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天武天皇評伝(二十五) 権力と身分

 皇族と内外の貴族の身分をどう秩序付けるかということは、その治世を通じて、天武天皇が最も意を用いたことであったろう。この気遣わしい作業を進めるために、第一に注意しなければならないのは、壬申の年の勝利に貢献した功臣たちの処遇だった。功績ある者にはそれなりに報いなければならないが、それによって大を成させると今度は王権の伸張を妨害する存在に化けやすい。むかし漢の高祖が異姓諸侯王を冊立するそばから次々と取りつぶしたのもこれがためだった。この点において、日本王朝の功臣たちにとっては、壬申の乱が戦争としては小規模であったためにその功績も大きくなりすぎなかったことがむしろ幸いであり、天武天皇にとっては彼らがあまり長生きしてくれなかったことがかえって良かった。

 壬申の年の功臣たちは、天武天皇の治世二年五月、将軍吹負ふけひの配下となって活躍した坂本臣財さかもとのおみたからが卒したのを初めとして、早くに死んだ例が多い。主なものを挙げると、三年二月に紀臣阿閇麻呂きのおみあへまろ。四年六月に大分君恵尺おほきだのきみゑさか。五年六月に栗隈王くるくまのおほきみ朴井連雄君えのゐのむらじをきみ、七月に国連男依むらくにのむらじをより、八月に三輪君子首みわのきみこびと。八年三月に大分君稚臣おほきだのきみわかみ。十二年には六月に大伴連馬来田おほとものむらじまぐた高坂王たかさかのおほきみ、八月には大伴連吹負おほとものむらじふけひが相次いで死んだ。彼らの死は天武天皇の肩を軽くしたに違いない。天皇は自ら手を汚さなくて済んだ。歴史上、これは例外的な幸運である。

 身分秩序の整理は、まず“かばねを賜う”という形で具体化された。十三年十月、有名な“八色やくさの姓”が定められ、旧来の慣習的な姓が、真人まひと朝臣あそみ宿禰すくね忌寸いみき道師みちのしおみむらじ稲置いなきの六つに整理されて、その序列が明確になる。十四年正月には、天智称制三年制定の二十六階制の冠位を改めて四十八階制とした。これはただ階級を細かくしただけでなく、上位十二階は皇族のため、以下三十六階は諸臣の位として分離された。姓は家門ごとに天皇から与えられ、冠位は個人ごとに天皇から授けられる。貴族の身分は天皇との関係如何によって個別に決定されることになる。

 地位を与え、与えることで分断し、分断することで支配する。これが専制権力の原理である。天皇は貴族たちに、できるだけ小さい単位で、個別に手綱を懸けて、馬のように繋いでおくことができる。馬たちは天皇から身分を認められ、それが公的な地位として全国に通用する代わりに、勝手に勢力を扶植するわけにはいかない。馬たちはこのありがたい地位を守るため互いに互いを牽制するようにもなる。皇族と比べて貴族群の総数は遙かに多いとはいえ、貴族たちは個々別々に天皇の手に把握され、天皇から離れて力を集めることはできないはずだ。かつての葛城や蘇我のような大貴族ができることはもうあるまい。これはかなりの程度まで目論見どおりに実現されていくだろう。

 ところでここに付け加えておかなければならないことがある。藤原鎌足ふぢはらのかまたりの跡継ぎになるはずの次男不比等ふひとは、その父が四十をこしてから生まれた子であった。壬申の年には十四、五の少年であり、まだ出仕しなかったので、何も責任を問われるような地位になく、そのため身を滅ぼさずに済んだ。もし父がまだ健在であったら、もしくは不比等自身がもう何年か早く生まれていたら、大友皇子と運命をともにしなかったとは言えない。不比等が無傷で新時代を迎えたことが、やがて藤原氏の繁栄を招き、後世の歴史教科書に藤原の某という名前が大量に並ぶことにもなったのである。これはまだ先の話し。

 さて身分秩序の整理は、天武天皇の皇子たちの身の上にも関わってくる。後継者問題は、一つ間違えば王朝の命取りにもなる。それは天武天皇が一番よく知っている。治世八年五月、天武天皇鸕野うの皇后と六人の皇子を連れて吉野の離宮に出かけた。このときに呼ばれた皇子は、草壁くさかべ大津おほつ高市たけち忍壁おさかべと、あとの二人は天智天皇の子である川嶋かはしま施基しきである。大友皇子の腹違いの兄弟である両皇子は、天武天皇のもとでも皇子としての待遇を与えられている。大友皇子の子である葛野王かどののおほきみでさえ、罪を受けずに諸王の地位を認められていた。もっとも葛野は天武天皇にとっても孫に当たる。

 天武天皇は六皇子に向かって曰く、

「余は今日ここで汝らと誓いを立てて、後の世に災いがないようにしたいが、どうだ」

 皇子らの答えて曰く、

「ごもっともです」

 そこで草壁皇子がまず進み出て、

天神地祇及び天皇、証したまえ。吾ら兄弟長幼あわせて十余王は、各々異腹より出でたり、然れども同じきと異なりと別れず、ともに天皇の勅に随いて、相助けて背くこと無からん。もし今より後、この誓いの如くにあらずば、身命は亡び、子孫は絶えん。忘れじ、過たじ」

 と誓った。他の五皇子も、順次この通りに誓った。天皇が応じて、

「我が子らは各々異腹に生まれたり。然れども今は一母同産の如くに慈しまん」

 と言い、襟を開いて六皇子を抱き、

「もしこの誓いに違わば、たちまちに我が身を亡ぼさん」

 と誓った。皇后もまた天皇と同じく誓った。

 ここで「一母同産の如く」などと言った所を見ると、皇子の扱いを母親の出自によって分けることをやめるという宣言のようでもある。しかし天武の長男である高市をさしおいて、草壁が全皇子を代表していることは重要である。実際に十年二月、草壁は皇太子に立てられる。十四年正月の新冠位制施行にあたっても、草壁に浄広一、大津にその一つ下の浄大二、高市にはそのまた一つ下の浄広二が与えられ、皇后の子である草壁、皇后の姉の子である大津、胸形むなかた尼子娘あまごのいらつめの子である高市という序列が重ねて明確にされた。天武は高市の地位をできるだけ引き上げようとはしたが、しかし無理にまではしないという慎重さを決して忘れなかった。(続く)