天武天皇評伝(二十四) まだ見ぬ都城への道のり
天武天皇の脳裡には、即位の当初から、本格的な都城の建設という構想があったに違いない。しかし天武天皇は急がない。そもそも都城は何のために必要か。それは見栄や満足のためではない。都城は法制度の容器である。法典の編纂は、すでに先代において近江令があったとはいえ、それがどのくらい効果的に用いられたかは疑わしい。法律は紙の上に書いてあるだけでは意味がなく、それがどう実際上の制度を形成するかは施行の如何による。律令のような煩瑣な成文法を十分に施行するには、役人の集団的な運用を必要とする。役人を必要なだけ働かせるためには、彼らを宮廷の近くに居住させるか、少なくとも長期間の滞在ができるようにしなくてはならない。そのための施設が都城である。まずはこの飛鳥を容器とし、内容を充実させていき、ここからあふれるまでになれば、多くの人が都城の必要性を理解し、進んでその建設に協力してくれるはずだ。
都城の建設、即ち統治制度の完備に向けて、天武天皇が打った最初の布石は、治世二年五月の詔に、
「初めて出身せん者は、まず大舎人に仕えしめよ。しかる後にその才能を選択して、適当の職に充てよ。また婦女は、夫あると夫なきと及び長幼をも問うことなく、出仕せんと欲する者は聴せ。その考選は男子の例に準じよ」
という、畿内貴族の登用の法。次に四年二月の詔、
「甲子の年に諸氏に給えりし領民は、今より以後、みなこれを除く。また親王・諸王及び諸臣並びに諸寺などに賜えりし山沢・島浦・林野・陂池は、前後とも除く」
さらに五年四月、
「外国の人で出仕せんと欲する者は、臣・連・伴造の子、及び国造の子はこれを聴せ。ただしこれ以下の庶人としても、その才能の長じたるはやはりこれを聴せ」
という畿外諸国からの登官の法などと続く。
さて天武天皇の五年は、唐は高宗の儀鳳元年、新羅は文武王の十六年に当たる。
文武王は唐に対して硬軟両様、武力には武力を以て占領を退ける一方、外交的には飽くまで恭順の態度を執って高宗の天子たる矜持に訴え、その懐柔に努めてきた。唐は劉仁軌・李謹行・薛仁貴などの名だたる将軍を差し向けたものの有効な勝利を得られない。文武王はこの頃までに旧百済領の全部と、旧高句麗領の南部に支配を固めることに成功した。高句麗北部は気候冷涼で土地の生産力が乏しく、取っても利得が少ない上に防衛線が伸び過ぎる。そこで新羅としてはほぼ平壌以南に満足する。北部は唐に与えてやればよい。守りを固めていれば唐と戦っても負けないことはこれまでの実績から確信している。
高宗は、儀鳳二年、旧高句麗王の高蔵を遼東州都督・朝鮮王とし、また旧百済王子の扶余隆を熊津都督・帯方王とし、ともに遼東の地に赴任させてわずかに名目を保つ。高宗は儀鳳三年にも新羅討伐を企図したが、侍中の張文瓘が病を押して謁見し、
「今は吐蕃が寇なし、西へ兵を発して討とうとする所でございます。新羅が順わないといっても、未だかつて辺を犯したことはございません。もしまた東征なさるならば、臣が恐れるのは官民ともその弊に堪えないのではないかということにございます」
と諫めたので沙汰止みとなった。
こうして新羅は東方第一の強国として台頭する。恐るべきは百済・高句麗を併合する経略を成功させた文武王の政治的能力であり、この人物を輩出した新羅の政治的風土である。日唐間の政治的交渉はこれまで百済を足がかりとして使節を往来させてきたので、壬申の年を最後として、新羅のために中断させられる。しかし日本と新羅の交渉は活発に行われ、互いに政情を探り合った。天武天皇にとって、この大国新羅の存在は、向こうにもあれだけの王権が出現したのだから、こちらはなおさら強大にならねばならぬ、そのためには貴族の特権をいくらか取り上げることも止むを得ぬという口実になる。
治世五年、天武天皇は新城と呼ぶ所に都城の建設を始めようとし、区画に入る田地の耕作を放棄させることまでしたものの、まだ手を着けられないままになった。大事業であるだけに慎重を要するのだ。
政治制度の整備は、七年十月の詔による内外文武官昇進の法、八年正月の身分別拝礼の法などを発布する。そうして十年二月、天皇は皇后とともに大極殿において南面し、親王・諸王・諸臣を召して、
「朕は今より新しく律令を定め法式を改めようと思う。故に汝らは倶にこのことを修めよ。されどもひたすらこれに専念すると、政事を欠くことがあろう。係を選んでこれに当てよ」
と詔した。しかし法典の完成にはさらに長い年月が掛かることになる。
この翌月には、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・上毛野君三千・忌部連首・阿曇連稲敷・難波連大形・中臣連大嶋・平群臣子首に詔して、「帝紀及び上古の諸事を記定」させる。これやがて『日本書紀』につながり、王権の正統性を証明して、政治制度に精神を与えるはずである。日本の新羅に対する優越性という、この時期の特殊事情から出た主張は、この修史事業の中で過去にまで投影されて、その歴史観を規定する大きな要素の一つになる。
造都のことは、十一年三月一日、三野王らを新城の所に遣わしてその地形を観察させ、十六日には自ら出向いたが、やはりまだ手は着かない。首都の建設が始まらないうち、かえって十二年十二月、
「およそ都城・宮室は一所にあらず。かならず両参を造らん。故にまず難波に都つくらんと欲す。これにより百寮の者は各々往きて家地を請え」
という詔があり、難波京を陪都、つまり副首都とすることになった。難波には孝徳王の時に営んだ王宮があり、西の諸国との交通において要港であることからも、すでにある程度の街区が形成されている。また八年十一月より難波に羅城を築くという準備もあって、ここに陪都を設定することは容易だった。十三年二月には三野王らを信濃国に遣わして地形を検視させたが、これもやはり陪都を置こうとの考えがあってのことだろう。
望んだ首都はまだ影も形もない。それでも天武天皇は焦らない。この人物の構想壮大にしてしかも泰然としていることは、全てこのようだった。(続く)