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「聖徳太子」という呼称について

数日前のことになるが、いわゆる「聖徳太子」について、学習指導要領の改訂案で表記を変更することになり云々、ということが新聞記事になっているのを目にした(聖徳太子、教科書で表記変更は妥当? 国会で論戦に:朝日新聞デジタル)。聖徳太子、という一般化した呼称が現れるのは、この人物の死後130年ほど経った天平勝宝三年(751)の『懐風藻』の序文が現存する最初だ。聖徳太子といえば古くからカリスマ的偉人であり、二つ名どころか様々な呼び名があった。以下に主なものを挙げる(皇太子・東宮王命みこのみことなど一般名詞的なものは除く/読みは必ずしも確定できるわけではなく、一例)。

古事記
上宮之厩戸豊聡耳命かむつみやのうまやとのとよとみみのみこと
日本書紀
廐戸皇子うまやとのみこ
豊耳聡聖徳とよみみとしょうとく
豊聡耳法大王とよとみみののりのおおきみ
法主のりのうしのきみ
厩戸豊聡耳皇子うまやとのとよとみみのみこ
上宮廐戸豊聡耳太子かむつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ
上宮聖徳法王帝説
厩戸豊聡耳聖徳法王うまやとのとよとみみのしょうとくほうおう
聖王ひじりのみこ
上宮厩戸豊聡耳命かむつみやのうまやとのとよとみみのみこと
上宮王かむつみやのみこ
厩戸豊聡八耳命うまやとのとよとやつみみのみこと
聖徳王
上宮聖徳法王かむつみやのしょうとくほうおう
法主
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
聖王
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
上宮法皇かむつみやのほうおう
天寿国繍帳銘
等已刀弥弥乃弥己等とよとみみのみこと

聖徳太子は日本仏教の興隆期に活躍した人物であることは確かで、聖や法という字がしばしば付くのも仏教的意味による。だから聖徳太子という呼び方はこの人物の歴史的意義を理解する上で妨げになるとは必ずしも言えない。昔の尊貴な人の呼び方が死後に定まるのは普通のことで、今それを採るべきかどうかは場合によりけりだ。甚だしい例を挙げると、672年に死んだ大友皇子に対する弘文天皇という諡号ははるかに下った1870年のものである。弘文天皇という呼び方は今では一般的には使われていないと思うが、今上を125代目とする数え方の中には含まれたままになっている。

ただ聖徳太子の事績には生前からすでに尾鰭が付き始めていたらしく、後世にはなおさら多くの伝説化がなされた。これは水戸黄門の場合とよく似ている。水戸黄門といったらテレビの黄門様の印象が強いから、それを避けて徳川光圀と呼ぶのは、歴史を扱う上でありうべき一つの態度だ。そうした態度を執る場合は、聖徳太子のことは厩戸王子と書くのが最も中庸を得た表記だろう。

しかし聖徳太子という呼称に対する後世の付会も真実でないからどうでもいいというものではない。聖徳太子は日本仏教の聖人として古代後期から中世にかけて長く尊敬された。江戸時代になると、仏教はやや衰退し、まず儒教の立場から仏教を広めたことで批判され、後には国学によって外来思想の導入者として非難された。その流れは明治の神仏分離廃仏毀釈となり、また古神道国家神道となって日本の伝統的宗教を大きく変質させた。昭和戦後になると、聖徳太子は1950年から発行された千円札にも描かれたし、歴史上の偉人として一般に親しまれた。近年の動きはまた別の傾向を見せているが、進歩したと言えるかどうか。

聖徳太子に対する評価の変遷は、過去を振り返るとはどういうことか、言い換えれば「歴史とは何か」という問題に迫る好個の材料となるのではないだろうか。

参考文献

上宮聖徳法王帝説 (岩波文庫)

上宮聖徳法王帝説 (岩波文庫)