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梅原猛さんの訃報

 哲学者の梅原猛さんが去る1月12日に亡くなられた。
 梅原さんは日本の歴史や文化にも造詣の深い方で、その関係の著書が祖父の蔵書にあったので私も何冊か読む機会を得た。その印象では、梅原さんの長所は、通説や常識に囚われない着眼の鋭さ、研究に打ち込む情熱の強さにある。一方で、対象に思い入れをしすぎて前のめりになる欠点も持っていた。
 今度の訃報でも代表作として挙げられている『隠された十字架』は、法隆寺聖徳太子についての論考で、1972年に一冊の単行本として出版された。

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

 

その数年後にももう一度聖徳太子論を書いている。この方は四冊の厚い本になった大変な労作なのだが、思い入れが深まりすぎて勢い表現が文学的になり、私などはちょっと引いてしまう様な所もあった。

聖徳太子 1 (集英社文庫)

聖徳太子 1 (集英社文庫)

 


 こういう態度は学者としてどうかとは思うのだが、罪のないおかしさというか、根底に人としての優しさを感じるので憎めないのが梅原さんの魅力だったと思う。梅原さんが何か言えば、梅原さんの意見が正しいかどうかは別としても、そこに注意すべき何ものかがあるのではないかと思わせる所があった。
 こういう梅原さんの魅力は周囲の人々を刺戟した。それで私は梅原さんの単著よりも、対談やシンポジウムを本にしたものの方がとびきり面白いと思う。私が読んだ中では、1979年の『万葉を考える』が、日本語の文章表現を考える上でも示唆に富むものだった。

万葉を考える (1979年)

万葉を考える (1979年)

 


 また、北海道民として立場から忘れられないものに『アイヌと古代日本』がある。梅原さんのアイヌ語・日本語同系論は、例によって前のめりに過ぎるのだが、金田一京助の「日本語は膠着語アイヌ語抱合語だから系統的関係はない」という説が通説的認識になっていた状況の中では、一定の意味のある主張だっただろう。

今日の言語学では、膠着語であり抱合語であるといったことは、言語の系統を分ける要素であるとは見なされていないというし、日本語とアイヌ語の間に、五千年とか八千年といったくらいの距離を考えれば、共通の祖語から分かれた可能性は無視できないものと認められる様だ。