌部連首いむべのむらじおびと阿曇連稲敷あづみのむらじいなしき難波連大形なにはのむらじおほかた中臣連大嶋なかとみのむらじおほしま平群臣子首へぐりのおみこびとに詔して、「帝紀及び上古の諸事を記定」させる。これやがて『日本書紀』につながり、王権の正統性を証明して、政治制度に精神を与えるはずである。日本の新羅に対する優越性という、この時期の特殊事情から出た主張は、この修史事業の中で過去にまで投影されて、その歴史観を規定する大きな要素の一つになる。

 造都のことは、十一年三月一日、三野王らを新城の所に遣わしてその地形を観察させ、十六日には自ら出向いたが、やはりまだ手は着かない。首都の建設が始まらないうち、かえって十二年十二月、

「およそ都城・宮室は一所にあらず。かならず両参を造らん。故にまず難波に都つくらんと欲す。これにより百寮の者は各々往きて家地を請え」

 という詔があり、難波京を陪都、つまり副首都とすることになった。難波には孝徳王の時に営んだ王宮があり、西の諸国との交通において要港であることからも、すでにある程度の街区が形成されている。また八年十一月より難波に羅城を築くという準備もあって、ここに陪都を設定することは容易だった。十三年二月には三野王らを信濃国に遣わして地形を検視させたが、これもやはり陪都を置こうとの考えがあってのことだろう。

 望んだ首都はまだ影も形もない。それでも天武天皇は焦らない。この人物の構想壮大にしてしかも泰然としていることは、全てこのようだった。(続く)

天武天皇評伝(二十三) 日本王朝の成立

 『日本書紀』は、壬申の年を、天武天皇の元年として数える。天武天皇の即位は、二年二月二十七日である。天武天皇の二年は、唐の高宗の咸亨四年、新羅は文武王の十三年に当たる。

 天武天皇は正妃鸕野皇女うののひめみこを立てて皇后とした。鸕野皇女は天智天皇蘇我氏遠智娘をちのいらつめの子である。皇后は草壁皇子くさかべのみこを産んだ。

 また皇后の同腹の姉大田皇女おほたのひめみこを妃とし、大来皇女おほくのひめみこ大津皇子おほつのみこを産んだ。

 次の妃大江皇女おほえのひめみこは、天智天皇忍海造おしぬみのみやつこ色夫古娘しこぶこのいらつめの子で、長皇子ながのみこ弓削皇子ゆげのみこを産んだ。

 妃新田部皇女にひたべのひめみこは、天智天皇阿倍氏橘娘たちばなのいらつめの子で、人皇とねりのみこを産んだ。

 また夫人氷上娘ひかみのいらつめは、藤原鎌足の子で、但馬皇女たぢまのひめみこを産んだ。

 次の夫人五百重娘いほへのいらつめは、氷上娘の妹で、新田部皇子にひたべのみこを産んだ。

 夫人太蕤娘おほぬのいらつめは、蘇我赤兄の子で、穂積皇子ほづみのみこ紀皇女きのひめみこ田形皇女たかたのひめみこを産んだ。

 また額田王ぬかたのおほきみは、鏡王かがみのおほきみの子で、十市皇女とをちのひめみこを産んだ。

 胸形君徳善むなかたのきみとくぜんの子尼子娘あまこのいらつめは、高市皇子たけちのみこを産んだ。

 宍人臣大麻ししひとのおみおほまろの子榖媛娘かぢひめのいらつめは、忍壁皇子おさかべのみこ磯城皇子しきのみこ泊瀬部皇女はつせべのひめみこ託基皇女たきのひめみこを産んだ。

 ここ飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやに、天武天皇の新体制は発足した。天武天皇は最初に手を着ける事業として、三月、弘福寺に書生を集めて一切経の書写を始めさせる。続いて四月、大来皇女伊勢神宮に遣わすこととしてまず斎戒をさせる。伊勢の斎王の制はこれより常例となる。先年の挙兵に際して、天武天皇が天下を得るという兆しが天に現れたとか、天照大神を拝んだとかのことが、ここに活きてくる。つまりこの新体制の発足は、単なる政権交代ではなく、人知を超えたものに導かれた新しい王朝の誕生でなければならない。

