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プロレスリングの歴史と経済 ~体力/試合数*期待値~

 1896年、第一回近代オリンピックがアテネで開かれ、その中でグレコローマン・スタイルレスリングが行われたのが、いわゆるアマチュアレスリングの始まりとされる。フリースタイルは1904年のセントルイス大会で導入された。当初のアマレスのルールは、当時のプロレスリングから一部の危険と見なされた要素を除いただけで、他はほとんど同じだったという。ここからアマレスが現在に至るまで大きく変化したこと、またプロレスも現在のスタイルとは大きく異なるものだったことが察せられる。現在のプロレスからアマレスが派生することは考えられそうにない。ではプロレスはなぜ、どのようにして現在のかたちに変化してきたのだろうか。

 かつてのレスリングは、時間制限や判定などはなく、決着が付くまで延々と闘うのが本式だった。1916年に出版された『How To Wrestle』に次の記述がある。

体育競技の多くの他の種目では、動く時間は、ルールとして、短く、休憩ができるインターバルによって分けられているが、レスリングの試合は十五分で終わるか一時間続くかわからず、その全ての瞬間は困難な仕事に費やされる。

 実際、1881年に行われたウィリアム・マルドゥーン対クラレンス・ホイッスラーの試合は7時間15分を経てやむなく引き分けとなったし、1912年ストックホルム五輪のアンデルス・アールグレン対イヴァル・ボエリングは9時間闘って両者に銀メダルが与えられた。オリンピックはともかくとして、プロの試合でこれが興業として成立したのは、19世紀的な未来への楽観的な雰囲気の中でのことだった。19世紀的なプロレスの時代は、20世紀初頭までは続いた。当時のレスラーがどう試合に対応していたかを示す記述が『How To Wrestle』にある。

レスラーの練習活動は大会の性質と予期される勝負までの時間の重要さによって変化するべきである。その一ヶ月より前になると、男は中程度の要求される反復から始めて、試合が決められた時が近付くのに連れて活動の量と厳しさを徐々に増やさなければならない。練習期間が二週間を切るほどになると、当然、より高度な技法を伴う準備を始める必要がある。普通のプロレスラーは、どんな時も軽い練習をやめることは滅多にない。彼らは急な連絡でも速やかにリングに上がれる様に、試合が決まっていない時でさえ相当な状態を保つ様に常に気を付けている。

 これによると、プロではないレスラーは多くても一ヶ月に一回程度の試合を行いうるのが普通だった。しかしプロレスラーとなると、金を稼ぐためにより多くの試合をこなし、不意の出場依頼にも応えていたことが窺われる。ここで注意されるのは、試合数の増加によって一試合あたりに消費できる体力が小さくなることである。つまりレスラーが一試合に消費できる体力は、一定期間に用いることのできる体力の総量を、その期間内に求められる試合数で割った値である。これは試合数の増加が試合の質を低下させることを予想させる。しかしこれは試合数の増加が甚大でないうちは、レスラーの鍛錬によって吸収されるだろう。試合数の増加は、レスラーが一試合あたりに得られる報酬が高いほど抑制される。レスラーが得る報酬の高さは、観客や後援者が一試合あたりにどれだけの価値を認めるかで決まるだろう。試合数の増加が甚大にならなかった時期は、まだ19世紀的プロレスに十分な価値が認められていた時期である。

 ところが1920年代に入ると、経済や国際関係などの問題が影響して、のんびりレスリングを楽しめる環境が失われてくる。人々はもはや何時間かかるかも分からない大会、しかも面白いとは限らない試合を観に行く価値を認めなくなってくる。認められる価値の低下は、試合数増加の抑制を緩め、同時に一試合あたりに消費する体力を抑制し、試合の質を低下させる可能性を生む。これは観客の満足度を低下させ、なおさら価値の低下に歯止めが利かなくなる危険をはらむ。新しい観客の嗜好は試合時間と満足度の確実性を望んでいる。しかしレスラーやプロモーターたちは巧妙な手法で試合時間の不確実性を減らし、同時に満足度を高めることにも成功した。体力量を試合数で割り、その中で可能なスタイルをうまく選択できたのである。ここにプロレスの新しい時代が開かれることとなった。

 次に訪れた大きな変化は、1950年代、敗戦後の日本にプロレスが導入されたことから始まる。相撲や柔術の伝統を受け継いだ日本のレスラーは、プロレスに受け身の概念と技術を確立し発達させた。これはレスラーの交流を通してアメリカやメキシコにも大きな影響を及ぼす。受け身の存在はより大きな動きのある技の使用をより容易にし、観客に新たな驚きを与えた。大技を使うことで映像映えも良くなり、テレビ時代の波に乗ってプロレス人気を拡大させた。

 ところで受け身とはそもそも身を守るための技術だが、受け身の存在を前提にすることはより危険性の高い技の使用を促進した。特に1990年代以降の日本プロレス界では、有力な競合商品としての総合格闘技の勃興がこの傾向を顕著にさせ、過激なプロレスが一世を風靡した。技の過激化は受け身を取る技術の向上によって吸収できる範囲を超え、体力消費の増加を招いた。総合格闘技の人気が頂点に達した2000年前後、プロレスラーのこなす試合数は減少する傾向にあったが、人気の低落を伴っていたこともあり、一大会あたりの収益を増やすのは困難な状況だった。こうした深刻なプロレス不況の中で、レスラーは好ましくない状況に置かれ、試合中に重大な傷害を負う選手も出た。この時期の傾向は、総合格闘技が凋落した2010年代にも影響を残した。

 近年、新日本プロレスの努力による人気回復は、主要なレスラーの身体的負担を増大させている。1980年代の人気レスラーは年間200試合以上をこなすこともあったと聞くが、観客の期待値が変化しているため、その試合数を単純に今のレスラーに要求することはできない。考えられる対策の一つは、団体の努力によって一選手あたりの試合数を抑制することだが、もう一つは観客を成長させることだろう。

 この場合参考になるのはメキシコの老舗団体 CMLL である。CMLL の大会を観ると、その華やかな雰囲気と比べて、試合内容は意外と地味なもので、基礎的な技術が生み出す展開の豊富なバリエーションを見ることができる。CMLL は非常に多くの選手を抱え、大会も多く開いている。すると大きな技や大きな動きの連発ではすぐ飽きられてしまう。観客にも目の肥えた人が多いので、底堅い内容が求められ、それによってルチャ・リブレが日常的娯楽としての地位を獲得できている。日本ではまだたまにしかプロレスを見ない観客の目を驚かせる必要があり、それが選手の危険に繋がる要因になっているようである。選手の安全と、事業の持続性のためにも、この点を課題として認識し、解決していくことが望まれている。