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天武天皇評伝(二十一) 壬申の乱・三

 大海人皇子おほしあまのみこが吉野宮を発った日、後から追って合流した黄書造大伴きふみのみやつこおほともが、大伴連馬来田おほとものむらじまぐたを連れていたことは前に述べた。この馬来田とその弟の吹負ふけひは、かねて政情を案じ、病を称して近江の朝廷を下がり、倭国の私邸に控えていた。そして潜かに吉野宮と消息を通じていたらしい。馬来田を見送った吹負は家に留まり、別に作戦を練っていた。それは飛鳥の旧都を近江方から奪うことである。

 飛鳥では、留守司とどまりまもるつかさ高坂王たかさかのきみが、近江から来た穂積臣百足ほづみのおみももたりと弟五百枝いほえ物部首日向もののべのおびとひむかとともに、法興寺の西の槻を中心に陣を結んでいた。ただ百足は近江へ補給する武具を発送するため、小墾田をはりだの兵器庫へ出かけた。これは六月二十九日のことである。ここに秦造熊はだのみやつこくまなる者が慌てた様子で馬に乗って寺に至り、陣営に向かって、

「不破より高市皇子たけちのみこのおこし! 大軍勢を従えてござるぞ」

 と唱えた。さてはと見れば、北の道よりそれらしい騎馬が迫ってくる。坂上直熊毛さかのうへのあたひくまけが内応して門を開くと、数十の騎兵が境内に討ち入ったが、これを率いているのは吹負である。高市皇子不破関を守っているからここに来るはずはない。しかし陣営の兵士たちはみな逃げ失せてしまった。五百枝と日向は拘禁され、高坂王はこれより大海人に従うこととなった。おそらく高坂王も前々から大海人に通じていて、五日前のことも駅鈴にかこつけて何か連絡をしたものだろうか。

 吹負は高市皇子の命令だとして百足を小墾田から呼び返した。百足は馬を遅く歩かせてゆるゆると来た。西の槻の下まで着くと、誰かが「馬から下りられい」と言った。百足がためらっていると、襟をつかんで引き堕とされ、射られて一矢が中り、刀で斬って殺された。

 吹負はさっそく大伴連安麻呂おほとものむらじやすまろ坂上直老さかのうへのあたひおきな佐味君宿那麻呂さみのきみすくなまろらを野上に遣って作戦の成功を奏上した。大海人は大いに喜び、そこで吹負を正式に将軍に任命した。これに呼応して、三輪君高市麻呂みわのきみたけちまろ鴨茂君蝦夷かものきみえみしといった有力者たちが、将軍の麾下に集った。吹負は人を選んで陣容を整えると、軍を率いて乃楽なら山へ向かったが、これは七月一日のことである。


 野上の行宮にいる大海人は、紀臣阿閇麻呂きのおみあへまろ多臣品治おほのおみほむぢ三輪君子首みわのきみこびと置始連菟おきそめのむらじうさぎを遣わし、数万と号する兵を率いて、伊勢国の大山から越えて倭国やまとのくにへ向かわせた。つまり大海人が吉野から桑名へ抜けた道を逆にたどるのである。また国連男依むらくにのむらじをより書首根麻呂ふみのおびとねまろ和珥部臣君手わにべのおみきみて胆香瓦臣安倍いかごのおみあへを遣わし、これも数万と号する兵を率い、不破から出て近江国へ攻め入るよう命じた。

 ところが干戈を交えるといっても同文同種同族同士なので、装備にも違いがない。そこで入り乱れて見分けがたいのを恐れて、衣の上に赤いものを着けさせることにした。これは大海人が自ら漢の高祖劉邦になぞらえたのだといわれる。しかし劉邦が微賤な身から至尊の位に登ったのに比べて、大海人はもともとやんごとなき身分である。むしろ屈折的比喩として近江体制を秦になぞらえ、その滅ぶべき運命にあることを示そうとしたものだろうか。

 品治は途中で三千の兵を分けて莿萩野たらのに駐まった。また別に田中臣足麻呂たなかのおみたりまろを遣わし、倉歴道くらふのみちを塞がせたが、これは近江と伊賀の国境に当たる。


 近江方では不破を襲撃しようと図り、山部王やまべのきみ御史大夫蘇我臣果安そがのおみはたやす巨勢臣人こせのおみひとが数万と号する兵を率いて犬上いぬかみ川のほとりに陣を張っていた。さても行軍は指揮が整えばこそ、果安と人は山部王を殺し、この乱れのため軍は進むことができなくなった。その上、どうしたことか果安までが自ら首を刺して死ぬということが続いた。山部王はおそらく内通の疑いをかけられたのだろうが、果安はどうして自殺したのだろうか。

 もともと果安は、蘇我氏が没落してうだつが上がらない所を、天智天皇に用いられて御史大夫にまで出世した。御史大夫は後の大納言に当たり、左右大臣の次に位する。大友皇子に忠義を誓ったのも、この恩に報いるという義務を負ったからである。しかしこれは蘇我一門全体から見れば、有能者の引き抜きによる勢力の切り崩しであった。だから前に蘇我安麻呂そがのやすまろが大海人のために忠告をしたように、蘇我氏もこの時に当たって両陣営に分かれていた。それに蘇我氏を没落させたのは、そもそも天智天皇その人ではないか。こうした矛盾は、ついに最終的事態に臨むことになったとき、その命に刃を突き付けるべきものであった。

 この事件を見て近江方の将軍羽田公矢国はたのきみやくにとその子大人うしらは、一族郎党を率いて大海人方に投降した。そこで大海人は改めて矢国を将軍に任じ、北のかた越国こしのくにへ入らせた。これは大津宮から敦賀へ逃げる道を塞いだのである。近江方はまた玉倉部たまくらべという所を攻めたが、大海人は出雲臣狛いづものおみこまを遣わしてこれを破った。近江の朝廷は逼塞させられつつあった。