 この意志は、海外に対しても明らかに示された。六月、新羅国からの使節が筑紫に到着する。使節は二団に分かれており、金承元こむじようごん金祗山こむぎせん霜雪しやうせちらは天武天皇の即位を祝う使い、金薩儒こむさちにゆう金池山こむぢせんらは天智天皇の喪を弔う使いとして来た。八月、金承元らは飛鳥に招かれ、金薩儒らは筑紫に留められる。このとき耽羅国の使者も筑紫に来ており、弔喪使を招かないことについて、筑紫太宰は天武天皇の意思を伝える。

天皇は、新たに天下を平定なさり、初の即位をされた。これにより、ただ賀使を除いて、その外は招かれないこと、汝らがその目で見たとおりだ」

 天武天皇は新王朝の初代君主であるから、滅ぼした所の旧体制に対する弔問は受け付けない、よってあなたがたも招かれない、というのである。

 ところで王朝には、秦・漢・隋・唐、のような名号が要る。それは王朝の交替によって改められうるものである。そこで“日本”を号として採用したのは、この頃のことだったと思われる。その意味は『旧唐書』東夷列伝に「其の国が日辺に在るを以て」とある通りだが、これは日本列島が世界全体の中で東に寄った位置にあるという認識を前提としている。日本人がこの段階でこのように自己の位置を相対化する観念を持ったことは、すでに数百年前から断続的ながら大陸との政治的関係を持ってきたことと、さらには仏教から読み取った世界観によってのことだろう。“日本”の確実とみてよい初出は、『旧唐書』武周の長安二年冬十月、「日本国が遣使して方物を貢した」というもので、このことは『続日本紀文武天皇慶雲元年秋七月の条、粟田朝臣真人が帰朝したという記事に併せて、次のように述べられている。

「初め唐に至る時、ある人が問うて曰く“どこの使いの者かね”、答えて曰く“日本国の使いなり”と」

 これはまだ、天武天皇即位より三十年ほど先のこと。

 こうして新体制が“革命”という形式をとって始められたことは、この王権の傘下に入る人々の身の上に、静かにしかし大きな変化を与えつつある。天武天皇に協力して壬申の乱を戦った貴族たちにしてみれば、それは既得権益を守るための戦いのつもりであったろう。今、それは一応安堵されたようでいながら、ただしそれは天皇によって“与えられた”ものに、いつのまにかすり替えられている。なぜなら全ては古い倭王朝の破綻とともに御破算となり、新しく日本王朝のもとに再編成されたのだから。天武天皇は、人々の保守的に傾く心理を利用しながら、実は最も重要な革新の種を確かに植え付けることに成功している。

 かつて大海人皇子が生まれた頃、この地にあった王権は、倭王家と蘇我大臣家の言わば並立政権だった。倭王家は貴族群の中の最も大なる貴族であり、倭王は貴族連合の盟主に過ぎなかった。今ここにある者は、昔日の倭国の王ではない。東の天下を統べる天子にして皇帝、かつ天皇である。

 こうして王権が拡張されることは、古代史的発展の結果として、世界の多くの地域に見られることであり、その意味では何も特別なことはない。しかしここには日本的な特徴も現れてきている。古代における王権の拡張は、古代的貴族層を没落させ、代わりに庶民の地位を向上させることがよくある。王者は庶民とより直接的に結び付き、人口の大多数に支えられて権力の集中を最大化させることができる。日本においては社会がまだそれを可能にするほど発達しておらず、古代的貴族層が変動を受けながらも王権を支え続ける。中国では漢の高祖劉邦もそうであるように、西漢の頃には低い身分からの成り上がり者が少なくない。東漢の代になると、家格が固定する傾向が次第に強くなり、改めて中世的貴族層が現れてくる。日本でも武家が中世的貴族層として新たに現れるが、古代的貴族層を継承する公家が並行して存続していくことになる。これはまだ先の話。(続く)

天武天皇評伝(二十二) 壬申の乱・四

 軍を率いて美濃国を出、近江国に攻め入った国連男依むらくにのむらじをよりらは、七月七日、国境の西息長おきながで大友方の軍と戦ってこれを破り、その将軍境部連薬さかひべのむらじくすりを斬った。大海人皇子おほしあまのみこ野上のがみ行宮かりみやで捷報を待っている。それから琵琶湖の東を南下して、九日には犬上のあたりで秦友足はだのともたりを討って斬り、ずっと南西に進んで、十三日には野洲川のほとりで戦って勝ち、社戸臣大口こそへのおみおほくち土師連千嶋はじのむらじちしまを捕虜にした。十七日にも栗太くるもとで戦って勝った。

