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天武天皇評伝(十九) 壬申の乱・一

「今聞くに、近江の朝廷の臣どもは、余を殺そうと謀っているとか。これによって汝ら三人は、急ぎ美濃国へ往き、安八磨あはちま郡の湯沐令ゆのうながし多臣品治おほのおみほむぢに会い、戦略の要点を伝えて、まずその郡の兵を興せ。ゆくゆく国司くにのみこともちらに触れて、諸々の軍を興し、速やかに不破の道を塞ぐようにせよ。余もすぐに発つであろう」

 と、大海人皇子おほしあまのみこが、国連男依むらくにのむらじをより和珥部臣君手わにべのおみきみて身毛君広むげつきみひろを招集して詔したのは、壬申の年六月二十二日のことである。前に朴井連雄君えのゐのむらじをきみが近江方の動向を報告したというのは、五月のことで、およそ一ヶ月は経つ間、表向きには平穏だったことになる。三人は東へ向かった。

 二十四日、大海人が出発しようとしているとき、一人の従者が先行きを案じて進言した。

「近江の群臣にはもともと謀反気がございました。必ず天下を乱すでありましょう。さればみちみち何があるかわかりませぬ。どうして一人の兵もなく、むな手にして東国あづまのくにへ入れましょうか。わたくしは事が成就せぬのではないかと気遣わしゅうございまする」

 大海人はこれに従い、男依らを召し返そうと思い、すぐに大分君恵尺おほきだのきみゑさか黄書造大伴きふみのみやつこおほとも逢臣志摩あふのおみしまを飛鳥の旧都に遣わし、駅鈴を乞わせた。駅鈴というのは駅馬によって物事を伝達するのに用いるのである。よって恵尺らに語って、

「もし駅鈴を得られなければ、志摩は戻って報せよ。恵尺は馳せて近江に往き、高市皇子たけちのみこ大津皇子おほつのみこを連れて、伊勢で落ち合うようにせよ」

 と命じた。時に飛鳥の旧都は王族の人高坂王たかさかのきみ留守司とどまりまもるつかさとして主衛していた。恵尺らは高坂王のもとに至り、皇子の命令だとして駅鈴を求めた。高坂王は駅鈴を渡さない。恵尺は近江へ向かい、志摩は戻って「駅鈴は得られませんでした」と報告した。

 大海人は東国への旅路に入った。事が急だったので徒歩で発った、と『日本書紀』は記している。急といっても雄君の報告からでも一ヶ月程度はあるのに、馬の一頭も用意しておけないはずはない。さて少し行くと県犬養連大伴あがたいぬかひのむらじおほともが馬に鞍乗せて忽然と現れた。大海人は馬に乗り、妃鸕野皇女うののひめみこは輿に載って進んだ。津振川に至る頃、大海人の愛馬が届けられた。

 この時、初めから従った人は、草壁皇子くさかべのみこ忍壁皇子おさかべのみこ、及び舍人朴井連雄君・県犬養連大伴・佐伯連大目さへきのむらじおほめ大伴連友国おほとものむらじともくに稚桜部臣五百瀬わかさくらべのおみいほせ書首根摩呂ふみのおびとねまろ書直智徳ふみのあたひちとこ山背直小林やましろのあたひをばやし山背部小田やましろべのをだ安斗連智徳あとのむらじちとこ調首淡海つきのおびとあふみら二十数人、女官十数人だった。

 宇陀の吾城野あきのに到ると、大伴連馬来田おほとものむらじまぐた・黄書造大伴が追って合流した。ここでは屯田みたのつかさの舎人土師連馬手はじのむらじうまてが一行に食糧を提供した。甘羅かむら村を過ぎると、大伴朴本連大国おほとものえのもとのむらじおほくにが狩人二十数人を率いて参り供に仕えた。また美濃王みののきみが召還に応じて合流した。ちょうど宇陀郡庁のあたりで伊勢国の米を運ぶ荷駄五十匹に遭遇したので、米俵を棄てて徒歩の者に乗らせた。

 大海人主従は山を越えて伊勢国へ向かっている。宇陀の大野まで来ると日が暮れ、暗くて山を進めないので、家の籬をこぼち取って灯火にした。夜半になって伊賀国名張なばり郡に入り、その駅に火を着けた。街中に唱えて、

殿下おほきみが東国へおいでになるによって、みなみな出て参れ」

 と呼んだが、ここではどうしたか誰も来なかった。やはり伊賀は大友皇子おほとものみこの母親を出した国だからだろうか。

 横河を渡ろうとすると、幅十丈ばかりと見える黒雲が天にたなびいていた。大海人はこれを異として、得意の天文学によって占った。昔の天文というのは今の天文・気象の対象を含んでいる。ちくを手にとって占い、

「天下が二つに分かれる兆しと見える。されど果ては余が天下を得るか」

 と判じたが、まさか占ってみるまで知らなかったはずはない。成算があるからこそこんな行動に出ているのだ。ただ従者の大半はこれが計画された行動だということを知らされず、深夜の山越えという異常な行動に不安を感じている。そこで占いに託して見通しの一端を示し、安心させたまでのことだろう。

