天武天皇評伝(二十二) 壬申の乱・四
軍を率いて美濃国を出、近江国に攻め入った村国連男依らは、七月七日、国境の西息長で大友方の軍と戦ってこれを破り、その将軍境部連薬を斬った。大海人皇子は野上の行宮で捷報を待っている。それから琵琶湖の東を南下して、九日には犬上のあたりで秦友足を討って斬り、ずっと南西に進んで、十三日には野洲川のほとりで戦って勝ち、社戸臣大口・土師連千嶋を捕虜にした。十七日にも栗太で戦って勝った。
七月二十二日、男依らが瀬田川の東に到ると、川の西には敵軍が大いに陣を布いており、大友皇子が自ら出御し、左大臣蘇我臣赤兄・右大臣中臣連金らも指揮に当たっている。大津宮に座して攻囲を待つよりは、守りやすい所に出て戦おうと考えたのだろう。その先鋒は将軍智尊なる者で、精鋭を選んで前を塞いでいる。瀬田川は琵琶湖の南端に注いでおり、当時としては珍しい橋というものが懸けられていた。智尊は瀬田橋の中ほどの板を切り取って断ち、代わりに人一人が乗れるほどの狭い長板を渡して、その板に綱を結わえ付けている。もし誰か渡ろうとする者があれば、板を引いて落としてしまおうというわけだ。
男依の軍中では、勇敢な大分君稚臣が先鋒を申し出た。稚臣は長い矛を棄てて、刀だけを手に執り、走り込んで橋に懸けられた板を踏む。智尊の手の者が綱を引こうとしても間に合わない。稚臣はその板に着けられた綱を断ち、矢を受けながら敵陣に斬り込む。近江方の兵は列を乱して惑い、智尊は逃げようとする者を斬るという非常の手段にまで出たが、潰乱をとどめることはできない。ついに智尊も橋のほとりに斬られた。大友皇子や左右大臣らはどうにかこの場は逃れた。
この日、北からは羽田公矢国と出雲臣狛が琵琶湖の西を南下して三尾城を攻め降した。西には大伴連吹負配下の部将が軍を進めてきている。
大友皇子は今や天下の孤児となり、どこにも帰る所がなくなった。行く手をすっかり遮られて山林に迷い込んだときには、かつて忠誠を誓ったはずの左右大臣や他の臣下たちともはぐれていた。ただわずかな舎人と物部連麻呂だけが供をしていた。この人は実直であったらしい。こういう場合、亡国の主君には選ぶべき二つの道がある。たとえ単騎でも敵陣に討ち入って最後の死に花を咲かせるか、さもなくば自ら後ろ手に縛って折り目正しく降伏するかだ。しかし大友皇子は、無茶なことをするほどの英雄的気概や、さほどの行動の美学というものも持っていなかった。追い詰められた大友皇子は、山に隠れて自ら首をくくって死んだ。これは七月二十三日のことである。
近江の朝廷のために戦おうとする者はもう誰もなかった、というより実態として朝廷はもう存在しなかった。二十四日に大海人方の将軍たちは大津宮のある篠浪の地に集まり、左右大臣や他の罪人を探し出して捕らえた。二十六日、将軍たちは野上の行宮に集い、大海人皇子の御前に大友皇子の頭を捧げた。大海人皇子が、この生きることのできない所に生まれ落ちてしまった哀れな子、罪なく死に追いやられた甥の首をどんな思いで看たかについては、何も伝えられていない。
戦後間もないある日、尾張国司小子部連鉏鉤が山に隠れて自殺した。鉏鉤といえば、大海人が桑名から不破に向かう途上、二万という兵を率いて参上したので、いずれ賞に与るはずだった。しかし前後の事情を考え合わせてみると、鉏鉤の手勢は本来、近江の朝廷から天智天皇陵造営のためという名目で招集を命じられたものだったはずだ。だとすると、大友皇子にとっては、この二万の兵を得られなかったことは大きな打撃であったと思われる。だから鉏鉤の行動はあるいは裏切りと言われるものだったかもしれない。そのことと自殺との関係は不明である。大海人の甥の死に対する所感について『日本書紀』は何も語らないのに、鉏鉤の自死をいぶかしんだ言葉を載せている。
「鉏鉤は功ある者である。罪なくしてなぜ自殺したか。さて隠謀でもあったものか」
野上の行宮では、大友方に味方した者の罪科の審定が行われた。八月二十五日、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣の罪状を読み上げさせた。右大臣中臣連金ら重罪八人は死刑、左大臣蘇我臣赤兄・御史大夫巨勢臣人、及びその子孫、また金の子、御史大夫蘇我臣果安の子は、みな配流とした。罰せられたのはこれだけで、他の者は全て寛恕を得た。功ある者には、二十七日、ひとまず恩勅が下された。冠位の加増が行われたのは十二月四日のことである。
大海人皇子は来た道を引き返して、九月八日、伊勢の桑名に宿り、九日に鈴鹿、十日伊賀の阿閉、十一日名張を経て、倭国の飛鳥に還ったのは十二日である。この冬、かつて父舒明帝が営んだ岡本宮の南に、新たに王宮を造り、ここに遷った。これが飛鳥浄御原宮である。
この壬申の乱という戦争は、関東から九州に至るまで、政治的には大きく影響することではあった。しかし実際の戦闘が行われたのは、近江・倭両国を中心とする地域に限られ、期間としても六月から七月にかけての一ヶ月ほどに過ぎない。戦闘が長期化せず、ごく短期に勝敗が決したことは、これがきわめて計画的な戦争であったことを物語っている。個別に見れば近江方が優勢を得た戦場もあったが、これは枝葉の勝利に過ぎず、戦略的には常に大海人皇子が主導権を握っており、大友皇子には戦術的に対処することしかさせなかった。孫子のいわゆる「勝兵はまず勝ってから戦いを始め、敗兵は戦いを始めてから勝ちを求める」というやつで、大海人皇子には危機を演出する余裕さえあり、大友皇子は戦う前から負けていたのである。このため百姓は生業を離れずにすみ、公費は空しく尽きることがなかった。戦争ほど場当たり的にやると酷いことになるというものはなく、こんな大局的頭脳のある指導者でなければ任せられないものである。
後に太安万侶は『古事記』に格調高い序文を書き、大海人皇子を頌えた。
「夢の歌を聞きて業を纂がむことを相ほし、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。然れども天の時は未だ臻らざりしかば、蝉のごとく南山に蛻け、人と事と共に給りて、虎のごとく東国に歩みたまふ。皇輿は忽に駕み、山川を浚ぎ渡り、六師は雷のごとく震ひ、三軍は電のごとく逝く。杖矛は威を挙げ、猛士は烟のごとく起ち、絳旗は兵を耀かして、凶徒は瓦のごとく解けぬ。未だ浹辰を移さずして、気沴は自づからに清まりぬ。乃く牛を放ち馬を息へ、愷悌て華夏に帰り、旌を巻き戈を戢め、儛詠して都邑に停まりたまふ。歳は大梁に次り、月は夾鐘に踵り、清原大宮にして、昇りて天位を即めしき」