 七月二十二日、男依らが瀬田川の東に到ると、川の西には敵軍が大いに陣を布いており、大友皇子おほとものみこが自ら出御し、左大臣蘇我臣赤兄そがのおみあかえ・右大臣中臣連金なかとみのむらじかねらも指揮に当たっている。大津宮に座して攻囲を待つよりは、守りやすい所に出て戦おうと考えたのだろう。その先鋒は将軍智尊ちそんなる者で、精鋭を選んで前を塞いでいる。瀬田川は琵琶湖の南端に注いでおり、当時としては珍しい橋というものが懸けられていた。智尊は瀬田橋の中ほどの板を切り取って断ち、代わりに人一人が乗れるほどの狭い長板を渡して、その板に綱を結わえ付けている。もし誰か渡ろうとする者があれば、板を引いて落としてしまおうというわけだ。

 男依の軍中では、勇敢な大分君稚臣おほきだのきみわかみが先鋒を申し出た。稚臣は長い矛を棄てて、刀だけを手に執り、走り込んで橋に懸けられた板を踏む。智尊の手の者が綱を引こうとしても間に合わない。稚臣はその板に着けられた綱を断ち、矢を受けながら敵陣に斬り込む。近江方の兵は列を乱して惑い、智尊は逃げようとする者を斬るという非常の手段にまで出たが、潰乱をとどめることはできない。ついに智尊も橋のほとりに斬られた。大友皇子や左右大臣らはどうにかこの場は逃れた。

 この日、北からは羽田公矢国はたのきみやくに出雲臣狛いづものおみこまが琵琶湖の西を南下して三尾城みをのきを攻め降した。西には大伴連吹負おほとものむらじふけひ配下の部将が軍を進めてきている。

 大友皇子は今や天下の孤児となり、どこにも帰る所がなくなった。行く手をすっかり遮られて山林に迷い込んだときには、かつて忠誠を誓ったはずの左右大臣や他の臣下たちともはぐれていた。ただわずかな舎人と物部連麻呂もののべのむらじまろだけが供をしていた。この人は実直であったらしい。こういう場合、亡国の主君には選ぶべき二つの道がある。たとえ単騎でも敵陣に討ち入って最後の死に花を咲かせるか、さもなくば自ら後ろ手に縛って折り目正しく降伏するかだ。しかし大友皇子は、無茶なことをするほどの英雄的気概や、さほどの行動の美学というものも持っていなかった。追い詰められた大友皇子は、山に隠れて自ら首をくくって死んだ。これは七月二十三日のことである。

 近江の朝廷のために戦おうとする者はもう誰もなかった、というより実態として朝廷はもう存在しなかった。二十四日に大海人方の将軍たちは大津宮のある篠浪ささなみの地に集まり、左右大臣や他の罪人を探し出して捕らえた。二十六日、将軍たちは野上の行宮に集い、大海人皇子の御前に大友皇子の頭を捧げた。大海人皇子が、この生きることのできない所に生まれ落ちてしまった哀れな子、罪なく死に追いやられた甥の首をどんな思いで看たかについては、何も伝えられていない。


 戦後間もないある日、尾張国小子部連鉏鉤ちひさこべのむらじさひちが山に隠れて自殺した。鉏鉤といえば、大海人が桑名から不破に向かう途上、二万という兵を率いて参上したので、いずれ賞に与るはずだった。しかし前後の事情を考え合わせてみると、鉏鉤の手勢は本来、近江の朝廷から天智天皇陵造営のためという名目で招集を命じられたものだったはずだ。だとすると、大友皇子にとっては、この二万の兵を得られなかったことは大きな打撃であったと思われる。だから鉏鉤の行動はあるいは裏切りと言われるものだったかもしれない。そのことと自殺との関係は不明である。大海人の甥の死に対する所感について『日本書紀』は何も語らないのに、鉏鉤の自死をいぶかしんだ言葉を載せている。

