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天武天皇評伝(九) 百済の黄昏

 唐の高宗の永徽五年、新羅の真徳王が薨去し、孫の春秋が立って王となった。これが武烈王で、また新羅の太宗とも呼ばれる。この年は倭の白雉五年に当たる。武烈王は明年、高句麗百済が結んで新羅の三十城あまりを奪ったとして唐に訴えた。高宗は営州都督のてい名振めいしん・左衛中郎将の定方ていほうを遣わし、兵を率いて高句麗を攻めたが、思わしい戦果はなかった。三年後の顕慶三年、また程名振らが高句麗を攻めて敗れた。この時まで唐は高句麗に対して連戦連敗、全くいいところがなかった。

 高宗はそこでようやく、高句麗と正面から対決するという、天下の大王者らしい作戦を捨てた。高句麗はさておいて、まず百済から攻め落とす計画を立てた。百済は東夷諸国の中で最も不利な地位に陥っている。まずこれを占領し、次に新羅から補給を受けつつ高句麗を前後から攻めるという作戦だ。顕慶五年、高宗は左武衛大将軍の蘇定方を神丘道行軍大総管に、武烈王を嵎夷道行軍総管に任命し、百済を東西から挟み撃ちにした。

 百済義慈王の治世二十年目だった。蘇定方が海を渡り、新羅の軍勢もこれを迎えて、ともに百済に迫った。義慈王は群臣を集めてどう対処すべきか諮った。また非常の時なので、罪にかかって流刑に処していたもと重臣の興首という人物にも人を遣って策を問うた。興首の案は良さそうだった。しかし諸臣の意見は、興首は久しく流竄にあって王を怨み国を惜しまないはずだから、その発言は用いるべきでないとしたので、義慈王もその策を却けてしまった。

 兵士たちの奮闘もむなしく、百済の王都泗沘しひ・要衝熊津ゆうしん両城はあっという間に落とされた。義慈王は興首の策を用いなかったことを悔やんだがもう遅い。蘇定方は義慈王と太子の隆らを捕らえて長安へ連れ帰った。泗沘城には鎮将としてりゅう仁願じんがんが駐留し、熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五カ所に都督府が置かれて、百済全土を唐が支配することとなった。ここに百済の体制は瓦解した。ただ百済軍の全てが降伏したわけではなかった。

 百済の将軍鬼室きしつ福信ふくしんは、義慈王のいとこに当たり、勇猛を以て知られ、王都が陥落すると、西北部の要害を根拠として残兵を集め、反撃ののろしを挙げた。これは八月のことで、ここまでの経緯は、日本書紀によると九月には倭国に報せが届いていた。十月になると福信から正式の使者が来た。使者は捕虜にした唐人百人あまりを献上し、あわせて救援の出兵を求め、また“質”として預けられている王子豊璋ほうしょうを迎えて王としたいと請うた。

 豊璋は、舒明王の三年に来倭して以来、三十年近く倭王のもとに駐まっている。また豊璋の弟塞上さいじょう善光ぜんこう、親戚の忠勝ちゅうしょうという人物もいつからか長く倭国に滞在していた。百済王が王族の者を何人も長く倭王に預けていたのは、軍事的な援助を期待してのことであったに違いないが、これまで倭王から百済王へ何か具体的な支援をしたということはなかった。しかし今回の要請に対して、皇極王は即座に応じる意志を示した。なぜだろうか。その詔に曰く、

「出師を乞い救援を求めることは古籍に見え、危難を扶け絶国を継ぐことは経典に著されている」

 云々と。絶えた諸侯の家を再び継がせて亡びた国を再興させるということは、上古の中国で王者の責務とされていたことで、特に今度の場合の理由を述べたものではない。ともかくも皇極王は出兵の準備を命じた。だが福信は意気盛んであるとはいえ、百済はすでに国の体をなしてはいない。これを助けて唐・新羅と戦争をしたところで、果たして勝算はあるのだろうか。

