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天武天皇評伝(一) 女帝の余韻

 天武天皇は、舒明天皇皇極天皇の末子で、帝位に即く前は大海人皇子おほしあまのみこと呼ばれた。俗にオオアマノミコと読むが、オオシアマかそれを約めてオオサマというのが正しい。長子は中大兄なかのおほえこと葛城皇子かづらきのみこ、のちの天智天皇、次子は間人皇女はしひとのみこで、やがて孝徳天皇の皇后になる。父である舒明天皇は、彦人大兄皇子ひこひとのおほえのみこ糠手姫皇女あらてひめのみこの子、母の皇極天皇は、茅渟王ちぬのおほきみ吉備姫王きびつひめのおほきみの子であって、この三人の子は帝室の血が濃い兄弟だった。

 兄弟の年齢については、舒明天皇崩御の際に中大兄が年十六で弔辞を述べたと日本書紀にはあるだけで、大海人の生年はわからない。長男と第三子の関係だから、二三から五六歳程度の差があったのだろう。別に証拠はないが、ここでは三歳差の兄弟というくらいに想定しておくことにする。いずれにせよ推古天皇の晩年から舒明天皇の早期の間に産まれ、父の治世に幼少期を過ごしたのである。

 この天武天皇という歴史的存在について、その人生を追うことで考えていきたいのだが、この人物の前半生のことはほとんど伝えられていない。そこで我々の目的を果たすには、この人物が成長した情況を鏡としてその精神を写してみるしかない。大海人皇子が生まれたのは、ここでの仮定では舒明天皇の元年頃ということになる。それは、四十年近くもの間、この国を統治した推古天皇が世を去った直後であり、従ってこの偉大な女帝の築いた王権について知ることが、大海人皇子の幼少期を理解するための序章となるだろう。


 さて、ここまで私は慣例によって、何々天皇といういわゆる漢風諡号を使ってきた。しかし天皇号の制定は七世紀後半のことだろうから、ここからは天智天皇より後に限って天皇と呼び、それ以前は諡号を採りつつ天皇の字を去り、何々王と書くことにする。これは語弊を避けるためである。天皇号はおそらく近江令飛鳥浄御原令において制度上の用語として正式に定められた。もしそれ以前に天皇という字を示す確かな史料があったとしても、それは仏教的な用語としての天王という字の書き換えである。天皇号の制定された後、歴代の天皇に相当すると見なすべき人を選び、追尊して天皇と称したのだった。

 ただし、新しい君主号の選定は、新しい制度の確立、または確立しようとする意志とともにあるはずなのである。だから、過去の「いわゆる天皇」について、天皇をやめて王と呼び、たとえば即天皇位とあるところを即倭王位とでも書き換えさえすれば、それでその時代のことが理解できるというものではない。名号にこだわらず、権力の内容を検討してみなければならない。


 推古王は、欽明王堅塩媛きたしひめの間に産まれ、額田部王女ぬかたべのみこと呼ばれた。堅塩媛は蘇我稲目そがのいなめの息女である。長じて敏達王の正妃となった。敏達王の時は、物部守屋もののべのもりや大連おほむらじ蘇我馬子そがのうまこ大臣おほおみとした。敏達王は治世十四年にして薨去し、用明王が立った。用明王も堅塩媛の子で、穴穂部間人王女あなほべのはしひとのみこを正妃とし、聖徳太子を生んだ。穴穂部間人王女は欽明王小姉君をあねのきみの子で、小姉君は堅塩媛の妹である。王女の同腹の弟に、同じ名で呼ばれる穴穂部間人王子という乱暴者があり、敏達王の葬礼中、額田部王女に近づこうとしたところ、三輪君逆みわのきみさかふがこれを防いだ。逆は敏達王の寵臣だった。物部守屋は王子の肩を持って逆を殺した。用明王は守屋を大連、馬子を大臣とすることもととおりとしたが、ここにおいて守屋の地位は危ういものとなっていた。

 用明王は二年にして薨去し、物部守屋は穴穂部王子に跡を継がせようとした。蘇我馬子と額田部王女は兵を挙げて守屋と穴穂部王子を殺した。額田部王女は泊瀬部王子はつせべのみこを立てて王としたが、これが崇峻王で、やはり小姉君の子である。崇峻王は馬子を大臣とし、大連は置かなかった。崇峻王は五年にして馬子と対立して殺されたことになっている。代わって額田部王女が立って王となった。推古王は、蘇我馬子を大臣とし、聖徳太子摂政としたと伝えられる。

 聖徳太子については、「万機を総摂し天皇の事を行った」などと記されているが、これは誇大な讃辞である。太子は日本仏教の開祖として後々まで崇敬されたが、すでに早くから神秘的な説話が付会され、伝説化が始まっていた。太子の実際の仕事は、法大王・法主王といった異称もあるように、仏教を振興し、それを体制の原理に組み込むことだった。政治一般については、推古王が大略を決裁し、馬子が実務家として敏腕を振るったはずである。特に外交通であることは蘇我氏がこの時期に躍進した要因だった。

 蘇我馬子は、崇峻王を暗殺したにも関わらず、それについて何らの譴責も受けず、大臣の地位を保って天寿を全うした。それはこの暗殺事件に推古王の関与があったからであるはずだが、書紀はその間の事情を明らかにしない。その記述では、崇峻王が馬子への殺意をほのめかし、馬子がそれを聞いて先に手を打ったことになっている。しかし話の前後から考えると、これは推古王が崇峻王を廃位しようとして、崇峻王がそれに抵抗したために、馬子が推古王に代わって手を汚したのに違いない。

 敏達・用明・崇峻・推古の四代の王権は、言わば三角体制だった。これははじめ、四人の父、欽明王が作ったものだった。欽明王物部尾輿もののべのをこし大連と蘇我稲目そがのいなめ大臣とともに政治を執った。敏達王の時は、王と物部守屋大連・蘇我馬子大臣の三者が政権を形成していた。用明王は敏達王の体制を引き継いだが、守屋は馬子と推古王の圧迫を受けて次第に押し出され、ついには失脚した。次は推古王・崇峻王・蘇我大臣による三角体制になったが、崇峻王は聖徳太子が成長するまでの中継ぎにすぎなかった。崇峻王は更迭されて聖徳太子入閣し、ここに至って三角式の王権は最も充実した時期を迎える。

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 推古王は、宗教的な才能に恵まれた聖徳太子を重用して、内外両面に仏教政治を展開した。海外に対しては倭国の君主として初めて天子を公称し、隋との間には仏教的世界観を利用して対等の関係を求め、国際政治上有利な地位を占めようと狙い、かなりの程度成功した。これは列島内部の附庸諸国に対する優越的な地位をいっそう高めることでもあった。仏教の振興は海外の進んだ技術や学問の移入を更に促し、列島の文化水準は大いに進んだ。

 しかしこの成功した三角体制にも終わりの時がくる。聖徳太子は、書紀によると推古王の二十九年、別の伝えでは三十年ともするが、その頃に薨去した。蘇我馬子は三十四年に卒し、推古王もその三十六年三月に崩御した。歳は七十五だったという。宮廷は女帝の余韻に包まれ、表面は安定を装っていたが、継嗣あとつぎが決まらないまま半年を過ごした。(続く)