「鉏鉤は功ある者である。罪なくしてなぜ自殺したか。さて隠謀でもあったものか」


 野上の行宮では、大友方に味方した者の罪科の審定が行われた。八月二十五日、大海人皇子高市皇子に命じて、近江の群臣の罪状を読み上げさせた。右大臣中臣連金ら重罪八人は死刑、左大臣蘇我臣赤兄・御史大夫巨勢臣人こせのおみひと、及びその子孫、また金の子、御史大夫蘇我臣果安そがのおみはたやすの子は、みな配流とした。罰せられたのはこれだけで、他の者は全て寛恕を得た。功ある者には、二十七日、ひとまず恩勅が下された。冠位の加増が行われたのは十二月四日のことである。

 大海人皇子は来た道を引き返して、九月八日、伊勢の桑名に宿り、九日に鈴鹿、十日伊賀の阿閉、十一日名張を経て、倭国の飛鳥に還ったのは十二日である。この冬、かつて父舒明帝が営んだ岡本宮の南に、新たに王宮を造り、ここに遷った。これが飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやである。


 この壬申の乱という戦争は、関東から九州に至るまで、政治的には大きく影響することではあった。しかし実際の戦闘が行われたのは、近江・倭両国を中心とする地域に限られ、期間としても六月から七月にかけての一ヶ月ほどに過ぎない。戦闘が長期化せず、ごく短期に勝敗が決したことは、これがきわめて計画的な戦争であったことを物語っている。個別に見れば近江方が優勢を得た戦場もあったが、これは枝葉の勝利に過ぎず、戦略的には常に大海人皇子が主導権を握っており、大友皇子には戦術的に対処することしかさせなかった。孫子のいわゆる「勝兵はまず勝ってから戦いを始め、敗兵は戦いを始めてから勝ちを求める」というやつで、大海人皇子には危機を演出する余裕さえあり、大友皇子は戦う前から負けていたのである。このため百姓は生業を離れずにすみ、公費は空しく尽きることがなかった。戦争ほど場当たり的にやると酷いことになるというものはなく、こんな大局的頭脳のある指導者でなければ任せられないものである。


 後に太安万侶は『古事記』に格調高い序文を書き、大海人皇子を頌えた。


 「夢の歌を聞きてわざがむことをおもほし、夜のかはいたりてもとゐを承けむことを知りたまひき。然れども天の時は未だいたらざりしかば、蝉のごとく南山よしのもぬけ、人と事と共にりて、虎のごとく東国あづまに歩みたまふ。皇輿みこしたちまちすすみ、山川を浚ぎ渡り、六師みいくさいかづちのごとく震ひ、三軍たすけいなづまのごとく逝く。杖矛ながきほこいきほいを挙げ、猛士たけきひとけむりのごとくち、絳旗あかきはたつはものを耀かして、凶徒あしきあだは瓦のごとく解けぬ。未だ浹辰ときを移さずして、気沴けがれは自づからに清まりぬ。やうやく牛を放ち馬をいこへ、愷悌やはらぎ華夏やまとに帰り、はたを巻きほこおさめ、儛詠うたまひして都邑あすかに停まりたまふ。ほし大梁とりやどり、月は夾鐘きさらぎあたり、清原大宮きよみはらのおほみやにして、昇りて天位あまつひつぎしろしめしき」


 翌年二月二十七日、大海人皇子飛鳥浄御原宮に壇を設けて帝位に即いたが、これが天武天皇である。(続く)

天武天皇評伝(二十一) 壬申の乱・三

 大海人皇子おほしあまのみこが吉野宮を発った日、後から追って合流した黄書造大伴きふみのみやつこおほともが、大伴連馬来田おほとものむらじまぐたを連れていたことは前に述べた。この馬来田とその弟の吹負ふけひは、かねて政情を案じ、病を称して近江の朝廷を下がり、倭国の私邸に控えていた。そして潜かに吉野宮と消息を通じていたらしい。馬来田を見送った吹負は家に留まり、別に作戦を練っていた。それは飛鳥の旧都を近江方から奪うことである。

 飛鳥では、留守司とどまりまもるつかさ高坂王たかさかのきみが、近江から来た穂積臣百足ほづみのおみももたりと弟五百枝いほえ物部首日向もののべのおびとひむかとともに、法興寺の西の槻を中心に陣を結んでいた。ただ百足は近江へ補給する武具を発送するため、小墾田をはりだの兵器庫へ出かけた。これは六月二十九日のことである。ここに秦造熊はだのみやつこくまなる者が慌てた様子で馬に乗って寺に至り、陣営に向かって、