 そもそも戦争というのはやってみなければ結果が分からないというものではない。国と国とが戦争をする場合、戦争をしている最中は能力を消耗するだけで、戦争をしながら能力が増えるということはほとんどない。だから戦争を始めるときに持っている能力によって結果はすでに決まっている。孫子が「勝者は勝ってから戦いを始め、敗者は戦いを始めてから勝ちを求める」と言ったのはこのことである。そして戦争の行方を見通すということは、冷静にさえなれば案外難しいことでもないらしい。

 この年、戦争に備えて駿河国に命じて船を造らせた。その船を曳いて伊勢の辺りまで来た夜中、風もないのにその船の向きが逆になるということがあった。人々はこれによって勝算のないことを知ったのだという。船が反ったから不吉だというのはものの言いようで、要するにこの出兵は誰の目にも危うく映った。元来聡明な中大兄王子や中臣鎌足にもそのことが分からないはずはない。皇極王はなぜ出兵を決意したのか。

 その理由はこういうことだろう。

 百済王がその王子を“質”として倭王に預けたことは、自らへりくだって倭王の優位を承認したことを意味する。倭王は“質”を取ることで百済王に対して優越する地位を得た。しかし百済王と倭王の国際的地位は本来対等なので、これは百済王が倭王の地位を持ち上げてやるという恩を貸したことになる。海外の有力者である百済王が倭王をこのように支持しているということは、倭王にとって王権の強化にあずかって力があったことだろう。今日でも総理大臣などが外国の指導的政治家との関係をモラル・サポートとして内政の引き締めに利用するのと同じである。

 つまりこの場合、百済王は恩の債権者、倭王は恩の債務者である。恩というものは借りれば返さないと信用を失う。信用を失えばせっかくうまく進めてきた倭王専制君主化という改革が頓挫しかねない。今、百済義慈王は唐に捕らえられ、残余の反抗軍もそのうち全滅は避けられない。恩を返す機会は永遠に失われようとしている。すると倭王債務不履行で面目が立たない。債務を履行する最後の方法は、ここにいる豊璋を百済王として送り返し、その国に滅びぎわの徒花でも咲かせてやることだ。

 それにしても今度の事態は、どうせ介入するならもっと早い時期にすべきではなかったのだろうか。この三十年間の大半は改革に忙しく暇がなかったとしても、ここ数年は東北地方への軍事行動を繰り返していて、その戦力を韓国へ振り向けることはできたはずだ。そうしなかったわけは、一つには唐を敵に回したくないということだったろう。新体制の建設にはなんとしても唐の制度を学ぶ必要がある。文化的にも当時の長安は世界随一の国際都市であり、今のニューヨークのように魅力的だった。この時も遣唐使が派遣されており、高宗は東方で戦争があることを理由にして、彼らを九月中旬まで長安に引き留めていた。

 皇極王は、百済に援軍を出すため親ら筑紫国までおもむく計画を立て、十二月に難波宮に移ってその準備にかかった。翌年一月六日に船を浮かべて西へ向かったが、なぜか十四日に伊予に船を着けて道後温泉でしばらく過ごした。筑紫の那の津、今の博多港に入ったのは、やっと三月二十五日のことだった。対馬朝鮮海峡を越えて軍を渡すのに天候の悪い時期を避けたためだろうか。しかしあまり遅いので、四月、福信は豊璋の送還を乞う使いをもう一度よこした。

 五月になっても援軍はまだ動かなかった。皇極王は海に近い那の地から内陸の朝倉に建てた宮に遷った。ここでも不吉なことがあり、宮中に鬼火が出るという噂が立ったり、侍従らがあいついで病死したりした。二十三日、唐から戻った遣唐使が朝倉宮に着いた。夏が過ぎて、秋を迎えた。まだ出兵を実行しないうち、秋七月二十四日、皇極王は朝倉宮に崩じた。

 後に中大兄王子が母を偲んで詠んだ歌が日本書紀に引かれている。

 枳瀰我梅能きみがめの 姑衰之枳舸羅爾こほしきからに 婆底底威底はててゐて 舸矩野姑悲武謀かくやこひむも 枳濔我梅弘報梨きみがめをほり(君が目の 恋ほしきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り)

 八月、豊璋の身はまだ筑紫にあった。(続く)