 占いに励まされた一行は歩を速め、伊賀郡に到るとその駅にも火を放った。これは追っ手を避けるためだろうか。しかし中山という所まで来ると、その国の郡司こほりのみやつこらが数百の兵を率いて帰順した。空がほのぼのと明るむ頃、莿萩野たらのに至り、しばし足を休め食事を取った。積植つむゑの山口に到ると、高市皇子鹿深かふかから越えてここに出遭った。民直大火たみのあたひおほひ赤染造徳足あかそめのみやつことこたり大蔵直広隅おほくらのあたひひろすみ坂上直国麻呂さかのへのあたひくにまろ古市黒麻呂ふるいちくろまろ竹田大徳たけだのだいとく胆香瓦臣安倍いかごのおみあへが供をして来た。

 大山を越えて伊勢国鈴鹿郡に出た。ここにその国司くにのみこともち三宅連石床みやけのむらじいはとこすけ三輪君子首みわのきみこびと、及び湯沐令田中臣足麻呂たなかのおみたりまろ高田首新家たかたのおびとにひのみらが大海人主従を迎え、五百と号する軍を発して大山の道を塞いだ。川曲かはわの坂のふもとに到って日が暮れた。鸕野皇女が疲れを訴えたのでしばし輿を留めて休むうち、夜空に星が見えなくなり、雨が降りそうだったので、長く憩うことができず、また進まなければならなかった。そのうち冷たい雷雨が激しくなり、一行は着物が濡れて寒さに耐えないほどだった。どうせ天文を占うなら雨が分かればよいのに、さすがの大海人もこの時ばかりは肝を冷やしただろう。ようやく三重郡庁に到り、小屋一軒に火を着けて凍えた身を暖めた。この夜半、鈴鹿関司せきのつかさからのつなぎがあり、

山部やまべ石川いしかは両殿下がおこしになられました故、関にお泊め致しておりまする」

 とのことだった。大海人はただちに路直益人みちのあたひますひとを遣わして二人を呼びに行かせた。

 翌二十六日早朝、大海人は朝明あさけ郡の迹太とほ川のほとりで天照大神を眺拝した。ここに益人が鈴鹿関から還ってきたが、ともに現れた者はと見れば、それは山部王でも石川王でもなく、大海人の子の一人、大津皇子だった。何か行き違いがあったのか、それとも意図した誤報というものでもあるのか、ともかく両陣営が策謀を巡らしている中のことだから歴史を読む方の眼が問われる所だ。前に近江に向かった大分君恵尺をはじめ、難波吉士三綱なにはのきしみつな駒田勝忍人こまだのすぐりおしひと山辺君安摩呂やまのへのきみやすまろ小墾田猪手をはりだのゐて泥部胝枳はづかしべのしき大分君稚臣おほきだのきみわかみ根連金身ねのむらじかねみ漆部友背ぬりべのともせらが大津の供をして参上し、大海人を大いに喜ばせた。

 朝明郡庁に至ろうとする頃、村国連男依が駅馬に乗って馳せ着け、

「美濃の兵三千人を興して、不破の道を塞ぐことができました」

 と復命した。不破の道は近江と美濃の国境に当たり、畿内から東国へ連絡する要路の一つである。大海人は郡庁に着くと、高市皇子を不破に遣わして軍事を監察させ、また山背部小田・安斗連阿加布あとのむらじあかふには東海道へ、稚桜部臣五百瀬・土師連馬手には東山道へ行き、諸国の軍を徴発するように命じた。この日、大海人自身は桑名郡庁に宿り、ここに停まった。

 さてこの大海人皇子の行動は、当然さほど間を置かずして近江の朝廷にも聞こえた。これを迎えて立つ大友皇子には、一体どんな打つ手があるだろうか。あるいはこの頃に世の人が謡ったかともいわれる歌が『万葉集』に収められている。

  近江之海あふみのみ 泊八十有とまりやそあり 八十嶋之やそしまの 嶋之埼邪伎しまのさきざき 安利立有ありたてる 花橘乎はなたちばなを 末枝尓ほつえに 毛知引懸もちひきかけ 仲枝尓なかつえに 伊加流我懸いかるがかけ 下枝尓しづえに 比米乎懸ひめをかけ 己之母乎ながははを 取久乎不知とらくをしらに 己之父乎ながちちを 取久乎思良尓とらくをしらに 伊蘇婆比座与いそばひをるよ 伊可流我等比米登いかるがとひめと(近江の海 泊八十有り 八十嶋の 嶋の埼々 あり立てる 花橘を 末枝に 黐引き懸け 中枝に 斑鳩懸け 下枝に 媛を懸け 己が母を 取らくを知らに 己が父を 取らくを知らに いそばひ座るよ 斑鳩と媛と)

 (続く)