「不破より高市皇子たけちのみこのおこし! 大軍勢を従えてござるぞ」

 と唱えた。さてはと見れば、北の道よりそれらしい騎馬が迫ってくる。坂上直熊毛さかのうへのあたひくまけが内応して門を開くと、数十の騎兵が境内に討ち入ったが、これを率いているのは吹負である。高市皇子不破関を守っているからここに来るはずはない。しかし陣営の兵士たちはみな逃げ失せてしまった。五百枝と日向は拘禁され、高坂王はこれより大海人に従うこととなった。おそらく高坂王も前々から大海人に通じていて、五日前のことも駅鈴にかこつけて何か連絡をしたものだろうか。

 吹負は高市皇子の命令だとして百足を小墾田から呼び返した。百足は馬を遅く歩かせてゆるゆると来た。西の槻の下まで着くと、誰かが「馬から下りられい」と言った。百足がためらっていると、襟をつかんで引き堕とされ、射られて一矢が中り、刀で斬って殺された。

 吹負はさっそく大伴連安麻呂おほとものむらじやすまろ坂上直老さかのうへのあたひおきな佐味君宿那麻呂さみのきみすくなまろらを野上に遣って作戦の成功を奏上した。大海人は大いに喜び、そこで吹負を正式に将軍に任命した。これに呼応して、三輪君高市麻呂みわのきみたけちまろ鴨茂君蝦夷かものきみえみしといった有力者たちが、将軍の麾下に集った。吹負は人を選んで陣容を整えると、軍を率いて乃楽なら山へ向かったが、これは七月一日のことである。


 野上の行宮にいる大海人は、紀臣阿閇麻呂きのおみあへまろ多臣品治おほのおみほむぢ三輪君子首みわのきみこびと置始連菟おきそめのむらじうさぎを遣わし、数万と号する兵を率いて、伊勢国の大山から越えて倭国やまとのくにへ向かわせた。つまり大海人が吉野から桑名へ抜けた道を逆にたどるのである。また国連男依むらくにのむらじをより書首根麻呂ふみのおびとねまろ和珥部臣君手わにべのおみきみて胆香瓦臣安倍いかごのおみあへを遣わし、これも数万と号する兵を率い、不破から出て近江国へ攻め入るよう命じた。

 ところが干戈を交えるといっても同文同種同族同士なので、装備にも違いがない。そこで入り乱れて見分けがたいのを恐れて、衣の上に赤いものを着けさせることにした。これは大海人が自ら漢の高祖劉邦になぞらえたのだといわれる。しかし劉邦が微賤な身から至尊の位に登ったのに比べて、大海人はもともとやんごとなき身分である。むしろ屈折的比喩として近江体制を秦になぞらえ、その滅ぶべき運命にあることを示そうとしたものだろうか。

 品治は途中で三千の兵を分けて莿萩野たらのに駐まった。また別に田中臣足麻呂たなかのおみたりまろを遣わし、倉歴道くらふのみちを塞がせたが、これは近江と伊賀の国境に当たる。


 近江方では不破を襲撃しようと図り、山部王やまべのきみ御史大夫蘇我臣果安そがのおみはたやす巨勢臣人こせのおみひとが数万と号する兵を率いて犬上いぬかみ川のほとりに陣を張っていた。さても行軍は指揮が整えばこそ、果安と人は山部王を殺し、この乱れのため軍は進むことができなくなった。その上、どうしたことか果安までが自ら首を刺して死ぬということが続いた。山部王はおそらく内通の疑いをかけられたのだろうが、果安はどうして自殺したのだろうか。

 もともと果安は、蘇我氏が没落してうだつが上がらない所を、天智天皇に用いられて御史大夫にまで出世した。御史大夫は後の大納言に当たり、左右大臣の次に位する。大友皇子に忠義を誓ったのも、この恩に報いるという義務を負ったからである。しかしこれは蘇我一門全体から見れば、有能者の引き抜きによる勢力の切り崩しであった。だから前に蘇我安麻呂そがのやすまろが大海人のために忠告をしたように、蘇我氏もこの時に当たって両陣営に分かれていた。それに蘇我氏を没落させたのは、そもそも天智天皇その人ではないか。こうした矛盾は、ついに最終的事態に臨むことになったとき、その命に刃を突き付けるべきものであった。

