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天武天皇評伝(六) 戦争と外交の季節

 倭国の孝徳王政権が大化と年号を立てて新しい政策の展開に乗り出した頃、唐の太宗が率いる親征軍は、高句麗の安市城に迫っていた。唐の貞観十九年八月。年頭に開始された唐の高句麗遠征は、ここまでは順調に見えた。ところが意外、安市城の守りは堅かった。太宗が兵士を督責するために前線を巡り、皇帝の旗さしものが見えると、そのたびごとに城中からは鳴りもの入りの騒ぎ声が飛んだ。それで太宗がはなはだ怒ったので、将軍の李世勣がなだめようとして、

「この城を破った日には、中の男どもは皆殺しにしてやりましょう」

 と言ったのがまたまずかった。城中にこの言葉が伝わると、どうせ命を賭けるなら戦って散ればこそと、さらに必死の抗戦をした。唐がああ攻めれば高句麗はこう守るということを繰り返している内に、気候が冷たくなってきた。

 九月も近付くと、この地方の秋は中国人には寒すぎる。特に江南から徴発された兵士には骨も縮まんばかり。やがて草は枯れ水は凍り、糧食も尽きようとしていた。補給のためには隋の煬帝が掘っておいてくれた大運河があり、物資の豊富な呉越地方から軍需品を運ぶのは便利になったが、それでも長距離の輸送に多大な費用がかかることには変わりない。太宗はついに撤退しなければならなくなった。十月、帰りの行軍は暴風雪に襲われ、湿った重い雪のために死者を増やし、退路のみじめさに追い打ちをかけたのだった。

 この年の暮れ、孝徳王政権が難波へ王宮を遷したのは、海外からの情報を少しでも早く政治に反映させるためだろうか。

 翌大化二年正月元日。日本書紀の大化年間の記事には、詔文の引用という形になっているところが多いが、この日のものは特に「改新の詔」と題名まで付いているので名高い。ただ文面は律令成立後の知識によって書き直されていることは明らかで、他の詔と重複する内容も見え、この時期に行おうとしたことの総まとめ、所信表明演説のような感じがある。その内容は大きく分けて四条から成っている。それは、

  1. 王や貴族が個別に人民や土地を領有することをやめ、全て国家に帰属すべきこと。
  2. 京師・畿内の制度を整備すること。
  3. 戸籍・計帳・班田収授の法を造り、租を徴収すべきこと。
  4. 田地の調・戸別の調を徴収し、また一定の割合で官馬・兵器・仕丁・采女を拠出させるべきこと。

 といったことだった。これらのことはこの命令によってすぐに実行されたというものではなく、これをいかに実現するかということがこの先の課題となり、歴史を造っていくことになる。むしろその反面、こうでなかったというということで、当時までの伝統的な王権の実態がうかがえる。

 倭の大化二年は唐の貞観二十年、太宗が長安に着く頃を見澄まして、高句麗は形ばかりの“謝罪”の使節を送った。このたびの戦争は事実上唐の失敗、高句麗の勝利である。高句麗には謝罪などする必要はない。太宗にとっては謝罪を受ければ手ぶらで帰ったのではないということで顔は立つが、負けを勝ちと替えてもらうという恩を受けることにもなる。太宗は献上された二人の美女を返したが、連戦に及ぶのは翌年まで待たなければならなかった。これは高句麗の権臣いり蓋蘇文かすみの、相手の弱みを見透かしたしたたかな外交術なのだ。外交をおろそかにして戦争はできないものである。

 この年、倭国高向玄理たかむくのぐゑんり黒麻呂くろまろ)を新羅に派遣して、新羅王から“質”を送らせるのとともに、“任那の調”を廃止することとした。大化三年、新羅の真徳王は孫の春秋を送使として玄理が帰るのに付けて倭国に派遣した。倭国では春秋を留めて“質”とした。ただし春秋はその翌年までには帰国しており、通常の使節と変わりがなく、“質”としての実態はない。日本書紀編纂の立場からする言葉遣いの操作があるだろう。

 貞観二十一年、慎重になった太宗は親征を思いとどまり、将軍を派遣して高句麗領に侵入させたが、比較的小規模なもので、はかばかしい戦果はなかったらしい。二十二年にも出兵をした。太宗としてはじわじわと高句麗を疲れさせ、明年を期して大軍を興し今度こそ攻め滅ぼすつもりだった。ところがまだ実行に移さない内、二十三年の三月頃から病気にかかり、五月に崩御した。このため東征の計画も中止された。

 太宗が死ぬまで高句麗との戦争にこだわった理由の一つは内地の問題にあった。中国社会は魏晋南北朝時代の分裂的傾向がこの時期にもまだ内在しており、それを唐という統一王朝がまとめることによって生じる歪みをどこかへ逃がさなければならなかった。太宗には漢の版図を数百年ぶりに回復した皇帝として名を遺したいという欲もあったろうし、またそうすることで一層内政を引き締めたいということもあったのだろう。こうしたことはかつて高句麗を攻めてくりかえし失敗した隋にとっても同じことだった。

 内政上の理由で対外戦争を行うということは、現代でもしばしばあるが、たいてい碌なことにはならない。隋や唐がそんなことで戦争をするなら、高句麗はこれに備えるためにどんなことでもしなければならない。唐に備えるには新羅の頭を抑えておかなくてはならず、そのためには百済と連合しなくてはならず、そうすると百済との関係が深い倭国も引き込まれなければならないことになる。そして内政のために外国と戦争をしても良いという暗い模範が示されることにもなるのだ。

 これより前、貞観二十二年、新羅に帰った春秋はまた唐に使いした。春秋は太宗に気に入られ、特進の位を授かった。これまで外交に奔走してきた春秋は、これより真徳王のもとで内政の改革に腕を振るう。二十三年、新羅は始めて唐の服制を採用する。その翌年には、六世紀前半の法興王の代から用いてきた独自の年号をやめ、唐の年号を行うこととした。新羅の利益のために唐を引き込もうとする、これもまたしたたかな外交術と言うべきだった。

 倭国では、大化三年から五年にかけて、推古王の時に定めた十二階の冠位を改め、十九階制の新しい冠位を作った。外交が繁くなってきたことに対応し、我が国の何位が彼の国の何位に相当するかを整理しなおしたもので、外政の新しい段階が到来したことを宣言するものでもあった。(続く)