 さてその頃、近江を窺うべく飛鳥から乃楽へ向かった大伴吹負は、途中で大友方へ加勢する軍が河内から倭へ入ろうとしていると聞いて、坂本臣財さかもとのおみたかららを竜田たつた山へ、佐味君宿那麻呂を大坂おほさか山へ、鴨君蝦夷石手いはて峠へ、それぞれ数百と号する軍を分けてその道を守らせた。竜田へ向かった財は、安城たかやすのきに近江側の兵士が駐屯しているのを見て、高安山へ登った。高安の城中では、財の軍が寄せてくると知ると、倉庫に火を着けてみな逃げ散ってしまった。よって城を占拠して宿り、翌七月二日、ほのかに明るむ頃合い、西の方を望めば、大津・丹比の道から向かって来る軍勢があり、その掲げる旗幟が明らかに見えた。誰かが「近江方の将軍壱伎史韓国いきのふびとからくにが軍なり」と言った。財らは城から下って衛我ゑが河を渡り、その西岸で韓国を迎え撃ったものの、兵が少なくて拒ぐことができず、懼坂かしこのさかまで退いて守った。

 このとき、河内国かふちのくにのみこともち来目臣塩篭くめのおみしほこは、大海人方に加勢しようと思い、兵士を集めていた。ここに韓国が到り、その謀を漏れ聞くと、塩篭を殺そうとした。塩篭は事が漏れたと知ると自殺した。


 七月四日、乃楽山に布陣する大伴連吹負は、近江方の将軍大野君果安おほののきみはたやすの攻撃を受けた。河内方面に兵を割いていたためか、防ぐことができず、兵卒はみな逃げ、吹負もわずかな従士とともにようやく脱れた。果安は、追って飛鳥の旧都に迫り、丘に登ってその方を覗うと、辺りには多くの盾が立っていて、いかにも守りが堅そうに見えた。それで思い切って攻め込むことができず、伏兵を警戒しながらようよう引き揚げてしまった。これは荒田尾直赤麻呂あらたをのあたひあかまろが気を利かせて、橋を壊してその板を盾に仕立て、守りが多いように見せかけておいたのだった。

 敗走した吹負は、宇陀の墨坂でたまたま援軍の先鋒置始連菟が来るのに逢い、力を合わせて反転し、散った兵卒を招き集めた。同じ頃、坂本臣財らは壱伎史韓国に抗うことができず、河内国境から撤退していた。吹負は河内から近江方の軍が攻め入ったと聞き、軍を率いて西へ向かった。葛城の当麻に到り、韓国の軍を迎えて戦った。ときに吹負の軍中には来目くめなる勇士があり、刀を抜いてたちまちに敵軍へ切り入った。味方が踵を連ねて後に続けば、近江方は陣を崩して逃げ、追って多くの兵士を斬った。将軍吹負は軍中に号令して、

「この兵を興したのはそもそも百姓を殺すためではない。元凶を討つためなのだ。みだりに殺してはならぬぞ」

 と言った。ここに韓国は軍勢から離れてひとり逃げた。吹負は遙かにこれを望み、来目に命じてこれを射させた。惜しいかな矢は命中せず、韓国は走って逃げ切ることができた。

 吹負が飛鳥の本営に帰還すると、紀臣阿閇麻呂らの援軍が陸続と到着しつつあった。そこで諸軍を上・中・下の三道に配置して敵襲に備えさせた。この三道は奈良盆地を南北に縦貫している。ここに近江方の部将廬井造鯨いほゐのみやつこくぢらは、二百の精兵を率いて、中つ道に陣を張った吹負を襲った。吹負はまた直属の兵士が少なくて拒げそうになかった。大井寺の下僕なる徳麻呂とこまろら五人その陣中にあり、矛をも恐れず進み出て矢を雨と射かけ、鯨軍の足を止めた。このとき置始連菟らは、上つ道に近江方と戦ってこれを破り、勢いに乗って鯨軍の後方を絶った。このため鯨の軍は潰走し、鯨も馬に鞭して逃げた。ところが思わず水田に入り、重い馬体の細い脚が泥に取られて行き悩んだ。さあ将軍吹負、傍らにあった甲斐国の勇者某に、

「あの白馬に乗ったるは、廬井鯨なるぞ。さあ射て射て」

 と仰せつけると、勇者某は足も置き去りにせんばかりに駈けて追いかけ、鯨に矢の届く頃おい、鯨は思い切って馬にしたたか鞭を打ちつけると、馬は跳び上がって泥を出た。鯨はやっと駆け抜けて難を免れることができた。


 七月五日の夜遅く、近江と伊賀の国境なる倉歴道を守る田中臣足麻呂は、近江方の将軍田辺小隅たなへのをすみの襲撃を受けた。小隅の軍は鹿深かふか山を越えて、鳴りを静めて突然に攻め入った。小隅は敵味方を見分けにくいことを恐れて、あらかじめ合い言葉を決めておいた。刀を抜いて殴りつけ、「かね」と言えば味方、言わなければ斬るのである。足麻呂の陣は夜襲に乱れ、なすすべがなかった。ただ足麻呂だけは合い言葉に気付き、「金」と唱えてようやっと免れた。六日、小隅は莿萩野の陣を襲わんとして速やかに迫った。しかし多臣品治はこれを迎え撃って遮り、精鋭を率いて追い散らした。小隅はひとり免れて逃げた。

 近江方から積極的に動いたのはこれが最後となった。(続く)