 この事件を見て近江方の将軍羽田公矢国はたのきみやくにとその子大人うしらは、一族郎党を率いて大海人方に投降した。そこで大海人は改めて矢国を将軍に任じ、北のかた越国こしのくにへ入らせた。これは大津宮から敦賀へ逃げる道を塞いだのである。近江方はまた玉倉部たまくらべという所を攻めたが、大海人は出雲臣狛いづものおみこまを遣わしてこれを破った。近江の朝廷は逼塞させられつつあった。


 さてその頃、近江を窺うべく飛鳥から乃楽へ向かった大伴吹負は、途中で大友方へ加勢する軍が河内から倭へ入ろうとしていると聞いて、坂本臣財さかもとのおみたかららを竜田たつた山へ、佐味君宿那麻呂を大坂おほさか山へ、鴨君蝦夷石手いはて峠へ、それぞれ数百と号する軍を分けてその道を守らせた。竜田へ向かった財は、安城たかやすのきに近江側の兵士が駐屯しているのを見て、高安山へ登った。高安の城中では、財の軍が寄せてくると知ると、倉庫に火を着けてみな逃げ散ってしまった。よって城を占拠して宿り、翌七月二日、ほのかに明るむ頃合い、西の方を望めば、大津・丹比の道から向かって来る軍勢があり、その掲げる旗幟が明らかに見えた。誰かが「近江方の将軍壱伎史韓国いきのふびとからくにが軍なり」と言った。財らは城から下って衛我ゑが河を渡り、その西岸で韓国を迎え撃ったものの、兵が少なくて拒ぐことができず、懼坂かしこのさかまで退いて守った。

 このとき、河内国かふちのくにのみこともち来目臣塩篭くめのおみしほこは、大海人方に加勢しようと思い、兵士を集めていた。ここに韓国が到り、その謀を漏れ聞くと、塩篭を殺そうとした。塩篭は事が漏れたと知ると自殺した。


 七月四日、乃楽山に布陣する大伴連吹負は、近江方の将軍大野君果安おほののきみはたやすの攻撃を受けた。河内方面に兵を割いていたためか、防ぐことができず、兵卒はみな逃げ、吹負もわずかな従士とともにようやく脱れた。果安は、追って飛鳥の旧都に迫り、丘に登ってその方を覗うと、辺りには多くの盾が立っていて、いかにも守りが堅そうに見えた。それで思い切って攻め込むことができず、伏兵を警戒しながらようよう引き揚げてしまった。これは荒田尾直赤麻呂あらたをのあたひあかまろが気を利かせて、橋を壊してその板を盾に仕立て、守りが多いように見せかけておいたのだった。

 敗走した吹負は、宇陀の墨坂でたまたま援軍の先鋒置始連菟が来るのに逢い、力を合わせて反転し、散った兵卒を招き集めた。同じ頃、坂本臣財らは壱伎史韓国に抗うことができず、河内国境から撤退していた。吹負は河内から近江方の軍が攻め入ったと聞き、軍を率いて西へ向かった。葛城の当麻に到り、韓国の軍を迎えて戦った。ときに吹負の軍中には来目くめなる勇士があり、刀を抜いてたちまちに敵軍へ切り入った。味方が踵を連ねて後に続けば、近江方は陣を崩して逃げ、追って多くの兵士を斬った。将軍吹負は軍中に号令して、

「この兵を興したのはそもそも百姓を殺すためではない。元凶を討つためなのだ。みだりに殺してはならぬぞ」

 と言った。ここに韓国は軍勢から離れてひとり逃げた。吹負は遙かにこれを望み、来目に命じてこれを射させた。惜しいかな矢は命中せず、韓国は走って逃げ切ることができた。

 吹負が飛鳥の本営に帰還すると、紀臣阿閇麻呂らの援軍が陸続と到着しつつあった。そこで諸軍を上・中・下の三道に配置して敵襲に備えさせた。この三道は奈良盆地を南北に縦貫している。ここに近江方の部将廬井造鯨いほゐのみやつこくぢらは、二百の精兵を率いて、中つ道に陣を張った吹負を襲った。吹負はまた直属の兵士が少なくて拒げそうになかった。大井寺の下僕なる徳麻呂とこまろら五人その陣中にあり、矛をも恐れず進み出て矢を雨と射かけ、鯨軍の足を止めた。このとき置始連菟らは、上つ道に近江方と戦ってこれを破り、勢いに乗って鯨軍の後方を絶った。このため鯨の軍は潰走し、鯨も馬に鞭して逃げた。ところが思わず水田に入り、重い馬体の細い脚が泥に取られて行き悩んだ。さあ将軍吹負、傍らにあった甲斐国の勇者某に、

「あの白馬に乗ったるは、廬井鯨なるぞ。さあ射て射て」

 と仰せつけると、勇者某は足も置き去りにせんばかりに駈けて追いかけ、鯨に矢の届く頃おい、鯨は思い切って馬にしたたか鞭を打ちつけると、馬は跳び上がって泥を出た。鯨はやっと駆け抜けて難を免れることができた。


 七月五日の夜遅く、近江と伊賀の国境なる倉歴道を守る田中臣足麻呂は、近江方の将軍田辺小隅たなへのをすみの襲撃を受けた。小隅の軍は鹿深かふか山を越えて、鳴りを静めて突然に攻め入った。小隅は敵味方を見分けにくいことを恐れて、あらかじめ合い言葉を決めておいた。刀を抜いて殴りつけ、「かね」と言えば味方、言わなければ斬るのである。足麻呂の陣は夜襲に乱れ、なすすべがなかった。ただ足麻呂だけは合い言葉に気付き、「金」と唱えてようやっと免れた。六日、小隅は莿萩野の陣を襲わんとして速やかに迫った。しかし多臣品治はこれを迎え撃って遮り、精鋭を率いて追い散らした。小隅はひとり免れて逃げた。

 近江方から積極的に動いたのはこれが最後となった。(続く)

天武天皇評伝(二十) 壬申の乱・二

 近江の朝廷では、大海人皇子おほしあまのみこ東国あづまのくにに入ったということが聞こえると、動揺する者が多く、ある人は抜けがけして東国へ奔ろうとし、またある人は逃げて山谷に隠れようとしたという。

 そこで大友皇子おほとものみこは側近に、

「いまどう計るときであろう」

 と問うと、ある大夫が進んで、

「遅く謀れば後れを取りましょう。すぐに集められるだけの精鋭をそろえ跡を追って撃つに越したことはありますまいぞ」

 と献策した。近江方はすでに後手に回っている。今はたとえ味方の兵が少ないとしても、敵が十分の布陣をする前に早く叩くのがよい。これは上策であっただろう。この人の名前が記録されていないのは遺憾である。しかし大友はこの上策を用いることができず、自ら別の案を出して実行した。即ち韋那公磐鍬ゐなのきみいはすき書直薬ふみのあたひくすり忍坂直大摩侶おしさかのあたひおほまろを東国へ、穂積臣百足ほづみのおみももたりと弟五百枝いほえ物部首日向もののべのおびとひむかを飛鳥へ、佐伯連男さへきのむらじをとこを筑紫へ、樟使主磐手くすのおみいはてを吉備へ遣わし、諸国の兵を興させることにした。よって男と磐手に語って、

「筑紫太宰栗隈王くるくまのきみ吉備国当摩公広嶋たぎまのきみひろしまの二人は、もとから叔父に近いらしい。きっと叛くかもしれぬ。もし不服を顔に出しでもすれば、すぐに殺せ」

 と命じた。


 佐伯連男は筑紫大宰府に至ると、栗隈王に発兵を命じる官符を渡した。栗隈王は官符を受け取ったが、

筑紫国はもともと辺賊の難を防ぐものである。みよ、壁を高くし、溝を深くして、海に臨んで守るのは、どうして内乱のためであろう。ここで命令を請けて軍を貸せば、ここの守りは空しくなる。もしその間に何かあったらどうするのだ。取り返しの付かないことになってから余を百ぺん殺しても間に合うまいぞ。何も朝廷に背こうというのではないが、たやすく兵を動かせないのは、理由のあることなのだからな」

 と答えて譲らない。ときに栗隈王の二人の子、三野王みののきみ武家たけいへのきみが油断なく剣を佩き父の脇に立って動かない。男は剣に手をかけて進もうとしたものの、かえって殺されることを恐れ、使命を果たすことができず、とぼとぼと引き返した。

 吉備に赴いた樟使主磐手は、官符を渡す日、広嶋を欺いて刀を置かせ、そうして自分は刀を抜いて広嶋を斬った。しかし広嶋一人を殺したところで、吉備の軍団を動かして近江へ救援に駆けつけることはできなかった。何のことはない、どこもかしこも大海人方の根回しがとっくに回っていたのだ。

 東国へ向かった三人は、不破に入る頃、磐鍬だけ茂みにでも伏兵があることを危ぶみ、わざと遅れてゆるゆると進んだ。果たして伏兵が暗がりから躍り出て、薬らの後ろを絶った。磐鍬は薬らが捕らわれたのをみて、たちまち引っ返して逃げ、やっとの思いで免れることができた。


 二十七日、不破の高市皇子たけちのみこは、桑名にいる父大海人皇子に使いを遣わして、

「ここは居られる所に遠く、軍政を行うのに御相談もできません。どうか近くにいらしてください」

 と奏上した。その日に大海人は妃を桑名に留めて不破へ向かった。不破郡庁に及ぶ頃、尾張国小子部連鉏鉤ちひさこべのむらじさひちが二万と号する兵を率いて帰順した。大海人はこれを褒め、その軍を分けて要所々々の道を塞がせることとした。不破郡野上のがみに到ると、高市が関から出て父を迎えた。この辺りはあたかも後に関ヶ原と呼ばれる土地である。高市は近江方の使者書直薬・忍坂直大摩侶を捕らえたことを報告した。

 ところでここ不破郡には唐人が住んでいた。この唐人というのは、かつて百済の鬼室福信が救援を請うてきたとき、てみやげにに献上した捕虜百六人である。あるいは別の機会に捕虜になった者もあったらしく、それもこの土地に配置されていたとすれば、その人数はもっと多かったかもしれない。彼らは大陸に還っても大した待遇は受けられないが、この列島ではちょっと漢字漢文の読み書きができるというだけでもまだ重宝された時代である。こうした中にはちょっとどころではない知識人も混じっていて、続守言しよくしうげん薩弘恪さつこうかくという二人は、後に音博士こゑのはかせという役職に就く。弘恪は大宝律令の選定にも参加する。彼らが日本文化の底上げに果たした役割は、決して軽く視るべきものでないということを、特に付け加えておきたい。しかしそれはまだ先の話。

 このとき、大海人は唐人に問うて曰わく、

「汝らの故郷は戦争の多い土地であろう。必ず戦術を知っていよう。今どうすべきか申してみよ」

 ある人が進み出て、

「唐ではまず斥候をやって地形や消息を探らせ、それから軍を進めます」

 云々と一般論的に答えた。彼らは軍人としてはヒラの兵士に過ぎなかったのだろう。そこで大海人は高市に語りかけて、

「近江の朝廷では左右大臣や智謀の群臣がそろって会議していように、余には与に事を計る者がない。ただおまえたちがいるだけだ。さあどうしよう」

 高市は腕をぶして刀の柄に手をかけ、

「近江の群臣が多いといっても、なんで皇位に即くべき父上の威風に逆らえましょう。わたくし天神地祇のお力を借り、父上の勅命を請けて、諸々の将軍を率い、討ち払ってご覧に入れます。どうして防ぐすべがありましょうか」

 この年十九歳になる高市皇子はけなげだった。母親は筑紫の豪族胸形君徳善むなかたのきみとくぜんの息女尼子娘あまこのいらつめであり、その立場はむしろ伊賀の采女宅子やかこを母に持つ大友皇子に似た所がある。しかも大海人には王族の女性との間に生まれた男子が、高市よりも年少ではありながら育ってきている。それは草壁くさかべ大津おほつなが弓削ゆげ舎人とねりといった皇子たちである。従ってここで手柄を立てても将来の見込みはあまり多くを望めない。功績などあればあるほど、なおさら命の危険を増すことになるかもしれないのだ。

 しかし大海人は高市の心意気を誉め、手を取って背をかき撫で、「決して怠るのではないぞ」と教え、鞍のせた馬を賜り、軍のことを全て任せた。まあ名誉総帥といった所で、実際にはこの直後にも大海人自身が軍を指導している。高市は関に戻り、大海人は野上に行宮かりみやを定めてここに留まった。

 この夜、雷雨が激しくなり、大海人は祈誓して、

「天よ地よ、もし我を扶けたまう御心あらば、かみなり雨ふることをばめよ」

 と曰い、言い了わるとすぐに雷雨はやんだという。されば天神地祇大海人皇子に天下を任せようとしている。こういったことも宣伝し、味方の士気は高め、相手の戦意は挫いていこうというのだ。(続く)